短編(R指定版)
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七松小平太×女夢主
それは、本当の幸福か(七松小平太 R15)、信頼出来ない語り手の嗚咽(七松小平太 R18)、溺愛の籠に入ったら、最期(七松小平太 R18)、ねえや、大好き(七松小平太 R18)の続編。
七松家に奉公に出て、小平太の奥方となった○○が、やや子を懐妊して出産するまでと、○○の傍に中々居られない七松小平太の話。
◆名前変換夢の為、名前入力を推奨。
◆一人称(夢主、七松)視点で進みます。
◆既存キャラの解釈違い(口調や性格)が出てくると思われますので予め、ご了承下さい。
◆七松家の内部、弟妹達の口調の捏造・七松弟×夢主(しょたおね)の要素あり。
夢主の簡単な設定
・小平太より二歳年上。
・七松家へ、奉公に出向いている。
・
小平太様が忍術学園を卒業して、数年が経過した。現在はプロ忍者として、仕えている城に属する忍軍の一人だという。
対して、わたしは正式に小平太様の奥方となり、七松家に迎えられたのだ。小平太様の卒業前に祝言は挙げられ、苗字は七松の家の名となり、かつての苗字も今は名乗っていない。
弟妹様達は、わたしの事を未だに"ねえや"と呼んでおり、もはや一種の渾名である。それでも、公の場では名を変えて呼び、これは成長と呼んでいいのだろうか。背丈が少し大きくなり、大人への階段を登ろうと道を歩んでいる最中だ。
四弟様と五弟様と、いつもの"愛瀬ごっこ"をしていた時に、わたしはその場に蹲ってしまう。
「ねえや、眠いの?」
「お腹、痛い?」
わたしの顔を覗き込む二つの顔は、不安の色を隠せていない。このような状況は、ここ最近は何度も起きてしまうのだが、その度に小さな罪悪感に見舞われる。
「どうしたの?」
遠方から、長妹様の声が聞こえてきた。足音が、こちらに近づいて来ているのが分かる。
「お姉ちゃんっ。ねえやが、」
「大丈夫、私も居るから。ねえや、離れのお家まで歩ける?」
そう言って、わたしの手を握ってくれる長妹様。小さな震えが見られるものの、数年前と比べれば、頼りがいのある長妹として成長されたに違いない。
『…、…はい。もしご負担でなければ、離れのお家まで、ご一緒に歩いて頂いても宜しいですか?』
宙ぶらりんになっている片手を地面に付かせながら、ゆっくりと立ち上がる。青ざめた顔のままで困らせる訳にはいかないと、笑みを取り繕う。
「当たり前だよっ。兄上がお仕事で外に出ている時は、私達がねえやのお体を大事にするんだから」
「僕達も、お傍に居るっ」
「ねえやがお怪我したら、嫌だもん。ふたんなんかじゃないよっ」
左側に長妹様、右側に四弟様と五弟様の二人が、わたしの手を引く形で、離れの家へと歩き出していく。何度も体調確認をする御三方に、わたしは言葉を選びつつも返答する。その中で、月経が来ていないという事だけは伝えられなかった。
▽
あれから数日後、離れの寝室に敷かれた一組の布団の上に、わたしは居た。体調が優れない為に、こうして静かに過ごしていると、玄関の方から物音が聞こえてきた。
「○○!」
勢いよく障子が開かれたと同時に、わたしの名を呼ばれる。頭部と右腕に包帯が巻かれ、顔には掠り傷が見られる小平太様が、布団に包まっているわたしの元へ駆け寄る。
『お、おかえりなさいませ。小平太様』
「ただいま帰った! 母上から一報を受けたが、お体の方は問題ないのですか?」
付近に住む男性よりも一回り背丈の大きい小平太様だが、わたしと目線を合わせるべく、その場に屈んでくれた。
『弟妹様方や、女中の方々の助けを受けながら、こちらでの生活は送れております……、………』
言葉が途切れ、小平太様は訝しげな顔を浮かべる。しかし、わたしが腹部にそっと手を当て、撫でる様にして見せると、くりくりとした丸い目が大きく見開く。
『……やや子が、ここに居られるとの事です』
離れの寝室に、沈黙が走る。
目を見開いていた小平太様だが、わたしの発言を聞いて間もなく、体を震わせる。次第に目を煌々と輝かせて、満面の笑みが咲き誇る。そして次の瞬間、小平太様がわたしに覆い被さり、抱き締めたのだ。
「そうか! やや子がっ、やや子が居るのだなっ!!」
すると今度は、わたしの背中に回していた右腕に痛みが生じたのか、「いでっ」と濁音混じりの苦しげな声が聞こえた。
『お怪我をされているのですから、無闇矢鱈に動かれては体に毒となります』
「こんなもの、掠り傷の一つです。今の痛みが毒だと言うのならば、○○がやや子を宿したという知らせが、今の私にとって解毒剤だ」
豪快に笑って見せた小平太様は、調子のいい発言を繰り出す。忍術学園を卒業後、小平太様は忍軍の一員として、他国の諜報活動・破壊活動等に赴く機会が多く、生傷が絶えない。常服に隠されている肉体にも傷跡がいくつも残されているものの、本人は掠り傷だと言い切ってしまう。
『……小平太様が、何度もわたしの体に、子種を注いで下さったおかげでございます』
以前の房事の際、体内に子種を注がれた。小平太様から受ける快楽に嬌声を上げ、子種が放たれる度に内壁が悦びを感じているかの様に思えてしまう程に。
耳元で愛を囁かれ、大人の顔つきを見せる小平太様に興奮して、頬を赤らめてしまったのだ。もう元服済みで立派な一人の男性なのだと再度、認識した。
『やや子に何も起きなければ、七松家の繁栄になるのですから』
嫁入りした女性の役割は、子孫繁栄。女性の価値は、それだけしかないと断言する者も居るが、それは仕方の無い事だ。
「私達は、○○の無事も祈っている。それを忘れないで欲しい」
『……七松家の皆様は、変わらずお優しいですね』
「○○も、今は七松家の人間だ。それに○○だって、優しくて綺麗であるのは、いつまでも変わらないじゃないか」
幼い頃から、何度も言われ続けた言葉達。小平太様からの抱擁が解かれると、右手を掴まれた。何をするのかと思うと、右手の甲に口付けをしたのだ。
『小平太様っ』
「口吸いは、しばしの間は我慢となるだろう? 代わりと言ってはなんだが、こうして手の甲で発散させてくれ」
懐妊してすぐの時期は、夫婦めおと間で行われる愛情表現に嫌悪感を抱く奥方も居るという話を聞いて、小平太様が気遣いを見せてくれた。
「母体には、下手をすれば命が尽きてしまう程の負担が掛かると父上、母上から話は聞いている。私達にとっては、大して気にしない事でも、○○の心を酷く傷つけてしまう状況を作ってしまう。そういった配慮が至らない点はきっと出てくる」
この先、待ち受けている壁に直面するであろうと話し始める小平太様は、口付けを落としたわたしの右手と自身の左手を絡ませる。
「私は、七松家の皆が待っているこの家に帰ってくるのが好きだ。"おかえりなさい"と出迎え、"いってきます"と見送ってくれると昔願った事が叶い、○○に言われると、更に愛おしさが増す」
▽
三月が経過しようとする頃、懐妊した影響が如実に現れていた。
基礎体温が平時よりも上がっており、倦怠感を感じない日が珍しい。以前は気にも留めなかった匂いに敏感になり、提供される食事の中で苦手な匂いを感じ取ってしまえば、食欲が失せてしまう。酷い時は吐き気が込み上げ、用意された桶に何度も嘔吐して、無理やり詰め込んで消化された食べ物や胃液が桶の中に広がっていく。喉の乾きも過剰で、食事を取れない日には、"水分を体内に取り込まなくては"という思いに駆られる。
悪阻が出ているのだと、母上様が教えてくれたとしても、安心出来る訳ではなかった。そう思ってしまう程に、わたしの意志と関係なく気持ちが沈み、献身的な弟妹様達に、身勝手な感情をぶつけてしまうのではないかと不安が過ぎる日も出てくる。
そんなある日、七松家に一人の男性が訪ねてきた。
離れの寝室で寝たきりとなっている為、わたしが接遇を行った訳ではない。母上様が顔を見せてから、わたしに用がある客人だと簡潔に伝えると、母屋へ戻っていく。母上様と入れ替わりで現れた男性は、寝室の前で正座をしてから、一礼した。
「久方ぶりですね」
白色の山伏衣装を身に纏っている。目を凝らして顔を覗いてみると、茶髪の長髪を一つに結い、優しげな雰囲気を醸し出しながらも、猫のようなどこか鋭い目つきが特徴的でもあった。
『申し訳ありません……このような姿で、出迎える事となってしまい……』
「いえ、お気になさらないで下さい。今の状態で無理に体を起こしてしまえば、不調になるのは明白です……すみません、ご紹介が遅れてしまいましたね。貴女の旦那様から、御依頼を承りました。善法寺伊作です」
その名前は、聞き覚えがある。数年前、母上様が体調不良の際に当時学生の身であった小平太様と、共に訪ねてきたかつての御学友の方々の一人だ。
『貴方は、小平太様と御学友だった……』
「はい。覚えて下さり、嬉しい限りです」
ほんの短い期間では、あったけれども、朧気な記憶を取り出して答えてみせると、善法寺様の顔が綻ぶ。
『薬師の方だったのですね』
「本業は、どこの領地にも属さない戦場医ですが、古馴染みの学友から"無茶な御依頼を完遂させて欲しい"と、頼まれたものでして」
依頼料は、既にたんまりと受け取っています……、そう言い、人当たりの良い笑みを見せるのだった。
『依頼料…?』
「小平太から、自分が仕事で留守にしている間……正確には、初産までの身の回りの世話を微力ながら、他の女中の方々と共に努めさせて頂きます」
説明を受けたものの、情緒の不安定な部分が出てきて、眉間に皺を寄せる面を晒してしまう。つまり、これから善法寺様が私に行う世話というのは、産婆と同じ役割を果たすという訳だ。
『男性の産婆など、聞いた事がございません』
「僕も同意見です。だから無茶な依頼だとつい、奥様に話してしまいました」
今度は、困った様な笑みを見せた。小平太様はどのようにして、善法寺様にこの無茶な御依頼を承るまでの交渉を計ったのだろう。でも、今のわたしにはその先を考える気力が無い。
『小平太様は、しばらくの間は仕事の方がお忙しいと話は伺っております。小平太様が、"ただいま"と言って、この家に帰ってきて下さるまでの間……、いや、しばらくの間、話し相手としても、接して宜しいでしょうか?』
小平太様の御友人の方とお話をする機会も、そう多くはありませんので……、最後にそう付け足した。
「僕でよければ、構いません。昔の小平太の話なら、夜更け過ぎまで語り尽くす事も容易く出来てしまいます」
(七松視点)
○○から、やや子を懐妊したと伝えられたあの日。
嬉しさのあまりに思わず抱き締めてしまい、母体に傷を負わせたのではないかと内心、焦った。それでも大事には至らなかったので、持ち前のクソ力が必要以上に発揮しない様に気をつけなくてはと思うのだが、すぐに忘れてしまうだろう。
