短編
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七松家に迎えられたばかりの年下の許嫁が、小平子を好きになったと聞いて、同室の七松小平太が号泣している話。
七松 小平太×女夢主(年下)
◆名前変換夢の為、名前変換を推奨。
◆三人称(神の目線)視点で、進みます。
◆既存キャラの解釈違い(口調や性格)が出てくると思われますので予め、ご了承下さい。
◆七松家の内部の捏造あり。
夢主の簡単な設定
・七松小平太の許嫁。
・忍術学園については、"行儀見習いの学校"だと認識しているものの、忍者の養成機関だとは知らない。
・
週末を迎えた市中では、人の波が色濃く目立っては波打ち、喧噪が途切れない。
それが平時と同じであるかと思いきや、今日ばかり町人達は、ある場所へと視線を集めては、がやがやと声があげていく。
(何かあったのかしら……)
視線の集まる方角を確かめようと歩み寄るのは、市女笠を被り、その縁から垂らした白い虫の垂れ衣で、顔を覆う少女——、名無し ○○。
質素な小袖を纏いながらも、上流階級の人間が用いる市女笠の効果が発揮され、一際異質であり、神秘的な影を纏う。
(あれは……?)
「さぁさぁ、いらっしゃいませ〜! 採れたてほやほやのササユリ、いかがですか〜!」
賑わいの中心へと近づくと、商売上手だと言わんばかりで、快活な調子の声色を○○の耳が拾う。
どうやら、収穫したばかり淡い桃色を基調としたササユリを売り捌いている最中のようで、売り子を務めている少女は、○○よりも年下だ。
少女の脇には、背丈があり、逞しさを備えた三人の女たちが控えている。
それぞれが商品であるササユリを手にしては、少女の真似事のように商売文句を言い放つ。
(凄く綺麗……っ)
はじめは、桃色の花弁が籠一面を埋め尽くしていたが、行き交う町人達の目を惹きつけては、売り捌かれて、姿を消していく。
『可愛い花売りのお嬢さん。わたしも、ササユリを買っても宜しいですか?』
それにまんまと乗せられた○○は、紺色の髪をした町娘の少女の元へ向かう。目線を合わせようと屈めば、市女笠の奥から、声を掛けた。
「はぁい! 毎度、ありがとうございまぁす!」
ぱっと顔を輝かせ、ササユリが一輪、売り捌けたと分かれば——、紺色の髪の毛の少女こと、きり子(または、摂津のきり丸)は、両目に銭の模様を浮かばせつつも、指定された分の数だけ、ササユリを花籠から取り出していく。
『ありがとうございます』
にこりと柔らかな笑みを浮かべ、○○は銭を手のひらに乗せれば、きり子に差し出す。
淡い桃色の花弁を抱えるように受け取ったそれは、最近、許嫁となったばかりの相手の両親、その許嫁の小さな弟妹たちに贈る為の物。
まだ慣れぬ生活の中で受けた優しさに報いたいと選んだ、囁かな心遣い。
『あっ』
群衆の波に背を向けようとした矢先、不意に肩がぶつかり合う。軽い衝撃と同時に、手元のササユリが一輪、ふわりと宙へと舞うと、地面へ落ちる。
それを見つめていた○○だったが、町人の群れに踏まれてしまうと、そこでようやく、はっとして、意識が戻る。
桃色の彩りが無惨に潰れ、細い茎は折れ曲がり、瑞々しい輝きは失われていく。
(どうしましょう…、せっかく、御両親やあの子達への贈り物と思ったのに……)
胸の奥に、鈍い痛みが走る。
ササユリを受け取れず、ひとりだけ仲間外れになってしまう光景を思うと、○○の良心が締め付けられた。
拾おうにも、押し寄せる雑踏に阻まれ、花は遠ざかるばかり。
「大丈夫か?」
ふと、背後から声を掛けられ、○○は肩を震わせる。
いつの間にか自分の背後に、誰かが居たと遅れて思考を巡らせるものの、市女笠の縁から垂れた白布が顔を覆い、声の主の姿はよく見えない。
「花を落としてしまったのだな。ちょっと待っていろ」
低めの、凛とした女の声。けれどもその口調は男のように歯切れよく、頼もしさを帯びていた。
男口調で話す御方なのねと思いつつ、○○は、その言葉に従う。
しばらくして戻ってきた女性の手には、一輪のササユリ。
それも人垣に紛れるように、きり子からは見えない角度で差し出されて。
『これ……』
「細かい事は気にするな。あの小さな売り子に見つかると、面倒だから。ほらっ」
押し付けるようでいて、そこには確かな温もりがあった。
○○が受け取るのを見届けると、彼女はにっと快活な笑みを浮かべ、何事もなかったかのように自分の持ち場へと歩み去る。
(……っ)
その時、どこからか、自分の相手をしてくれた女性を呼ぶ声が、○○の耳に届く。
いそいそと、町人の群れから離れては、群れの中で今もササユリを売り捌く少女達に、視線を送る。
(あの御方…、小平子さんと言うのね)
男口調で、快活な笑みを見せ、落としてしまったササユリの代わりを銭一つ受け取らず、渡してくれた。
整えられていない紺色の長髪を低く結び、水玉模様が施された水色の小袖を着た町娘。
○○よりも背丈があり、どことなく男性のような逞しさを感じさせる風貌。
(素敵な御方……っ)
ぽおっと頬が火照り、胸の鼓動が早まると、自分に優しく接してくれた小平子の姿が頭から離れない。
視線はいつまでも彼女の背を追い続け、群衆の中に姿が消えていくまで、○○は、ただ立ち尽くしていた。
◇
忍術学園に在籍する忍たま、くのたまをはじめ、教員ならば、六年ろ組の七松小平太という忍たまが、どのような人間性をしているのかを嫌でも理解している。
「いけいけどんどーん!」
整えられていない紺色の長髪や、新緑の忍装束には、お決まりの口癖を発しながら、忍術学園の校庭で塹壕掘りに勤しんだせいか、土埃が至る所に付着している始末。
「今日は裏々山まで、学園で開催されるマラソン大会のコース巡回を兼ねた、いけどんマラソンを行う!」
自身が委員長を務める体育委員会では、元来の有り余る体力と並外れた運動神経が、遺憾無く発揮される。
後輩である下級生の体育委員達は、委員長の小平太の背を追いかけるだけで精一杯。
「トスされたら〜、アタックあるのみ!」
同じく六年ろ組に所属し、同室である中在家長次がバレーボールをはじめ、焙烙火矢などの至る物をトスすれば、骨の髄にまで染み込んだ癖により、体が動き出す。
それは、校庭のグラウンドや、学園長である大川平次渦正の庵前であろうと、スパイクを仕掛けて、甚大なる被害を及ぼす。
「細かい事は、気にするな!」
いけいけどんどんに次いで、この忍術学園で聞く機会の多い口癖。
一見、何も気にしていないと思わせる発言であるが、実際は細かい観点をも把握した上で、気にしなくていいと発言しているのではないかと推測されるが、実際の所は不明。
全ては、七松小平太のみぞ知る。
四字熟語で彼の人間性を表わせという課題があるのなら、"豪放磊落"という言葉が最も似合うであろう。
「○○が……っ! 私の許嫁が、小平子の事が好きだと言っているぅ……っっ!!」
そう、この時までは。
歯を食いしばり、目の前にいる同級達の視線から逃れるように閉じられた目尻からは、小さな涙の粒が浮かび、両拳が、ぎゅっと力が込められていく。
紺色の髪の乙女への、桃色の感情の芽生え
事の発端は、実家から届けられた文。
日取りはまちまちだが、父母からの近況を伝える言葉に始まり、目に入れても痛くないほど可愛がる七人の弟妹達からの稚い筆跡に至るまで、内容は賑やかそのもの。
加えてつい先日、許嫁として迎え入れられた○○からの便りまで加わり、小平太の机は色とりどりの文で埋め尽くされていた。
「○○さん……、あぁ。先日、許嫁として小平太の家に迎えられたという御方だね」
六年ろ組の長屋に集められた同級の中で、真っ先に言葉を発したのは、六年は組の善法寺伊作。
右手の人差し指を頬へ軽く当て、記憶を探る仕草に加え、穏やかな声でそう口にする。
「……で、お前は自分じゃなく、小平子が好かれている事実を知って、悲しんでいたという訳か?」
同じく、六年は組の食満留三郎の低く切り込むような問いかけが空気を裂いた瞬間、目尻に涙を浮かべていた小平太の顔つきが、すんと切り替わる。
「いや、別に悲しい訳ではない」
一瞬にして小さな涙の粒が引っ込み、無の表情へと切り替わる感情の移ろいに、同室故に理解のある長次を除き、六年い組の潮江文次郎・立花仙蔵をはじめ、は組の二人も内心、驚愕の意を示す。
「私の女装が、完璧すぎたのがいけない! 私ではなく、女装した私……つまり、小平子を好いてしまったのではないかと!」
その第一声に、仙蔵の眉がぴくりと反応を示したのを、熱弁する小平太は気づきはしない。
先述したように、七人の弟妹を目に入れても痛くないと溺愛している彼は、妹達の愛嬌溢れる可愛さは、女装した自分に通じているものだと豪語している。
補習授業を受けた経験があるにも関わらず、小平太の女装に対しての自己肯定感は常人の域を超えていた。
「有り余る体力が、更に増幅して、クソ力も制御出来ず、長次からトスをされても、バレーボールを破裂させて…、このままでは、自分が自分では無くなってしまう……」
ここ最近、忍術学園での小平太の奇行を思い出した面々は、目の前で繰り広げられる光景を前にして、全てが結びつく。
平時から、有り余る体力を絞り尽くそうと、塹壕掘りをはじめ、裏々山へのランニングに取り組もうなんてなんて朝飯前。
しかし、その有り余る体力が常軌を逸し、体育委員会の活動に支障が出ているのが現況。
「……滝夜叉丸が、私の元へ相談をしに来たおかげで、小平太の異変にそれとなく、目を配る事が出来た」
四年い組の平滝夜叉丸が体育委員会の活動終了後、足の震えで立ち上がる事すらままならず、地面へと仰向けに倒れ込む後輩達を目にすれば、こんな事は今までに無かったと思考。
そして、そこから委員長の異変に気がつけば、頼みの綱である長次に相談。
「許嫁の御方が、小平子の事が好きだというなら、お前がそんなに嘆く必要ないだろ。小平子は実質、お前なんだからよ」
七松小平太と小平子が同一人物であるのなら、自分に好意を抱いているのと変わらないのではないかと、文次郎が至極最もな発言をしようが、小平太は納得のいかない顔を包み隠さず、皆に見せつけた。
