アニメ9話の後の話
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日が落ちると肌寒さを感じるようになってきた秋口。外の木々は葉を紅色に染めていて、315プロダクションに所属してから三つ目の季節を越えようとしているのかと思うと、時が過ぎるのは本当にあっという間だ。もっとも、時の流れを早く感じてしまうのは、今年三十を重ねた年齢のせいかもしれないけれど。
自前のミニスピーカーから流れ出す音に合わせ、全身でリズムを刻めば、魂から溢れ出るように気持ちが高まっていく。このどうしようもない心の疼きこそ、斎藤社長が口癖のように口にするパッションというものなのだろう。
内側で抑えきれない熱情を吐き出すように歌を紡ぎ、汗が散ることも厭わずに舞えば、目の前の鏡には堪らなく幸せな顔をした自分がいた。
鏡の中の自分が、口角を上げて心底嬉しそうに笑う。
今ここには、自分以外に誰もいない。
自分の中で大切に大切に育てていた、無事に大輪の花を咲かせようとしている想いを抑えきれずに、一人スタジオに残って練習していた。
「…っ、…っは…」
曲が終わり、久々に息が切れるほど夢中になって踊っていた自分に呆れて、また笑みが溢れた。
大きく息を吐き、思い切り新鮮な空気を吸い込むと、とても晴れやかな気持ちになる。
それでもまだ、熱情はおさまらない。
もう一曲、と思ったところで、鏡越しにこちらを見ている人物に気が付いた。
「お疲れ様です。そろそろ休憩しませんか?」
差し出された水のペットボトルとタオルを受け取り、一人きりだと思っていたため少し気恥ずかしくなってしまった。
「ありがとう。悪い、気が付かなかった」
「いいえ、僕が勝手に見ていただけですから」
にこりと柔らかく笑うプロデューサーの笑顔は、いつ見ても安心感を与えてくれる。
受け取ったタオルで顔を拭い、程よく常温に戻されている水に口をつけた。
「遥斗さんがそんなに夢中になって練習されているなんて、珍しいですね。…何かあったんですか?」
視線を向けると、プロデューサーは少し心配そうにこちらを見つめていた。
面倒を見ているアイドルの数は決して少なくないはずなのに、本当に彼は自分たちをよく見ている。
その言葉に苦笑して、少し思案した。
さて、彼の質問の答えが指すのは、今までアイドルとして生きてきた自分の核心に迫るものだ。誰にも明かしたことはないし、このまま、胸の内に秘めて墓まで持って行く気でさえいた。
けれど。
これから先、自分の背中を預けていく彼になら、話してもいいかもしれない。
浮かれている気持ちの勢いに任せて、口を開いた。
「誰にも話したことないんだけど、聞いてくれる?」
反応を伺うようにチラッと視線を向けると、一瞬驚いたような顔をした後、顔を輝かせた。
「はい。僕で良ければ、聞かせてください」
プロデューサーがあまりに嬉しそうに笑うので、うっかり余計なことまで喋りすぎてしまいそうだった。
「最近さ。冬馬達が本当に頼もしくなったと思って」
「Jupiterの皆さんですか?」
頷き、手元の水に視線を落とす。ゆらゆらと揺れる小さな水面を眺めながら、脳裏に蘇るのは遠い日のJupiterの姿。
「前の事務所であいつらに初めて会った時、黒井さんにしては、目のキラキラしたやつらを連れてきたなって思ったんだ」
自分がアイドルとしてデビューするきっかけとなり、その後二十年以上所属していた961プロダクション。理不尽で汚いやり方を良しとした社長の下では、確かに楽しかったこともあったが、今思えば、蓋をしてしまいたくなるような記憶がほとんどを占めていた気がする。
Jupiterに出会った頃の自分は、既に自他共に認めるトップアイドルへと上り詰め、すっかり黒井社長のやり方に毒されていた。
「当時の俺は、芸能界なんて汚い側面があって当たり前だと思ってたし、それが自分の気持ちに反していたとしても、見て見ぬ振りをして耐えるのが当然だと思ってた」
幼少期から大手事務所のアイドルともてはやされ、黒井社長に半ば洗脳されていたと言ってしまえばそれまでだが、未だにあの頃の自分を許すことは出来ない。
