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猫と春。⑤

 和泉と黒猫は、数十分前に春田の部屋を訪ねていた。
 呼び鈴を何度押しても春田が出てこないので、和泉は春田が外出していると考えて出直そうとしたのだが、黒猫が玄関前から動かなかった。
 和泉が幾度か声をかけても黒猫は春田の部屋の前に留まり、とうとうドアを引っ掻き始めたので、ドアノブを回してみたらカギはかかっていなかった。
「ドアを開けたら猫が入ってしまったので……勝手に上がってしまって、すみません」
 そして黒猫を外へ出すべく春田の部屋に入ってみたら、リビングで横たわっているのを見つけて驚いたと和泉が話してくれた。
 玄関のカギを開けたままで呼び鈴を押しても返答がなければ、何かあったと思う方が自然だ。一人暮らしだから特に、在宅時だろうが最寄りのコンビニエンスストアに行くにしても施錠は欠かせない。
 牧とのことでいっぱいになってしまい、帰ってきてカギを閉めるのをすっかり忘れて、泣いて寝てしまっていた。
「心配かけてすみません……。おまえも、ありがとな」
「にゃん!」
 春田は和泉と黒猫に心配をかけたことを詫びた。気を良くした猫は、インテリアショップの大きな袋へと突進していく。中には黒猫用にと買った円形のクッションが入っている。
 目ざといというか、ちゃっかりしているというか。袋からイチゴの刺繡が入ったクッションを引っ張り出して、早速その上にまるくなった。
「和泉さんも、ホントにありがと……」
「――……」
 耳元に重いため息が聞こえた。一度緩んだ和泉の腕や手がまた、肩と背中に絡む。
 黒いニットの胸元に光る銀色のチェーンと、その下深くから聞こえる鼓動の音。和泉の血液が外に出ず、ちゃんと身体の内側をめぐっていることに春田は安心した。
 母親から無条件に抱きしめられるような絶対的な安らぎではないけれど、自分とは別の体温がもたらしてくれる安心感。それは誰にでも感じられるものではなくて、信じられるひとの手から与えられるからこその……。
(…………?)
 ――胸のずっと奥で、音が鳴った気がした。鼓動とは別の、あたたかい響きが聞こえたような。
 和泉には先日もオフィスビルの屋上で抱きしめられていた。牧との恋を吐露したあの時。
 武川の口から牧の帰国を聞かされて動揺していたとはいえ、よく考えてみたら誰にも明かしていなかった恋の終わりをどうして和泉に話してしまったんだろう――そんな話、牧と直接繋がりもない和泉に話しても困らせるだけなのに、和泉は黙って聞いてくれて、泣き顔が見えないように壁にもなってくれていた。
 広い背中に自然と回していた指先に熱が灯る。黒のニットに埋もれる背骨のラインをそっと指でたどると、同じことをし返されてくすぐったい。
「……和泉、さん」
 春田は、厚みのある和泉の胸に寄せていた顔を上げる。身体の奥での反応がそれならば、まかせていいのか離れた方がいいのか、ひとりでは決めあぐねるところ。ようやく気持ちの整理がついたばかりで、触れ合いたいと感じるなんてふしだらに思えてしまうけれど。
 和泉の顔も伏せられていた肩口からこちらに向けられた。前髪に隠れ気味の、くろい眸に射抜かれる。
 少し薄めの唇がわずかに開いたのを、春田は見逃さなかった。和泉と、キスしたい――そんな欲が立ってしまったから。
 自分から誘うように、春田は和泉の頬に右手のひらを当てる。お互いにわずかな吐息すら唇の表面に感じる距離まで近づき、顔を少し傾けたところで――和泉が止まった。
「…………す、すみません……私、春田さんになんてことを」
 雰囲気に流されてとんでもないことに及ぼうとした。顔を真っ赤にした和泉は、春田から慌てて距離を取る。
「あっ……いや、おれだって…………キス、したくなっちゃったし!」
 和泉ばかり悪者にしてはいけない。抱きしめられてそういう雰囲気になって、キスを求めたのはむしろ自分の方。ドキドキする胸はちょっと無視して、春田はフォローを入れる。
 しかし和泉は首を横に振って、口を右手で覆う。
「……ニンニクを食べていたのを、失念していました……!」
「……え」
 そんなことで、と春田は思ったが、ニンニクを食べた後なら自分も遠慮するかも知れない。昼に焼肉やニンニクたっぷりの餃子を食べていたら結果は違ったろう。人間たちが騒いでいるこの時にも、黒猫は動じもせずのんびり寝ている。
「実は、師匠のお宅に料理を習いに行っていたんです。春田さんが、鶏の唐揚げが好きだと聞いていたので……」
 春田が牧との決着をつけに出かけていた頃、和泉は料理を習いにスーパー家政夫さんの住まいを訪ねていたという。