「それとこれとは、話が違う!」
それは、許嫁としてだけでなく、一人の男としての矜恃を揺るがすもの。
それを主張するべくと、小平太の声が、六年の忍たま長屋にて響き渡る。
「そもそもの話だ。小平太、お前はいつ、許嫁の御方が、小平子を好きだと知ったのだ」
ここに来てようやく、仙蔵が何故、自分の許嫁が小平子に好意を抱いているのを小平太が周知しているのかという問題に触れた。
「実家から届いた、可愛い弟と妹達からの文を読んでいた時に……、"こへーこさん"という人の名を呼んでは、ぽっと顔を赤くしていると……書かれていた」
自らの行動が、文により筒抜けされている——、それは宛ら、純粋無垢な弟妹達が、兄である小平太に○○の様子を知らせる密告者のよう。
(許嫁の御方の行動全て、小平太の弟妹達に見られてるじゃないか……)
子供ながらも末恐ろしいと、い組・は組の面々が思いつつも、"こへーこさん"と呼ばれる女性の名が文に記されていると分かれば、十中八九、女装した小平太であると確定。
更には、恋する乙女の如く、○○は彼女の名を呼んでいると発覚し、答え合わせは済んだものだ。
「小平子と出会った時に、私の両親や弟妹達への贈り物として買ったササユリを見ては、うっとりとした目を向けている……とも……」
仙蔵・留三郎・伊作の三人は、ササユリの件について知っている筈もない。
対して、文次郎と長次の二人は、先日、自分達が参加した一年は組所属、摂津のきり丸のアルバイトの手伝いをした際の記憶を掘り起こす。
「町人達の中で、一際目立つ市女笠を被っていた少女の相手をしていただろう。その方が、小平太の許嫁の御方であったという訳か」
「しかし、笠の縁から垂れた虫の垂れ衣で、顔を見るまでは出来なかったから、俺も長次も小平太の許嫁の御方が、どのような人だったのかまでは、流石に分からんな」
一際目立つ格好をした少女の姿の特徴などを、つらつらと述べる事は出来ても、虫の垂れ衣によって覆われた○○の顔までは把握出来ておらず、長次と文次郎も息詰まる。
「けれど、このまま、クソ力も制御出来ずに、バレーボールやアヒルさんボートを破壊され、更には学園内の塀まで破壊つくされては俺達、用具委員会の苦労が絶えないんだよ……!」
はじめは、小平太に同情していたものの、痴情のもつれを引き摺り、学園内の至るものを破壊し尽くされたら、用具委員会 委員長を務める留三郎をはじめ、用具委員の膨大な作業量の数々を想像すると、私情ながらも怒りを隠さない。
「そうだね。体育委員の下級生達も、医務室に来る回数も増えているから、このままだと、いつか取り返しのつかない事になりそうだよ」
保健委員会 委員長を務める伊作も、小平太の有り余る体力の増幅により、体育委員の体が悲鳴を上げている事を伝え、眉を下げる。
そんな二人を横目で観察した仙蔵が、「ふむ」と零せば、今度は目の前に座る小平太へと視線を移していく。
「小平太。もう一度、小平子に扮して、許嫁の御方と接触を図ってみるのはどうだ」
◇
昼間の喧噪を超えて、夜間の静けさに身も心を任せて堕落し、心地よい眠りにつきたい小平太だが、枕に顔を埋めては、くぐもった濁声混じりの呻き声を繰り返す。
「それ程までに、お前の中では、気にする部類に含まれる事なのか」
湯浴みを終え、寝間着に着袖を通した長次は、日課の読書に勤しもうと、ここまで無視を貫いていた。
だが、平時に見かける快活な姿からは、似ても似つかない同室の姿を目の当たりにすれば、いよいよ耐えきれず、声を掛けてしまった。
「あぁ…、細かい事を気にしない質の筈だったが、何故だろうなぁ……」
小平太は、布団に転がりながら、頭を掻きむしれば、思考を巡らせていくも、心当たりのあるものへと行き着かない。
かつて、一年は組の黒木庄左ヱ門から、ひっつき虫かの如く、付き纏われた結果、木々に張り付く虫を発見しては、驚きの声を上げるといった細かな点ばかり目が向けられた結果、酷くやつれた苦い経験のある小平太だが、どうもその時とは抱く感情は異なる。
「……小平太、お前がそのような状態に陥っている原因は、それとなくだが、思い当たる節は見つかった」
「ほ、本当か!」
がばっと上体を跳ね起こし、読書に勤しもうと机と向き合っていた長次の元へと、小平太が四つん這いで躙り寄る。
「お前が、許嫁の御方に恋心を抱いている。そして、自分ではなく、小平子に恋をしているのではないかと疑ってしまう……そんな平時の自分と異なる性格に矛盾を感じて、苦しんでもいる」
ちらりと様子を窺った長次だが、小平太は至って真顔のままで、はっきりと恋心を抱いているのではと突きつけられても、眉一つ動かさない。
「恋心、か……、いや、私が○○に恋心を抱いてるかと聞かれれば、嘘になってしまう。何せ、出会ったばかりで、ろくに実家にも帰省出来ていないこの状況で、○○の人となりも文を通してしか、知り得ていないのだからな」
その言葉は、他者を欺く為にと作り出されたものではないと、同室だからこそ理解のある長次には、手に取るように分かり、確信した。
「私の両親は、とても仲が良い。私も弟妹達もその背を見てきたからこそ、私と家族になる御方とも、仲睦まじく過ごしたい。家同士の繋がりがあるとは言えど、ただそれだけだ」
それは最早、恋と呼ぶのではないか——、喉元まで出かかった言葉を、何とか引っ込める。
家同士の結び付きの為に、許嫁を迎える事は珍しくない。
中には、自分よりも一回りや二回りも年上の相手と契りを結ばなくてはならない局面に遭う可能性も、なくはない。
(しかし、小平太……許嫁の相手となる御方が、自分より年下であれど、お前はまだ恵まれている方だとは思う)
耳にした噂ではあるものの、契りを交わした末、その後の生活に耐えきれず、自ら命を経った者も居るという。
その点、ほんの少しの年の差である小平太と○○は比較的、まともな方ではと長次が思った時だった——。
「だからこそ、○○には、現実を受け止めて貰わなくてはならない!」
次の瞬間、しんみりとした空気が、一瞬にして破壊された。
小平太が自らの拳を天に向けて、翳している姿が、空気そのものを切り裂こうとしたのかと錯覚してしまう。
相変わらずの感情の切り替えの速さには、長次も慣れっ子であり、突っ込みの言葉を入れはしない。
「小平子という女性は存在せず、それは女装した私であると知ってもらう為にな!」
小平子に扮して、○○との接触を図る。
昼間に受けた仙蔵からの提案を、小平太は飲み込み、実行に移そうと考えていたのだ。
全ては、偶然により起こった奇跡。小平子という女性など存在せず、○○が恋心らしき感情を抱いたのは、許嫁である自分なのだと理解させる為に。
情景を抱く仲睦まじい家族と成るべく、○○とより良い関係を築きたいが為の小平太の我儘。
心を射止めよ七松小平太
七松家の門前にて、待ち人を出迎えるべく、○○は一人、黄金色の光を纏うお天道様の光を一身に受け、夏の湿りを残す風が頬を撫でていくと、これから訪れる秋の訪れを堪能する。
(まさか小平太様が、あの御方とお知り合いだったなんて……)
"あの御方"。
それは以前、雑踏により無残に踏み潰されたササユリを見て、新たな一輪のササユリを自分に差し出してくれた小平子。
(同性ながらも、物怖じせず、豪快で、どこか逞しいと思わせる不思議な御方……っ)
整えられていない紺色の長髪を低く結い、くりくりとした丸い目に、紅を差した唇は子供っぽさを隠し、町娘にしてはどこか凛々しさを纏っている。しかしその正体は、許嫁相手である七松小平太。
同級生からは専ら、化け物と比喩される女装であるものの、○○は出会って間もない事や、市女笠の虫の垂れ衣により、小平太であると認識していなかったのが不幸中の幸い。
(あぁ…。また、頬が熱い……)
だが、それにより、○○は小平子を想えば、まるで恋する乙女のように、頬がぽおっと火照り、ササユリを見つめては、小平子の幻影を追う。
小平子さんとぽつりと呟いた言葉を弟妹達が拾えば、それを拙い字で文に記し、兄である小平太に伝えたのだ。
「○○ちゃん」
その時、またしても気配を察知出来ないあの時の感覚に襲われると、○○は肩を震わせて、小さく声を上げる。
「すまん。驚かせてしまったな」
初対面の際にも聞いた男口調に、濁声混じりで凛とした女性の声が聞こえてくれば、○○は、ぱあっと表情が明るくなる。
それはまるで、開花を迎えて咲き誇る花のよう。
『い、いえっ。わたしの方こそ、驚いてしまい、申し訳ございません……』
目の前に現れた小平子は、あの時のように水玉模様が施された水色の小袖を着用し、赤色の口紅を差している町娘の姿。
作り込まれた女口調ではなく、初対面の際に発してしまった男口調を貫いて、○○に声を掛けたものの、○○は何ら疑いを持たない。
『あ、あの……こ、小平子、さん……』
「ん?」
もじもじと、両手を組んでは指を絡ませる○○を小平子が見下ろす。
頬には、ほんのりと朱が挿されており、○○の体から放出された熱であるのは一目瞭然。
『貴女とお会いできて……、嬉しい限りでございます…っ』
小平子の顔を視界に捉えて、記憶に焼き付けようと、市女笠を身につけてはいない。
それにより、○○の微笑みと朱色の頬が公に晒され——、男である小平太の双眸にも、否が応でも映し出されている。
「そう言われると、私も嬉しい」
にぱっと弾けた笑みを見せる小平子に、○○の胸の鼓動が早まり、きゅんっと締め付けられていく。
(小平子さん…、わたしより年上の御方であるのは、分かってはいたけれど、心の余裕をも見せられる御方なのね……。素敵だわ……っ)
両頬に手を当てれば、熱が直に伝わる。
こうしてまた、小平子と出会う機会を与えてくれた許嫁には感謝をしなければと思う○○。
そして、自身の目の前にて、両頬に手を当て、うっとりとし、恍惚とした顔を見せる許嫁を前にする小平子の心情など、今の○○には知る由もない。
(また、小平子の事が好きだと言っているぅ……っッッ!!)