淡々と話す自分の言葉を、プロデューサーは時々相槌を打ちながら静かに聞いてくれた。
「だから、デビューしてからもずっとあの瞳の輝きを失わない冬馬達に、驚いたんだ」
大抵の新人アイドル達は、デビュー当時こそ皆希望に満ちた瞳をして日々を過ごしていたが、日に日にその輝きは鈍り、やがてステージ裏で完全に光を失った瞳を見ることになるのだ。実際、そんな後輩達を何人も見てきた。
「そんな後輩初めてだったから、訳が分からなかったよ。気が付いたら、冬馬達を目で追うようになってて。一緒にいるうちに…あの瞳の輝きを守りたいって思うようになったんだ」
笑っちゃうよな、と言うと、プロデューサーは控えめに首を横に振り、優しく微笑んでくれた。
「Jupiterの三人とは、本当に仲が良いんですね」
「そうだな。冬馬も翔太も北斗も、こんな俺によく懐いてくれた。歳の離れた弟達みたいな感じかな」
三人と過ごし始めてから、それまでの芸能生活が嘘だったかのように、毎日が色を纏って輝き始めたのを覚えている。アイドルとしての生き方に対する考え方も変わり、CDの売り上げが急激に伸びて、元々トップアイドルの一人と謳われていた自分の人気は更に大きく伸びていった。
それと同時に、自分の中で黒井社長に対する不信感が露わになり始めた。
「そんな感じだったから、あいつらが黒井さんとぶつかった時、黙ってるなんて出来なかったんだよなぁ。あの時にはもう、俺もあの人にこれ以上ついて行こうとは思わなかったし」
Jupiterがトップアイドルと呼ばれるようになり、程なくして冬馬達三人と黒井社長が衝突した。
強い口調で言い争う両者の主張はみるみるうちに加熱して、いよいよ手が出るかと思われたところで、自分が割って入ったのだ。
それも、Jupiterの三人を背中に庇い、黒井社長の前に立ちはだかる形で。
ーー黒井さん、もうやめて下さい。
まだ右も左もわからなかった子供の頃にデビューして、今までずっと従順に従ってきた自分の、初めての反抗だった。
初めて真正面から対峙した時の黒井社長の顔は、信じられないものを見るような心底驚愕したといった表情で。
あの顔を思い出すと、今でもほんの少しだけ、胸が痛む。
「なんか…すごいタイミングに居合わせちゃったね」
スタジオの中には聞こえないように、翔太が小声で呟く。
冬馬は同じように声を潜めて、ああ、と短く返した。
三人での撮影が予定より早く終わったので、少し練習しようということになり北斗の車でスタジオまで移動してきたのだ。入ろうとしたところで中に遥斗とプロデューサーがいることに気付き、その話の内容が自分達の話だったものだから、ついつい聞き耳を立ててしまっていた。
二人はこちらに背を向けていて、自分達がいることには気付いていない。
「遥斗さん、あんな風に思ってくれてたなんてな」
後ろに立っている北斗を振り返ると、何か思うところがあるのか、目を細めて頷く。
「961プロに入った頃から、遥斗さんには本当にお世話になったからね。懐かしいな…」
アイドルになったばかりの自分達にとって、既にトップアイドルとして活躍していた遥斗は憧れの対象であり、目指すべき目標だった。
そんな人が、いつも自分達の背中を押し、何か迷った時には手を差し伸べ、黒井社長と言い争った時には身を挺してまで自分達を守ってくれた。
自分達にとっても、遥斗は頼りになる兄のような存在なのだ。
「遥斗さんの弟… 遥斗さんの弟……へへ」
中の二人の背中を見つめながら、翔太は緩んだ笑顔を浮かべて同じフレーズを復唱する。『歳の離れた弟達』と言われたことが余程嬉しかったらしい。
冬馬も、むず痒いような、温かい気持ちで胸が満たされていることを感じて、スタジオの中に視線を戻した。
一度口を開いてしまうと、自分でも驚くほどに言葉が止まらなかった。
「結局、俺とJupiterはそれきり事務所を辞めて。315プロに入ってからも、俺はあいつらから目が離せなかったんだ」
「定期的にJupiterの活動予定を僕から細かく聞き出していたのは、そのせいだったんですね」
口に手を当ててクスクスと笑うプロデューサーに、自分も思わず笑ってしまう。