「おぉい! 伊作!」
待ち合わせ場所である、松の木の下には山伏衣装を身に纏うかつての学友、善法寺伊作が立っていた。
「やぁ、小平太。相変わらず元気そうだね」
「有り余る体力は、今も健在だからな」
世間話に花を咲かせ、茶でも啜って近況でも話してやりたいのは山々だったが、今回はそのようなお気楽な事は出来ない。
「それで、用件って何だい?」
○○がやや子を懐妊した事を伝えると、伊作はまるで自分の事の様に、祝福の言葉を口にしてくれた。
「○○の産婆に、なって欲しい」
しかし、私の言葉を聞いた伊作は、先程までは笑みを浮かべていた筈が、今は困惑の表情へと切り替わる。
「こ、小平太。産婆の意味は、知ってる?」
「あぁ、知ってる」
「僕、男だよ」
「それも知ってる。六年も一緒に過ごしたじゃないか」
どうやら、伊作はまだ私の発言の真意の糸口を見つけられていない。かつての同室である、中在家長次が相手だったら、私の伝えたい事も瞬時に伝わるのになぁ……呑気に、そんな事を考えてしまう。
「○○さんの身の回りの世話は、本来なら御家族の方々が行うのが常識の筈だよ…、……ねぇ、小平太」
伊作の顔つきが変わり、ようやく真意を理解してくれたのだと私も安心した。
「産婆は仮の姿であって、○○の護衛をして欲しい。これが、私からの依頼だ」
「……小平太の御実家に、疑わしい人が居ると断言して構わないのかな」
「私の家族というよりは、女中達の方だ。やや子を懐妊した事は、まだ家族にしか伝えられていない。○○に提供する食事に毒物を仕込み、やや子を殺して流産させようと、七松家の子孫繁栄の阻止を目論む輩がこの先、○○の前に何食わぬ顔で現れるやもしれぬからな」
風が横を通り過ぎていく。ここには、私と伊作の二人だけの気配しかない。仮に盗聴している不届き者(または、自分達に危害を加えると確定出来る者)が居るのであれば、並外れた運動神経と体力でじわじわと追い詰め、二丁苦無で首を掻っ切ってやると脅す位は容易い。
「僕で、大丈夫だったの?」
「何がだ?」
「だってほら、僕って生まれながらの不運体質でしょ? ○○さんにも不運が移ったりとか考えないの?」
「そうなったら、その時だ。今、気にしていても仕方ない。もし不運が移ったら、お前と留三郎がやっていた寸劇の練習をして、披露してやるぞ」
揶揄う様にして言ってから、依頼料の銭が詰められた袋を伊作に渡す。想定より重みを感じたのか、伊作は驚いた様子を見せたものの、平静を装う。
「伊作は不本意かもしれんが、その人柄で他者を欺く事など容易いだろう? 私はそれを見込んで、こうして依頼した」
なはは……、松の木の下で、私の笑い声が響く。
「○○さんは、小平太に愛されているんだね」
「当たり前だ。その銭の重みよりも、○○への愛を抱えていると自信を持って言える位にはな」
▽
○○がやや子を懐妊してから、五月が経過した。
安産祈願と産まれてくるやや子の健康を願う、帯祝いを行う月である。本来ならば、○○と私、そこに私の父上、母上・○○の御両親が立ち会い、食事の席を設ける予定であったのだが、仕えている城が隣国への下克上を果たすべくと、こうして駆り出されてしまい、私だけが立ち会えなかったのが事の顛末だ。
(弟妹達は…、……○○とやや子は、元気なのだろうか)
まだまだ甘え盛りの弟妹達だが、やや子を懐妊したと告げられた日から、○○に対して献身的な面を見せ始めたのだと、七方出を駆使して、虚無僧や商人に扮した私は七松家の現状を知るべく、伊作は私に情報を渡すべく、密かに情報共有を行い、知る事が出来た。
伊作が七松家の敷地内に足を踏み入れて間もない頃、○○は酷い悪阻に見舞われ、何度も嘔吐を繰り返しては、立って歩く事も出来ない倦怠感に襲われて、寝たきりで居る日が続いたと聞かされた。平時の自分と異なる姿を受け入れる心持ちは、この時期は特に保つ事は難しく、○○の情緒は不安定であった事も一緒に。
自分でも抑える事の出来ない感情の数々を、伊作は私の代わりに見ていた。酷い悪阻に襲われる前、身勝手な感情で弟妹達に醜い振る舞いをしたくないと、○○から話を受けており、○○と弟妹達との接触を出来る限り、避けていたそうだ。弟妹達も、始めは理解出来ない様で怒りを見せるも、伊作から○○の様子を嘘偽りなく告げると一転して、態度が変わったという。文を通して○○とのやり取りを行っていたと、昔の私と月夜を想起させる出来事だと思わず懐かしむ。
しばらくしてから、○○の悪阻は治まった。まるで嵐の様に過ぎ去り、少しずつ情緒も安定し出したと伊作の口から告げられたのだ。懐妊したての頃は高かった基礎体温も、元の体温へと戻ったそうで、風邪の様な症状もとうに消えたという。他にも、これからの母体の為にと、敷地内の散歩を行っているそうだ。その時々で体の調子が変わる為、継続して行うのは難しいが、調子の良い日は弟妹達と仲良く散歩をしていたと、顔を綻ばせて私に話してくれた。
今では、○○の腹は丸みを帯びて、誰が見てもやや子が居るのだと分かる程、体型が変わっているそうだ。やや子の成長具合は外見だけでは分からず、弟妹達が○○の腹の中に眠るやや子に話しかけるが、まだ反応は無いという。
(こんな所で、私もくたばる訳にはいかない)
隣国での下克上を見事に果たし、本国に戻ってきたのだが、敵忍者との応戦中に負傷した傷が痛む。掠り傷だと言いのけたいが、今回はその余裕が少しだけ無くなっている。今は処置を受けて、胸部・腹部は全体的に包帯が巻かれ、左腕の骨折部分には副木が固定された上で、包帯を巻いている。唇を切った跡、右目には殴られた傷跡として、青い痣が痛々しく残っている。
この姿で実家に帰ってしまえば、誰もが心配するに違いない。泣かせてしまうだろう。けれど、私は如何せん、我儘な性格なんだ。
(可愛い弟、妹…、愛しい妻に、早く会いたい)
▽
六月を迎えたばかりの頃、私は休日を利用して、実家に帰ってきた。本来ならば、絶対安静だと城に仕える薬師に口酸っぱく言われていたのだが、家族に会いたいと無理を言って、こうして自分の足でここまで来たのだ。
「兄上! 大丈夫なの!?」
出迎えられて早々、弟妹達は私の予想通り、至る所に刻まれた傷跡を見ては、驚きを隠せない様子を見せる。
「これは、戦いの勲章だ。私達の住む御国を守る事が出来たという立派な証という訳だ」
話を盛っている箇所はあるものの、その言葉を聞いて弟妹達は目を煌々と輝かせる者も居れば、安心してホッと息をついている者と十人十色。
「ねえやは、離れの家でお休みになられているのか?」
「うんっ。兄上と会えて、きっと嬉しい筈だよ」
「今は、伊作お兄ちゃんも一緒に居るよ」
次弟と三弟からそう告げられ、次弟と手を繋ぐ少し背丈の大きくなった末弟が、ニコニコと笑顔を見せた。弟妹達が健やかに暮らしていたのだと分かれば、私は離れの家へと向かう事とする。弟妹達にも一緒に行くかと誘うも、私と○○の二人の時間を大事にして欲しいと断りを入れてきた。もう、そんな気遣いを見せる程に成長したのか。
母屋を出て、離れの家へ到着してから、引き戸を開ける。寝室からは、○○と伊作の声が聞こえ、談笑しているのだと分かれば、何だか複雑な気持ちになった。
(伊作が○○に不貞行為を働いた事など、一度も無いのは知っている。しかし、いざ目の前でこうも楽しそうだと……)
私の気配を察知したのか、談笑が止まる。寝室から、山伏衣装ではなく、常服に着替えていた伊作が姿を見せたのだ。
「待ってたよ」
「私が留守の間、すまなかったな」
「よしてくれよ。小平太らしくないなぁ」
しおらしい対応をしたせいか、伊作はどこか困った様子で返答する。寝室には、が○○居るという。伊作は少しの間、離れの家から出ていき、母屋で弟妹達との遊びに励むと言ってくれた。
(○○……、)
唾を飲み込む。胸がどきどきと五月蝿い。寝室へと向かう足がやけに重い。細かい事を気にする必要なんか無いのに、今は平時よりも気にしてしまう。
「○○、」
開かれた障子の前に立ち、寝室に目を向けていく。部屋の中央に敷かれた一組の布団の上に、愛しい妻の姿があった。髪の毛は以前よりも少し伸びており、両目の下に薄い隈が出来ている。そして、やや子を懐妊したと告げられたあの日よりも、丸く膨らみを帯びた腹が肌小袖の下に隠されている。
『おかえりなさいませ、小平太様』
至る所に負った傷に驚きつつも、穏やかな笑みを浮かべて、○○は私を出迎えた。
「ただいま帰った、○○」
寝室へと足を踏み入れ、○○の元へと向かう。その途中で、私はある事を思い出す。
「匂いは、まだ敏感なのか?」
懐妊した直後、匂いに対して敏感になってしまい、苦手な匂いが近くに来るのを拒んでいたと伊作から聞かされていた事もあり、私は大丈夫なのかと聞く。体臭は、とうの昔に消えてはいるものの、やはり心配ではある。
『それは、もう大丈夫です。食事の方も、懐妊前と同じ物も少しずつですが、また口に入れる事が出来る様にはなっています』
それを聞いて、安心した。
匂いの件は勿論だが、食事の方も問題ないそうだ。何せ伊作からは、やはり毒物が仕込まれている日があったと聞かされ、○○に提供する前に抜き取り、○○や弟妹達の見えぬ所で曲者を退治してくれていたらしい。不運体質だが、技の切れ味ならかつての学友の中で一番だった伊作だ。フリーの戦場医だが、忍者としての勘や実力も鈍っていないから、簡単に仕留めてくれた。
『小平太様も、お仕事でお疲れの筈ではございませんか?』
「可愛い弟と妹……、愛しい妻の顔を見れたのだから、疲れなんて一瞬にして吹き飛んだ。この傷も戦いの勲章に過ぎん」
話の途中で、私はその場に屈む。○○と目線が合う様にして再度、口を開く。
「七松家の皆に会いたいと願い、くたばるものかと何度も思った。ずっと会いたかった、○○。やや子と共に、私を出迎えてくれて有難う」
ありのままに告げると、○○の瞳が揺れた。やがて、○○は俯いて、私から顔を背けてしまう。
『……少しの間だけ、胸を借りさせて頂いても宜しいでしょうか?』
その声は、どこか震えていた。これはきっと、悲の感情が溢れ出る前兆に違いない。
「あぁ、構わない」
すると、○○は少しだけ顔を上げてから、私の胸元に顔を近づける。私の目線からでは、○○がどんな表情をしているのか絶妙な位置のせいで、見えない。
『わたしも、小平太様にお会い出来て嬉しいです』
そんな言葉を告げたのとは裏腹に、次に聞こえたのは鼻を啜る音だった。
『やや子が居るのだと分かり、嬉しい気持ちもありました。けれど、不安や恐怖も拭えきれなかったのです。やや子が流れてしまい、対面出来た時が既に息を引き取ってしまったその時であったら、どうしようかと。元気な姿を拝む事は出来るのかと……善法寺様が私用で、七松家の敷地から離れて、わたし一人になった時、どうしようもない不安に駆られてしまった時もありました』