先日、長次の前で高らかに宣言した言葉は、どこへ消えたのか。
お天道様からの黄金色の光を一身に受けている筈が、その輝きが何処かへ消え去っていく。
○○に自分が女装した七松小平太である現実を突きつける前に、小平子への好意を隠さない現実を目の当たりにして、小平太が精神的に傷を追う羽目となった。
『小平子さんは、小平太様のお知り合いの御方だったのですね』
本来の性である自分の名を出され、背を向けて、歯を食いしばっていた小平子は、はっとしてから平常心を装い、○○と向き合う。
「あ、あぁ、そうだ。ちょっとした付き合いでなぁ」
『面と向かって、感謝の言葉を述べられる時間も限られていますが故に……、小平太様が通われている学園へと送る文に、今日という日を迎えさせて下さった感謝をお送りしたいと思いまして……」
両親、弟妹達と共に送られる○○からの文に、今日の出来事について綴ろうと、早々に予定を組み立てる○○を見せられ、小平子のくりくりとした丸い目が、平時よりも更に丸みを帯びていく。
(○○宛ての文の返事に、小平子と知り合いであると共に、小平子を呼び付けて、会わせる事も容易いといった内容をしたためたのは、正解だったな)
仙蔵の策を採用した小平太は、迅速な対応を見せた。
○○宛ての文に、小平子と知り合いであり、彼女が○○に会いたいという旨を綴れば、意図も簡単に○○の心を掴む事に成功。
小平子と○○の双方の都合を小平太が聞き、空き日に二人の他出(または、逢い引き)の予定をこじつけるといった一人芝居を繰り広げている背を、同室の長次は背後から眺めていたが、一切の口出しはしなかった。
「さっ、時間は有限だからな。今日は、たんと楽しもう」
右手を差し伸べた小平子は、まだ幼い弟妹達が見知らぬ場所に迷い込み、逸れないようにと自らが行う癖が、○○の前で表出してしまったと後から気づく。
『て、手をお繋ぎしても、宜しいのですか…?』
その癖を把握していない○○は、自分が小平子と手を繋いでも良いのかと想えば、宙ぶらりんとなる自身の左手をどうしようかと困惑する。
七松小平太として、許嫁である彼女と手を繋いだり、逢い引きを交わした回数が片手に満たない関係ながらも、小平子は、宙ぶらりんとなった左手を強引ながらも掴んだ。
「細かい事は、気にするな」
それは、自分が小平子と手を繋いでも構わないのかという○○の問いの答えと同時に、○○との交流の浅さに臆するなという小平太自身への励ましとも取れた。
七松家の門前を後にする小平子と○○の付近に生えている木々と茂みが小さく、かさかさと揺れると、二人の跡を追いかけるようにして、俊敏な動きで何かが飛び出て、次の瞬間には、姿を消えている。
◇
許嫁である○○の手を取れば、隣を歩く小平子は、彼女の歩幅に合わせるべくと足を前へと進める。
七松家の敷地から離れた道中にて、田んぼの中に植えられた稲穂を見つければ、黄みを帯びており、風に吹かれると、小さな波が出来上がっていく。
空を見上げれば、赤蜻蛉が姿を見せて、小平子と○○の目の前を通り過ぎていく。
「この間、○○ちゃんが買ってくれたササユリを大事にしてくれていると聞いたぞ」
沈黙の中を歩くのは、邪な考えはあれど、せっかくの許嫁との時間を無駄にするものだと、小平子から、ササユリの話題を振った。
『はいっ。あのササユリは、小平太様の御両親と弟妹様達への贈り物として、買わせて頂きました』
○○が何ら変わりなく発言したが、両親と弟妹への贈り物として購入した中に、自分は含まれていないのかと小平子は一人、細かい箇所に目を付けてしまえば、そればかり気にしてしまう。
『あの、小平子さん……』
「どうした?」
『小平子さんは、小平太様とお知り合いであれば、あの御方の人となりを理解なさっておられるのですか?』
小平子にとっては唐突ながらも、○○からしてみれば、許嫁としての立場として考えた末に、問いかけたに過ぎない。
「まぁな」
『……小平子さんが、羨ましい限りでございます』
思わぬ返答を聞き、「へっ?」と素っ頓狂な声が小平子の口から発せられる。
『お恥ずかしながら…、わたしはまだ、七松家に出迎えられて間もなく、小平太様との関わりも少なければ、逢い引きすらまともに交した事がありません。今は通われている学園で勉学に励まれているとお聞きして、小平太様もお忙しい身でございますから……、ですが、弟妹様達や一族の方々から慕われているのは、日々の生活の中で、しかと伝わってくるのです』
言葉の節々から、寂しげな感情が読み取れたものの、忍術学園にて勉学に励む許嫁であり、大した関わりを持っていない小平太を想えば、○○は小さく笑う。
『けれど、寂しくはありません。七松家の繁栄に繋がるのであれば……、例え、小平太様からの愛が無くとも、七松家での生活は楽しいと思っています』
今は、小平子さんとお出掛け出来ているのですから、尚更……、最後に付け足した言葉を聞いてから、小平子は横目で、自分より背丈の低い○○を見下ろす。
(寂しくない等、嘘をつくな)
許嫁として出迎えられた婿の家にたった一人、名無し家の人間として存在する○○。
いくら可愛い弟妹や穏やかな気質の両親が居たとしても、○○の寂しいという感情を完全に消せはしない。
何故なら、ろくに顔も合わせていない自分が、○○への愛を謳った事など、一度も無いのだから。許嫁としての自信が揺らいでしまう時間も、あるのではないかと。
『小平子さん……?』
自分ばかり話をして、小平子からの相槌が無くなったのを気にした○○が、背丈のある小平子の顔を覗き込もうとすると、ぱちっと視線が合う。
「○○ちゃんは、健気だなぁと思っていた所だ」
『そ、そうでございましょうか…?』
「そうだ。その健気な所は、どうか無くさないで欲しい」
唇が弧を描いて、微笑みを見せれば、○○は、ぽぉっと頬を赤らめる。
自分の性質を率直ながらも褒めて、笑みを見せてくれた――、自分には持っていない性質を抱える小平子を前にして、煌々と目を輝かせていく。
(しまった! これでは、また小平子への好感度が上がってしまい、私ではなく、小平子への好意が募るばかりだ……!)
○○の双眸から放たれる輝きを前にして、自らの言動を思い返した小平子は一人、頭を抱えて、この現況をどうにか打破せねばと思う。
◇
秋の到来を感じさせる田園風景を抜けて、小平子と○○は市中へと訪れた。
先程までの静けさは、町を行き交う人々の喧噪に上書きされ、景色が一変する。
小平子に手を引かれた○○は、薬種を取り扱う問屋の前を通りかかれば、白色の紙に包まれた膏薬が販売されているのを発見。
『小平子さん』
声を掛けると、歩幅を合わせていた小平太の足が止まり、○○を見下ろす。
○○の視線の先は、小平子から、問屋にて販売されている膏薬へと移ろう。
暫しの間、問屋に向かうと言えば、小平子の手から○○は解き放たれていく。
店主に膏薬を購入する旨を伝え、銭を差し出せば、すぐに小平子の元へと帰ってきた。
「膏薬を買ってきて、何に使うつもりだ?」
『手のひらを、わたしの方へ向けて頂いても宜しいですか?』
購入したばかりの白色の紙は、○○の手の中に包み込まれている。
これといった敵意も無く、それと相反する好意を抱いている○○の言葉から、自分に惚れ薬の類いを仕掛けようなど、微塵も感じないと分かれば、右手の手のひらを○○に向けていく。
『小平子さんの手のひら、手荒れや切り傷が酷いものでしたから、少しばかりの手当をと思いまして……ご迷惑でしたか?』
忍術学園にて、小平太が忍術について学んでいると○○は知らない。
外向きの理由として通している、"行儀見習いの為"としか、伝えられていないから。
数々の鍛錬や実習にて負った傷は勿論、得意武器の苦無を用いて、ろくに後処理の行われていない無骨な手に触れて、女性ながらも大きな手だと感じつつも、手荒れや切り傷が残っていると気がついた。
稲刈りの時期が近く、農作業に取り組んだ際に、出来上がったものだと勘違いを起こせば、○○は小平子の手のひらを処置したい衝動に駆られたのだ。
「いや、迷惑じゃない。○○ちゃんが、塗ってくれるのか?」
『は、はい。不肖ながらでは、ございますが』
自分を卑下する物言いをしつつ、○○は膏薬を手にして、小平子の右手の手のひらに触れ、塗り始める。
その手つきは、小平太のような怪力を感じさせず、触れたものを慈しむように、優しさが施されていると。
頬が朱色に染まりつつ、小平子の手のひらに膏薬を塗ろうと顔を伏せている○○を、小平子は、じっと見つめていた。
「優しい子だ」
ぽつりと、言葉が零れ落ちる。
それを聞き取った○○が顔を上げれば、小平子の視界いっぱいに、両頬が完全な朱色に染まり、目を輝かせる○○が映されていく。
「だがしかし、現実は受け止めて貰わねば」
本来の濁声混じりの低音で、男性の声だとはっきりと分かる声色が聞こえてくると、○○は、頬を朱色に染め上げたまま、小さく声をあげると、その場で硬直する。
『きゃっ!』
そして次の瞬間、○○の体がふんわりと浮遊したかと思えば、自分より背丈のある小平子の腕の中へと、包み込まれていた。
『こ、小平子さん……!?』
「喋ると、舌を噛む。今はただ、私の胸の中で大人しくしていて欲しい」
これ以上、小平子への好感度が鰻登りしてはいけない——、自らの正体を明かす時が来たのだと、邪な気持ちを抱きつつ、小平子は○○を抱えて、足を前へと一歩、踏み出す。
「いけいけどんどーんっ!」
○○が話しかける間もなく、小平子は疾風のように駆け出した。
町のざわめきは、瞬く間に遠ざかり、景色は渦を巻くように後ろへと流れていく。
(は、速すぎて……っ!)
