猫と春。③

「春田さんには本当に、お世話になってばかりで……すみません」
 黒のスウェットを着てバスルームから出てきた和泉は、深々と頭を下げてきれいな礼をする。横腹の傷に障らない程度には回復してきているようだ。
 温まってきた大きな人間の足元に黒猫は擦り寄っていく。
「にゃにゃ、にゃーう」
「?」
 猫が話しかけるも、和泉は小首を傾げた。屈んで、なだらかな背中を撫でてみたりしている。
「にゃー!」
 話が通じねえ! と言わんばかりに黒猫は勢いよくキッチンにいる春田に振り向く。通訳しろと言われても無理だ。春田もなんとなく、猫がこう思っているのかもというカンのもとでコミュニケーションをはかっているから。
 作業の手を止めて、春田は和泉に身体を向ける。
「和泉さん……あの、良かったら、なんすけど」
「はい。……私に、出来ることでしたら」
 濡れた前髪の隙間から、まなざしがまっすぐ差してくる。それは牧凌太から注がれた、性欲と灼熱にまみれる激しいまなざしとは違った、穏やかに守ってくれるように優しげな――それでいて淋しさも内包しているような、不思議な感覚がする。
「……晩メシ、食べていってください!」
 アンバランスさがある和泉のまなざしが視覚を通じて胸のずっと奥に触れてくる気がして、何故か背中がムズムズする。そんな思いを抑えて、春田は誘い文句を口にした。
「にゃあ」
 言いたいことはそれだと、猫も一声上げる。和泉の表情にやや迷いが浮かんで見えたが、やがて唇にゆるやかな笑みを佩く。
「……春田さんにはお礼、しきれなくなってしまいそうです」
 困ったような微笑みに、春田は首を横に振る。
「そんなのいいですって! ま、どうしてもって言うんなら仕事、一緒に頑張りましょ」
「努力します……」
 ごちそうとは言い難い色合いだが、料理は習っておいて良かったと心から春田は思った。
 れんこんのきんぴらはアレンジが効くので先日の休みに多めにつくっておいたし、ぬか漬けはおすそ分けでのもらい物。メインには時々昼の弁当に入れているミニハンバーグにとろけるチーズを乗せて温めた。付け合わせとして冷凍のミックスベジタブルとブロッコリー。自炊するなら冷凍食品も活用せよと、母からのアドバイスだ。
 わかめと豆腐とねぎの味噌汁と白飯で、夕食としての体裁は整ったろう。
「にゃーん!」
 そして黒猫には昼と同じキャットフードだ。変化も付けてかつお節をトッピングする。
 お客様用の箸はないので、和泉には割り箸を使ってもらうことにした。
 人間二人分の食事が並んだローテーブルの前、和泉が座っているのは元々牧のもので、今のところは黒猫が春田の部屋での寝床にしているクッションだ。
 春田が普段使いしている座椅子もあるし、いちおうお客様用の座布団もある。座布団を出そうとしたら、黒猫が寝床のクッションを引っ張ってきて和泉に「これに座れ」といった態度をとった。
 猫にしてみればお気に入りのものを使わせることで、好意を示しているのかも知れない。
(でもさあ……牧とおまえが使ったやつだぞ……?)
 元恋人と居候化しつつある黒猫が使ってへたりかけているクッションの座り心地はいかがなものだろう。足音の緩和と防寒に厚手のラグマットは敷いてあるものの。
「和泉さん、お尻痛くないっすか? 別のもあるんで」
「いえ……」
 申し訳なくなってクッションの交換を提案してみるも和泉はふと、傍らでフードを食んでいる黒猫に目をやった。
「せっかく譲ってもらったので、これで大丈夫です」
 座っている本人がいいなら、これ以上何も言うまい。また今夜のようなことがあることに備えて、新しいクッションを探しに出かけてみようか。黒猫が気に入っていても、牧が「全部処分してほしい」と望んだことをいつまでも果たさないままでいてはダメだ。
 牧はきっと、前に進めてるはず。もう四十歳になるんだから、新しい恋のひとつも見つけよう。それと、黒猫にちゃんとした食事用の皿と、お客様が来た時のための箸……。
(…………?)