 鶏の唐揚げをつくる過程で、鶏肉への下味としてニンニクを使っており、完成品を試食もしていた。
「春田さんに食べてもらおうと思って伺ったんですが、応答が無かったので……」
 それからの顛末が今。唐揚げの下味なので量も多くは入れていないはずなのに、においを気にした和泉に春田は少しときめいてしまった。
「……おれのために、唐揚げのつくり方習ってきたんすか?」
 毎朝おむすびに苦戦しているのに、和泉が別の料理にも挑戦している。それだけでも嬉しいのにキスの気遣いまでしてくれて。
「春田さんからもらってばかりでは、いけませんから」
「そんなことないっすよ。和泉さん、めちゃ優しいし……おれだって助かってます」
 和泉が荒れていた心のうちを聞いてくれたから、進むことが出来た。和泉が長年の知り合いではないからこそ、変化へのきっかけを見つけられたと春田は思う。むにゃむにゃしている黒猫も、気持ちに変化をくれた大切な友だちだ。
 だが、夕方の濃い影が和泉の目元を隠してしまう。
「…………優しいなんて、過大評価です」
 近づけたと思えたところに、境界線を引かれた。もう近づいてきてはいけない、優しい手でやんわりと拒絶される。
 土足で踏み込んではいけない、見えない胸の奥底に和泉が何か隠しているのはうっすらとわかっていても、『他人』の自分なんかが暴いてはだめだ。
 傾きつつある意識に、我慢を言い聞かせる。ドキドキ鳴る鼓動も抑えて。
「唐揚げ、揚げたてとはいきませんが、持ってきたので食べてください。アレンジのメモも師匠からいただいてます」
「! ありがとうございます」
 お互いに何もなかったかのように、夕食の時も普段と同じく他愛のない話で笑い合った。
 間に入りたそうにして見つめてくる黒猫を膝に乗せたりして、いつも通り。

「にゃあ」
 黒猫を見送る時間になった玄関先。食べて寝て満足したらさっさと帰る素っ気なさ具合なのに、今夜は振り向いて挨拶までしてくるなんて。
「おやすみ」
 春田は笑っておやすみを告げる。しかし黒猫は背を向けず、じっと見上げてくる。
 何か言いたいことはありそうでも、猫のことばはわからないのだ。冬の夜風にそよぐ銀色のひげ。春田はよっこらしょと身を屈めて、猫と視線を合わせる。
「なんだよ、今日は帰りたくないって感じ?」
 今日に限らず時々泊まっていくくせに。帰る場所があっても還りたくないなんて、思春期の中高生か。黒猫が何歳かは知らないけれど、人間換算ならそのくらいのお年頃だろうか。
「……」
 金色の双月が一瞬、完全に閉じた。半開きにされた月が近づいて、春田の鼻先をすんすんと嗅ぐ。そして、ぺろりとピンク色の舌で春田のぽってりした唇を舐めた。
 傍に寄ってきて触らせてはくれても、ここまでのスキンシップを取ってくるのは初めてだ。
 おやすみのキスにしてはざらざらしていた。春田は思わず黒猫を抱き上げて、その鼻先に軽くキスをした。
「ふぎゃっ」
「は~? そっちからキスしたくせに、嫌がんの~」
 嫌そうに顔を背けた黒猫は、春田の手から逃れて着地する。今度は振り向きもせずかえってしまった。
(……もしかしてあいつ、おれが和泉さんとキスしようとしたから、嫉妬したとか?)
 黒猫は最初から和泉にわかりやすく好意を向けているので、そういう雰囲気になったからとキスをしようなんて許せないだろう。未遂に終わったから目を瞑ってほしいし、そもそも先にキスしたのは意識朦朧だった和泉だったわけで。
(意識したのも、ついさっきなんだけど……)
 黒猫も帰ってしまった宵闇の隣、和泉がいる部屋に自然と目が行く。
 抱きしめられた体温と腕の力強さ、指にはたどった背の感触が残る。
 どうしてまた、同じ男性である和泉に惹かれるのか、理由がわからない。
 触ったり抱きしめたりするにもきっと女性の方が心地いい。恋愛対象は元々女性だし、牧と付き合う前は女性としかそういうことはしていなかった。見た目の可愛さやエロさに引っ張られて、相手の性格がどうとか全然考えていなかった若い時分もあった。
 クッションに牧の残り香を探したり、和泉からもたらされた体温を思い返すように、相手に強く気持ちを寄せることなんてしなかった。
 本気で恋をしたり、誰かを愛することを覚えたのはやはり牧の存在だったり、恋愛とは違った愛情の在り方を教わったからだ。
 抱きしめたくなったり、触れたくなることに理由があるなら、それは少なからず相手を好ましく感じているからだろう。
「……和泉さん、おやすみ」
 ドアの向こうにいて姿の見えない相手に、春田は囁いた。
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