向かい風は容赦なく頬を叩き、目を開ける事すら困難。
抱きすくめられているとはいえ、振り落とされるのではと恐怖に駆られ、○○は必死に水玉模様の小袖を握り締める。
「よしっ、ここなら大丈夫だ」
不意に速度が落ち、重く湿った森の空気が肌を包み込む。
○○が、ゆっくりと目を開けると、暗闇に迷い込んだかと真っ先に思う。
『こ、ここは……』
しかし実際は、日の当たらない森林の中へと連れて来られたにすぎない。
木々が陽を遮り、昼間だというのに辺りは仄暗く、土と落ち葉の匂いが鼻を掠める。
蝉の声も絶え、秋の訪れを控える鈴虫は、草花に身を潜め、湿り気を孕んだ涼やかな風が枝葉を鳴らす。
この場に居るのは、小平子と○○のみ。
「すまん、仙蔵。私はやっぱり、まどろっこしい真似をするよりか、こうして大胆に動くのが好みな性分のようだ」
頭上から響いた声は、低く濁った、男の声色。仙蔵とは誰なのかと問うよりも早く、ずいっと小平子の顔が近づいた。
○○は言葉を失い、熱を帯びた吐息が頬を撫で、唇が触れてしまうのではと錯覚してしまう距離だと、心の中で呟くも、それを言葉にして吐き出せない。
『こ、こへ――』
「小平子という女は、この世に存在しない」
耳朶を震わせるような言葉とともに、右手を掴まれる。
手のひらを押し付けられた先は、しなやかな女性らしさとは、無縁の強靭な胸板。固く、温かく、押し返しても、びくともしない。
『お、お胸が……、………?』
「そうだ。私には、女子に備わっているような、たわわな胸は存在しない。これがどういう意味か理解出来るな?」
ぐらりと視界が揺れる。鼓動が耳の奥でやかましく打ち、思考が追いつかない。
無理やり手のひらを押し付けられて、そのような問いかけをされると、いよいよ○○の脳内は混沌を極める。
「私は、七松家に迎えられた名無し ○○の許嫁の七松小平太だっ!!」
目の前にて、自身の胸板に手のひらを当てるように強制する女性——、もとい、整えられていない紺色の長髪に、赤色の口紅が差されているものの、豪胆とした性格を隠すことなく、○○に曝け出したのは、本来の性である七松小平太本人。
「……?」
理解を拒む混乱と、抗えぬ程の衝撃を受けて、顔を伏せた○○だったが、あまりにもその時間が長すぎる。
どうしたものかと体を起こすと、目を伏せて、青ざめた顔色へと変わり果て、意識を無くしていたとようやく気がつき、小平太は目を丸くさせた。
「小平太…、お前、やってくれたな……っ」
それと同時に、背後から五つの気配を察知すれば、○○からそちらへ視線を移す。
小平太の視界を捉えたのは、顳かみに血管を浮き立たせ、自らの考えた策を、これ程までに台無しにしてくれた小平太への怒りを隠さない仙蔵をはじめ、自分と気絶した○○を見下ろす文次郎・長次・留三郎・伊作の四人も揃っていたのだ。
◇
いつの間にか、眠気に襲われていた——、靄のかかったように霞む意識の奥、額にひやりとした感触が遅れて沁みわたり、思わず唾を嚥下する。
『んぅ…、……ッ』
重たい瞼を押し上げると、そこは人気のない森林の中。
相変わらず蝉や鈴虫の気配は察知出来ず、お天道様の黄金色の光も差されていない。
上体を起こそうとして、誰かの膝に身を預けて眠っていたのだと気がつく。
額に置かれた濡れ手拭いが肌に張り付いており、視線は頭上へと導かれていく。
「目を覚ましたか」
小平子さんと、呼びかけそうになるも、喉元で言葉がつかえる。
何故ならば、膝を貸してくれていたのは、紛れもなく七松小平太本人であったから。
『こ、こへ……、……小平太、様……?』
整えられていない紺色の長髪は、元結により、一つに結われ、服装も小袖ではなく、蓬色の上衣に紫色の袴を着用し、草履を履いている。
唇を彩っていた赤の口紅は跡形もなく落とされており、そこに居るのは"彼女"ではなく、凛然たる"彼"であると示して。
「貴女へ見せた数々の無礼、すまなかった」
自分より年上である彼から、真っ直ぐな謝罪の言葉を向けられたのは、醒め切っていなかった意識を鮮明に叩き起す。
『と、とんでもございませんっ! わたしこそ、小平子さんの…事を……っ、……?!』
慌てて身を起こした拍子に、視界が反転し、後方へ倒れ込む。
地面へ頭を打ちつけるかと思われたが、小平太の腕が○○の背を支え、寸前で受け止められ、事なきを得た。
「意識が戻ったばかりで、いきなり起き上がるなんて真似をすれば、頭に血が上って倒れるに決まっている。自分の体を大切にしろ」
叱責の声は厳しいが、奥底には焦りと気遣いが透けて見えた。
ふと見上げれば、小平太の頭部に小さなたんこぶが浮かんでいるのが、○○の目に映る。
『お怪我をなされたのですか……?』
○○の視線を辿り、自身の頭部に出来上がったばかりのたんこぶに向けられていると分かれば、小平太は口元を緩めていく。
「少しばかし、灸を据えられてなぁ」
○○が、意識を無くしていた間の出来事だ。
小平子として対面した時から、○○が意識を無くすまで、同級生である四人が、小平子と○○の行く末を心配し、息を潜めて、影からこっそりと見守っていた。
市中に赴くまでは良かったが、○○を抱き抱え、人気のない森林へ連れ込む姿を見て、今回の策の発起人である仙蔵は、嫌な予感を察する。
並外れた運動神経を誇る小平太の跡を必死になって追いかけ、そして追いついた時には、自分の胸板に手のひらを押し付け、自分は男だと型破りかつ大胆な暴露の仕方をやってのける小平太と、その事実を聞いて、混沌を極めた末に青ざめ、意識を無くす○○を発見。
——順を追って、自分が男だと明かせばいいと話したが、そのような大胆かつ豪快なやり方をしろとは、一言も言っていない!
忍術学園一、冷静な忍たまと謳われる仙蔵であるが、その時ばかりは、顳かみに血管を浮かび上がらせ、自身の策を小平太が歪曲させて、許嫁の○○を気絶させてしまう結末など、想像していなかった。
その怒りが表出した結果、小平太の頭部に、真新しいたんこぶが出来上がった訳である。
『……あの、小平太様』
「ん?」
声を掛けた途端、○○に向けられる視線には、不思議と拒絶の色はなく、小平子と通じるものがある。
許嫁となって日も浅く、忍術学園で過ごす時間の多い彼と、こうして差し向かいで言葉を交わせる機会は皆無に等しかった。
だからこそ、○○の胸は緊張に締め付けられ、喉奥から絞り出した声は頼りなさげに震える。
『その……小平子さんは、小平太様が女装をなされた姿……という事で、宜しいのですか?』
「あぁ」
『それは……、小平太様に、そのようなご趣味があるからと解釈して良いのでしょうか?』
「違う!」
即座に強く否定する声音に、○○の肩が、ぴくりと震える。
誤解を正そうと、小平太は花売りのアルバイトの詳細について語り始める。
後輩のきり丸のアルバイトの手伝いとして、花畑でササユリを摘み、市中で売ると告げられた際、見目麗しい娘の姿であれば売れ行きが良いと教えられ、その為に女装をしたのだと。
「私の女装は、可愛い妹に通じているものがあるから、完璧であるとは思っている。しかし、同級生からは不評でな……」
さり気なく、女装に対しての妙な自信と誇らしげを恥ずかしげもなく晒しては、他の六年生の面々から不満を買っていると伝える。
それに対して、忍術学園での小平太の生活ぶりを把握していない○○は、突っ込みを入れる事はない。
『わたしも、小平太様の女装は完璧だと思っております』
突っ込みを入れる所か、○○の口から放たれた遠慮がちな言葉は、嘘いつわりないものだった。
踏み潰されたササユリの代わりを差し出す優しさを施し、こうして女装した姿で自分と出掛ける時間を与えてくれた小平子を、○○は女性だと信じ切り、否定する余地など、どこにも存在しない。
「○○の心は、あの時のササユリのように、気高く上品で、健気だ。そして、わたしの手の状態を気にして、処置を施す優しさを持ち合わせている」
かつて小平子として向けられたものと寸分違わない言葉達が、○○に改めて向けられた。
目の前の許嫁と、心を寄せた小平子が同一人物であると、否応なく示されると、彼自身の素の想いが紡がれていたのだと理解する。
そうと分かれば、○○の頬はぶわっと熱に包まれ、心臓は打ち破らんばかりに跳ね上がる。
小平太と視線を合わせている事が耐え難くなり、反射的に顔を逸らした。
「今日はこのまま、実家へ帰省する予定だ」
にいっと口角を吊り上げ、豪快に笑うでもなく、どこか安心させるようで、柔らかい弧を描いて言い放つ。
その声音に導かれて、○○の視線は自然と小平太の方へ向けば、深く澄んだ瞳と正面から交わる。
「健気な所は、いじらしいと思う。だが、寂しさを抱えて過ごさせるなんて、私自身が許せない」
低く響く声は、誓いを含んで胸の奥に染み渡る。
膝元に預けられていた○○の頭へ大きな掌が添えられ、指先が頬へと滑り、温かな掌がそっと肌を撫でた。
忍術学園では、有り余る体力に並外れた運動神経と怪力を持ち合わせ、時として畏怖の対象として恐れられる小平太だが、○○の前にいるのは豪放磊落な六年生ではなく、ひとりの許嫁としての彼である。
「○○とは、笑顔が絶えず、仲睦まじい家族に成りたいと思っている。だから、寂しいと思った時は、口に出して私に言ってくれ。私が○○の傍に居られる時は、片時も離れず、より良い関係を築きたい」
言葉と共に、頬を包む手が流れるように移動すれば、今度は○○の唇に触れる。
柔らかく弾力を帯びた感触が、指先に、ふにふにと伝わる。
あまりにも親密すぎる仕草に○○は息を詰め、頬は瞬く間に、朱に染まっていく。
(愛おしい……、○○を見ていると、何故だかそのような感情が湧いてくる……これが、長次が私に向けて言った、恋心を抱いているという意味なのか……?)
豪胆に笑うでも、力強く抱きすくめるでもなく、ただ穏やかに、慈しむように○○を見つめていた。
やがて、唇に残った熱を確かめるかのように、その手が○○の元から離れていけば、指先に宿る感触をより深く味わおうと、小平太は自身の指先に口付けをする。
(小平子の姿を通して、より近くで、○○の人となりを知れたからこそ、その感情を抱けたのかもしれない)
はじめは、女装した自分ではなく、本来の性である七松小平太と向き合わせるべく、仙蔵の策に乗ったのが事の発端。
しかし、小平子の姿を通して、許嫁として日が浅く、面と向かって接する機会の少なかった○○の気高さ・上品さ・健気さ・優しさを知れたのだと思えば案外、悪いものでもなかったのかもしれないと、膝元で頬を朱色に染めたまま、自身を見つめる○○に目線を送り、笑みを浮かべた。
凛然たる彼の素顔と向き合って
――――――――――――
◆名無し ○○
七松家に迎えられたばかりの年下の許嫁。
小平太が忍術について学んでいるとは知らず、面と向かって接した機会も乏しく、親元を離れたばかりで、寂しさを抱えていた。
それでも、七松家の皆(両親、弟妹達)の優しさに触れ、本人なりに楽しく過ごしていた。
小平子に恋愛感情に近い情景を抱いたものの、その正体が女装した許嫁であると明かされ、混沌を極めた結果、気絶。
小平子が見せていた何気ない仕草や反応を、小平太本人も全く同じように見せてくる度に、胸がきゅんっと音を立て、頬が朱色に染まる。
今後は、小平太との距離は少しずつ縮まり、無事に祝言を挙げる未来も存在する。
◆七松 小平太
年下の許嫁が、女装した自分に好意を抱いたのではないかと知り、同室の目の前で号泣した。
仙蔵の策(敢えて、女装した自分と接する機会を作り、時間をかけて、自分の正体を明かす)に乗るも、元来のいけいけどんどん精神が勝り、豪快なやり方で正体を明かし、○○を気絶させてしまい、影から見守っていた六年生から拳骨を喰らう。
小平子として接していた際、○○の性格に触れて、恋心が芽生える。両親や弟妹以外に、守るべきものが増えたと微笑ましく、誇りに思っている。
◆六年生の面々
仙蔵の策に乗り、○○と他出(または、逢い引き)する小平太が突発的な行動を起こさないかと案じ、休みの日に二人の動向を追跡した(普通なら、休み優先する筈だが、六年間の付き合いで情もあり、放っておけなかった)。
強引なやり方で、小平子は存在せず、その正体は許嫁である自分と告げた姿を目の当たりにし、○○を気絶させた小平太に拳骨を喰らわせた。
.
