猫と春。②
仕事帰りに馴染みの居酒屋わんだほうで一杯引っかけ、ほろ酔いで春田はアパートに戻ってきた。
わんだほうで黒猫について、店主の荒井鉄平や妹のちず、顔馴染みの常連客数人に話してみたのだが、飼い主についても誰も知らず、仮に野良なら引き取り手になってもらえないかという話になっても首を縦に振ってくれる者は居なかった。
あの黒猫に少しでも関わってしまった以上、責任はわずかなりとも生じると思えば、どうすれば黒猫にとって少しでも良い環境をつくれるか考えていかないと――そんなことを漠然と思ったりはするのだが。
黒猫はほとんど毎朝、どこかからアパートにやってきては春田の部屋のドアを引っ掻いて呼び出し、朝食をもらって、春田と和泉の出勤を見送る。
昼時になれば第二営業所が入るオフィスビル付近に姿を見せ、春田に昼食を要求してくる。時々、出店しているキッチンカー目当てに訪れる、周辺の事業所に勤めるお姉さんたちから可愛がられて上機嫌だ。
夜は夜で、春田の帰宅のタイミングをはかったかのように、アパートの玄関前に座っている。暗がりに目だけ光っているので、最初に見た時は驚きで腰が抜けそうになった。
そう、いつもなら春田の部屋の前で待ち構えている小さなケモノが、今夜は隣の和泉の部屋の前にいた。金色の目の先では、私服姿の和泉が身を屈めている。
「んにゃっ! にゃ~」
「……あ、春田さん。遅かったんですね」
気配に先んじて黒猫が気付き、続いて和泉もこちらを向いた。黒のニットにウォームグレーのコーデュロイパンツと、はじめてプライベートをのぞかせてくる感じがする。
春田は仕事が少し残っていたので研修中の和泉を先に帰し、一時間ばかり残業した後でわんだほうに立ち寄っていたのだった。
「知り合いの店でちょっと呑んできたんで。和泉さんも良かったら、お腹治ってからでも一緒に呑み行きません?」
飲みニケーションと言われる酒席への誘いも敬遠されがちな昨今。下手すればハラスメント扱いになるので、部下への言葉は慎重に選ぶ。断られて当然、という前提だ。
「そう、ですね……。春田さんが良ければ、是非」
「あ……えっ?」
前髪に隠れがちな目元に、薄めの唇に穏やかな笑みが浮かんだ。まさか承諾の言葉をもらえるとは一ミリも思っていなかったので、春田は返事に詰まる。
「うにゃあああ!」
黒猫の声が「ずるい! オレも!」と言っているように聞こえた。さすがに猫は飲食店には連れていけない。和泉が黒猫を宥めるべく小さな頭を撫でても、低く唸って猫パンチを繰り出してくる。
「ちょ、和泉さんにパンチすんなって」
「なああああ!」
一緒に呑みに行けないことに、本当に駄々をこねているみたいだ。屈んだ姿勢の和泉に何発かヒットしたうちの一発の爪が、首にかけているロケットペンダントのチェーンに引っかかる。
銀色のチェーンは敢え無く切れ、ペンダントトップが和泉の足元に落ちた。彼らの傍へ近づいていた春田の目に、『春田創一』の笑顔が飛び込んでくる。
「……? え……、なんで……っ」
地面に落ちたはずみで開いたロケットの中――そこに、笑みを咲かせた自分の顔がある。
髪型に違いはあっても、紛れもなく毎日、洗面台の鏡に映し出される顔。
「…………なんで、和泉さんが、おれの写真持ってるんすか」
笑顔の写真はどこかしらで撮っている。けれど、ほとんど赤の他人である和泉の手に渡りようなことでもあったのか――。
混乱する春田の元へ黒猫がやってきて、ぺしっと脛を叩いた。別人とでも言いたげに。