あぁ、やっぱり私が傍に居れたら良かったのか。
伊作は良い奴だ。○○が自身とやや子の命が掛かった生活で、精神的に壊れなかったのも、母上や父上、女中の人達、弟妹達の助けは勿論だが、話し相手にもなってくれた伊作の力も大きかったに違いない。じゃあ、私は○○に何をしてやれた? そこに、私は居なかったではないか。過去の私は、仕事で家を空ける私の事を忘れないで欲しいと大層、偉そうな事を言ったものだな。
「弟妹達の前では、涙を見せはしなかったのですか?」
そのように問いかけると、返事代わりに小さく頷いた。○○は成長した弟妹達を頼りにはしているものの、やはり昔の名残が残っているのだろう。こうして感情的な面を見せるのは、私の前だけだ。
伊作の前では、情緒が不安定で怒ったり泣いたりしてはいたものの、平時の状態で弱音を吐く事は一度も無かったと聞かされていた。
「○○一人の体ではない。距離はどうしても離れてはしまうが、私が居る事を決して忘れないで欲しい」
結局、都合の良い言葉しか吐けない。左腕が負傷していなければ、○○の体を簡単に包み込んでしまえるのに。空いている右腕を○○の背中に回して、密着させる様にして寄せていく。
『それでも、小平太様。わたしは……、貴方とのやや子が、このお腹の中に居るのが嬉しいという気持ちの方が勝っているのです』
○○の体がモゾモゾと動き、恐らく自身の腹に手を当てて、撫でているのだろう。腹の中に眠るやや子を想い、安心させる様に。
『小平太様との縁談を破談させようと目論見を持っていたわたしを、貴方は見捨てる事もせずに掬いあげた。あの時のわたしの行為は到底、許される事ではありません』
数年前、嫁入り奉公で七松家に赴いた事を知らなかった○○は、家をを飛び出した事があった。弟妹達からの知らせの文を受け、足取りはすぐに掴む事が出来たものの、その知らせを受けた直後は、足場が崩れ去り、奈落の底へと落ちてしまう嫌な感覚に襲われたのを今でも覚えている。双方の家で伝達の抜けがあったと後に判明したが、○○から私の奥方となる相手として相応しくない理由をいくつも告げられ、苦虫を噛み潰した様な顔を晒したのも懐かしい。
今もそうだが、あの時の私は、○○との繋がりを断ちたくなかった。家同士を繋ぐ相手であろうと、愛しいと思う者が私の元から離れてしまい、会う事が叶わなくなる等、慕っていた弟妹達も私も悲しむのだと。今も○○から、他所で自分以外の女性との繋がりを持っても良かったのではないかと言われたが、一夫一妻多妾制は、自らの意思で絶対にしないと○○に改めて伝えた。これは第三者からすれば、異常だと思われるだろうが、そんなものは気にしない。
「子供だった私の我儘で、月夜に軟禁生活を強いていたではないか。私の方こそ、許されない行為をした」
○○を七松家に連れ戻してすぐ、父上と母上の元へ赴いた。○○には、忍術学園に私が実家に置いたままにした私物を届けに向かい、家を抜け出したという筋書きを伝えると話したが実際は、その時の○○の行動のみで判断して、縁談を破談させないで欲しいと直談判し、余りにも幼稚だったと思う。手順を踏んで行うべき事を何段もすっ飛ばしてしまい、鉄槌を受ける覚悟もあったのだが、呆気なく事は終えた。
そこから、学園に滞在している間は弟妹達に○○の事を任せ、休日は実家へと帰省し、私が○○の傍に居た。敷地内での行動のみと制限し、軟禁生活を強いていたのは、独りよがりな考えしか浮かばず、今よりも更に愚かだったその時の私に出来た、○○を繋ぎ止める唯一の方法。○○は受け入れてくれたが、夫婦として共に生きていくのなら結局、それは勝手が過ぎるものでしかないのに。学園の卒業前、私は○○の軟禁生活を取り止め、少しずつだが共に町に出掛けたり、時には弟妹達と外へ散歩しに出掛ける機会を設けた。
『家同士の繋がりを保ち、繁栄の為ならば、結婚は受け入れるものでございます』
○○は突如として、現実を突きつけてくる。
当人達の恋愛感情の有無は関係ない所謂、政略結婚など当たり前に行われていた。全ては家同士を繋ぎ、子孫繁栄の為。○○は一度、感情の整理が付かずにどうしようもなくなって逃げ出してしまったものの、その後は私との政略結婚を拒む事は無く、祝言を上げて、正装に着替えた弟妹達に囲まれる中で、白無垢姿を私の前でお披露目した。
「後悔しているか?」
羽織袴を着た私を見上げる白無垢の○○の姿に、この先、○○と共に道を歩む事に対して、私は一片の悔いは無いと心から思った。
『いいえ。後悔など、しておりません』
祝言の時と同じ様に、顔を上げた○○の表情は、悲しみや苦しみの感情は無く、慈悲も含まれておらず、私に対して向ける愛が確かに込められている。
『小平太様。わたしは、貴方の事をお慕い申しております』
かつて、私が○○に向けて言った言葉。
それを全く同じ様に言い返され、両頬に熱が集まっていく。蛸の様に真っ赤になってしまっているのではと錯覚してしまう程に、熱くて堪らない。
そんな時、○○の口から小さく声が出ると、腹部に視線を向けていた。
「どうした?」
平常心を取り戻した私は、○○が腹部に手を当て、何かを気にしている様子を隠さない事に疑問を抱き、声を掛ける。
『やや子が、動いたのです』
ほんの少しの輝きに照らされた瞳を向けられ、遅れて私も大きな声を上げて、○○の腹に目を向けていく。
「ほ、本当か! やや子が、私と○○の声に反応したというのか!?」
幼子の様に、気持ちが昂ってしまう。そんな私を見て、○○は小さく笑ってから、胎動を感じたと改めて話してくれた。
「この中で、お前も懸命に生きているのだな」
○○の腹部に手を当て、力を加減してそっと撫でる。まだ性別は分からないが、男子だろうが女子だろうが、差別したりせずに愛情は注ぐ。私と月夜のどちらに似るのか。いや、どちらの要素も合わさった可愛いやや子に違いない。
「私達は、外で待っているぞ。無事に産まれたその時は、○○と共に、私の帰りを待っていてくれ。"おかえりなさい"と、出迎えてくれ」
八月が経過して、わたしは長妹様と次妹様と風呂場に赴き、湯浴みの手伝いをお願いしている所だ。
「ねえや、お背中はかゆくない?」
『はい。大丈夫ですよ』
手が届かない事もあり、次妹様が代わりに背中を流してくれている。
「ふくらはぎの所も、綺麗にするね」
長妹様が、浮腫んでいる脹脛ふくらはぎを流していく。下半身は懐妊前とは随分と見た目が変わり、浮腫が目立つ。それでも、御二方は嫌な顔を一つも見せずに、湯浴みに同行して、動きが制限されているわたしの代わりに体を清めてくれるのだ。
ここ最近は、お腹の張りを以前よりも感じ、息切れや動悸の回数も増えている。目眩や立ちくらみで、その場から動けなくなる事もあるが、善法寺様や弟妹様達、母上様や父上様、女中の方々の助けを受けて、何とか生活は出来ている。時折、遠方の実家に住む両親も七松家に訪問し、家族水入らずと安寧の時間をもたらす。
「湯浴みって、凄く気持ちいいんだよ」
「一緒に入ろうねっ」
長妹様と次妹様は、腹に宿るやや子に向けて、嬉しそうにして声を掛けていく。すると時間差で、御二方の言葉に返答する様にして、胎動を感じた。
『やや子が、また動きました』
「本当!?」
「早く会いたいなぁ」
湯浴みで清潔となった腹に、御二方は手を当てて、腹越しにやや子を撫でるのだった。
▽
そして、十月を迎えた。
少し前におしるしが見られ、いつやや子が産まれてもおかしくないと善法寺様から話を受けた。しかし出産の際は、実の母上、母上様、女中の方のみが、出産場所である離れの家に入る事が許される。実の父上、父上様、弟妹様達、善法寺様、今は仕事に赴かれている小平太様の立ち会いは禁じられるという訳だ。
善法寺様から、身の回りの世話以外にも、無事にやや子が産まれ、産後の間もしっかりと見届ける事で、小平太様から承った依頼を完遂されるという。もうしばらくの間、お付き合いの方を宜しくお願い致しますと言われ、わたしは邪険にする筈もなく、笑みを浮かべて了承した。
離れの一室を出産場所として設け、わたしは柱にしがみつき、座産の真っ最中だった。白装束に着替え、産まれてくるやや子が膣を潜ろうとする際、体に何度も激しい痛みが走り、意識が遠のきそうになる。その度に、実の母上、母上様から喝を入れられ、無理やりにでも意識をこちら側に戻されて、また痛みと向き合う。
(……いけいけ、どんどん)
昔、小平太様から平時に発する口癖の意味を聞いた事がある。強気な態度を崩さず、己の歩む道を作ってただ突き進むだけでなく、自らを鼓舞する言葉でもあると話してくれた。今のわたしなら、その言葉はやや子と会う為に頑張る自分への鼓舞と捉えよう。
出産中に叫び声を上げる等、恥同然であると教わった。ひたすらに声を押し殺して、膣を潜って外の世界に出てこようと懸命に動くやや子を思い、自らを鼓舞する。
(頑張れ、頑張れわたし。やや子、頑張れ。いけいけどんどん、頑張れ。いけいけどんどんっ)
心の中で何度も唱えていると、傍に居る筈のない小平太様が隣で見守ってくれている様な感覚がした。今度の仕事は、帰ってくるのが何時になるのかは分からないと。もしかすると、死に目に会えず、未亡人となったわたしとやや子の二人で、七松家か遠方の実家で生活をする事になるかもしれない。
(小平太様、わたしは貴方とのやや子に会うべく、頑張っています。いけいけどんどんと何度も唱えて、貴方が傍に居てくれている様な気がして、不安や恐怖が取り払われる様な、そんな気まで起きてしまいます)
その時、膣から何か出てきた。それがやや子の頭だと、実の母上が教えてくれたらしい。いけいけどんどんと唱えて、気を持っていかれない様に必死だったわたしが、後に聞いた事だ。
(外の世界は、もうすぐそこです。無事に産まれてきて、わたし達のやや子……、………そして小平太様、わたしとやや子の元へ、無事にお帰りになって下さい。けれどもし、もう会える事が出来なくなったのなら、夢の中に出てきて、会いに来て下さい。可愛いやや子も、お傍に居ますから)
そして、離れの一室で産声が響いた。
▽
胎盤が排出されて、わたしとやや子の無事が確認出来た後も、安息に付く暇は無い。
六日間の間、わたしとやや子は離れの一室から出る事が禁じられた。その間は産婆が、産湯やわたし達の世話を行い、六日目には、やや子の産毛を剃る六日垂れを実施した。
そして今のわたしは、産後間もない為に不浄だ。