毎週毎週同じ時間に同じことを聞いていたため、やはりプロデューサーには勘付かれてしまっていたらしい。
「ちゃんと休みは取れてるのか、複数の仕事をいっぺんに抱えてないか、そりゃあ何から何まで気になったさ」
これでも、冬馬達の何倍も長くアイドルとして生きているのだ。スケジュールを見れば、どんな懸念点に直面しているのか想像することは容易い。
冬馬にスパイスを差し入れ、北斗を洒落たレストランへ連れて行き、家まで送ることを理由に夕食に同席して、翔太の姉から最近の翔太の様子を聞きもした。
我ながら色々なことをしたと思う。
「でも、もうやめようと思うんだ」
プロデューサーが不思議そうに首を傾げる。
「夏の合宿で気づいたよ。冬馬達は俺の知らない間に、立派な一人前のアイドルに成長してた」
他のアイドル達を牽引して、それぞれが自分に出来ることを精一杯こなし、一つの目標へ向かう姿はこれ以上ないくらい頼もしかった。
しかし、それをとても嬉しく思うと同時に、少しの寂しさを感じてしまった。
「俺があいつらにしてやれることはもう何もない。Jupiterは俺がいなくても、真っ直ぐに目指した未来へ進んでいける」
自らの進む道に迷っていた彼らはもういない。
Jupiterにとって、先輩としての自分の役目は終わりを迎えた。その事実がめでたくもあり、寂しくもあり、溢れ出る感情を発散するために一人体を動かしていたのだ。
しかし、長く話し過ぎたのか、上がっていた息もすっかり元の調子に戻っていた。
「だから、俺はもう…」
言葉を続けようとしたところで、突然、入口の扉が大きな音を立てて開かれた。
バンッ!という大きな衝撃音に驚いて振り向くと、そこには、必死の形相をした翔太と冬馬、その後ろに、焦ったような顔をした北斗が立っていた。
「は!?お前ら、何で…」
「ねぇ、やめるって何!?アイドル!?やめないよね!?!?」
追突するような勢いで腰にしがみ付き、見上げてくる翔太の顔は今まで見たことのないくらい必死だった。
思わずよろめいたところに、横から腕を掴んできたのは、同じく必死な顔をした冬馬。
「また勝手に一人で決めるなんて、俺は認めねぇからな!!」
二人は何を勘違いしているのか、ともかく今の状態ではとても自分の話を聞いてくれそうにない。
助けを求めて北斗に視線を向けると、こちらの意図に気付いたのか、ハッと我に返ったように翔太と冬馬を止めに入ってくれた。
「二人とも落ち着け!遥斗さんもプロデューサーも困ってるだろう」
北斗に肩を引かれて、やっと離れた翔太と冬馬だったが、その表情は相変わらず強張ったままで、そのあまりの必死さに苦笑してしまった。
なるほど、どこから話を聞いていたのかはわからないが、自分の「やめる」という発言が芸能活動を指しているように聞こえてしまったのだろう。
普段他のアイドルの前では決して見せないような三人の姿に、プロデューサーは少し驚いたのか、こちらと冬馬達とを交互に見ていた。
誤解を解くために、慎重に言葉を選ぶ。
「まず、結論から言う。俺はアイドルはやめないよ」
「本当に?」
「本当に」
探るようにこちらの顔をじっ…と見つめていた翔太だったが、すぐに大きく息をついた。
冬馬も、安堵したように肩の力が抜けたのがわかった。
「もー…… 遥斗さん本当に紛らわしいんだから!」
「全くだぜ。焦らせんなよ…」
自分がアイドルをやめるかもしれない、と思っただけでここまで必死になってくれる翔太と冬馬の気持ちは、素直に嬉しかった。
早合点して焦りを剥き出しにしてしまったことを誤魔化すように、ブツブツと文句を言っている二人の横で、北斗がやれやれと首を振る。
「二人とも急に固まったと思ったら、あっという間に飛び出すから。止める間もなかったよ」
「そーいう北斗君も、実はけっこう焦ってたんじゃない?」
ニヤニヤと笑いながら覗き込む翔太に、北斗は珍しく視線を泳がせる。
「そりゃあ…。…正直、焦りましたよ」
泳がせた視線をこちらに向けたと思ったら、照れているのか顔が少し赤くなっていて、これは本当にレアな北斗だと思った。
「ごめんな、変な勘違いさせて」
自分に見せてくれるこういう可愛いところは、三人ともずっと変わらないでいて欲しい。