和泉が落ちたロケットペンダントに手を伸ばして、そっと拾い上げる。写真を見つめ、小さく息を吐いて。
「……こいつは、……アキト、です」
「……アキト?」
最近、その名前をどこかで聞いていた。記憶を遡ってみて、それは和泉がうわごとで口にしていた名前だと春田は思い出す。
アキトと呼ばれ、血に塗れた大きな手が頬に触れてきて……。
「…………あ」
和泉が怪我をして倒れていた朝、意識朦朧としていた彼に口づけられた――うるせえ唇、と囁かれながら。それから手当てに必死になっていて、今の今まですっかり忘れていた。
「……春田、さん? 顔……赤いですよ」
唐突に和泉とのキスが記憶に蘇ったせいだが、当のキスをしてきた本人は気にせず春田の頬に手を添えてきた。いつから外にいたのか、指が冷えている。
「……いや、その……ちょっと、呑みすぎちゃったかな?」
ばっちり掘り起こされたあの時のキスが、触れた大きな手が何故か胸の鼓動を速める。
実は大して呑んではいないが、春田は笑ってごまかした。
「にゃうう」
唯一の目撃者である黒猫が、足元から恨みがましい目線を送ってくる。ある意味もらい事故なのに、そんな目をしないでいただきたい。
「えーと、その写真のヒトは、おれとは別人なんすよね? びっくりした~」
この居た堪れない空気のなかにいたくない。強引なのは承知の上で、春田はいろいろなことを逸らしにかかった。さりげなく和泉とも距離を取る。
「世の中には自分とそっくりなヒト、三人はいるって話ですもんね。よく見たらアキトさん、おれよりイケメンだし」
「にゃおお~」
イケメン、というところに黒猫が反応した。胸を反らして得意げな顔をしている。救助猫にイケメン猫と、どれだけ肩書を得るつもりなのだろう……。
「その……アキトとそっくりな人がこんな近くにいるとは思いませんでした。世の中は狭いものですね……」
「ですよねー。和泉さんが初日に逃げちゃったの、やっぱおれの顔のせいだったんすね」
3Dプリントしました、でも通じるレベルでそっくりだ。それなら驚くのも無理はない。
「あの時は大変申し訳ありませんでした……」
「いーですって。気にしないでください」
頭を下げようとする和泉を春田は止めた。あのきっちりした礼をすれば、腹の傷に障るから。少しずつ治ってきているだけに傷が開いたら大変だ。悪いことはいつまでも引きずってほしくない。
話はこの辺りで切り上げて、春田はリュックサックからドアのカギを取り出す。
「それじゃ、おやすみなさい。あったかくして寝てくださいね!」
和泉だけではなく、どこに棲みかを定めているかわからない黒猫にも「おまえもあったかくするんだぞ」と言ってその場を離れた。
そそくさとドアを開けて部屋に入ろうとしたら、足元からするりと黒猫も入ってきてしまう。
「ちょ、おま、ペット禁止って前に言ったじゃん!」
「なあーん」
玄関の照明のオンオフは人感センサー式ではないので、暗がりに紛れた猫の姿は見えない。
慌てて施錠し、春田は靴を脱ぎ捨てる。壁のスイッチでリビングの照明を点けて室内を見回してみたら、黒猫はエアコンの温風が程よく当たる場所を陣取り、クッションの上でまるくなっていた。
(……あ)
少しくたびれたスクエア型の、パステルブルーのギンガムチェック模様のクッション。
同じデザインで色違いの、パステルグリーンのクッションは春田が寝室に置いている。
お揃いのクッションは、かつて恋愛関係にあった牧凌太と二人で選んだものだった。恋仲になって間もない頃に、何かお揃いのグッズを買おうと春田から提案し、あまりそういうことを好まない牧も外から見えないものならとクッションにした。