七松家の敷地内にある、こじんまりとした小屋を借りて、わたしとやや子の二人きりの隔離生活を一月、行わなくてはならない。離れの家を出て、疲労が蓄積された体に鞭を打ち、産小屋へと足を運ぶ。食事は以前と変わりなく提供されるものの、誰かが中へ入ってくる事はなく、受け取る際に顔を見れるか見られないか位だ。
産小屋の中では、やや子を産んで貧血気味となっている為に頭に血が登るからと、横になる事は許されない。どんなに体が悲鳴を上げて助けを求めていようが、体は起こしている。ややこの頭と首を支え、眠りについているやや子の顔を眺めては、愛おしさを感じて微笑む。空腹を訴えて泣き出した時は、母乳を与える。最初の内は生活の流れが整っておらず、やや子が泣き続けて精神的に参りそうな時もあったが、いつか帰ってくるであろう小平太様、弟妹様達、実の両親、小平太様のご両親、懐妊時の生活を支えてくれた善法寺様を思い浮かべて、何とか気を保つ。
(一月が経って、この産小屋から出てきた時には、小平太様は帰ってきていらっしゃるのでしょうか)
▽
一月後、やや子の誕生を祝い、健康を祈願する初宮参りに出掛けた。小平太様は居らず、小平太様の御両親とやや子と共に、これからの生活が健やかである様にと願った。
そして、善法寺様との別れも迎えてしまう。
『十月十日の間、善法寺様には感謝し尽くしきれません』
母屋の玄関前で、やや子を抱えながら、わたしは礼を告げる。善法寺様は、やや子とわたしを交互に見て、穏やかな笑みを向けてきた。
「御三方に、これからも幸いがありますように……僕は、そう願っています」
御三方というのは、わたし、やや子、ここには居ない小平太様を指しているだろう。
『たまにで構いませんので、またこちらに足を運んで下さい。弟妹様方も善法寺様のことを大変好いているご様子でしたので』
「勿論。仕事の方が落ち着いたら、あの子達と月夜さん達のお体の調子を見に、伺うつもりです」
こちらに向けて一礼したのを最後に、善法寺様は前を見て、歩き出そうとする。わたしも一礼をして、門の外を出て、姿が見えなくなるまで、善法寺様を見送ったのだった。
(それにしても、善法寺様は不運の方なのかしら。弟妹様達と遊んでいた際に、やけに転んでいたり、大雨に見舞われている姿をお見かけしたけれど……)
やや子が産まれて、三月が経った。
弟妹様達が、離れの家を訪れると、わたしとやや子に会いに来たと笑顔を見せてくれる。同じ顔をした弟妹様達に囲まれるやや子は、皆の顔を順に追っているかの様に目を動かしている。けれど本人は、弟妹様達を見ている気などないのかもしれない。
「可愛いね」
「ほっぺた、柔らかい」
「お手玉、出来るかなぁ」
わいわいと声を上げて、誰が喋っているのかも分からなくなる。その中で、お手玉という単語が出されると、小平太様の安否が気になってしまう。
忍者は、いつも死ぬか生きるかの二択だと教えられた。突然と姿を消してしまうのも珍しくないと、自分の同胞もそうだったと、小平太様から話を受けた事がある。七松家に訃報は伝えられていない。いや、遺体(または死体)が見つからなければ、訃報自体も届く筈もない。
(……小平太様、やや子は今日も弟妹様達に囲まれて、とても嬉しそうにしております)
夕刻を迎えて、弟妹様達は母屋へと戻っていく。食事が出来たら、届けに来ると伝えられ、わたしは感謝の言葉を述べてから、笑みを見せた。
(凄く綺麗な夕焼け…、……やや子と一緒に見る夕焼けにも、少しずつ慣れてきたみたい)
空一面が橙色に染まっていたのを見て、離れの家へ入ろうとした時だった。七松家の門前に、人影が見えた。
(…、……誰?)
眉間に皺を寄せていると、人影は何故、門前に居るのかと疑問が生じた。そう思っている間も、人影は母屋と離れの家がある方向へと足を進めてきている。
(七松家の関係者の方? それとも…、………)
その時、人影がこちらを見た気がした。
わたしとやや子を捉えると、母屋ではなく離れの家を目的地に変えて、足の向きを変えた。
(この子だけでも守らないと……それに、弟妹様達や母上様、父上様に危害が加えられない様に…っ)
やや子を守る様にして、抱き締める。わたしの足で逃げても、男性ならば簡単に追いついてしまう。それならいっそ、自らの身を差し出してしまえば………、そこまで考えた時、わたしは動きを止めた。
わたしの記憶に残っていた、もふもふとした感触の伝わる紺色の長髪は、今では肩につく長さの短髪となっていた。毛の先端を見ても、無造作に切ったのか誰かに切られたのか分からない。
黄緑色の常服から覗いて見える両腕は、包帯が巻かれている。更には、両足と首元にも包帯が巻かれ、その下には多くの生傷が出来ているのだと推察出来た。
はっきりと顔が認識出来るまでに距離が近づくと、わたしの方からその人の元へと歩み寄っていく。わたしと腕の中に眠るやや子を交互に見て、その人は笑みを浮かべるだけで、何も話さない。
「おかえりなさいませ…、……小平太様っ』
わたしの目の前に居たのは、帰ってくるのを待ち詫びていた夫の小平太様だ。幽霊でも幻覚でもなく、本物の小平太様。
▽
母屋で父上様、母上様、弟妹様達に挨拶を終えた小平太様は、離れの一室に訪れた。わたしと腕の中に眠るやや子の隣に腰を下ろし、胡座をかく。
右手を掴まれると、手のひらに小平太様が人差し指を用いて文字を書き始める。最初の文字を見逃してしまった為に、もう一度書いて欲しいと伝えると、小平太様は一文字目をゆっくりと書き出していく。
「どくをのまされて、ことばをはなせない」
空いている片方の手で、包帯の巻かれた首元を指しながら、そう伝えてきた。
『お体の方も随分と大怪我をされているご様子ですが、そちらは問題ないのですか?』
「みつきまえに、ごうもんをうけて、ひどいきずをおわされた。そのときに、どくをのまされ、ころされかけた」
三月前といえば丁度、小平太様が仕事に向かわれた時と一致する。何かしらの事態に見舞われ、拷問を受けた挙句、毒を無理やり飲まされ、その後遺症が残っているのか。
『声の方は、もう戻られないのですか?』
「もうじき、もとにもどる。いま、おおごえをだすと、まただめになる」
人差し指で書き出してから、小平太様はわたしに笑顔を向けてきた。
「むかしのともが、わたしをたすけてくれた」
誰なのかと問えば、中在家様と食満様の名前が書き出された。善法寺様同様に、学生時代に七松家に訪れた方々だ。
そこから、時間を掛けて三月の間の出来事をわたしの手のひらに書き出していく。
拷問を受けて、その際に髪を切られた小平太様が、自身の仕える城の極秘情報を口にすることも無く、黙秘を貫く姿に痺れを切らした敵忍者の方々が毒殺を試みようとしたという。無理やり口を開けられ、毒を飲まされた小平太様だったが、その直後に御学友であった中在家様、食満様の助けが入り、命からがら逃げてきた。毒を吐き出したものの、喉に大きな被害を受けて、声が枯れて何も話せず、今よりも酷い状態だったらしい。
小平太様の仕える城と、政治的には友好関係を築いている城に御二方はそれぞれ仕えているらしく、食満様は別件ですぐに姿を消し、中在家様が小平太様の介抱をしていたそうだ。小平太様の仕える城の付近まで中在家様が同行し、そこからは小平太様一人で帰還したものの、両腕と両足は骨折して、一人で歩いていたのが奇跡だと同胞の方々が驚愕の顔を見せていたと書き出す。
「こんどは、もうだめだとおもった。かすりきずじゃすまない。そんなとき、○○とうまれてくるやや子をかんがえたら、いきのびなくてはと、しにぎわのふちから、こちらにかえってくることができた」
そこから、わたしがやや子を出産して、産小屋で過ごしていた期間は、小平太様は絶対安静だと以前よりも更に口酸っぱく薬師の方に言われ、素直に従ったという。全てはわたしとやや子に会う為だと、折れた両腕と両足の治療を受け、骨が再生する瞬間を待っていたそうだ。
「けががあるていど、おさまったから、ここにかえってきた。そうしたら、月夜とやや子がみえた。○○とやや子も、いきのびたのだとわかって、うれしくてたまらなかった」
そこまで書き出すと、小平太様はわたしの右手を握る。力加減されており、痛みは感じない。
「やや子は、どちらだ?」
恐らくこれは、性別のことを聞いているのだろう。わたしが、やや子の性別を教えると、小平太様の顔に笑顔が咲き誇る。
「そうか。それなら、ふたりできめたなまえも、もうつけているのだな」
今度は、やや子の名前を教えた。小平太様の笑顔が絶えず、心から喜んでいるのが見て分かった。
『……わたし、この子を産んでいる時に、小平太様の口癖を何度も心の中で唱えていました。そうすると、隣で小平太様がわたしの事を見守ってくれている様な気がして、安心しました。だから、この子に会えたのは小平太様のおかげでもございます』
いけいけどんどん……、小平太様が平時から使用している口癖を、わたしは口にする。
「わたしは、○○のことをまもれていたのだな。わたしらしくないが、ふあんだったんだ。しごとでいえにかえることもできず、いさくやみなに、月夜のことをまかせきりだったから」
『そんな事はございませんっ』
思った以上の声量を発してしまい、やや子が起きてしまわないかと様子を伺う。眉間に皺を寄せていたが、泣きはしなかった。
『小平太様は、わたしが不安になっていた時、わたしの話に耳を傾けて下さり、"私が居る"と言ってくださったではありませんか。とても嬉しかったのです。こんな素敵な方に恵まれて、わたしは幸せ者なんだと……、……だから、この三月の間、小平太様の死に目に会えないまま、二人で過ごす事になるのかもしれないと考える時間もございました。こうして帰ってきて下さった事は、わたしは嬉しいのです』
そこまで話し終えると、小平太様の両頬は赤く染まり、目を丸くさせていたのだ。わたしが言い放った言葉達は、それ程までの状態にさせてしまう力があるのか。
「けがが、かんちしたときは、わたしにもやや子をだかせてくれ。いまも、やや子にふれたくてたまらない。それに、はやくことばをはなせるようにしたい。○○とやや子に、あいをつたえたい」
すると、小平太様はチラリとわたしを見てきた。双眸は、熱を帯びている。
「○○をだきしめたい。くちすいをしたい。それもけがが、かんちしたときに、させてほしい」
そう書き出され、昔から変わらない小平太様だと思い、小さく笑った。けれど、もうあの頃の小さくて可愛らしい小平太様は居ない。目の前に居るのは、わたしや善法寺様よりも背丈が大きくて逞しく、夫であり、愛おしいと感じるあの方なのだから。
「すまない。いいわすれていたことがあった」
小平太様は、穏やかな笑みを浮かべながら、わたしに言い忘れていたあの言葉を書き出していくのだった。
ただいまかえった、○○
.