「俺が知らない間に、三人とも一人前になってたって話をしてたんだ。Jupiterっていう後輩を持てたこと、俺は本当に誇りに思ってるよ」
自分の手を離れていく彼らに対するこの気持ちは、親心のようなものだろうか?永遠の別れという訳でもなく、きっと明日からも変わらず共に過ごすだろうけれど。
「だから、余計なお節介を焼くのはもうやめる。これからJupiterは俺にとって、『同僚であり後輩であり、最高のライバル』だからな」
ああ、そうか。これは、ただただ彼らを守りたいと願っていた自分との決別なのだ。
今までは三人の行くであろう道の先を見ていたけれど、今後は、自分自身の進む未来を見据えて歩いていく。
その中で、出来るだけ大きな背中を彼らに見せられる存在でありたい。
「言っとくが、トップアイドルの俺からしたら、お前らはまだまだひよっこだからな?」
腕を組み挑発するようにして意地悪く笑えば、冬馬が嬉しそうに拳を握る。
「上等だぜ。相手が遥斗さんだろうと手は抜かねえ!」
「そーそー。油断してると、すぐに追い抜いちゃうよ」
「俺たちは、トップアイドル神鳥谷遥斗の弟分ですからね。あっという間に追い付いてみせます」
望むところだ、といった三人の瞳はキラキラと輝いていて、それは出会った頃よりも、更に強さを増しているように見えた。
確かに、油断すればすぐにでも、この輝きに呑み込まれてしまいそうだ。彼らに勝る輝きを、自分も放ち続けなければならない。
「楽しみにしてるよ」
いつか、自分を越えた輝きを見せてくれること、この背中を越えていってくれること。
もちろん、易々と越えさせてやるつもりなどなく、そんな未来はずっとずっと先のことなのだが。
「…プロデューサー」
冬馬達とのやり取りを横で見守っていてくれたプロデューサーに向き直る。
これが、自分が焼く最後のお節介だ。
「Jupiterを、よろしくお願いします」
深々と頭を下げ、目を閉じれば、今までのことが頭に浮かんでは心の奥へ消えていく。
俺の大事な弟分達、どうかどこまでも真っ直ぐ、その行く先が希望と幸福に溢れていますように。
頭上で、プロデューサーが頷いたのがわかった。
「はい。遥斗さんが今まで大切にしてきたものを、これからは僕が責任を持って守っていきます」
「ありがとう。君なら信用できる」
顔を上げれば、こちらを真っ直ぐ見つめているプロデューサーと目が合う。
315プロダクションに所属を決めた時の自分の直感は、間違っていなかった。
「言っとくけどねプロデューサー、遥斗さんの世話も結構大変だからね」
「え?」
自分とプロデューサーが互いの決意を確かめ合っているその間に、横から翔太が割って入ってきた。
「そうだぜ、忙しくなるとすぐ食べ物偏るしな」
翔太の言葉に頷きながら、冬馬が追い討ちをかけてくる。
まぁ、スケジュールが立て込むと食事のほとんどをコンビニサラダで済ませるようになるのは、本当のことだけれども。
初めてバレた時には、冬馬が手料理を差し入れてくれたこともあった。
「それに遥斗さんのファンには、ちょっと過激なエンジェルちゃんが多いからね。プライベートを守るのもなかなか大変だと思いますよ」
北斗まで何かを思い出しているのか、顎に手を当てて楽しそうに笑っていた。
「だから、さ。俺達からも、遥斗さんのことよろしく頼むぜ、プロデューサー!」
そう言った冬馬の顔はこれ以上ないくらいの満面の笑みで。そんな顔でそんな事を言われてしまったら、ひとたまりもなかった。
「はい。大役を二つも任されてしまいましたね」
片手で目を覆って天井を仰ぐ。
「……っとーに、勘弁してくれよ…」
「あ!遥斗さん泣いてる?泣いてる??」
最近わかったことだが、歳をとると、思ってもみないところで突然涙が溢れてしまうようになるのだ。
「泣いてない」
「嘘はよくありませんよ?」
「あんまり大人をからかうなって…」
無事にひとつ役目を終えられた喜びと、いつのまにかすっかり成長していた三人に、胸がいっぱいだった。
冬馬達を守ることで、知らない間に自分も彼らに守られていた。