七松家に迎えられたばかりの年下の許嫁が、小平子を好きになったと聞いて、同室の七松小平太が号泣している話。
七松 小平太×女夢主(年下)
◆名前変換夢の為、名前変換を推奨。
◆三人称(神の目線)視点で、進みます。
◆既存キャラの解釈違い(口調や性格)が出てくると思われますので予め、ご了承下さい。
◆七松家の内部の捏造あり。
夢主の簡単な設定
・七松小平太の許嫁。
・忍術学園については、"行儀見習いの学校"だと認識しているものの、忍者の養成機関だとは知らない。
・
週末を迎えた市中では、人の波が色濃く目立っては波打ち、喧噪が途切れない。
それが平時と同じであるかと思いきや、今日ばかり町人達は、ある場所へと視線を集めては、がやがやと声があげていく。
(何かあったのかしら……)
視線の集まる方角を確かめようと歩み寄るのは、市女笠を被り、その縁から垂らした白い虫の垂れ衣で、顔を覆う少女——、名無し ○○。
質素な小袖を纏いながらも、上流階級の人間が用いる市女笠の効果が発揮され、一際異質であり、神秘的な影を纏う。
(あれは……?)
「さぁさぁ、いらっしゃいませ〜! 採れたてほやほやのササユリ、いかがですか〜!」
賑わいの中心へと近づくと、商売上手だと言わんばかりで、快活な調子の声色を○○の耳が拾う。
どうやら、収穫したばかり淡い桃色を基調としたササユリを売り捌いている最中のようで、売り子を務めている少女は、○○よりも年下だ。
少女の脇には、背丈があり、逞しさを備えた三人の女たちが控えている。
それぞれが商品であるササユリを手にしては、少女の真似事のように商売文句を言い放つ。
(凄く綺麗……っ)
はじめは、桃色の花弁が籠一面を埋め尽くしていたが、行き交う町人達の目を惹きつけては、売り捌かれて、姿を消していく。
『可愛い花売りのお嬢さん。わたしも、ササユリを買っても宜しいですか?』
それにまんまと乗せられた○○は、紺色の髪をした町娘の少女の元へ向かう。目線を合わせようと屈めば、市女笠の奥から、声を掛けた。
「はぁい! 毎度、ありがとうございまぁす!」
ぱっと顔を輝かせ、ササユリが一輪、売り捌けたと分かれば——、紺色の髪の毛の少女こと、きり子(または、摂津のきり丸)は、両目に銭の模様を浮かばせつつも、指定された分の数だけ、ササユリを花籠から取り出していく。
『ありがとうございます』
にこりと柔らかな笑みを浮かべ、○○は銭を手のひらに乗せれば、きり子に差し出す。
淡い桃色の花弁を抱えるように受け取ったそれは、最近、許嫁となったばかりの相手の両親、その許嫁の小さな弟妹たちに贈る為の物。
まだ慣れぬ生活の中で受けた優しさに報いたいと選んだ、囁かな心遣い。
『あっ』
群衆の波に背を向けようとした矢先、不意に肩がぶつかり合う。軽い衝撃と同時に、手元のササユリが一輪、ふわりと宙へと舞うと、地面へ落ちる。
それを見つめていた○○だったが、町人の群れに踏まれてしまうと、そこでようやく、はっとして、意識が戻る。
桃色の彩りが無惨に潰れ、細い茎は折れ曲がり、瑞々しい輝きは失われていく。
(どうしましょう…、せっかく、御両親やあの子達への贈り物と思ったのに……)
胸の奥に、鈍い痛みが走る。
ササユリを受け取れず、ひとりだけ仲間外れになってしまう光景を思うと、○○の良心が締め付けられた。
拾おうにも、押し寄せる雑踏に阻まれ、花は遠ざかるばかり。
「大丈夫か?」
ふと、背後から声を掛けられ、○○は肩を震わせる。
いつの間にか自分の背後に、誰かが居たと遅れて思考を巡らせるものの、市女笠の縁から垂れた白布が顔を覆い、声の主の姿はよく見えない。
「花を落としてしまったのだな。ちょっと待っていろ」
低めの、凛とした女の声。けれどもその口調は男のように歯切れよく、頼もしさを帯びていた。
男口調で話す御方なのねと思いつつ、○○は、その言葉に従う。
しばらくして戻ってきた女性の手には、一輪のササユリ。
それも人垣に紛れるように、きり子からは見えない角度で差し出されて。
『これ……』
「細かい事は気にするな。あの小さな売り子に見つかると、面倒だから。ほらっ」
押し付けるようでいて、そこには確かな温もりがあった。
○○が受け取るのを見届けると、彼女はにっと快活な笑みを浮かべ、何事もなかったかのように自分の持ち場へと歩み去る。
(……っ)
その時、どこからか、自分の相手をしてくれた女性を呼ぶ声が、○○の耳に届く。
いそいそと、町人の群れから離れては、群れの中で今もササユリを売り捌く少女達に、視線を送る。
(あの御方…、小平子さんと言うのね)
男口調で、快活な笑みを見せ、落としてしまったササユリの代わりを銭一つ受け取らず、渡してくれた。
整えられていない紺色の長髪を低く結び、水玉模様が施された水色の小袖を着た町娘。
○○よりも背丈があり、どことなく男性のような逞しさを感じさせる風貌。
(素敵な御方……っ)
ぽおっと頬が火照り、胸の鼓動が早まると、自分に優しく接してくれた小平子の姿が頭から離れない。
視線はいつまでも彼女の背を追い続け、群衆の中に姿が消えていくまで、○○は、ただ立ち尽くしていた。
◇
忍術学園に在籍する忍たま、くのたまをはじめ、教員ならば、六年ろ組の七松小平太という忍たまが、どのような人間性をしているのかを嫌でも理解している。
「いけいけどんどーん!」
整えられていない紺色の長髪や、新緑の忍装束には、お決まりの口癖を発しながら、忍術学園の校庭で塹壕掘りに勤しんだせいか、土埃が至る所に付着している始末。
「今日は裏々山まで、学園で開催されるマラソン大会のコース巡回を兼ねた、いけどんマラソンを行う!」
自身が委員長を務める体育委員会では、元来の有り余る体力と並外れた運動神経が、遺憾無く発揮される。
後輩である下級生の体育委員達は、委員長の小平太の背を追いかけるだけで精一杯。
「トスされたら〜、アタックあるのみ!」
同じく六年ろ組に所属し、同室である中在家長次がバレーボールをはじめ、焙烙火矢などの至る物をトスすれば、骨の髄にまで染み込んだ癖により、体が動き出す。
それは、校庭のグラウンドや、学園長である大川平次渦正の庵前であろうと、スパイクを仕掛けて、甚大なる被害を及ぼす。
「細かい事は、気にするな!」
いけいけどんどんに次いで、この忍術学園で聞く機会の多い口癖。
一見、何も気にしていないと思わせる発言であるが、実際は細かい観点をも把握した上で、気にしなくていいと発言しているのではないかと推測されるが、実際の所は不明。
全ては、七松小平太のみぞ知る。
四字熟語で彼の人間性を表わせという課題があるのなら、"豪放磊落"という言葉が最も似合うであろう。
「○○が……っ! 私の許嫁が、小平子の事が好きだと言っているぅ……っっ!!」
そう、この時までは。
歯を食いしばり、目の前にいる同級達の視線から逃れるように閉じられた目尻からは、小さな涙の粒が浮かび、両拳が、ぎゅっと力が込められていく。
紺色の髪の乙女への、桃色の感情の芽生え
事の発端は、実家から届けられた文。
日取りはまちまちだが、父母からの近況を伝える言葉に始まり、目に入れても痛くないほど可愛がる七人の弟妹達からの稚い筆跡に至るまで、内容は賑やかそのもの。
加えてつい先日、許嫁として迎え入れられた○○からの便りまで加わり、小平太の机は色とりどりの文で埋め尽くされていた。
「○○さん……、あぁ。先日、許嫁として小平太の家に迎えられたという御方だね」
六年ろ組の長屋に集められた同級の中で、真っ先に言葉を発したのは、六年は組の善法寺伊作。
右手の人差し指を頬へ軽く当て、記憶を探る仕草に加え、穏やかな声でそう口にする。
「……で、お前は自分じゃなく、小平子が好かれている事実を知って、悲しんでいたという訳か?」
同じく、六年は組の食満留三郎の低く切り込むような問いかけが空気を裂いた瞬間、目尻に涙を浮かべていた小平太の顔つきが、すんと切り替わる。
「いや、別に悲しい訳ではない」
一瞬にして小さな涙の粒が引っ込み、無の表情へと切り替わる感情の移ろいに、同室故に理解のある長次を除き、六年い組の潮江文次郎・立花仙蔵をはじめ、は組の二人も内心、驚愕の意を示す。
「私の女装が、完璧すぎたのがいけない! 私ではなく、女装した私……つまり、小平子を好いてしまったのではないかと!」
その第一声に、仙蔵の眉がぴくりと反応を示したのを、熱弁する小平太は気づきはしない。
先述したように、七人の弟妹を目に入れても痛くないと溺愛している彼は、妹達の愛嬌溢れる可愛さは、女装した自分に通じているものだと豪語している。
補習授業を受けた経験があるにも関わらず、小平太の女装に対しての自己肯定感は常人の域を超えていた。
「有り余る体力が、更に増幅して、クソ力も制御出来ず、長次からトスをされても、バレーボールを破裂させて…、このままでは、自分が自分では無くなってしまう……」
ここ最近、忍術学園での小平太の奇行を思い出した面々は、目の前で繰り広げられる光景を前にして、全てが結びつく。
平時から、有り余る体力を絞り尽くそうと、塹壕掘りをはじめ、裏々山へのランニングに取り組もうなんてなんて朝飯前。
しかし、その有り余る体力が常軌を逸し、体育委員会の活動に支障が出ているのが現況。
「……滝夜叉丸が、私の元へ相談をしに来たおかげで、小平太の異変にそれとなく、目を配る事が出来た」
四年い組の平滝夜叉丸が体育委員会の活動終了後、足の震えで立ち上がる事すらままならず、地面へと仰向けに倒れ込む後輩達を目にすれば、こんな事は今までに無かったと思考。
そして、そこから委員長の異変に気がつけば、頼みの綱である長次に相談。
「許嫁の御方が、小平子の事が好きだというなら、お前がそんなに嘆く必要ないだろ。小平子は実質、お前なんだからよ」
七松小平太と小平子が同一人物であるのなら、自分に好意を抱いているのと変わらないのではないかと、文次郎が至極最もな発言をしようが、小平太は納得のいかない顔を包み隠さず、皆に見せつけた。