七松小平太×女夢主
それは、本当の幸福か(七松小平太 R15)、信頼出来ない語り手の嗚咽(七松小平太 R18)、溺愛の籠に入ったら、最期(七松小平太 R18)、ねえや、大好き(七松小平太 R18)の続編。
七松家に奉公に出て、小平太の奥方となった○○が、やや子を懐妊して出産するまでと、○○の傍に中々居られない七松小平太の話。
◆名前変換夢の為、名前入力を推奨。
◆一人称(夢主、七松)視点で進みます。
◆既存キャラの解釈違い(口調や性格)が出てくると思われますので予め、ご了承下さい。
◆七松家の内部、弟妹達の口調の捏造・七松弟×夢主(しょたおね)の要素あり。
夢主の簡単な設定
・小平太より二歳年上。
・七松家へ、奉公に出向いている。
・
小平太様が忍術学園を卒業して、数年が経過した。現在はプロ忍者として、仕えている城に属する忍軍の一人だという。
対して、わたしは正式に小平太様の奥方となり、七松家に迎えられたのだ。小平太様の卒業前に祝言は挙げられ、苗字は七松の家の名となり、かつての苗字も今は名乗っていない。
弟妹様達は、わたしの事を未だに"ねえや"と呼んでおり、もはや一種の渾名である。それでも、公の場では名を変えて呼び、これは成長と呼んでいいのだろうか。背丈が少し大きくなり、大人への階段を登ろうと道を歩んでいる最中だ。
四弟様と五弟様と、いつもの"愛瀬ごっこ"をしていた時に、わたしはその場に蹲ってしまう。
「ねえや、眠いの?」
「お腹、痛い?」
わたしの顔を覗き込む二つの顔は、不安の色を隠せていない。このような状況は、ここ最近は何度も起きてしまうのだが、その度に小さな罪悪感に見舞われる。
「どうしたの?」
遠方から、長妹様の声が聞こえてきた。足音が、こちらに近づいて来ているのが分かる。
「お姉ちゃんっ。ねえやが、」
「大丈夫、私も居るから。ねえや、離れのお家まで歩ける?」
そう言って、わたしの手を握ってくれる長妹様。小さな震えが見られるものの、数年前と比べれば、頼りがいのある長妹として成長されたに違いない。
『…、…はい。もしご負担でなければ、離れのお家まで、ご一緒に歩いて頂いても宜しいですか?』
宙ぶらりんになっている片手を地面に付かせながら、ゆっくりと立ち上がる。青ざめた顔のままで困らせる訳にはいかないと、笑みを取り繕う。
「当たり前だよっ。兄上がお仕事で外に出ている時は、私達がねえやのお体を大事にするんだから」
「僕達も、お傍に居るっ」
「ねえやがお怪我したら、嫌だもん。ふたんなんかじゃないよっ」
左側に長妹様、右側に四弟様と五弟様の二人が、わたしの手を引く形で、離れの家へと歩き出していく。何度も体調確認をする御三方に、わたしは言葉を選びつつも返答する。その中で、月経が来ていないという事だけは伝えられなかった。
▽
あれから数日後、離れの寝室に敷かれた一組の布団の上に、わたしは居た。体調が優れない為に、こうして静かに過ごしていると、玄関の方から物音が聞こえてきた。
「○○!」
勢いよく障子が開かれたと同時に、わたしの名を呼ばれる。頭部と右腕に包帯が巻かれ、顔には掠り傷が見られる小平太様が、布団に包まっているわたしの元へ駆け寄る。
『お、おかえりなさいませ。小平太様』
「ただいま帰った! 母上から一報を受けたが、お体の方は問題ないのですか?」
付近に住む男性よりも一回り背丈の大きい小平太様だが、わたしと目線を合わせるべく、その場に屈んでくれた。
『弟妹様方や、女中の方々の助けを受けながら、こちらでの生活は送れております……、………』
言葉が途切れ、小平太様は訝しげな顔を浮かべる。しかし、わたしが腹部にそっと手を当て、撫でる様にして見せると、くりくりとした丸い目が大きく見開く。
『……やや子が、ここに居られるとの事です』
離れの寝室に、沈黙が走る。
目を見開いていた小平太様だが、わたしの発言を聞いて間もなく、体を震わせる。次第に目を煌々と輝かせて、満面の笑みが咲き誇る。そして次の瞬間、小平太様がわたしに覆い被さり、抱き締めたのだ。
「そうか! やや子がっ、やや子が居るのだなっ!!」
すると今度は、わたしの背中に回していた右腕に痛みが生じたのか、「いでっ」と濁音混じりの苦しげな声が聞こえた。
『お怪我をされているのですから、無闇矢鱈に動かれては体に毒となります』
「こんなもの、掠り傷の一つです。今の痛みが毒だと言うのならば、○○がやや子を宿したという知らせが、今の私にとって解毒剤だ」
豪快に笑って見せた小平太様は、調子のいい発言を繰り出す。忍術学園を卒業後、小平太様は忍軍の一員として、他国の諜報活動・破壊活動等に赴く機会が多く、生傷が絶えない。常服に隠されている肉体にも傷跡がいくつも残されているものの、本人は掠り傷だと言い切ってしまう。
『……小平太様が、何度もわたしの体に、子種を注いで下さったおかげでございます』
以前の房事の際、体内に子種を注がれた。小平太様から受ける快楽に嬌声を上げ、子種が放たれる度に内壁が悦びを感じているかの様に思えてしまう程に。
耳元で愛を囁かれ、大人の顔つきを見せる小平太様に興奮して、頬を赤らめてしまったのだ。もう元服済みで立派な一人の男性なのだと再度、認識した。
『やや子に何も起きなければ、七松家の繁栄になるのですから』
嫁入りした女性の役割は、子孫繁栄。女性の価値は、それだけしかないと断言する者も居るが、それは仕方の無い事だ。
「私達は、○○の無事も祈っている。それを忘れないで欲しい」
『……七松家の皆様は、変わらずお優しいですね』
「○○も、今は七松家の人間だ。それに○○だって、優しくて綺麗であるのは、いつまでも変わらないじゃないか」
幼い頃から、何度も言われ続けた言葉達。小平太様からの抱擁が解かれると、右手を掴まれた。何をするのかと思うと、右手の甲に口付けをしたのだ。
『小平太様っ』
「口吸いは、しばしの間は我慢となるだろう? 代わりと言ってはなんだが、こうして手の甲で発散させてくれ」
懐妊してすぐの時期は、夫婦めおと間で行われる愛情表現に嫌悪感を抱く奥方も居るという話を聞いて、小平太様が気遣いを見せてくれた。
「母体には、下手をすれば命が尽きてしまう程の負担が掛かると父上、母上から話は聞いている。私達にとっては、大して気にしない事でも、○○の心を酷く傷つけてしまう状況を作ってしまう。そういった配慮が至らない点はきっと出てくる」
この先、待ち受けている壁に直面するであろうと話し始める小平太様は、口付けを落としたわたしの右手と自身の左手を絡ませる。
「私は、七松家の皆が待っているこの家に帰ってくるのが好きだ。"おかえりなさい"と出迎え、"いってきます"と見送ってくれると昔願った事が叶い、○○に言われると、更に愛おしさが増す」
▽
三月が経過しようとする頃、懐妊した影響が如実に現れていた。
基礎体温が平時よりも上がっており、倦怠感を感じない日が珍しい。以前は気にも留めなかった匂いに敏感になり、提供される食事の中で苦手な匂いを感じ取ってしまえば、食欲が失せてしまう。酷い時は吐き気が込み上げ、用意された桶に何度も嘔吐して、無理やり詰め込んで消化された食べ物や胃液が桶の中に広がっていく。喉の乾きも過剰で、食事を取れない日には、"水分を体内に取り込まなくては"という思いに駆られる。
悪阻が出ているのだと、母上様が教えてくれたとしても、安心出来る訳ではなかった。そう思ってしまう程に、わたしの意志と関係なく気持ちが沈み、献身的な弟妹様達に、身勝手な感情をぶつけてしまうのではないかと不安が過ぎる日も出てくる。
そんなある日、七松家に一人の男性が訪ねてきた。
離れの寝室で寝たきりとなっている為、わたしが接遇を行った訳ではない。母上様が顔を見せてから、わたしに用がある客人だと簡潔に伝えると、母屋へ戻っていく。母上様と入れ替わりで現れた男性は、寝室の前で正座をしてから、一礼した。
「久方ぶりですね」
白色の山伏衣装を身に纏っている。目を凝らして顔を覗いてみると、茶髪の長髪を一つに結い、優しげな雰囲気を醸し出しながらも、猫のようなどこか鋭い目つきが特徴的でもあった。
『申し訳ありません……このような姿で、出迎える事となってしまい……』
「いえ、お気になさらないで下さい。今の状態で無理に体を起こしてしまえば、不調になるのは明白です……すみません、ご紹介が遅れてしまいましたね。貴女の旦那様から、御依頼を承りました。善法寺伊作です」
その名前は、聞き覚えがある。数年前、母上様が体調不良の際に当時学生の身であった小平太様と、共に訪ねてきたかつての御学友の方々の一人だ。
『貴方は、小平太様と御学友だった……』
「はい。覚えて下さり、嬉しい限りです」
ほんの短い期間では、あったけれども、朧気な記憶を取り出して答えてみせると、善法寺様の顔が綻ぶ。
『薬師の方だったのですね』
「本業は、どこの領地にも属さない戦場医ですが、古馴染みの学友から"無茶な御依頼を完遂させて欲しい"と、頼まれたものでして」
依頼料は、既にたんまりと受け取っています……、そう言い、人当たりの良い笑みを見せるのだった。
『依頼料…?』
「小平太から、自分が仕事で留守にしている間……正確には、初産までの身の回りの世話を微力ながら、他の女中の方々と共に努めさせて頂きます」
説明を受けたものの、情緒の不安定な部分が出てきて、眉間に皺を寄せる面を晒してしまう。つまり、これから善法寺様が私に行う世話というのは、産婆と同じ役割を果たすという訳だ。
『男性の産婆など、聞いた事がございません』
「僕も同意見です。だから無茶な依頼だとつい、奥様に話してしまいました」
今度は、困った様な笑みを見せた。小平太様はどのようにして、善法寺様にこの無茶な御依頼を承るまでの交渉を計ったのだろう。でも、今のわたしにはその先を考える気力が無い。
『小平太様は、しばらくの間は仕事の方がお忙しいと話は伺っております。小平太様が、"ただいま"と言って、この家に帰ってきて下さるまでの間……、いや、しばらくの間、話し相手としても、接して宜しいでしょうか?』
小平太様の御友人の方とお話をする機会も、そう多くはありませんので……、最後にそう付け足した。
「僕でよければ、構いません。昔の小平太の話なら、夜更け過ぎまで語り尽くす事も容易く出来てしまいます」
(七松視点)
○○から、やや子を懐妊したと伝えられたあの日。
嬉しさのあまりに思わず抱き締めてしまい、母体に傷を負わせたのではないかと内心、焦った。それでも大事には至らなかったので、持ち前のクソ力が必要以上に発揮しない様に気をつけなくてはと思うのだが、すぐに忘れてしまうだろう。
「おぉい! 伊作!」