これからはそれぞれの道を歩んでいくことになるが、お互いに目指す先はきっと同じ場所だろう。
始まったばかりの新しい絆に胸は高鳴るばかりで、いよいよ堪え切れなくなった熱いものが一筋、頬を伝っていった。
自前のミニスピーカーから流れ出す音に合わせ、全身でリズムを刻めば、魂から溢れ出るように気持ちが高まっていく。このどうしようもない心の疼きこそ、斎藤社長が口癖のように口にするパッションというものなのだろう。
内側で抑えきれない熱情を吐き出すように歌を紡ぎ、汗が散ることも厭わずに舞えば、目の前の鏡には堪らなく幸せな顔をした自分がいた。
鏡の中の自分が、口角を上げて心底嬉しそうに笑う。
今ここには、自分以外に誰もいない。
自分の中で大切に大切に育てていた、無事に大輪の花を咲かせようとしている想いを抑えきれずに、一人スタジオに残って練習していた。
「…っ、…っは…」
曲が終わり、久々に息が切れるほど夢中になって踊っていた自分に呆れて、また笑みが溢れた。
大きく息を吐き、思い切り新鮮な空気を吸い込むと、とても晴れやかな気持ちになる。
それでもまだ、熱情はおさまらない。
もう一曲、と思ったところで、鏡越しにこちらを見ている人物に気が付いた。
「お疲れ様です。そろそろ休憩しませんか?」
差し出された水のペットボトルとタオルを受け取り、一人きりだと思っていたため少し気恥ずかしくなってしまった。
「ありがとう。悪い、気が付かなかった」
「いいえ、僕が勝手に見ていただけですから」
にこりと柔らかく笑うプロデューサーの笑顔は、いつ見ても安心感を与えてくれる。
受け取ったタオルで顔を拭い、程よく常温に戻されている水に口をつけた。
「遥斗さんがそんなに夢中になって練習されているなんて、珍しいですね。…何かあったんですか?」
視線を向けると、プロデューサーは少し心配そうにこちらを見つめていた。
面倒を見ているアイドルの数は決して少なくないはずなのに、本当に彼は自分たちをよく見ている。
その言葉に苦笑して、少し思案した。
さて、彼の質問の答えが指すのは、今までアイドルとして生きてきた自分の核心に迫るものだ。誰にも明かしたことはないし、このまま、胸の内に秘めて墓まで持って行く気でさえいた。
けれど。
これから先、自分の背中を預けていく彼になら、話してもいいかもしれない。
浮かれている気持ちの勢いに任せて、口を開いた。
「誰にも話したことないんだけど、聞いてくれる?」
反応を伺うようにチラッと視線を向けると、一瞬驚いたような顔をした後、顔を輝かせた。
「はい。僕で良ければ、聞かせてください」
プロデューサーがあまりに嬉しそうに笑うので、うっかり余計なことまで喋りすぎてしまいそうだった。
「最近さ。冬馬達が本当に頼もしくなったと思って」
「Jupiterの皆さんですか?」
頷き、手元の水に視線を落とす。ゆらゆらと揺れる小さな水面を眺めながら、脳裏に蘇るのは遠い日のJupiterの姿。
「前の事務所であいつらに初めて会った時、黒井さんにしては、目のキラキラしたやつらを連れてきたなって思ったんだ」
自分がアイドルとしてデビューするきっかけとなり、その後二十年以上所属していた961プロダクション。理不尽で汚いやり方を良しとした社長の下では、確かに楽しかったこともあったが、今思えば、蓋をしてしまいたくなるような記憶がほとんどを占めていた気がする。
Jupiterに出会った頃の自分は、既に自他共に認めるトップアイドルへと上り詰め、すっかり黒井社長のやり方に毒されていた。
「当時の俺は、芸能界なんて汚い側面があって当たり前だと思ってたし、それが自分の気持ちに反していたとしても、見て見ぬ振りをして耐えるのが当然だと思ってた」
幼少期から大手事務所のアイドルともてはやされ、黒井社長に半ば洗脳されていたと言ってしまえばそれまでだが、未だにあの頃の自分を許すことは出来ない。
淡々と話す自分の言葉を、プロデューサーは時々相槌を打ちながら静かに聞いてくれた。
「だから、デビューしてからもずっとあの瞳の輝きを失わない冬馬達に、驚いたんだ」