 ぼんやりと思い描いた『これから』に、どうして黒猫もいることになっているんだ……咀嚼に合わせて小さく動く三角の耳に思わず視線を向けると、
「にゃ?」
 何見てんだよおまえ、金色の目が言う。仮にこの先も黒猫と付き合いを続けていくなら、ペット可の部屋を探さなければ。そもそも今の部屋に引っ越したのは、牧との思い出に溢れた空間に居るのがつらくて逃げたかったから。
 新しい一歩のために借りた部屋なのに、自分自身で思い出を持ち込んでしまっていた。
 忘れたくても忘れられない恋の残滓が淋しさを誘って、一人きりでいるのが嫌になる瞬間が唐突にやってくる。失恋に向き合うことから逃げ出した三年前の自分と、今の自分は大して変わっていないのかもしれない。
「にゃー、にゃーん」
 フードを食べ終えた黒猫は恋人のように思っている和泉ではなく、春田の膝に飛び乗ってきてまるくなる。食べたから眠くなったようだ。
「……おれ、動けないんだけど」
「うにゃ」
 抗議の声も意に介さず、金色の目がゆっくり閉じていく。満ちた月が欠けゆく様に似ている。
「食べ終わったら、私が預かります」
 いただきます、と手を合わせた後は黙々と食事をしていた和泉が口をひらいた。黒猫も下僕の膝より、好きな男の膝で寝る方がいいだろう。
 小さな命のぬくもり、呼吸に合わせて背中の毛もふわふわ動く。それを感じつつハンバーグを箸で半分に割ったところに、和泉が話しかけてきた。
「……春田さんって、お料理上手ですね」
「っ……!」
 黒猫をきっかけにして、静かだった言葉が部屋の中に回り出す。身内以外には手料理なんて出さないので、実質初めてもらう褒め言葉だった。
「え、でも、だいたい休みの日にまとめて作り置きっすよ……? ハンバーグもチーズ乗せてあっためただけだし、冷食も使ってるし」
「それでも、春田さんが手を掛けたんですよね。全部おいしいです」
 おいしい、の一言がすごくこそばゆい。自分が毎日食べるためにつくっているのであって、誰かの口に入ることは全然想定していない。和泉を夕食に誘ったのも思いつきだし。
「何というか…………すごく、久しぶりに、食べてるって感じがします」
 和泉の口元から表情に『おいしい』が浮かび上がっている。柔らかさを含んだ目元に見覚えがあるような、ないような。
「でも和泉さん、お昼にパン食べてるっすよね?」
 パンのひとつで済ませようと、食べていることに変わりはない。その横顔に何の感情も浮かんでいないにしても。
「……そう、ですね。エネルギー補給は必要なので」
 エネルギー補給という言い方が、和泉の表情をこそげ落としているように聞こえた。
 血の通っている人間がものを食べるのに、ロボットや機械にエネルギーを与えているとでも表現されている感じがする。
「じゃあ、なんで今、『食べてる』って思ったんすか……?」
 普段の食事をエネルギー補給と考えているなら、この食事だってエネルギー補給の一部に過ぎないはずだ。さっき見せてくれた柔らかな表情もつくりもの? 口に出した喜びすら紛いもの?
 その芽が顔を出せばあっという間に心に蔓延ることもわかっているのに。別に、傷ついたと思うことなんてないのに……何故か、胸の奥が締めつけられて、怖い――。
 和泉の視線がどこかをなぞる。どこでもない何かに目を凝らすようにしてから瞼を下ろし、短く息を吐いて、再び春田にまなざしを向けてきた。
「……春田さんの気持ちが、あたたかいと思ったから……かも知れません」
 いつからか、怯えを抱いた心にあたたかな一滴がおちてくる。吐息も混ざる穏やかな声音が、ゆっくりと答えを紡いでいく。
「前は職業柄もあって、こんなふうにゆっくり座って、誰かと食卓を囲むということもあまりなかったので……上手く言えないんですが」
 ただエネルギーを補給するためなら、ひとりきりだろうと何処にいようと、そこに感情なんて要らない。身体が欲するから、自身の肉体を善く保つための義務的な行為を割り切れる。
 けれど、この食卓には、優しい気持ちが散りばめられている――。
 重ねられていく一音一句は砂粒のようでも、積もれば胸の奥を揺らし始める。こんな感覚はいつぶりだろうか。
「春田さんの、心みたいなものがお腹だけではなく、心もあたたかくしてくれる気がしたから……『食べてる』と感じたんだと思います」
 和泉のくろい眸に灯るのは、きっと喪失感やそれに近い思い。深く探れはしなくても、とてもとても大切なものを何処かで失ってしまった人間が持つそれは、春田自身も抱いている。
 だから無意識に、和泉にまとわりつく淋しさを感じていたのかも知れないと思えた。
「……だったら! 明日も明後日も、一緒に晩メシ食べません?」
 そのせいか、頭で考えもしなかった言葉が喉の奥から転がり出てきてしまう。
「……え」
 春田も真っ白になるが、和泉も箸を持ったまま目をまるくする。
「……にゃ」
 膝の上で寝ていた黒猫が首をもたげる。大きなあくびをして半月の目で春田と和泉の顔を交互に見やると、再び目を閉じて寝入った。猫はフォローをしてくれない。
「あっ……い、和泉さんが、良ければなんすけど……。ほら、一人メシより二人でも三人でも一緒のが楽しいし……?」
 おれは一人メシ全然慣れてるんで、嫌なら嫌で……。早口になるし舌も上手く回らない。営業職としては親切じゃない。和泉の顔が呆れている様子になっている気がする。会社の部下に対するハラスメントと訴えられてもおかしくない!
 今のはナシで、と春田が言う前に、和泉が口をひらいた。
「春田さんが良いなら……材料費は出しますので」
 材料費を出せなんてケチくさいことは考えなかった春田だが、和泉の申し出は受け入れることにした。これなら、好物も堂々と聞けるというものである。やはり新しいクッションを買いに行こう、次の休日の目標だってできる。それと、和泉と黒猫が使う食器も……。
(……いや、別に和泉さんとも猫とも同居とかしないけど?)
 和泉にしろ黒猫にしろ、たまたま知り合って仲良くなったから、と言うだけだ。それなのにどうして、鼓動は喜びを叫んでいるのだろう……牧と、気持ちが通じ合ったときみたいに。
 通じ合った喜びも長くは続かない、終わってしまうこともあると身を以て経験していると言うのに――。
「……春田さん?」
 小首を傾げて顔を覗き込んできた和泉に、春田は胸のうちをごまかすように笑みを向けた。
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