待ち合わせ場所である、松の木の下には山伏衣装を身に纏うかつての学友、善法寺伊作が立っていた。
「やぁ、小平太。相変わらず元気そうだね」
「有り余る体力は、今も健在だからな」
世間話に花を咲かせ、茶でも啜って近況でも話してやりたいのは山々だったが、今回はそのようなお気楽な事は出来ない。
「それで、用件って何だい?」
○○がやや子を懐妊した事を伝えると、伊作はまるで自分の事の様に、祝福の言葉を口にしてくれた。
「○○の産婆に、なって欲しい」
しかし、私の言葉を聞いた伊作は、先程までは笑みを浮かべていた筈が、今は困惑の表情へと切り替わる。
「こ、小平太。産婆の意味は、知ってる?」
「あぁ、知ってる」
「僕、男だよ」
「それも知ってる。六年も一緒に過ごしたじゃないか」
どうやら、伊作はまだ私の発言の真意の糸口を見つけられていない。かつての同室である、中在家長次が相手だったら、私の伝えたい事も瞬時に伝わるのになぁ……呑気に、そんな事を考えてしまう。
「○○さんの身の回りの世話は、本来なら御家族の方々が行うのが常識の筈だよ…、……ねぇ、小平太」
伊作の顔つきが変わり、ようやく真意を理解してくれたのだと私も安心した。
「産婆は仮の姿であって、○○の護衛をして欲しい。これが、私からの依頼だ」
「……小平太の御実家に、疑わしい人が居ると断言して構わないのかな」
「私の家族というよりは、女中達の方だ。やや子を懐妊した事は、まだ家族にしか伝えられていない。○○に提供する食事に毒物を仕込み、やや子を殺して流産させようと、七松家の子孫繁栄の阻止を目論む輩がこの先、○○の前に何食わぬ顔で現れるやもしれぬからな」
風が横を通り過ぎていく。ここには、私と伊作の二人だけの気配しかない。仮に盗聴している不届き者(または、自分達に危害を加えると確定出来る者)が居るのであれば、並外れた運動神経と体力でじわじわと追い詰め、二丁苦無で首を掻っ切ってやると脅す位は容易い。
「僕で、大丈夫だったの?」
「何がだ?」
「だってほら、僕って生まれながらの不運体質でしょ? ○○さんにも不運が移ったりとか考えないの?」
「そうなったら、その時だ。今、気にしていても仕方ない。もし不運が移ったら、お前と留三郎がやっていた寸劇の練習をして、披露してやるぞ」
揶揄う様にして言ってから、依頼料の銭が詰められた袋を伊作に渡す。想定より重みを感じたのか、伊作は驚いた様子を見せたものの、平静を装う。
「伊作は不本意かもしれんが、その人柄で他者を欺く事など容易いだろう? 私はそれを見込んで、こうして依頼した」
なはは……、松の木の下で、私の笑い声が響く。
「○○さんは、小平太に愛されているんだね」
「当たり前だ。その銭の重みよりも、○○への愛を抱えていると自信を持って言える位にはな」
▽
○○がやや子を懐妊してから、五月が経過した。
安産祈願と産まれてくるやや子の健康を願う、帯祝いを行う月である。本来ならば、○○と私、そこに私の父上、母上・○○の御両親が立ち会い、食事の席を設ける予定であったのだが、仕えている城が隣国への下克上を果たすべくと、こうして駆り出されてしまい、私だけが立ち会えなかったのが事の顛末だ。
(弟妹達は…、……○○とやや子は、元気なのだろうか)
まだまだ甘え盛りの弟妹達だが、やや子を懐妊したと告げられた日から、○○に対して献身的な面を見せ始めたのだと、七方出を駆使して、虚無僧や商人に扮した私は七松家の現状を知るべく、伊作は私に情報を渡すべく、密かに情報共有を行い、知る事が出来た。
伊作が七松家の敷地内に足を踏み入れて間もない頃、○○は酷い悪阻に見舞われ、何度も嘔吐を繰り返しては、立って歩く事も出来ない倦怠感に襲われて、寝たきりで居る日が続いたと聞かされた。平時の自分と異なる姿を受け入れる心持ちは、この時期は特に保つ事は難しく、○○の情緒は不安定であった事も一緒に。
自分でも抑える事の出来ない感情の数々を、伊作は私の代わりに見ていた。酷い悪阻に襲われる前、身勝手な感情で弟妹達に醜い振る舞いをしたくないと、○○から話を受けており、○○と弟妹達との接触を出来る限り、避けていたそうだ。弟妹達も、始めは理解出来ない様で怒りを見せるも、伊作から○○の様子を嘘偽りなく告げると一転して、態度が変わったという。文を通して○○とのやり取りを行っていたと、昔の私と月夜を想起させる出来事だと思わず懐かしむ。
しばらくしてから、○○の悪阻は治まった。まるで嵐の様に過ぎ去り、少しずつ情緒も安定し出したと伊作の口から告げられたのだ。懐妊したての頃は高かった基礎体温も、元の体温へと戻ったそうで、風邪の様な症状もとうに消えたという。他にも、これからの母体の為にと、敷地内の散歩を行っているそうだ。その時々で体の調子が変わる為、継続して行うのは難しいが、調子の良い日は弟妹達と仲良く散歩をしていたと、顔を綻ばせて私に話してくれた。
今では、○○の腹は丸みを帯びて、誰が見てもやや子が居るのだと分かる程、体型が変わっているそうだ。やや子の成長具合は外見だけでは分からず、弟妹達が○○の腹の中に眠るやや子に話しかけるが、まだ反応は無いという。
(こんな所で、私もくたばる訳にはいかない)
隣国での下克上を見事に果たし、本国に戻ってきたのだが、敵忍者との応戦中に負傷した傷が痛む。掠り傷だと言いのけたいが、今回はその余裕が少しだけ無くなっている。今は処置を受けて、胸部・腹部は全体的に包帯が巻かれ、左腕の骨折部分には副木が固定された上で、包帯を巻いている。唇を切った跡、右目には殴られた傷跡として、青い痣が痛々しく残っている。
この姿で実家に帰ってしまえば、誰もが心配するに違いない。泣かせてしまうだろう。けれど、私は如何せん、我儘な性格なんだ。
(可愛い弟、妹…、愛しい妻に、早く会いたい)
▽
六月を迎えたばかりの頃、私は休日を利用して、実家に帰ってきた。本来ならば、絶対安静だと城に仕える薬師に口酸っぱく言われていたのだが、家族に会いたいと無理を言って、こうして自分の足でここまで来たのだ。
「兄上! 大丈夫なの!?」
出迎えられて早々、弟妹達は私の予想通り、至る所に刻まれた傷跡を見ては、驚きを隠せない様子を見せる。
「これは、戦いの勲章だ。私達の住む御国を守る事が出来たという立派な証という訳だ」
話を盛っている箇所はあるものの、その言葉を聞いて弟妹達は目を煌々と輝かせる者も居れば、安心してホッと息をついている者と十人十色。
「ねえやは、離れの家でお休みになられているのか?」
「うんっ。兄上と会えて、きっと嬉しい筈だよ」
「今は、伊作お兄ちゃんも一緒に居るよ」
次弟と三弟からそう告げられ、次弟と手を繋ぐ少し背丈の大きくなった末弟が、ニコニコと笑顔を見せた。弟妹達が健やかに暮らしていたのだと分かれば、私は離れの家へと向かう事とする。弟妹達にも一緒に行くかと誘うも、私と○○の二人の時間を大事にして欲しいと断りを入れてきた。もう、そんな気遣いを見せる程に成長したのか。
母屋を出て、離れの家へ到着してから、引き戸を開ける。寝室からは、○○と伊作の声が聞こえ、談笑しているのだと分かれば、何だか複雑な気持ちになった。
(伊作が○○に不貞行為を働いた事など、一度も無いのは知っている。しかし、いざ目の前でこうも楽しそうだと……)
私の気配を察知したのか、談笑が止まる。寝室から、山伏衣装ではなく、常服に着替えていた伊作が姿を見せたのだ。
「待ってたよ」
「私が留守の間、すまなかったな」
「よしてくれよ。小平太らしくないなぁ」
しおらしい対応をしたせいか、伊作はどこか困った様子で返答する。寝室には、が○○居るという。伊作は少しの間、離れの家から出ていき、母屋で弟妹達との遊びに励むと言ってくれた。
(○○……、)
唾を飲み込む。胸がどきどきと五月蝿い。寝室へと向かう足がやけに重い。細かい事を気にする必要なんか無いのに、今は平時よりも気にしてしまう。
「○○、」
開かれた障子の前に立ち、寝室に目を向けていく。部屋の中央に敷かれた一組の布団の上に、愛しい妻の姿があった。髪の毛は以前よりも少し伸びており、両目の下に薄い隈が出来ている。そして、やや子を懐妊したと告げられたあの日よりも、丸く膨らみを帯びた腹が肌小袖の下に隠されている。
『おかえりなさいませ、小平太様』
至る所に負った傷に驚きつつも、穏やかな笑みを浮かべて、○○は私を出迎えた。
「ただいま帰った、○○」
寝室へと足を踏み入れ、○○の元へと向かう。その途中で、私はある事を思い出す。
「匂いは、まだ敏感なのか?」
懐妊した直後、匂いに対して敏感になってしまい、苦手な匂いが近くに来るのを拒んでいたと伊作から聞かされていた事もあり、私は大丈夫なのかと聞く。体臭は、とうの昔に消えてはいるものの、やはり心配ではある。
『それは、もう大丈夫です。食事の方も、懐妊前と同じ物も少しずつですが、また口に入れる事が出来る様にはなっています』
それを聞いて、安心した。
匂いの件は勿論だが、食事の方も問題ないそうだ。何せ伊作からは、やはり毒物が仕込まれている日があったと聞かされ、○○に提供する前に抜き取り、○○や弟妹達の見えぬ所で曲者を退治してくれていたらしい。不運体質だが、技の切れ味ならかつての学友の中で一番だった伊作だ。フリーの戦場医だが、忍者としての勘や実力も鈍っていないから、簡単に仕留めてくれた。
『小平太様も、お仕事でお疲れの筈ではございませんか?』
「可愛い弟と妹……、愛しい妻の顔を見れたのだから、疲れなんて一瞬にして吹き飛んだ。この傷も戦いの勲章に過ぎん」
話の途中で、私はその場に屈む。○○と目線が合う様にして再度、口を開く。
「七松家の皆に会いたいと願い、くたばるものかと何度も思った。ずっと会いたかった、○○。やや子と共に、私を出迎えてくれて有難う」
ありのままに告げると、○○の瞳が揺れた。やがて、○○は俯いて、私から顔を背けてしまう。
『……少しの間だけ、胸を借りさせて頂いても宜しいでしょうか?』
その声は、どこか震えていた。これはきっと、悲の感情が溢れ出る前兆に違いない。
「あぁ、構わない」
すると、○○は少しだけ顔を上げてから、私の胸元に顔を近づける。私の目線からでは、○○がどんな表情をしているのか絶妙な位置のせいで、見えない。
『わたしも、小平太様にお会い出来て嬉しいです』
そんな言葉を告げたのとは裏腹に、次に聞こえたのは鼻を啜る音だった。
『やや子が居るのだと分かり、嬉しい気持ちもありました。けれど、不安や恐怖も拭えきれなかったのです。やや子が流れてしまい、対面出来た時が既に息を引き取ってしまったその時であったら、どうしようかと。元気な姿を拝む事は出来るのかと……善法寺様が私用で、七松家の敷地から離れて、わたし一人になった時、どうしようもない不安に駆られてしまった時もありました』