「それとこれとは、話が違う!」
それは、許嫁としてだけでなく、一人の男としての矜恃を揺るがすもの。
それを主張するべくと、小平太の声が、六年の忍たま長屋にて響き渡る。
「そもそもの話だ。小平太、お前はいつ、許嫁の御方が、小平子を好きだと知ったのだ」
ここに来てようやく、仙蔵が何故、自分の許嫁が小平子に好意を抱いているのを小平太が周知しているのかという問題に触れた。
「実家から届いた、可愛い弟と妹達からの文を読んでいた時に……、"こへーこさん"という人の名を呼んでは、ぽっと顔を赤くしていると……書かれていた」
自らの行動が、文により筒抜けされている——、それは宛ら、純粋無垢な弟妹達が、兄である小平太に○○の様子を知らせる密告者のよう。
(許嫁の御方の行動全て、小平太の弟妹達に見られてるじゃないか……)
子供ながらも末恐ろしいと、い組・は組の面々が思いつつも、"こへーこさん"と呼ばれる女性の名が文に記されていると分かれば、十中八九、女装した小平太であると確定。
更には、恋する乙女の如く、○○は彼女の名を呼んでいると発覚し、答え合わせは済んだものだ。
「小平子と出会った時に、私の両親や弟妹達への贈り物として買ったササユリを見ては、うっとりとした目を向けている……とも……」
仙蔵・留三郎・伊作の三人は、ササユリの件について知っている筈もない。
対して、文次郎と長次の二人は、先日、自分達が参加した一年は組所属、摂津のきり丸のアルバイトの手伝いをした際の記憶を掘り起こす。
「町人達の中で、一際目立つ市女笠を被っていた少女の相手をしていただろう。その方が、小平太の許嫁の御方であったという訳か」
「しかし、笠の縁から垂れた虫の垂れ衣で、顔を見るまでは出来なかったから、俺も長次も小平太の許嫁の御方が、どのような人だったのかまでは、流石に分からんな」
一際目立つ格好をした少女の姿の特徴などを、つらつらと述べる事は出来ても、虫の垂れ衣によって覆われた○○の顔までは把握出来ておらず、長次と文次郎も息詰まる。
「けれど、このまま、クソ力も制御出来ずに、バレーボールやアヒルさんボートを破壊され、更には学園内の塀まで破壊つくされては俺達、用具委員会の苦労が絶えないんだよ……!」
はじめは、小平太に同情していたものの、痴情のもつれを引き摺り、学園内の至るものを破壊し尽くされたら、用具委員会 委員長を務める留三郎をはじめ、用具委員の膨大な作業量の数々を想像すると、私情ながらも怒りを隠さない。
「そうだね。体育委員の下級生達も、医務室に来る回数も増えているから、このままだと、いつか取り返しのつかない事になりそうだよ」
保健委員会 委員長を務める伊作も、小平太の有り余る体力の増幅により、体育委員の体が悲鳴を上げている事を伝え、眉を下げる。
そんな二人を横目で観察した仙蔵が、「ふむ」と零せば、今度は目の前に座る小平太へと視線を移していく。
「小平太。もう一度、小平子に扮して、許嫁の御方と接触を図ってみるのはどうだ」
◇
昼間の喧噪を超えて、夜間の静けさに身も心を任せて堕落し、心地よい眠りにつきたい小平太だが、枕に顔を埋めては、くぐもった濁声混じりの呻き声を繰り返す。
「それ程までに、お前の中では、気にする部類に含まれる事なのか」
湯浴みを終え、寝間着に着袖を通した長次は、日課の読書に勤しもうと、ここまで無視を貫いていた。
だが、平時に見かける快活な姿からは、似ても似つかない同室の姿を目の当たりにすれば、いよいよ耐えきれず、声を掛けてしまった。
「あぁ…、細かい事を気にしない質の筈だったが、何故だろうなぁ……」
小平太は、布団に転がりながら、頭を掻きむしれば、思考を巡らせていくも、心当たりのあるものへと行き着かない。
かつて、一年は組の黒木庄左ヱ門から、ひっつき虫かの如く、付き纏われた結果、木々に張り付く虫を発見しては、驚きの声を上げるといった細かな点ばかり目が向けられた結果、酷くやつれた苦い経験のある小平太だが、どうもその時とは抱く感情は異なる。
「……小平太、お前がそのような状態に陥っている原因は、それとなくだが、思い当たる節は見つかった」
「ほ、本当か!」
がばっと上体を跳ね起こし、読書に勤しもうと机と向き合っていた長次の元へと、小平太が四つん這いで躙り寄る。
「お前が、許嫁の御方に恋心を抱いている。そして、自分ではなく、小平子に恋をしているのではないかと疑ってしまう……そんな平時の自分と異なる性格に矛盾を感じて、苦しんでもいる」
ちらりと様子を窺った長次だが、小平太は至って真顔のままで、はっきりと恋心を抱いているのではと突きつけられても、眉一つ動かさない。
「恋心、か……、いや、私が○○に恋心を抱いてるかと聞かれれば、嘘になってしまう。何せ、出会ったばかりで、ろくに実家にも帰省出来ていないこの状況で、○○の人となりも文を通してしか、知り得ていないのだからな」
その言葉は、他者を欺く為にと作り出されたものではないと、同室だからこそ理解のある長次には、手に取るように分かり、確信した。
「私の両親は、とても仲が良い。私も弟妹達もその背を見てきたからこそ、私と家族になる御方とも、仲睦まじく過ごしたい。家同士の繋がりがあるとは言えど、ただそれだけだ」
それは最早、恋と呼ぶのではないか——、喉元まで出かかった言葉を、何とか引っ込める。
家同士の結び付きの為に、許嫁を迎える事は珍しくない。
中には、自分よりも一回りや二回りも年上の相手と契りを結ばなくてはならない局面に遭う可能性も、なくはない。
(しかし、小平太……許嫁の相手となる御方が、自分より年下であれど、お前はまだ恵まれている方だとは思う)
耳にした噂ではあるものの、契りを交わした末、その後の生活に耐えきれず、自ら命を経った者も居るという。
その点、ほんの少しの年の差である小平太と○○は比較的、まともな方ではと長次が思った時だった——。
「だからこそ、○○には、現実を受け止めて貰わなくてはならない!」
次の瞬間、しんみりとした空気が、一瞬にして破壊された。
小平太が自らの拳を天に向けて、翳している姿が、空気そのものを切り裂こうとしたのかと錯覚してしまう。
相変わらずの感情の切り替えの速さには、長次も慣れっ子であり、突っ込みの言葉を入れはしない。
「小平子という女性は存在せず、それは女装した私であると知ってもらう為にな!」
小平子に扮して、○○との接触を図る。
昼間に受けた仙蔵からの提案を、小平太は飲み込み、実行に移そうと考えていたのだ。
全ては、偶然により起こった奇跡。小平子という女性など存在せず、○○が恋心らしき感情を抱いたのは、許嫁である自分なのだと理解させる為に。
情景を抱く仲睦まじい家族と成るべく、○○とより良い関係を築きたいが為の小平太の我儘。
心を射止めよ七松小平太
七松家の門前にて、待ち人を出迎えるべく、○○は一人、黄金色の光を纏うお天道様の光を一身に受け、夏の湿りを残す風が頬を撫でていくと、これから訪れる秋の訪れを堪能する。
(まさか小平太様が、あの御方とお知り合いだったなんて……)
"あの御方"。
それは以前、雑踏により無残に踏み潰されたササユリを見て、新たな一輪のササユリを自分に差し出してくれた小平子。
(同性ながらも、物怖じせず、豪快で、どこか逞しいと思わせる不思議な御方……っ)
整えられていない紺色の長髪を低く結い、くりくりとした丸い目に、紅を差した唇は子供っぽさを隠し、町娘にしてはどこか凛々しさを纏っている。しかしその正体は、許嫁相手である七松小平太。
同級生からは専ら、化け物と比喩される女装であるものの、○○は出会って間もない事や、市女笠の虫の垂れ衣により、小平太であると認識していなかったのが不幸中の幸い。
(あぁ…。また、頬が熱い……)
だが、それにより、○○は小平子を想えば、まるで恋する乙女のように、頬がぽおっと火照り、ササユリを見つめては、小平子の幻影を追う。
小平子さんとぽつりと呟いた言葉を弟妹達が拾えば、それを拙い字で文に記し、兄である小平太に伝えたのだ。
「○○ちゃん」
その時、またしても気配を察知出来ないあの時の感覚に襲われると、○○は肩を震わせて、小さく声を上げる。
「すまん。驚かせてしまったな」
初対面の際にも聞いた男口調に、濁声混じりで凛とした女性の声が聞こえてくれば、○○は、ぱあっと表情が明るくなる。
それはまるで、開花を迎えて咲き誇る花のよう。
『い、いえっ。わたしの方こそ、驚いてしまい、申し訳ございません……』
目の前に現れた小平子は、あの時のように水玉模様が施された水色の小袖を着用し、赤色の口紅を差している町娘の姿。
作り込まれた女口調ではなく、初対面の際に発してしまった男口調を貫いて、○○に声を掛けたものの、○○は何ら疑いを持たない。
『あ、あの……こ、小平子、さん……』
「ん?」
もじもじと、両手を組んでは指を絡ませる○○を小平子が見下ろす。
頬には、ほんのりと朱が挿されており、○○の体から放出された熱であるのは一目瞭然。
『貴女とお会いできて……、嬉しい限りでございます…っ』
小平子の顔を視界に捉えて、記憶に焼き付けようと、市女笠を身につけてはいない。
それにより、○○の微笑みと朱色の頬が公に晒され——、男である小平太の双眸にも、否が応でも映し出されている。
「そう言われると、私も嬉しい」
にぱっと弾けた笑みを見せる小平子に、○○の胸の鼓動が早まり、きゅんっと締め付けられていく。
(小平子さん…、わたしより年上の御方であるのは、分かってはいたけれど、心の余裕をも見せられる御方なのね……。素敵だわ……っ)
両頬に手を当てれば、熱が直に伝わる。
こうしてまた、小平子と出会う機会を与えてくれた許嫁には感謝をしなければと思う○○。
そして、自身の目の前にて、両頬に手を当て、うっとりとし、恍惚とした顔を見せる許嫁を前にする小平子の心情など、今の○○には知る由もない。
(また、小平子の事が好きだと言っているぅ……っッッ!!)
