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猫と春。④

「和泉さん、おれ、牧に会ってきます」
 春田がそう言いだしたのは月末の棚卸も済んだ、二月の初めの昼休み。
 オフィスビルの屋上で、牧凌太とのことを明かしてくれた日から一週間以上経っている。淋しさが浮かんでいた眸は、すっかりいつもの明るくて優しい春田創一の眸に戻っていた。
「……それは、私に報告しなくても良いのでは」
 プライベートなのだから報告してくれなくてもいい。春田と牧凌太、二人だけの問題だから、第三者にも引っかからない自分に言うことなのかと和泉は小首を傾げた。
 すると春田が少しむくれた顔をしてみせる。見覚えのある表情だ。
「和泉さんにしかあの話してないし、一応っすよ、一応!」
「にゃー」
 春田の傍らでキャットフードを食んでいた黒猫が顔を上げて、金色の三日月を向けてくる。
 その視線にどんな意味が込められているかはわからないでも、多分好意は含まれているだろう。
「……ほら、牧とは電話で別れ話しただけで、面と向かってバイバイしたわけじゃないから。牧の顔見て、ちゃんとお別れしたいなーって」
「…………」
 そういった類のことも、別に言わなくてもいいのに。春田が自分の意思で決めたことだし、牧凌太という人物については春田から聞いた以上の情報もない。
 春田がきちんと別れを告げに行ったとして、それからどうしたいかも春田と牧凌太にしか決められないことだ。
「で、その時にあのクッション持ってくつもりです。牧のもおれのも」
「んにゃっ?」
 クッションの話で黒猫が反応した。春田の部屋にある、牧凌太と恋仲になって最初の思い出の品である、色違いのお揃いの柄のクッション。猫が春田の部屋で寝床にしているが、手放してしまうのか。
「にゃー、にゃー!」
「わかってるって、ちゃんと新しいの買うから」
 黒猫が騒ぐ理由をわかっていて、春田はフードがなくなった小皿に水を注ぎつつ窘める。
 クッションを手放すから部屋には来るな、ではなく新しい居場所の用意を考えているところが春田の優しさだ。
「……どうして、手放す気になったんですか」
 さしたる興味もないが、和泉はなんとなく訊いてみた。牧凌太との思い出の中で唯一手放せなかったものを今になって。
 春田の視線が下を向いた。足元を見て、黒猫を見て――こちらに上がってくる。
「フェアじゃないって、思ったんすよ」
「? ……それは、どういう」
「二人の思い出なのに、あのクッション以外ほとんどおれが処分したんすよ。……見たら、その時に何があったか思い出して泣いちゃうから、結構時間もかかったし」
 本当に大好きだったから泣いたし、捨てられないという気持ちも頑張って振り切って片付けてきた。愛した男が望んだから、叶えた――しかし牧凌太は、春田が苦しい思いをして思い出の残る品々を処分したなんて知らない。
「だから牧にも、おれのツラさをちょびっとでもわかってほしいんで……あのクッションは牧に片付けてもらうんす!」
 そう言い切った春田は、実に清々しい顔をしていた。淋しさの影なんて感じさせない。
 縋っていた恋の残滓も別の感情によって塗り替えられたなら、春田が前向きになっていけるなら良いことなのだと和泉は思う。
 失った恋の片割れが触れられる距離にあって、直接その耳へと自分の気持ちを言えるのなら、どんなに幸せだったか――。
「……そう、ですよね。残される方がどんな思いで生きているか、わかってほしい」
 抱いていた思慕は炎に消えて灰になり、はるか天高くへ逝ってしまった。遺される側の想いを、逝ってしまった者が知る由もない。
 そんな和泉の横顔に、春田だけでなく黒猫も視線を注ぐ。

(…………ここに、いるよ)

 鳴いてもことばは伝わらない。せめて、まなざしだけで、想いが伝わればいいのに。
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