あぁ、やっぱり私が傍に居れたら良かったのか。
伊作は良い奴だ。○○が自身とやや子の命が掛かった生活で、精神的に壊れなかったのも、母上や父上、女中の人達、弟妹達の助けは勿論だが、話し相手にもなってくれた伊作の力も大きかったに違いない。じゃあ、私は○○に何をしてやれた? そこに、私は居なかったではないか。過去の私は、仕事で家を空ける私の事を忘れないで欲しいと大層、偉そうな事を言ったものだな。
「弟妹達の前では、涙を見せはしなかったのですか?」
そのように問いかけると、返事代わりに小さく頷いた。○○は成長した弟妹達を頼りにはしているものの、やはり昔の名残が残っているのだろう。こうして感情的な面を見せるのは、私の前だけだ。
伊作の前では、情緒が不安定で怒ったり泣いたりしてはいたものの、平時の状態で弱音を吐く事は一度も無かったと聞かされていた。
「○○一人の体ではない。距離はどうしても離れてはしまうが、私が居る事を決して忘れないで欲しい」
結局、都合の良い言葉しか吐けない。左腕が負傷していなければ、○○の体を簡単に包み込んでしまえるのに。空いている右腕を○○の背中に回して、密着させる様にして寄せていく。
『それでも、小平太様。わたしは……、貴方とのやや子が、このお腹の中に居るのが嬉しいという気持ちの方が勝っているのです』
○○の体がモゾモゾと動き、恐らく自身の腹に手を当てて、撫でているのだろう。腹の中に眠るやや子を想い、安心させる様に。
『小平太様との縁談を破談させようと目論見を持っていたわたしを、貴方は見捨てる事もせずに掬いあげた。あの時のわたしの行為は到底、許される事ではありません』
数年前、嫁入り奉公で七松家に赴いた事を知らなかった○○は、家をを飛び出した事があった。弟妹達からの知らせの文を受け、足取りはすぐに掴む事が出来たものの、その知らせを受けた直後は、足場が崩れ去り、奈落の底へと落ちてしまう嫌な感覚に襲われたのを今でも覚えている。双方の家で伝達の抜けがあったと後に判明したが、○○から私の奥方となる相手として相応しくない理由をいくつも告げられ、苦虫を噛み潰した様な顔を晒したのも懐かしい。
今もそうだが、あの時の私は、○○との繋がりを断ちたくなかった。家同士を繋ぐ相手であろうと、愛しいと思う者が私の元から離れてしまい、会う事が叶わなくなる等、慕っていた弟妹達も私も悲しむのだと。今も○○から、他所で自分以外の女性との繋がりを持っても良かったのではないかと言われたが、一夫一妻多妾制は、自らの意思で絶対にしないと○○に改めて伝えた。これは第三者からすれば、異常だと思われるだろうが、そんなものは気にしない。
「子供だった私の我儘で、月夜に軟禁生活を強いていたではないか。私の方こそ、許されない行為をした」
○○を七松家に連れ戻してすぐ、父上と母上の元へ赴いた。○○には、忍術学園に私が実家に置いたままにした私物を届けに向かい、家を抜け出したという筋書きを伝えると話したが実際は、その時の○○の行動のみで判断して、縁談を破談させないで欲しいと直談判し、余りにも幼稚だったと思う。手順を踏んで行うべき事を何段もすっ飛ばしてしまい、鉄槌を受ける覚悟もあったのだが、呆気なく事は終えた。
そこから、学園に滞在している間は弟妹達に○○の事を任せ、休日は実家へと帰省し、私が○○の傍に居た。敷地内での行動のみと制限し、軟禁生活を強いていたのは、独りよがりな考えしか浮かばず、今よりも更に愚かだったその時の私に出来た、○○を繋ぎ止める唯一の方法。○○は受け入れてくれたが、夫婦として共に生きていくのなら結局、それは勝手が過ぎるものでしかないのに。学園の卒業前、私は○○の軟禁生活を取り止め、少しずつだが共に町に出掛けたり、時には弟妹達と外へ散歩しに出掛ける機会を設けた。
『家同士の繋がりを保ち、繁栄の為ならば、結婚は受け入れるものでございます』
○○は突如として、現実を突きつけてくる。
当人達の恋愛感情の有無は関係ない所謂、政略結婚など当たり前に行われていた。全ては家同士を繋ぎ、子孫繁栄の為。○○は一度、感情の整理が付かずにどうしようもなくなって逃げ出してしまったものの、その後は私との政略結婚を拒む事は無く、祝言を上げて、正装に着替えた弟妹達に囲まれる中で、白無垢姿を私の前でお披露目した。
「後悔しているか?」
羽織袴を着た私を見上げる白無垢の○○の姿に、この先、○○と共に道を歩む事に対して、私は一片の悔いは無いと心から思った。
『いいえ。後悔など、しておりません』
祝言の時と同じ様に、顔を上げた○○の表情は、悲しみや苦しみの感情は無く、慈悲も含まれておらず、私に対して向ける愛が確かに込められている。
『小平太様。わたしは、貴方の事をお慕い申しております』
かつて、私が○○に向けて言った言葉。
それを全く同じ様に言い返され、両頬に熱が集まっていく。蛸の様に真っ赤になってしまっているのではと錯覚してしまう程に、熱くて堪らない。
そんな時、○○の口から小さく声が出ると、腹部に視線を向けていた。
「どうした?」
平常心を取り戻した私は、○○が腹部に手を当て、何かを気にしている様子を隠さない事に疑問を抱き、声を掛ける。
『やや子が、動いたのです』
ほんの少しの輝きに照らされた瞳を向けられ、遅れて私も大きな声を上げて、○○の腹に目を向けていく。
「ほ、本当か! やや子が、私と○○の声に反応したというのか!?」
幼子の様に、気持ちが昂ってしまう。そんな私を見て、○○は小さく笑ってから、胎動を感じたと改めて話してくれた。
「この中で、お前も懸命に生きているのだな」
○○の腹部に手を当て、力を加減してそっと撫でる。まだ性別は分からないが、男子だろうが女子だろうが、差別したりせずに愛情は注ぐ。私と月夜のどちらに似るのか。いや、どちらの要素も合わさった可愛いやや子に違いない。
「私達は、外で待っているぞ。無事に産まれたその時は、○○と共に、私の帰りを待っていてくれ。"おかえりなさい"と、出迎えてくれ」
八月が経過して、わたしは長妹様と次妹様と風呂場に赴き、湯浴みの手伝いをお願いしている所だ。
「ねえや、お背中はかゆくない?」
『はい。大丈夫ですよ』
手が届かない事もあり、次妹様が代わりに背中を流してくれている。
「ふくらはぎの所も、綺麗にするね」
長妹様が、浮腫んでいる脹脛ふくらはぎを流していく。下半身は懐妊前とは随分と見た目が変わり、浮腫が目立つ。それでも、御二方は嫌な顔を一つも見せずに、湯浴みに同行して、動きが制限されているわたしの代わりに体を清めてくれるのだ。
ここ最近は、お腹の張りを以前よりも感じ、息切れや動悸の回数も増えている。目眩や立ちくらみで、その場から動けなくなる事もあるが、善法寺様や弟妹様達、母上様や父上様、女中の方々の助けを受けて、何とか生活は出来ている。時折、遠方の実家に住む両親も七松家に訪問し、家族水入らずと安寧の時間をもたらす。
「湯浴みって、凄く気持ちいいんだよ」
「一緒に入ろうねっ」
長妹様と次妹様は、腹に宿るやや子に向けて、嬉しそうにして声を掛けていく。すると時間差で、御二方の言葉に返答する様にして、胎動を感じた。
『やや子が、また動きました』
「本当!?」
「早く会いたいなぁ」
湯浴みで清潔となった腹に、御二方は手を当てて、腹越しにやや子を撫でるのだった。
▽
そして、十月を迎えた。
少し前におしるしが見られ、いつやや子が産まれてもおかしくないと善法寺様から話を受けた。しかし出産の際は、実の母上、母上様、女中の方のみが、出産場所である離れの家に入る事が許される。実の父上、父上様、弟妹様達、善法寺様、今は仕事に赴かれている小平太様の立ち会いは禁じられるという訳だ。
善法寺様から、身の回りの世話以外にも、無事にやや子が産まれ、産後の間もしっかりと見届ける事で、小平太様から承った依頼を完遂されるという。もうしばらくの間、お付き合いの方を宜しくお願い致しますと言われ、わたしは邪険にする筈もなく、笑みを浮かべて了承した。
離れの一室を出産場所として設け、わたしは柱にしがみつき、座産の真っ最中だった。白装束に着替え、産まれてくるやや子が膣を潜ろうとする際、体に何度も激しい痛みが走り、意識が遠のきそうになる。その度に、実の母上、母上様から喝を入れられ、無理やりにでも意識をこちら側に戻されて、また痛みと向き合う。
(……いけいけ、どんどん)
昔、小平太様から平時に発する口癖の意味を聞いた事がある。強気な態度を崩さず、己の歩む道を作ってただ突き進むだけでなく、自らを鼓舞する言葉でもあると話してくれた。今のわたしなら、その言葉はやや子と会う為に頑張る自分への鼓舞と捉えよう。
出産中に叫び声を上げる等、恥同然であると教わった。ひたすらに声を押し殺して、膣を潜って外の世界に出てこようと懸命に動くやや子を思い、自らを鼓舞する。
(頑張れ、頑張れわたし。やや子、頑張れ。いけいけどんどん、頑張れ。いけいけどんどんっ)
心の中で何度も唱えていると、傍に居る筈のない小平太様が隣で見守ってくれている様な感覚がした。今度の仕事は、帰ってくるのが何時になるのかは分からないと。もしかすると、死に目に会えず、未亡人となったわたしとやや子の二人で、七松家か遠方の実家で生活をする事になるかもしれない。
(小平太様、わたしは貴方とのやや子に会うべく、頑張っています。いけいけどんどんと何度も唱えて、貴方が傍に居てくれている様な気がして、不安や恐怖が取り払われる様な、そんな気まで起きてしまいます)
その時、膣から何か出てきた。それがやや子の頭だと、実の母上が教えてくれたらしい。いけいけどんどんと唱えて、気を持っていかれない様に必死だったわたしが、後に聞いた事だ。
(外の世界は、もうすぐそこです。無事に産まれてきて、わたし達のやや子……、………そして小平太様、わたしとやや子の元へ、無事にお帰りになって下さい。けれどもし、もう会える事が出来なくなったのなら、夢の中に出てきて、会いに来て下さい。可愛いやや子も、お傍に居ますから)
そして、離れの一室で産声が響いた。
▽
胎盤が排出されて、わたしとやや子の無事が確認出来た後も、安息に付く暇は無い。
六日間の間、わたしとやや子は離れの一室から出る事が禁じられた。その間は産婆が、産湯やわたし達の世話を行い、六日目には、やや子の産毛を剃る六日垂れを実施した。
そして今のわたしは、産後間もない為に不浄だ。
七松家の敷地内にある、こじんまりとした小屋を借りて、わたしとやや子の二人きりの隔離生活を一月、行わなくてはならない。離れの家を出て、疲労が蓄積された体に鞭を打ち、産小屋へと足を運ぶ。食事は以前と変わりなく提供されるものの、誰かが中へ入ってくる事はなく、受け取る際に顔を見れるか見られないか位だ。
