猫と春。③

「……だからさあ、おまえ、なんでおれの部屋に来るの」
 ペット禁止だって何回も言ってんじゃん。かつて牧が使っていた、パステルブルーのギンガムチェック柄のクッションの上でまるくなった黒猫に春田はこぼした。
 帰り道は和泉と一緒で、部屋のドアを開けたところへ黒猫はどこからかするりとやって来た。確信犯も確信犯だ。あたたかい風が程よく当たる位置もすっかり把握されている。
 牧の残り香があったような気がしたクッションは、猫のにおいの方が濃くなってしまっただろう。
 いくら猫は家につくと言っても、ペット禁止だから困る。けれど今夜もだいぶ冷え込みそうなので、追い出す方が鬼というやつだ。
 すっかり牧のクッションに落ち着いた黒猫を横目に、春田はコートとマフラーをハンガーにかけた。着替えたら風呂をあたためて、自分と猫の分の夕食を用意しないと。
「なーおまえ、何食う?」
「なーん」
「猫はナン食っちゃだめでしょ。昼と同じやつな」
「にゃー」
 半分居候のくせに「仕方ねえな」と言わんばかりだ。猫の好みは猫飼いの武川の方が理解があるに違いないから、今度聞いてみよう。ナンと答えられたところで用意もできないし。
 消費期限の近い低脂肪乳を軽くあたため、いつもの小皿に入れて黒猫が寝そべるクッションの近くに置いておく。部屋着に着替えた春田が湯を張るべくバスルームへ向かおうとしたところへピン……ポン……と、玄関の方からやたら控えめなチャイム音が聞こえた。
 まだ深い時間でもないけれど、こんな夜に誰だろう。防犯のためにドアチェーンは着けたままで、そっとドアを開けてみると和泉が立っていた。
「和泉さん? ……どーしたんすか」
 いかにも所在なさげな面持ちで佇んでいた和泉に、春田はおそるおそる声をかける。何故か和泉はちらっと背後を見たので、大家のおばさんに黒猫の居候がバレたのかと身構えるも。
「……すみません、春田さん……お風呂を、お借りしてもいいでしょうか」
「……お風呂?」
 聞けば、和泉の部屋の風呂の給湯機に不具合が起きて、水のまま温まらない状態らしい。一応大家には連絡してみたが、提携している修理業者が土日は来れないという話だった――今日は金曜日。
 アパートの徒歩圏内に銭湯もないし、営業職として不潔ではいけない。そのため、已む無く隣室の春田に頼みに来たようだった。
「にゃーん♪」
「あ……もー、出てきたらダメだって」
 和泉の気配を察したらしく、黒猫がリビングからトコトコやってくる。ご機嫌な様子だ。
「にゃーん、にゃーん」
 そして事もあろうに、和泉のズボンの裾を噛んで引っ張る。ここの部屋の借り主は春田なのに、許可なく男を連れ込もうとしているではないか。
「わかった、わかったから! 和泉さん、うちの風呂使ってください。今、お湯張るとこなんで」
「にゃあああん♪」
 お猫さまの権力強すぎだろ。ドアチェーンを外した春田は、和泉の足元にまとわりつく黒猫を牽制のつもりで睨むも、ガン無視された。
「本当にすみません、春田さん……」
 代わりに和泉が申し訳なさを前面に出した表情と口調だった。給湯機の不具合は多分使用年数のせいなので、和泉に過失はないと思う。実際、春田の部屋でも昨年の夏前に給湯機の不具合が起き、修理してもらっていたことを伝えると少し表情が和らぐ。
 着替えとバスタオルを取りに自分の部屋へ戻る和泉の後に黒猫が付いて行こうとするので、「おまえは出ちゃダメ」と春田は止めた。不満げに唸られても聞き入れられないこともある。
 その後、バスタブへのお湯張りが終わり、着替えを持ってやって来た和泉がバスルームに入るところでまた黒猫が後を追うので、春田が身体を張って止めにかかる。
「ぎゃにゃあああ」
「和泉さんのこと好きなんだったら困らせんなよー。うちに猫用のブラシないし」
 猫って水に濡れるのを嫌う生き物ではなかったか。それにタオルドライまでは良くてもブラッシングが出来ないから勘弁してほしい。いつ来てもきれいに手入れされているなら、このアパートで風呂に入る必要もないはずだ。
 不満を前面にして毛を逆立てる黒猫のことは一旦無視して、春田は夕食の準備にかかる。休日におかずの作り置きをしておくとラクだと、スーパー家政夫さんからアドバイスをいただいているので、だいたい一週間で食べ切る量の常備菜は数種類ほど冷蔵庫にある。
 それらを小鉢に出したり、どんなアレンジをしようか考えつつ、もう冷めただろうミルクを舐めている黒猫に目が行った――今夜は、ひとりきりではない。
 けれど黒猫には猫用のフードがあるし、人間が食べるのは一人分あればいい。わんだほうに行ったり、ごくたまに実家に帰る日以外、三年前からこの部屋では、夕食をひとりで食べていたのだから。
「……にゃ?」
 ミルクを飲み終わった猫の口元が少し白い。そこからミルクが一滴垂れて小皿に戻った後、ピンク色の舌でぺろりと口の周りを拭った。
 そんな様子を見ながら、ふと浮かんでしまったことがある。それは口にしてもいいことなのか迷いながらも、
「…………あの、さ」
 春田がごく小さな声を出すと、黒猫は定位置にしたクッションから離れて近づいてくる。スリッパを履いた足元までやってきて、「なあ」と鳴いた。
「……和泉さんも、メシ誘っていいと思う?」
 膝を折って、春田は黒猫に目線を近くする。今は風呂に入っている和泉も、自分の部屋に帰って一人で食事をするとは思う。帰ってから準備するくらいなら、風呂のついでに夕食も食べていってもらってもいい気がした。和泉の部屋の殺風景具合からして、まともに食べているのかも心配になってきてしまうから。
 黒猫におそるおそる訊ねるまでもないことだろうが、聞いてみたくなった。
「にゃー!」
 その鳴き声のトーンが明るい感じだったので、「イエス」だと春田は思うことにした。
 牧と別れてこのアパートに越してきてから、誰かしら訪ねて来るとしても母にちず親子、家事の師匠である家政夫さんくらいなので、少しドキドキする。
「和泉さんってどういうの好きかな……昼メシいっつもパンとコーヒーだし、そっちに合いそうなやつの方がいいのかな」
 作り置きおかずの他に冷蔵庫にある決して豊富とは言えない食材を見て、あまり時間をかけずに料理できるか考える。
「なー」
 そこに顔を突っ込んできた黒猫が、ドアポケットに入れていたスライスチーズに手を伸ばそうとする。猫には食べさせられないと言うのに……ダメ、と言いかけて春田ははっとした。
「……もしかして和泉さん、チーズ好きとか?」
「にゃ!」
 和泉本人に聞かなければ好みはわからないものの、そんな気がする。なんだか楽しい。
 そんな春田の気持ちを映すように、金色の目も輝いた。
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