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猫と春。⑤

「春田、もうすぐバレンタインデーだな……」
「そうっすね……」
 齢五十にして恋愛に迷走している武川営業部長は、毎年この時期になると燃えている。十五日になれば燃え尽きて灰になっているまでがお決まりのパターンだ。
 営業部長印が必要な書類をとりあえず武川の前に置きつつ、春田が気にするのはコピー機前に佇む和泉のこと。過去の販売促進データのプリントアウトを頼んでいる。
「牧から返事が来てな、お帰りなさいパーティーはやらなくていいって話だったんだが、十四日に食事ならOKって言ってくれてな…………ふふふ」
 牧と武川がかつて、恋愛関係にあった話は春田も知っている。別れた後、牧は過去のものとしてすっぱり割り切ってしまっているのに、武川はまだ拗らせていた。仕事も出来るし夜の営みでもすごいところにドハマりして沼から抜け出せない様子だ。
 同じ男として牧と付き合っていた身としては、自分もこうなる可能性があったのかもしれないと春田は少しぞっとする。
「その時に牧に告白するつもりだ……俺にはたった一人しかいないと……」
「――春田さんっ」
 武川の告白チャレンジプランを遮って、コピー機の方から和泉が呼ぶ声がした。
「すみません、ハンコ押しといてください」
 確実に武川の妄想話は長そうなので、春田は和泉の方へとつま先を向ける。
 行ってみると和泉が長躯を屈ませて、給紙トレイに手を突っ込んでる体勢でいた。コピー用紙が詰まってしまったようだ。
 和泉が屈んでいる傍らに、春田も屈み込む。
「無理に引っ張ったら故障するんで、おれが取りますよ」
 給紙トレイを見るとちょうど補充の後だったか、いっぱいに入っていたコピー用紙が重なって上手く排出されなかったようだ。詰め込みすぎるとたまに起きる。
 和泉が手を退けた後を引き継いで、詰まった用紙をそっと引っ張り出した。犠牲になったのが一枚で良かった。どうしようもないシワがついてしまったのでメモ紙にでもしようと折りたたんでおく。
 印刷を再開させてみて、エラーも起きなかったので修理業者を呼ばなくて済む。
「大丈夫っすよ、和泉さん。ほら……」
 動作確認して振り返ると、案外近くに和泉は立っていた。視界に飛び込んでくるのは鼻筋だったり、薄めの唇だったり――抱きしめられたことが不意に思い出されて、顔が熱くなる。
 そういえばさっき、屈んだ時に肩や手も触れたかも知れない……。
「あ、ありがとうございます、春田さん」
「いえ……」
 やわらかく細められた双眸が向けられてきた。知ってしまった熱の色が灯っている。
 抑えているドキドキが鳴りそうで、折りたたんだコピー用紙を持った手をネクタイの上から胸に押し付けた。目は離せないままなのに、どう言い繕ってこの場から離れよう――。
「――春田さーん、外線一番にM電工さん!」
「! はいっ」
 電気工事業者からの電話が良いタイミングすぎて、むしろ有難かった。あからさまにほっとしすぎたとは思うが、この場から離れる理由にはなるから。
「じゃあ和泉さん、印刷終わったら年度ごとに仕分けお願いします」
「はい」
 心細そうなまなざしも見なかったふりをした。駆け出してしまったら、心は絶対に止まれない――そんな経験もしてきたから、頑張って踏み止まっている。



