籠の中の幸せ
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私は気付いた時から私であった。
今まで何を見て、何を知り、何を感じ、何を思って生きてきたのかわからない。何故、私は生まれて、何故、私が存在するのかわからない。
ただ、この仄暗い場所で虚しく揺蕩っていた。私は孤独であった。
だが、ある時。私に手を差し延べる人が現れた。それは恐ろしくも目映い、燦然と輝く光だった。私は戸惑いながらも、しかし、力強く、その手を掴んだ。
私は心の何処かで求めていたのかもしれない。
この柔らかく温かな光を。
「名前。」
透き通った声に惹かれて意識を現実に戻される。振り向くとそこには優しく微笑むその人が立っていた。私の光であるその人が。
「半兵衛さん。」
「どうしたんだい、ぼんやりと空なんか見て。何か考えていたのかい?」
部屋の障子を開けて、そこから見える空を壁に背を預けて座りながら見ていた私の隣に半兵衛さんは徐に腰を下ろしながら言った。実際、空など見てはいない。ただ、そちらの方に顔を向けていただけで、私の瞳にはその澄清な青は写ってはいなかった。
「いえ、別に…何も…。」
視線を逸らせ、俯きながらぼそりと呟く。本当はずっと見ていたい。だが、私にはこの人の存在は眩し過ぎる。それに心の何処かではあの眼に見詰められることを恐れているのだ。あの眼はいつか私の知らない私を見透かしてしまうのではないのかと。
「……もしかして何か思い出したのかい?昔のことを。」
一瞬、無意識にぴくりと眉が動いたのがわかった。当たらずと雖も遠からずな言葉に少しだけ動揺した。嗚呼、この人は何て恐ろしい人なのだろうか。こんなにも私を魅了し依存させるのだから。それが身の毛が弥立つほど愛おしくも恐ろしい。
「…私に過去なんてものはないですよ。あるのはあなたと一緒に過ごした時間だけです。」
「不安にならないかい?自分にとって何か大切なことを忘れているかもしれないのだよ。」
「…あなた以外に大切なものなど私にはないですよ。」
そう。私はあなたが居てくれればそれでいい。それ以外は何も望まない。いや、重々に認知しているつもりだ。今既に、この境遇でさえ私には十分身に余るものであることは。それでも、私はこの人の優しさに縋っている。もう、孤独だったあの頃には戻れない。戻りたくない。熟々、私という奴は浅ましく醜い生き物だ。
「僕は時々、不安になるよ。いつか君が僕の前から消えてしまうんじゃないかとね。」
下を向いていた顔を上げると、憂いを纏う半兵衛さんの表情に胸が締め付けるられる。真っ直ぐに伸ばされた手がそっと私の頭を撫で、頬を撫でていく。半兵衛さんに触れてもらえるのは好きだ。その心地好い感触は不思議と心を安らがせてくれる。
「名前。僕には君しかいない。どうか、いつまでも僕の傍に居ておくれ。」
引き寄せられた私の体は半兵衛さんの腕の中に収まる。慈愛が満ち溢れる腕の中で背徳を感じながらも私は今の確かな幸せを噛み締める。広い背中に両手を滑らせて瞼を閉じた。
「あなたがそれを望んでくれるなら、私はずっとあなたの傍に居ますよ。」
永遠なんて存在しない。だが、願わくば、朽ち果てるその時までこの人とこうしていたいと心の底からそう思った。
籠の中の幸せ
MANA3*100826
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