大抵の新人アイドル達は、デビュー当時こそ皆希望に満ちた瞳をして日々を過ごしていたが、日に日にその輝きは鈍り、やがてステージ裏で完全に光を失った瞳を見ることになるのだ。実際、そんな後輩達を何人も見てきた。
「そんな後輩初めてだったから、訳が分からなかったよ。気が付いたら、冬馬達を目で追うようになってて。一緒にいるうちに…あの瞳の輝きを守りたいって思うようになったんだ」
笑っちゃうよな、と言うと、プロデューサーは控えめに首を横に振り、優しく微笑んでくれた。
「Jupiterの三人とは、本当に仲が良いんですね」
「そうだな。冬馬も翔太も北斗も、こんな俺によく懐いてくれた。歳の離れた弟達みたいな感じかな」
三人と過ごし始めてから、それまでの芸能生活が嘘だったかのように、毎日が色を纏って輝き始めたのを覚えている。アイドルとしての生き方に対する考え方も変わり、CDの売り上げが急激に伸びて、元々トップアイドルの一人と謳われていた自分の人気は更に大きく伸びていった。
それと同時に、自分の中で黒井社長に対する不信感が露わになり始めた。
「そんな感じだったから、あいつらが黒井さんとぶつかった時、黙ってるなんて出来なかったんだよなぁ。あの時にはもう、俺もあの人にこれ以上ついて行こうとは思わなかったし」
Jupiterがトップアイドルと呼ばれるようになり、程なくして冬馬達三人と黒井社長が衝突した。
強い口調で言い争う両者の主張はみるみるうちに加熱して、いよいよ手が出るかと思われたところで、自分が割って入ったのだ。
それも、Jupiterの三人を背中に庇い、黒井社長の前に立ちはだかる形で。
ーー黒井さん、もうやめて下さい。
まだ右も左もわからなかった子供の頃にデビューして、今までずっと従順に従ってきた自分の、初めての反抗だった。
初めて真正面から対峙した時の黒井社長の顔は、信じられないものを見るような心底驚愕したといった表情で。
あの顔を思い出すと、今でもほんの少しだけ、胸が痛む。
「なんか…すごいタイミングに居合わせちゃったね」
スタジオの中には聞こえないように、翔太が小声で呟く。
冬馬は同じように声を潜めて、ああ、と短く返した。
三人での撮影が予定より早く終わったので、少し練習しようということになり北斗の車でスタジオまで移動してきたのだ。入ろうとしたところで中に遥斗とプロデューサーがいることに気付き、その話の内容が自分達の話だったものだから、ついつい聞き耳を立ててしまっていた。
二人はこちらに背を向けていて、自分達がいることには気付いていない。
「遥斗さん、あんな風に思ってくれてたなんてな」
後ろに立っている北斗を振り返ると、何か思うところがあるのか、目を細めて頷く。
「961プロに入った頃から、遥斗さんには本当にお世話になったからね。懐かしいな…」
アイドルになったばかりの自分達にとって、既にトップアイドルとして活躍していた遥斗は憧れの対象であり、目指すべき目標だった。
そんな人が、いつも自分達の背中を押し、何か迷った時には手を差し伸べ、黒井社長と言い争った時には身を挺してまで自分達を守ってくれた。
自分達にとっても、遥斗は頼りになる兄のような存在なのだ。
「遥斗さんの弟… 遥斗さんの弟……へへ」
中の二人の背中を見つめながら、翔太は緩んだ笑顔を浮かべて同じフレーズを復唱する。『歳の離れた弟達』と言われたことが余程嬉しかったらしい。
冬馬も、むず痒いような、温かい気持ちで胸が満たされていることを感じて、スタジオの中に視線を戻した。
一度口を開いてしまうと、自分でも驚くほどに言葉が止まらなかった。
「結局、俺とJupiterはそれきり事務所を辞めて。315プロに入ってからも、俺はあいつらから目が離せなかったんだ」
「定期的にJupiterの活動予定を僕から細かく聞き出していたのは、そのせいだったんですね」
口に手を当ててクスクスと笑うプロデューサーに、自分も思わず笑ってしまう。
毎週毎週同じ時間に同じことを聞いていたため、やはりプロデューサーには勘付かれてしまっていたらしい。
「ちゃんと休みは取れてるのか、複数の仕事をいっぺんに抱えてないか、そりゃあ何から何まで気になったさ」