パステルブルーのクッションは牧が背もたれや昼寝用の枕として使っていた。
三年前に牧と別れた後、彼を思い出させるものや置いていったものはほとんど処分していた。それも春田が決めたことではなく、牧からの指示。思い出が残るのは辛いだけだから、と。
それでも、お揃いで買ったクッションだけはどうしても捨てられずにいた。もう残り香というにおいもなく、色も少し褪せてしまっている。牧のにおいを求めて抱きしめた日もあったけれど、最近はエアコンの付いているリビングの壁側に置きっぱなしでいた。
真っ暗だった中で黒猫はよく、寝床になりそうなものを探し当てたものだ。猫が、自分が心地よく過ごせる場所を見つけるのが得意とは言うけれど。
(牧も枕にしてたし、寝心地いいのかな……)
春田はクッションの傍らにぺたんと座り、まるくなった黒猫に指を近づける。
牧が戻ってきたわけではない。牧はもう、戻らない。でも、思い出のクッションには小さな重みが乗っかっている。
三年の時間は経っても、牧凌太と恋をした時間はなかったことにはならないのだ。彼と愛し合った日々に後悔はない。そう思いたいから毎日笑えるように頑張ってるけど、時折涙が溢れる夜もある――。
今夜がまさにそんな夜だ。部屋に一人でいたら泣きそうだったから、一人にならないためにわんだほうで呑んできた。親しい人たちがいる場所はあたたかい。
そして、黒猫のぬくもりも指先に優しい。そっと撫でると黒猫は、閉じていた目を片方だけ開く。長い尻尾の先が、春田の指先に触れてきた。
「……にゃ」
眠たげな声を出して、黒猫は目を閉じた。今夜はここを寝床にするつもりらしい。
気まぐれなだけか、一緒にいることが増えたから猫側にも情が湧いたのか。ただ、今夜はこの部屋に自分一人だけではない。その事実が、とても嬉しい。
「…………ありがとな」
小さな寝息を聞いて、自然とそんな言葉が転がり出てきた。
胸のどこかに残っている、わずかな未練の棘は未だ抜けないまま。しかし時間は確実に、三年前に失った愛に寄り添い、痛みを緩やかにしてくれていた。
■
翌朝、春田と共に部屋から「にゃん♪」と出てきた黒猫の姿に、和泉が驚いていた。
「にゃおお、にゃんっ」
朝ごはんもきっちり食べて満足な顔をしながら、黒猫は和泉の足元にまとわりつく。
「もー、挨拶くらいちゃんとしろよー。和泉さん、おはよーございます」
「おはようございます……春田さんのところに泊まってたんですか?」
「はい……まあ、そんな感じっす」
ペット禁止のアパートなので、一晩保護しましたは言い訳になるのだろうか。というか黒猫、ほとんど毎日やってくるので他人のふりも既に出来なくなっている。
呼び名くらいはあっていい気はするものの、これ以上に情が移ったら本気で責任を持たなくてはいけない感じがする。どこの飼い猫か、野良猫なのかもわからないのに。
和泉のズボンの膝下辺りに額を擦り付け、黒猫はゴロゴロ喉を鳴らす。春田が食事の世話をするのは当たり前みたいな態度でいるのに、和泉に対して甘えまくっているのがまた解せない。下僕と恋人に対する扱いの違いのようだ。
恋人といえば、和泉が持っているロケットペンダントのなかで笑っている、アキトとはどうなんだろう。顔が同じだったからと勘違いしてキスしてきたなら、和泉にとって愛すべき存在であるとは思う。ロケットペンダントに写真まで入れて、肌身離さずにいるのは、そういうこと……?
