猫と春。③

 天空不動産第二営業所が入居しているオフィスビル前の広場には、お昼時になるとキッチンカーが数台ばかり軒を連ねる。メニューがおかかおむすびのみの、店主がさわやかな笑顔のイケメンという店舗が出始めたのは、和泉が入社してくる少し前――昨年末のこと。
 ごはんのストックが無くなれば店じまいだが、時々早々に店を閉めていることもある。そこが謎めいていて、素敵なのかも知れないけれど。
 そしておかかおむすびのキッチンカーが出ている日はいつも、黒猫はそっちにばかり目を向けているのだ。おかかが食べたいと近づいて行くでもなく、春田が傍に行くまで店主を観察でもするように。
 吹く風に、銀色に輝いたひげがそよいだ。振り向く猫の金色の目に、寒さ避けにコートを羽織った春田と和泉の姿が映る。
「にゃあん」
 こっちだ、とふたりを呼ぶように黒猫は声を上げた。和泉だけが猫が陣取っているベンチに向かってきて、春田はおかかおむすびのキッチンカーに走っていった。ほぼ女性ばかりの行列に、春田のようなスーツ姿の男性は数えるほどもいない。
 給仕係の春田が行列の中なので、今日は和泉がキャットフードのパウチを開けて、小皿に中身をあける。
「うにゃ」
「どうぞ、召し上がれ」
 優しげな低音が猫を上向かせる。小さな眸がじっと見つめてくるのに気付いた和泉が「食べてていいんだぞ」と目を柔らかく細めた。ふと、何か言いたそうに口を開きかけた黒猫だが、春田がキッチンカーから戻って来るやフードを食み始める。
「あのキッチンカー、まじでいっつも女の人ばっか並んでるんすよねー」
 和泉の分と合わせて、大きめのおかかおむすびを両手に持ってきた春田は、まだ長蛇のキッチンカー付近を見やって息を吐く。
「人気があるのは、商売ならいいことでは」
「まあ、それなんすよね。人気は売り上げに直結しやすいんで」
 そういうことはキッチンカーでも不動産売買でも共通する話だ。せっかくなら評判のいいところを選びたいのが人間というもの。
 しょうゆとかつお節の風味が効いたおむすびにかじりつきながら、春田は黒猫の小皿の残り状況もチェックする。フードを食べ終えたら水の時間だ。
「……そうだ、和泉さん」
「はい」
 コートのポケットから黒猫に飲ませる用の水のボトルを出した春田が、続けざまに何をか取り出す。
「和泉さんって、おむすび売ってるお兄さんと知り合いだったりします?」
 和泉が春田から渡されたのは、少しシワのついた名刺サイズのカードだった。
「なんかね、和泉さんくらいの歳のお兄さんが行方不明で、ずっと探してるって。聞いた特徴も似てる感じだし」
「……」
 銀灰色の小さなカードに描かれているのは、おむすびのキャラクターのイラスト。三つのおむすびが転がるイラストの下に、『おむすびごろりん 六道菊之助』と名前がある。
 水を舐めていた黒猫もばっと顔を上げ、和泉の手元をのぞいた。
「……にゃうう」
 黒猫が唸る声に、春田は和泉の表情を確かめる。カードの名前を凝視したまま、固まっているように見えた。
「和泉さん……?」
 言い知れない不安が胸に湧いてくる感覚がした。思い出してしまうのは倒れた和泉の姿と、この手が触れた真っ赤な血の生ぬるさ。もしかしたら、この『六道菊之助』が和泉に危害を加えたのか。優しそうなイケメンに見えるのに、裏では何をしているかなんてわからない……。
「にゃっ!」
「いてっ」
 不安に染まりそうな気持ちを振り払うかのように、黒猫が腹にパンチをお見舞いしてくる。今のはかなり効いた。猫パンチ強すぎる。
「にゃにゃにゃ! にゃーあ、にゃん!」
 何もおまえが不安になることはないんだ。膝に乗って、まっすぐ見つめてくる金色の双眸が強くきらめく。言いたいことはそんな感じだろうか。
「春田さん……すみません、ぼんやりしました。……知らない名前です」
 自分にきょうだいは居ないから、おむすび店主が探している兄という人とは別人。そう言いながらカードを返してきた和泉の指は少しふるえていた――本当は知っているのに、知らないふりをしたのだとさすがの春田も気付いてしまう。
「和泉さん……あの、……すみません」
 迂闊だった。赤の他人からの頼まれごとを安易に引き受けてはいけなかった。自分は上司で、和泉を守る立場なのに。春田が謝罪を口にすると、和泉は小さくかぶりを振る。
「謝らないでください。春田さんが優しいのはわかってます。……けれど、あなたの優しさに付け入るような人間もいるのだと覚えておいてもらえれば」
 前髪に隠れがちな眸の奥が、なんとなく揺れて見える。注意を促す言葉に黒猫も「にゃあ」と低めの声を出した。
 和泉も黒猫も、どんな過去を渡り歩いてここに来たのだろうか。目に見える時間が増えるごとに謎も増えてくる。簡単には踏み込めないプライベートの部分に触れているつもりはなくても、もう触れてしまっているのかも知れない。
「にゃー」
 いつの間にか春田の膝から、お気に入りの小皿の前に移動していた黒猫が水のおかわりを要求してきた。
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