先日、長次の前で高らかに宣言した言葉は、どこへ消えたのか。
お天道様からの黄金色の光を一身に受けている筈が、その輝きが何処かへ消え去っていく。
○○に自分が女装した七松小平太である現実を突きつける前に、小平子への好意を隠さない現実を目の当たりにして、小平太が精神的に傷を追う羽目となった。
『小平子さんは、小平太様のお知り合いの御方だったのですね』
本来の性である自分の名を出され、背を向けて、歯を食いしばっていた小平子は、はっとしてから平常心を装い、○○と向き合う。
「あ、あぁ、そうだ。ちょっとした付き合いでなぁ」
『面と向かって、感謝の言葉を述べられる時間も限られていますが故に……、小平太様が通われている学園へと送る文に、今日という日を迎えさせて下さった感謝をお送りしたいと思いまして……」
両親、弟妹達と共に送られる○○からの文に、今日の出来事について綴ろうと、早々に予定を組み立てる○○を見せられ、小平子のくりくりとした丸い目が、平時よりも更に丸みを帯びていく。
(○○宛ての文の返事に、小平子と知り合いであると共に、小平子を呼び付けて、会わせる事も容易いといった内容をしたためたのは、正解だったな)
仙蔵の策を採用した小平太は、迅速な対応を見せた。
○○宛ての文に、小平子と知り合いであり、彼女が○○に会いたいという旨を綴れば、意図も簡単に○○の心を掴む事に成功。
小平子と○○の双方の都合を小平太が聞き、空き日に二人の他出(または、逢い引き)の予定をこじつけるといった一人芝居を繰り広げている背を、同室の長次は背後から眺めていたが、一切の口出しはしなかった。
「さっ、時間は有限だからな。今日は、たんと楽しもう」
右手を差し伸べた小平子は、まだ幼い弟妹達が見知らぬ場所に迷い込み、逸れないようにと自らが行う癖が、○○の前で表出してしまったと後から気づく。
『て、手をお繋ぎしても、宜しいのですか…?』
その癖を把握していない○○は、自分が小平子と手を繋いでも良いのかと想えば、宙ぶらりんとなる自身の左手をどうしようかと困惑する。
七松小平太として、許嫁である彼女と手を繋いだり、逢い引きを交わした回数が片手に満たない関係ながらも、小平子は、宙ぶらりんとなった左手を強引ながらも掴んだ。
「細かい事は、気にするな」
それは、自分が小平子と手を繋いでも構わないのかという○○の問いの答えと同時に、○○との交流の浅さに臆するなという小平太自身への励ましとも取れた。
七松家の門前を後にする小平子と○○の付近に生えている木々と茂みが小さく、かさかさと揺れると、二人の跡を追いかけるようにして、俊敏な動きで何かが飛び出て、次の瞬間には、姿を消えている。
◇
許嫁である○○の手を取れば、隣を歩く小平子は、彼女の歩幅に合わせるべくと足を前へと進める。
七松家の敷地から離れた道中にて、田んぼの中に植えられた稲穂を見つければ、黄みを帯びており、風に吹かれると、小さな波が出来上がっていく。
空を見上げれば、赤蜻蛉が姿を見せて、小平子と○○の目の前を通り過ぎていく。
「この間、○○ちゃんが買ってくれたササユリを大事にしてくれていると聞いたぞ」
沈黙の中を歩くのは、邪な考えはあれど、せっかくの許嫁との時間を無駄にするものだと、小平子から、ササユリの話題を振った。
『はいっ。あのササユリは、小平太様の御両親と弟妹様達への贈り物として、買わせて頂きました』
○○が何ら変わりなく発言したが、両親と弟妹への贈り物として購入した中に、自分は含まれていないのかと小平子は一人、細かい箇所に目を付けてしまえば、そればかり気にしてしまう。
『あの、小平子さん……』
「どうした?」
『小平子さんは、小平太様とお知り合いであれば、あの御方の人となりを理解なさっておられるのですか?』
小平子にとっては唐突ながらも、○○からしてみれば、許嫁としての立場として考えた末に、問いかけたに過ぎない。
「まぁな」
『……小平子さんが、羨ましい限りでございます』
思わぬ返答を聞き、「へっ?」と素っ頓狂な声が小平子の口から発せられる。
『お恥ずかしながら…、わたしはまだ、七松家に出迎えられて間もなく、小平太様との関わりも少なければ、逢い引きすらまともに交した事がありません。今は通われている学園で勉学に励まれているとお聞きして、小平太様もお忙しい身でございますから……、ですが、弟妹様達や一族の方々から慕われているのは、日々の生活の中で、しかと伝わってくるのです』
言葉の節々から、寂しげな感情が読み取れたものの、忍術学園にて勉学に励む許嫁であり、大した関わりを持っていない小平太を想えば、○○は小さく笑う。
『けれど、寂しくはありません。七松家の繁栄に繋がるのであれば……、例え、小平太様からの愛が無くとも、七松家での生活は楽しいと思っています』
今は、小平子さんとお出掛け出来ているのですから、尚更……、最後に付け足した言葉を聞いてから、小平子は横目で、自分より背丈の低い○○を見下ろす。
(寂しくない等、嘘をつくな)
許嫁として出迎えられた婿の家にたった一人、名無し家の人間として存在する○○。
いくら可愛い弟妹や穏やかな気質の両親が居たとしても、○○の寂しいという感情を完全に消せはしない。
何故なら、ろくに顔も合わせていない自分が、○○への愛を謳った事など、一度も無いのだから。許嫁としての自信が揺らいでしまう時間も、あるのではないかと。
『小平子さん……?』
自分ばかり話をして、小平子からの相槌が無くなったのを気にした○○が、背丈のある小平子の顔を覗き込もうとすると、ぱちっと視線が合う。
「○○ちゃんは、健気だなぁと思っていた所だ」
『そ、そうでございましょうか…?』
「そうだ。その健気な所は、どうか無くさないで欲しい」
唇が弧を描いて、微笑みを見せれば、○○は、ぽぉっと頬を赤らめる。
自分の性質を率直ながらも褒めて、笑みを見せてくれた――、自分には持っていない性質を抱える小平子を前にして、煌々と目を輝かせていく。
(しまった! これでは、また小平子への好感度が上がってしまい、私ではなく、小平子への好意が募るばかりだ……!)
○○の双眸から放たれる輝きを前にして、自らの言動を思い返した小平子は一人、頭を抱えて、この現況をどうにか打破せねばと思う。
◇
秋の到来を感じさせる田園風景を抜けて、小平子と○○は市中へと訪れた。
先程までの静けさは、町を行き交う人々の喧噪に上書きされ、景色が一変する。
小平子に手を引かれた○○は、薬種を取り扱う問屋の前を通りかかれば、白色の紙に包まれた膏薬が販売されているのを発見。
『小平子さん』
声を掛けると、歩幅を合わせていた小平太の足が止まり、○○を見下ろす。
○○の視線の先は、小平子から、問屋にて販売されている膏薬へと移ろう。
暫しの間、問屋に向かうと言えば、小平子の手から○○は解き放たれていく。
店主に膏薬を購入する旨を伝え、銭を差し出せば、すぐに小平子の元へと帰ってきた。
「膏薬を買ってきて、何に使うつもりだ?」
『手のひらを、わたしの方へ向けて頂いても宜しいですか?』
購入したばかりの白色の紙は、○○の手の中に包み込まれている。
これといった敵意も無く、それと相反する好意を抱いている○○の言葉から、自分に惚れ薬の類いを仕掛けようなど、微塵も感じないと分かれば、右手の手のひらを○○に向けていく。
『小平子さんの手のひら、手荒れや切り傷が酷いものでしたから、少しばかりの手当をと思いまして……ご迷惑でしたか?』
忍術学園にて、小平太が忍術について学んでいると○○は知らない。
外向きの理由として通している、"行儀見習いの為"としか、伝えられていないから。
数々の鍛錬や実習にて負った傷は勿論、得意武器の苦無を用いて、ろくに後処理の行われていない無骨な手に触れて、女性ながらも大きな手だと感じつつも、手荒れや切り傷が残っていると気がついた。
稲刈りの時期が近く、農作業に取り組んだ際に、出来上がったものだと勘違いを起こせば、○○は小平子の手のひらを処置したい衝動に駆られたのだ。
「いや、迷惑じゃない。○○ちゃんが、塗ってくれるのか?」
『は、はい。不肖ながらでは、ございますが』
自分を卑下する物言いをしつつ、○○は膏薬を手にして、小平子の右手の手のひらに触れ、塗り始める。
その手つきは、小平太のような怪力を感じさせず、触れたものを慈しむように、優しさが施されていると。
頬が朱色に染まりつつ、小平子の手のひらに膏薬を塗ろうと顔を伏せている○○を、小平子は、じっと見つめていた。
「優しい子だ」
ぽつりと、言葉が零れ落ちる。
それを聞き取った○○が顔を上げれば、小平子の視界いっぱいに、両頬が完全な朱色に染まり、目を輝かせる○○が映されていく。
「だがしかし、現実は受け止めて貰わねば」
本来の濁声混じりの低音で、男性の声だとはっきりと分かる声色が聞こえてくると、○○は、頬を朱色に染め上げたまま、小さく声をあげると、その場で硬直する。
『きゃっ!』
そして次の瞬間、○○の体がふんわりと浮遊したかと思えば、自分より背丈のある小平子の腕の中へと、包み込まれていた。
『こ、小平子さん……!?』
「喋ると、舌を噛む。今はただ、私の胸の中で大人しくしていて欲しい」
これ以上、小平子への好感度が鰻登りしてはいけない——、自らの正体を明かす時が来たのだと、邪な気持ちを抱きつつ、小平子は○○を抱えて、足を前へと一歩、踏み出す。
「いけいけどんどーんっ!」
○○が話しかける間もなく、小平子は疾風のように駆け出した。
町のざわめきは、瞬く間に遠ざかり、景色は渦を巻くように後ろへと流れていく。
(は、速すぎて……っ!)