 暗がりにうごうごと、影がうろついている。街灯は明るいけれど夜の闇は深い。
 アパートの玄関先にいつもはじっと座っている黒猫が珍しく、右に左にステップを踏んでいるように見える。
「ただいま」
 春田が声をかけると、黒猫はいきなり「シャー!」と威嚇してきた。背中もぐっと丸めて、近づくなとばかりに玄関先に踏ん張っている。
 部屋の借主、おれなんだけど。ドアに近づこうとすれば黒猫に邪魔される。
 そのステップの踏み方は動画サイトなどで時々見る、猫の『やんのかステップ』のようだ。
「にゃー! にゃー!」
「何なんだよ、寒いから入れてほしいんだけどー」
「にゃあああ!」
 夜の底冷えで猫の方が寒いだろうに、なんて頑固な。小さく肩を竦める春田の背後から、和泉がやってきた。和泉は駅近くのドラッグストアに立ち寄ると言っていたので、春田は先に帰ってきていた。
「どうかしたんですか?」
 普段とは違った黒猫の様子に和泉も目をまるくする。好きな男が帰ってきても、黒猫は「やんのか」と玄関の守護神をやめようとしない。
「入れてもらえないんすよ……」
 春田は苦笑いするしかなかった。だが、和泉は黒猫に目を向けて、春田の部屋の玄関周りを見渡す。ドアのポストに挟まっている何かを見つけ、引き抜いた。
「――春田さん、これ、大家さんからみたいです」
 白いコピー用紙に通知と印刷されている。黒猫が遊びに来ているのがついにバレてしまったのだろうか……それなら、退去通告……?
 街灯の下、恐る恐る開いてみたそれには、春田さんへと走り書きしてあった。
「春田さんの部屋で漏電している可能性があったので、業者さんに立ち入り検査をしてもらいました。異常はありません。コンセント周りにものは置かず、まめに掃除してください……?」
「業者が入ったということですか」
「築二十年っすけど、ガタきてるとこもあるから……。でも、漏電とかしてる感じなかったけど」
 素人目にはわからなくても、電気のプロが見ればわかるものだ。事前に連絡がなかったのは緊急だったからかも知れない。大家が点検が必要と判断したなら従うまで。
「にゃああっ!」
 黒猫も知らない人間のにおいに警戒しているだけだろうと春田は軽く考えて、ドアにカギを差す。カギを抜く間際に静電気がぱちっと来た。開錠したドアを開けると、
「いってっ!」
「なあああん!」
 背負っていたリュックを伝って登ってきた黒猫から、後頭部にパンチを喰らう。業者が部屋に入ったくらいでそんなに怒らなくてもいいのに――。
「…………春田さん、部屋に入るのは待ってください」
 大家からのお知らせにもう一度目を通していた和泉が、やけに深刻そうな声音でストップをかけてきた。
「にゃ!」
「ああ……おかしい。普通、業者が点検に来るなら事前通知はあるし、点検済の連絡を大家づてにするもんか……? せめて、社名と点検者名を書いた報告書の写しを置いていくだろ……」
 街灯が照らす男は、見たことのない表情をしている。ドアが開けられた状態でまだ照明の点いていない春田の部屋と、黒猫とを交互に見て和泉は唇を引き結ぶ。
「春田さん、部屋の中、調べてもいいですか」
「え」
 いつものどこかぽやっとした雰囲気は和泉から消え去っていた。黒猫は春田のリュックから降り、和泉の足元へと駆け寄る。
「にゃあ」
「……おまえ、わかるか?」
「にゃんっ!」
 何かをまかせろと、黒猫は和泉に向けて胸を張る仕種を見せた。和泉は和泉で通勤用カバンの奥底を探り、細長い棒状のものを取り出す。
「えっ、和泉さん? 何するんすか……」
 和泉と黒猫が何をするつもりか予想がつかない。別の意味でドキドキしてくる。
「……点検していった業社、偽物かもしれません」
 電気工事業者を装った犯罪者もいる。それらは言葉巧みに室内へと入り込み、窃盗や強姦、傷害、最悪なら命も奪っていく。
「大家さんが立ち会ったなら、盗みの可能性は低いとは思いますが」
 安全確認をさせてほしい。和泉は春田が知らない目つきで、小さく頭を下げた。
 いつも気力のなさそうな眸が強く、鋭く光っている。こちらに有無を言わせない迫力さえみなぎる雰囲気に、春田はこくりと頷いてしまう。
「ありがとうございます。部屋の間取りは、私の部屋と同じですよね」
「多分、同じっす。おれは何すればいいですか」
「春田さんはこちらで待っていてください。できれば、物音は立てないように」
 そう言うと和泉はコートと上着を脱いで春田に預け、ワイシャツの袖を肘まで捲る。
「にゃ」
 黒猫も鳴き声のボリュームを聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりまで潜める。
 和泉が手にした棒状のものは工具のドライバーだった。春田の部屋に入った和泉はまず玄関の照明を点け、玄関内の壁にある分電盤の外側カバーを外しにかかる。
 カバーが外されてスイッチや配線が剝き出しにされると、黒猫が和泉の肩に飛び乗り、ブレーカーに鼻を近づける。
(……警察け……猫?)
 においを頼りに捜査するのは警察犬ではなかったか。猫も嗅覚は鋭いので警察犬の真似事は出来るだろうが、訓練に参加してくれるかどうか。
 様子を見ていると、和泉は剥き出しになった配線の隙間にドライバーの先を突っ込んでいる。手は動かしても口は閉ざしたまま、時折冷たい空気中に白く吐息が溶けゆくのみ。
「…………」
 梃子のようにドライバーの持ち手を押し下げ、左手の指で配線の間から何かを引っ張り出す。それは手の中に握り込めばすっかり隠れてしまう、小さな白いプラスチックめいた箱に、細く短いコードが数本生えたようなもの。
 和泉は取り出した小箱状のものもドライバーでこじ開け、爪の大きさにも満たないボタン電池を抜き出した。
「にゃー……」
 黒猫が和泉の手の上の物体のにおいを嗅ぎ、頷く。わずかに肩を落とした和泉がそれを持ったまま玄関から出てきて、後ろ手にドアを閉めた。
「和泉さん……それ、何だったんすか」
 何故か険しい顔つきの和泉に、春田はこわごわとしながら問う。
 和泉は大きく息を吐いて眉間を絞り、分電盤に隠されていたものをぎゅっと握りしめた。
「…………盗聴器、です」

 それは春田にとっては信じがたい、とても自分自身とは縁がなさそうなものの名前だった。
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