これでも、冬馬達の何倍も長くアイドルとして生きているのだ。スケジュールを見れば、どんな懸念点に直面しているのか想像することは容易い。
冬馬にスパイスを差し入れ、北斗を洒落たレストランへ連れて行き、家まで送ることを理由に夕食に同席して、翔太の姉から最近の翔太の様子を聞きもした。
我ながら色々なことをしたと思う。
「でも、もうやめようと思うんだ」
プロデューサーが不思議そうに首を傾げる。
「夏の合宿で気づいたよ。冬馬達は俺の知らない間に、立派な一人前のアイドルに成長してた」
他のアイドル達を牽引して、それぞれが自分に出来ることを精一杯こなし、一つの目標へ向かう姿はこれ以上ないくらい頼もしかった。
しかし、それをとても嬉しく思うと同時に、少しの寂しさを感じてしまった。
「俺があいつらにしてやれることはもう何もない。Jupiterは俺がいなくても、真っ直ぐに目指した未来へ進んでいける」
自らの進む道に迷っていた彼らはもういない。
Jupiterにとって、先輩としての自分の役目は終わりを迎えた。その事実がめでたくもあり、寂しくもあり、溢れ出る感情を発散するために一人体を動かしていたのだ。
しかし、長く話し過ぎたのか、上がっていた息もすっかり元の調子に戻っていた。
「だから、俺はもう…」
言葉を続けようとしたところで、突然、入口の扉が大きな音を立てて開かれた。
バンッ!という大きな衝撃音に驚いて振り向くと、そこには、必死の形相をした翔太と冬馬、その後ろに、焦ったような顔をした北斗が立っていた。
「は!?お前ら、何で…」
「ねぇ、やめるって何!?アイドル!?やめないよね!?!?」
追突するような勢いで腰にしがみ付き、見上げてくる翔太の顔は今まで見たことのないくらい必死だった。
思わずよろめいたところに、横から腕を掴んできたのは、同じく必死な顔をした冬馬。
「また勝手に一人で決めるなんて、俺は認めねぇからな!!」
二人は何を勘違いしているのか、ともかく今の状態ではとても自分の話を聞いてくれそうにない。
助けを求めて北斗に視線を向けると、こちらの意図に気付いたのか、ハッと我に返ったように翔太と冬馬を止めに入ってくれた。
「二人とも落ち着け!遥斗さんもプロデューサーも困ってるだろう」
北斗に肩を引かれて、やっと離れた翔太と冬馬だったが、その表情は相変わらず強張ったままで、そのあまりの必死さに苦笑してしまった。
なるほど、どこから話を聞いていたのかはわからないが、自分の「やめる」という発言が芸能活動を指しているように聞こえてしまったのだろう。
普段他のアイドルの前では決して見せないような三人の姿に、プロデューサーは少し驚いたのか、こちらと冬馬達とを交互に見ていた。
誤解を解くために、慎重に言葉を選ぶ。
「まず、結論から言う。俺はアイドルはやめないよ」
「本当に?」
「本当に」
探るようにこちらの顔をじっ…と見つめていた翔太だったが、すぐに大きく息をついた。
冬馬も、安堵したように肩の力が抜けたのがわかった。
「もー…… 遥斗さん本当に紛らわしいんだから!」
「全くだぜ。焦らせんなよ…」
自分がアイドルをやめるかもしれない、と思っただけでここまで必死になってくれる翔太と冬馬の気持ちは、素直に嬉しかった。
早合点して焦りを剥き出しにしてしまったことを誤魔化すように、ブツブツと文句を言っている二人の横で、北斗がやれやれと首を振る。
「二人とも急に固まったと思ったら、あっという間に飛び出すから。止める間もなかったよ」
「そーいう北斗君も、実はけっこう焦ってたんじゃない?」
ニヤニヤと笑いながら覗き込む翔太に、北斗は珍しく視線を泳がせる。
「そりゃあ…。…正直、焦りましたよ」
泳がせた視線をこちらに向けたと思ったら、照れているのか顔が少し赤くなっていて、これは本当にレアな北斗だと思った。
「ごめんな、変な勘違いさせて」
自分に見せてくれるこういう可愛いところは、三人ともずっと変わらないでいて欲しい。
「俺が知らない間に、三人とも一人前になってたって話をしてたんだ。Jupiterっていう後輩を持てたこと、俺は本当に誇りに思ってるよ」
自分の手を離れていく彼らに対するこの気持ちは、親心のようなものだろうか?永遠の別れという訳でもなく、きっと明日からも変わらず共に過ごすだろうけれど。