向かい風は容赦なく頬を叩き、目を開ける事すら困難。
抱きすくめられているとはいえ、振り落とされるのではと恐怖に駆られ、○○は必死に水玉模様の小袖を握り締める。
「よしっ、ここなら大丈夫だ」
不意に速度が落ち、重く湿った森の空気が肌を包み込む。
○○が、ゆっくりと目を開けると、暗闇に迷い込んだかと真っ先に思う。
『こ、ここは……』
しかし実際は、日の当たらない森林の中へと連れて来られたにすぎない。
木々が陽を遮り、昼間だというのに辺りは仄暗く、土と落ち葉の匂いが鼻を掠める。
蝉の声も絶え、秋の訪れを控える鈴虫は、草花に身を潜め、湿り気を孕んだ涼やかな風が枝葉を鳴らす。
この場に居るのは、小平子と○○のみ。
「すまん、仙蔵。私はやっぱり、まどろっこしい真似をするよりか、こうして大胆に動くのが好みな性分のようだ」
頭上から響いた声は、低く濁った、男の声色。仙蔵とは誰なのかと問うよりも早く、ずいっと小平子の顔が近づいた。
○○は言葉を失い、熱を帯びた吐息が頬を撫で、唇が触れてしまうのではと錯覚してしまう距離だと、心の中で呟くも、それを言葉にして吐き出せない。
『こ、こへ――』
「小平子という女は、この世に存在しない」
耳朶を震わせるような言葉とともに、右手を掴まれる。
手のひらを押し付けられた先は、しなやかな女性らしさとは、無縁の強靭な胸板。固く、温かく、押し返しても、びくともしない。
『お、お胸が……、………?』
「そうだ。私には、女子に備わっているような、たわわな胸は存在しない。これがどういう意味か理解出来るな?」
ぐらりと視界が揺れる。鼓動が耳の奥でやかましく打ち、思考が追いつかない。
無理やり手のひらを押し付けられて、そのような問いかけをされると、いよいよ○○の脳内は混沌を極める。
「私は、七松家に迎えられた名無し ○○の許嫁の七松小平太だっ!!」
目の前にて、自身の胸板に手のひらを当てるように強制する女性——、もとい、整えられていない紺色の長髪に、赤色の口紅が差されているものの、豪胆とした性格を隠すことなく、○○に曝け出したのは、本来の性である七松小平太本人。
「……?」
理解を拒む混乱と、抗えぬ程の衝撃を受けて、顔を伏せた○○だったが、あまりにもその時間が長すぎる。
どうしたものかと体を起こすと、目を伏せて、青ざめた顔色へと変わり果て、意識を無くしていたとようやく気がつき、小平太は目を丸くさせた。
「小平太…、お前、やってくれたな……っ」
それと同時に、背後から五つの気配を察知すれば、○○からそちらへ視線を移す。
小平太の視界を捉えたのは、顳かみに血管を浮き立たせ、自らの考えた策を、これ程までに台無しにしてくれた小平太への怒りを隠さない仙蔵をはじめ、自分と気絶した○○を見下ろす文次郎・長次・留三郎・伊作の四人も揃っていたのだ。
◇
いつの間にか、眠気に襲われていた——、靄のかかったように霞む意識の奥、額にひやりとした感触が遅れて沁みわたり、思わず唾を嚥下する。
『んぅ…、……ッ』
重たい瞼を押し上げると、そこは人気のない森林の中。
相変わらず蝉や鈴虫の気配は察知出来ず、お天道様の黄金色の光も差されていない。
上体を起こそうとして、誰かの膝に身を預けて眠っていたのだと気がつく。
額に置かれた濡れ手拭いが肌に張り付いており、視線は頭上へと導かれていく。
「目を覚ましたか」
小平子さんと、呼びかけそうになるも、喉元で言葉がつかえる。
何故ならば、膝を貸してくれていたのは、紛れもなく七松小平太本人であったから。
『こ、こへ……、……小平太、様……?』
整えられていない紺色の長髪は、元結により、一つに結われ、服装も小袖ではなく、蓬色の上衣に紫色の袴を着用し、草履を履いている。
唇を彩っていた赤の口紅は跡形もなく落とされており、そこに居るのは"彼女"ではなく、凛然たる"彼"であると示して。
「貴女へ見せた数々の無礼、すまなかった」
自分より年上である彼から、真っ直ぐな謝罪の言葉を向けられたのは、醒め切っていなかった意識を鮮明に叩き起す。
『と、とんでもございませんっ! わたしこそ、小平子さんの…事を……っ、……?!』
慌てて身を起こした拍子に、視界が反転し、後方へ倒れ込む。
地面へ頭を打ちつけるかと思われたが、小平太の腕が○○の背を支え、寸前で受け止められ、事なきを得た。
「意識が戻ったばかりで、いきなり起き上がるなんて真似をすれば、頭に血が上って倒れるに決まっている。自分の体を大切にしろ」
叱責の声は厳しいが、奥底には焦りと気遣いが透けて見えた。
ふと見上げれば、小平太の頭部に小さなたんこぶが浮かんでいるのが、○○の目に映る。
『お怪我をなされたのですか……?』
○○の視線を辿り、自身の頭部に出来上がったばかりのたんこぶに向けられていると分かれば、小平太は口元を緩めていく。
「少しばかし、灸を据えられてなぁ」
○○が、意識を無くしていた間の出来事だ。
小平子として対面した時から、○○が意識を無くすまで、同級生である四人が、小平子と○○の行く末を心配し、息を潜めて、影からこっそりと見守っていた。
市中に赴くまでは良かったが、○○を抱き抱え、人気のない森林へ連れ込む姿を見て、今回の策の発起人である仙蔵は、嫌な予感を察する。
並外れた運動神経を誇る小平太の跡を必死になって追いかけ、そして追いついた時には、自分の胸板に手のひらを押し付け、自分は男だと型破りかつ大胆な暴露の仕方をやってのける小平太と、その事実を聞いて、混沌を極めた末に青ざめ、意識を無くす○○を発見。
——順を追って、自分が男だと明かせばいいと話したが、そのような大胆かつ豪快なやり方をしろとは、一言も言っていない!
忍術学園一、冷静な忍たまと謳われる仙蔵であるが、その時ばかりは、顳かみに血管を浮かび上がらせ、自身の策を小平太が歪曲させて、許嫁の○○を気絶させてしまう結末など、想像していなかった。
その怒りが表出した結果、小平太の頭部に、真新しいたんこぶが出来上がった訳である。
『……あの、小平太様』
「ん?」
声を掛けた途端、○○に向けられる視線には、不思議と拒絶の色はなく、小平子と通じるものがある。
許嫁となって日も浅く、忍術学園で過ごす時間の多い彼と、こうして差し向かいで言葉を交わせる機会は皆無に等しかった。
だからこそ、○○の胸は緊張に締め付けられ、喉奥から絞り出した声は頼りなさげに震える。
『その……小平子さんは、小平太様が女装をなされた姿……という事で、宜しいのですか?』
「あぁ」
『それは……、小平太様に、そのようなご趣味があるからと解釈して良いのでしょうか?』
「違う!」
即座に強く否定する声音に、○○の肩が、ぴくりと震える。
誤解を正そうと、小平太は花売りのアルバイトの詳細について語り始める。
後輩のきり丸のアルバイトの手伝いとして、花畑でササユリを摘み、市中で売ると告げられた際、見目麗しい娘の姿であれば売れ行きが良いと教えられ、その為に女装をしたのだと。
「私の女装は、可愛い妹に通じているものがあるから、完璧であるとは思っている。しかし、同級生からは不評でな……」
さり気なく、女装に対しての妙な自信と誇らしげを恥ずかしげもなく晒しては、他の六年生の面々から不満を買っていると伝える。
それに対して、忍術学園での小平太の生活ぶりを把握していない○○は、突っ込みを入れる事はない。
『わたしも、小平太様の女装は完璧だと思っております』
突っ込みを入れる所か、○○の口から放たれた遠慮がちな言葉は、嘘いつわりないものだった。
踏み潰されたササユリの代わりを差し出す優しさを施し、こうして女装した姿で自分と出掛ける時間を与えてくれた小平子を、○○は女性だと信じ切り、否定する余地など、どこにも存在しない。
「○○の心は、あの時のササユリのように、気高く上品で、健気だ。そして、わたしの手の状態を気にして、処置を施す優しさを持ち合わせている」
かつて小平子として向けられたものと寸分違わない言葉達が、○○に改めて向けられた。
目の前の許嫁と、心を寄せた小平子が同一人物であると、否応なく示されると、彼自身の素の想いが紡がれていたのだと理解する。
そうと分かれば、○○の頬はぶわっと熱に包まれ、心臓は打ち破らんばかりに跳ね上がる。
小平太と視線を合わせている事が耐え難くなり、反射的に顔を逸らした。
「今日はこのまま、実家へ帰省する予定だ」
にいっと口角を吊り上げ、豪快に笑うでもなく、どこか安心させるようで、柔らかい弧を描いて言い放つ。
その声音に導かれて、○○の視線は自然と小平太の方へ向けば、深く澄んだ瞳と正面から交わる。
「健気な所は、いじらしいと思う。だが、寂しさを抱えて過ごさせるなんて、私自身が許せない」
低く響く声は、誓いを含んで胸の奥に染み渡る。
膝元に預けられていた○○の頭へ大きな掌が添えられ、指先が頬へと滑り、温かな掌がそっと肌を撫でた。
忍術学園では、有り余る体力に並外れた運動神経と怪力を持ち合わせ、時として畏怖の対象として恐れられる小平太だが、○○の前にいるのは豪放磊落な六年生ではなく、ひとりの許嫁としての彼である。
「○○とは、笑顔が絶えず、仲睦まじい家族に成りたいと思っている。だから、寂しいと思った時は、口に出して私に言ってくれ。私が○○の傍に居られる時は、片時も離れず、より良い関係を築きたい」
言葉と共に、頬を包む手が流れるように移動すれば、今度は○○の唇に触れる。
柔らかく弾力を帯びた感触が、指先に、ふにふにと伝わる。
あまりにも親密すぎる仕草に○○は息を詰め、頬は瞬く間に、朱に染まっていく。
(愛おしい……、○○を見ていると、何故だかそのような感情が湧いてくる……これが、長次が私に向けて言った、恋心を抱いているという意味なのか……?)
豪胆に笑うでも、力強く抱きすくめるでもなく、ただ穏やかに、慈しむように○○を見つめていた。
やがて、唇に残った熱を確かめるかのように、その手が○○の元から離れていけば、指先に宿る感触をより深く味わおうと、小平太は自身の指先に口付けをする。
(小平子の姿を通して、より近くで、○○の人となりを知れたからこそ、その感情を抱けたのかもしれない)
はじめは、女装した自分ではなく、本来の性である七松小平太と向き合わせるべく、仙蔵の策に乗ったのが事の発端。
しかし、小平子の姿を通して、許嫁として日が浅く、面と向かって接する機会の少なかった○○の気高さ・上品さ・健気さ・優しさを知れたのだと思えば案外、悪いものでもなかったのかもしれないと、膝元で頬を朱色に染めたまま、自身を見つめる○○に目線を送り、笑みを浮かべた。
凛然たる彼の素顔と向き合って
――――――――――――
◆名無し ○○
七松家に迎えられたばかりの年下の許嫁。
小平太が忍術について学んでいるとは知らず、面と向かって接した機会も乏しく、親元を離れたばかりで、寂しさを抱えていた。
それでも、七松家の皆(両親、弟妹達)の優しさに触れ、本人なりに楽しく過ごしていた。
小平子に恋愛感情に近い情景を抱いたものの、その正体が女装した許嫁であると明かされ、混沌を極めた結果、気絶。
小平子が見せていた何気ない仕草や反応を、小平太本人も全く同じように見せてくる度に、胸がきゅんっと音を立て、頬が朱色に染まる。
今後は、小平太との距離は少しずつ縮まり、無事に祝言を挙げる未来も存在する。
◆七松 小平太
年下の許嫁が、女装した自分に好意を抱いたのではないかと知り、同室の目の前で号泣した。
仙蔵の策(敢えて、女装した自分と接する機会を作り、時間をかけて、自分の正体を明かす)に乗るも、元来のいけいけどんどん精神が勝り、豪快なやり方で正体を明かし、○○を気絶させてしまい、影から見守っていた六年生から拳骨を喰らう。
小平子として接していた際、○○の性格に触れて、恋心が芽生える。両親や弟妹以外に、守るべきものが増えたと微笑ましく、誇りに思っている。
◆六年生の面々
仙蔵の策に乗り、○○と他出(または、逢い引き)する小平太が突発的な行動を起こさないかと案じ、休みの日に二人の動向を追跡した(普通なら、休み優先する筈だが、六年間の付き合いで情もあり、放っておけなかった)。
強引なやり方で、小平子は存在せず、その正体は許嫁である自分と告げた姿を目の当たりにし、○○を気絶させた小平太に拳骨を喰らわせた。
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