産小屋の中では、やや子を産んで貧血気味となっている為に頭に血が登るからと、横になる事は許されない。どんなに体が悲鳴を上げて助けを求めていようが、体は起こしている。ややこの頭と首を支え、眠りについているやや子の顔を眺めては、愛おしさを感じて微笑む。空腹を訴えて泣き出した時は、母乳を与える。最初の内は生活の流れが整っておらず、やや子が泣き続けて精神的に参りそうな時もあったが、いつか帰ってくるであろう小平太様、弟妹様達、実の両親、小平太様のご両親、懐妊時の生活を支えてくれた善法寺様を思い浮かべて、何とか気を保つ。
(一月が経って、この産小屋から出てきた時には、小平太様は帰ってきていらっしゃるのでしょうか)
▽
一月後、やや子の誕生を祝い、健康を祈願する初宮参りに出掛けた。小平太様は居らず、小平太様の御両親とやや子と共に、これからの生活が健やかである様にと願った。
そして、善法寺様との別れも迎えてしまう。
『十月十日の間、善法寺様には感謝し尽くしきれません』
母屋の玄関前で、やや子を抱えながら、わたしは礼を告げる。善法寺様は、やや子とわたしを交互に見て、穏やかな笑みを向けてきた。
「御三方に、これからも幸いがありますように……僕は、そう願っています」
御三方というのは、わたし、やや子、ここには居ない小平太様を指しているだろう。
『たまにで構いませんので、またこちらに足を運んで下さい。弟妹様方も善法寺様のことを大変好いているご様子でしたので』
「勿論。仕事の方が落ち着いたら、あの子達と月夜さん達のお体の調子を見に、伺うつもりです」
こちらに向けて一礼したのを最後に、善法寺様は前を見て、歩き出そうとする。わたしも一礼をして、門の外を出て、姿が見えなくなるまで、善法寺様を見送ったのだった。
(それにしても、善法寺様は不運の方なのかしら。弟妹様達と遊んでいた際に、やけに転んでいたり、大雨に見舞われている姿をお見かけしたけれど……)
やや子が産まれて、三月が経った。
弟妹様達が、離れの家を訪れると、わたしとやや子に会いに来たと笑顔を見せてくれる。同じ顔をした弟妹様達に囲まれるやや子は、皆の顔を順に追っているかの様に目を動かしている。けれど本人は、弟妹様達を見ている気などないのかもしれない。
「可愛いね」
「ほっぺた、柔らかい」
「お手玉、出来るかなぁ」
わいわいと声を上げて、誰が喋っているのかも分からなくなる。その中で、お手玉という単語が出されると、小平太様の安否が気になってしまう。
忍者は、いつも死ぬか生きるかの二択だと教えられた。突然と姿を消してしまうのも珍しくないと、自分の同胞もそうだったと、小平太様から話を受けた事がある。七松家に訃報は伝えられていない。いや、遺体(または死体)が見つからなければ、訃報自体も届く筈もない。
(……小平太様、やや子は今日も弟妹様達に囲まれて、とても嬉しそうにしております)
夕刻を迎えて、弟妹様達は母屋へと戻っていく。食事が出来たら、届けに来ると伝えられ、わたしは感謝の言葉を述べてから、笑みを見せた。
(凄く綺麗な夕焼け…、……やや子と一緒に見る夕焼けにも、少しずつ慣れてきたみたい)
空一面が橙色に染まっていたのを見て、離れの家へ入ろうとした時だった。七松家の門前に、人影が見えた。
(…、……誰?)
眉間に皺を寄せていると、人影は何故、門前に居るのかと疑問が生じた。そう思っている間も、人影は母屋と離れの家がある方向へと足を進めてきている。
(七松家の関係者の方? それとも…、………)
その時、人影がこちらを見た気がした。
わたしとやや子を捉えると、母屋ではなく離れの家を目的地に変えて、足の向きを変えた。
(この子だけでも守らないと……それに、弟妹様達や母上様、父上様に危害が加えられない様に…っ)
やや子を守る様にして、抱き締める。わたしの足で逃げても、男性ならば簡単に追いついてしまう。それならいっそ、自らの身を差し出してしまえば………、そこまで考えた時、わたしは動きを止めた。
わたしの記憶に残っていた、もふもふとした感触の伝わる紺色の長髪は、今では肩につく長さの短髪となっていた。毛の先端を見ても、無造作に切ったのか誰かに切られたのか分からない。
黄緑色の常服から覗いて見える両腕は、包帯が巻かれている。更には、両足と首元にも包帯が巻かれ、その下には多くの生傷が出来ているのだと推察出来た。
はっきりと顔が認識出来るまでに距離が近づくと、わたしの方からその人の元へと歩み寄っていく。わたしと腕の中に眠るやや子を交互に見て、その人は笑みを浮かべるだけで、何も話さない。
「おかえりなさいませ…、……小平太様っ』
わたしの目の前に居たのは、帰ってくるのを待ち詫びていた夫の小平太様だ。幽霊でも幻覚でもなく、本物の小平太様。
▽
母屋で父上様、母上様、弟妹様達に挨拶を終えた小平太様は、離れの一室に訪れた。わたしと腕の中に眠るやや子の隣に腰を下ろし、胡座をかく。
右手を掴まれると、手のひらに小平太様が人差し指を用いて文字を書き始める。最初の文字を見逃してしまった為に、もう一度書いて欲しいと伝えると、小平太様は一文字目をゆっくりと書き出していく。
「どくをのまされて、ことばをはなせない」
空いている片方の手で、包帯の巻かれた首元を指しながら、そう伝えてきた。
『お体の方も随分と大怪我をされているご様子ですが、そちらは問題ないのですか?』
「みつきまえに、ごうもんをうけて、ひどいきずをおわされた。そのときに、どくをのまされ、ころされかけた」
三月前といえば丁度、小平太様が仕事に向かわれた時と一致する。何かしらの事態に見舞われ、拷問を受けた挙句、毒を無理やり飲まされ、その後遺症が残っているのか。
『声の方は、もう戻られないのですか?』
「もうじき、もとにもどる。いま、おおごえをだすと、まただめになる」
人差し指で書き出してから、小平太様はわたしに笑顔を向けてきた。
「むかしのともが、わたしをたすけてくれた」
誰なのかと問えば、中在家様と食満様の名前が書き出された。善法寺様同様に、学生時代に七松家に訪れた方々だ。
そこから、時間を掛けて三月の間の出来事をわたしの手のひらに書き出していく。
拷問を受けて、その際に髪を切られた小平太様が、自身の仕える城の極秘情報を口にすることも無く、黙秘を貫く姿に痺れを切らした敵忍者の方々が毒殺を試みようとしたという。無理やり口を開けられ、毒を飲まされた小平太様だったが、その直後に御学友であった中在家様、食満様の助けが入り、命からがら逃げてきた。毒を吐き出したものの、喉に大きな被害を受けて、声が枯れて何も話せず、今よりも酷い状態だったらしい。
小平太様の仕える城と、政治的には友好関係を築いている城に御二方はそれぞれ仕えているらしく、食満様は別件ですぐに姿を消し、中在家様が小平太様の介抱をしていたそうだ。小平太様の仕える城の付近まで中在家様が同行し、そこからは小平太様一人で帰還したものの、両腕と両足は骨折して、一人で歩いていたのが奇跡だと同胞の方々が驚愕の顔を見せていたと書き出す。
「こんどは、もうだめだとおもった。かすりきずじゃすまない。そんなとき、○○とうまれてくるやや子をかんがえたら、いきのびなくてはと、しにぎわのふちから、こちらにかえってくることができた」
そこから、わたしがやや子を出産して、産小屋で過ごしていた期間は、小平太様は絶対安静だと以前よりも更に口酸っぱく薬師の方に言われ、素直に従ったという。全てはわたしとやや子に会う為だと、折れた両腕と両足の治療を受け、骨が再生する瞬間を待っていたそうだ。
「けががあるていど、おさまったから、ここにかえってきた。そうしたら、月夜とやや子がみえた。○○とやや子も、いきのびたのだとわかって、うれしくてたまらなかった」
そこまで書き出すと、小平太様はわたしの右手を握る。力加減されており、痛みは感じない。
「やや子は、どちらだ?」
恐らくこれは、性別のことを聞いているのだろう。わたしが、やや子の性別を教えると、小平太様の顔に笑顔が咲き誇る。
「そうか。それなら、ふたりできめたなまえも、もうつけているのだな」
今度は、やや子の名前を教えた。小平太様の笑顔が絶えず、心から喜んでいるのが見て分かった。
『……わたし、この子を産んでいる時に、小平太様の口癖を何度も心の中で唱えていました。そうすると、隣で小平太様がわたしの事を見守ってくれている様な気がして、安心しました。だから、この子に会えたのは小平太様のおかげでもございます』
いけいけどんどん……、小平太様が平時から使用している口癖を、わたしは口にする。
「わたしは、○○のことをまもれていたのだな。わたしらしくないが、ふあんだったんだ。しごとでいえにかえることもできず、いさくやみなに、月夜のことをまかせきりだったから」
『そんな事はございませんっ』
思った以上の声量を発してしまい、やや子が起きてしまわないかと様子を伺う。眉間に皺を寄せていたが、泣きはしなかった。
『小平太様は、わたしが不安になっていた時、わたしの話に耳を傾けて下さり、"私が居る"と言ってくださったではありませんか。とても嬉しかったのです。こんな素敵な方に恵まれて、わたしは幸せ者なんだと……、……だから、この三月の間、小平太様の死に目に会えないまま、二人で過ごす事になるのかもしれないと考える時間もございました。こうして帰ってきて下さった事は、わたしは嬉しいのです』
そこまで話し終えると、小平太様の両頬は赤く染まり、目を丸くさせていたのだ。わたしが言い放った言葉達は、それ程までの状態にさせてしまう力があるのか。
「けがが、かんちしたときは、わたしにもやや子をだかせてくれ。いまも、やや子にふれたくてたまらない。それに、はやくことばをはなせるようにしたい。○○とやや子に、あいをつたえたい」
すると、小平太様はチラリとわたしを見てきた。双眸は、熱を帯びている。
「○○をだきしめたい。くちすいをしたい。それもけがが、かんちしたときに、させてほしい」
そう書き出され、昔から変わらない小平太様だと思い、小さく笑った。けれど、もうあの頃の小さくて可愛らしい小平太様は居ない。目の前に居るのは、わたしや善法寺様よりも背丈が大きくて逞しく、夫であり、愛おしいと感じるあの方なのだから。
「すまない。いいわすれていたことがあった」
小平太様は、穏やかな笑みを浮かべながら、わたしに言い忘れていたあの言葉を書き出していくのだった。
ただいまかえった、○○
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