「だから、余計なお節介を焼くのはもうやめる。これからJupiterは俺にとって、『同僚であり後輩であり、最高のライバル』だからな」
ああ、そうか。これは、ただただ彼らを守りたいと願っていた自分との決別なのだ。
今までは三人の行くであろう道の先を見ていたけれど、今後は、自分自身の進む未来を見据えて歩いていく。
その中で、出来るだけ大きな背中を彼らに見せられる存在でありたい。
「言っとくが、トップアイドルの俺からしたら、お前らはまだまだひよっこだからな?」
腕を組み挑発するようにして意地悪く笑えば、冬馬が嬉しそうに拳を握る。
「上等だぜ。相手が遥斗さんだろうと手は抜かねえ!」
「そーそー。油断してると、すぐに追い抜いちゃうよ」
「俺たちは、トップアイドル神鳥谷遥斗の弟分ですからね。あっという間に追い付いてみせます」
望むところだ、といった三人の瞳はキラキラと輝いていて、それは出会った頃よりも、更に強さを増しているように見えた。
確かに、油断すればすぐにでも、この輝きに呑み込まれてしまいそうだ。彼らに勝る輝きを、自分も放ち続けなければならない。
「楽しみにしてるよ」
いつか、自分を越えた輝きを見せてくれること、この背中を越えていってくれること。
もちろん、易々と越えさせてやるつもりなどなく、そんな未来はずっとずっと先のことなのだが。
「…プロデューサー」
冬馬達とのやり取りを横で見守っていてくれたプロデューサーに向き直る。
これが、自分が焼く最後のお節介だ。
「Jupiterを、よろしくお願いします」
深々と頭を下げ、目を閉じれば、今までのことが頭に浮かんでは心の奥へ消えていく。
俺の大事な弟分達、どうかどこまでも真っ直ぐ、その行く先が希望と幸福に溢れていますように。
頭上で、プロデューサーが頷いたのがわかった。
「はい。遥斗さんが今まで大切にしてきたものを、これからは僕が責任を持って守っていきます」
「ありがとう。君なら信用できる」
顔を上げれば、こちらを真っ直ぐ見つめているプロデューサーと目が合う。
315プロダクションに所属を決めた時の自分の直感は、間違っていなかった。
「言っとくけどねプロデューサー、遥斗さんの世話も結構大変だからね」
「え?」
自分とプロデューサーが互いの決意を確かめ合っているその間に、横から翔太が割って入ってきた。
「そうだぜ、忙しくなるとすぐ食べ物偏るしな」
翔太の言葉に頷きながら、冬馬が追い討ちをかけてくる。
まぁ、スケジュールが立て込むと食事のほとんどをコンビニサラダで済ませるようになるのは、本当のことだけれども。
初めてバレた時には、冬馬が手料理を差し入れてくれたこともあった。
「それに遥斗さんのファンには、ちょっと過激なエンジェルちゃんが多いからね。プライベートを守るのもなかなか大変だと思いますよ」
北斗まで何かを思い出しているのか、顎に手を当てて楽しそうに笑っていた。
「だから、さ。俺達からも、遥斗さんのことよろしく頼むぜ、プロデューサー!」
そう言った冬馬の顔はこれ以上ないくらいの満面の笑みで。そんな顔でそんな事を言われてしまったら、ひとたまりもなかった。
「はい。大役を二つも任されてしまいましたね」
片手で目を覆って天井を仰ぐ。
「……っとーに、勘弁してくれよ…」
「あ!遥斗さん泣いてる?泣いてる??」
最近わかったことだが、歳をとると、思ってもみないところで突然涙が溢れてしまうようになるのだ。
「泣いてない」
「嘘はよくありませんよ?」
「あんまり大人をからかうなって…」
無事にひとつ役目を終えられた喜びと、いつのまにかすっかり成長していた三人に、胸がいっぱいだった。
冬馬達を守ることで、知らない間に自分も彼らに守られていた。
これからはそれぞれの道を歩んでいくことになるが、お互いに目指す先はきっと同じ場所だろう。
始まったばかりの新しい絆に胸は高鳴るばかりで、いよいよ堪え切れなくなった熱いものが一筋、頬を伝っていった。
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