(……ま、おれが気にすることじゃないし)
他人にあれこれ詮索されるのは気持ちのいいことではない。春田は考えるのをやめた。
「にゃーん」
出かける時間と黒猫が報せてくれる。下げていた目線を上げると、和泉の目とかち合った。
「……行きますか」
その唇に淡い笑みを浮かべる和泉に、春田は小さく頷いた。
わんだほうで黒猫について、店主の荒井鉄平や妹のちず、顔馴染みの常連客数人に話してみたのだが、飼い主についても誰も知らず、仮に野良なら引き取り手になってもらえないかという話になっても首を縦に振ってくれる者は居なかった。
あの黒猫に少しでも関わってしまった以上、責任はわずかなりとも生じると思えば、どうすれば黒猫にとって少しでも良い環境をつくれるか考えていかないと――そんなことを漠然と思ったりはするのだが。
黒猫はほとんど毎朝、どこかからアパートにやってきては春田の部屋のドアを引っ掻いて呼び出し、朝食をもらって、春田と和泉の出勤を見送る。
昼時になれば第二営業所が入るオフィスビル付近に姿を見せ、春田に昼食を要求してくる。時々、出店しているキッチンカー目当てに訪れる、周辺の事業所に勤めるお姉さんたちから可愛がられて上機嫌だ。
夜は夜で、春田の帰宅のタイミングをはかったかのように、アパートの玄関前に座っている。暗がりに目だけ光っているので、最初に見た時は驚きで腰が抜けそうになった。
そう、いつもなら春田の部屋の前で待ち構えている小さなケモノが、今夜は隣の和泉の部屋の前にいた。金色の目の先では、私服姿の和泉が身を屈めている。
「んにゃっ! にゃ~」
「……あ、春田さん。遅かったんですね」
気配に先んじて黒猫が気付き、続いて和泉もこちらを向いた。黒のニットにウォームグレーのコーデュロイパンツと、はじめてプライベートをのぞかせてくる感じがする。
春田は仕事が少し残っていたので研修中の和泉を先に帰し、一時間ばかり残業した後でわんだほうに立ち寄っていたのだった。
「知り合いの店でちょっと呑んできたんで。和泉さんも良かったら、お腹治ってからでも一緒に呑み行きません?」
飲みニケーションと言われる酒席への誘いも敬遠されがちな昨今。下手すればハラスメント扱いになるので、部下への言葉は慎重に選ぶ。断られて当然、という前提だ。
「そう、ですね……。春田さんが良ければ、是非」
「あ……えっ?」
前髪に隠れがちな目元に、薄めの唇に穏やかな笑みが浮かんだ。まさか承諾の言葉をもらえるとは一ミリも思っていなかったので、春田は返事に詰まる。
「うにゃあああ!」
黒猫の声が「ずるい! オレも!」と言っているように聞こえた。さすがに猫は飲食店には連れていけない。和泉が黒猫を宥めるべく小さな頭を撫でても、低く唸って猫パンチを繰り出してくる。
「ちょ、和泉さんにパンチすんなって」
「なああああ!」
一緒に呑みに行けないことに、本当に駄々をこねているみたいだ。屈んだ姿勢の和泉に何発かヒットしたうちの一発の爪が、首にかけているロケットペンダントのチェーンに引っかかる。
銀色のチェーンは敢え無く切れ、ペンダントトップが和泉の足元に落ちた。彼らの傍へ近づいていた春田の目に、『春田創一』の笑顔が飛び込んでくる。
「……? え……、なんで……っ」
地面に落ちたはずみで開いたロケットの中――そこに、笑みを咲かせた自分の顔がある。
髪型に違いはあっても、紛れもなく毎日、洗面台の鏡に映し出される顔。
「…………なんで、和泉さんが、おれの写真持ってるんすか」
笑顔の写真はどこかしらで撮っている。けれど、ほとんど赤の他人である和泉の手に渡りようなことでもあったのか――。
混乱する春田の元へ黒猫がやってきて、ぺしっと脛を叩いた。別人とでも言いたげに。
和泉が落ちたロケットペンダントに手を伸ばして、そっと拾い上げる。写真を見つめ、小さく息を吐いて。
「……こいつは、……アキト、です」
「……アキト?」
最近、その名前をどこかで聞いていた。記憶を遡ってみて、それは和泉がうわごとで口にしていた名前だと春田は思い出す。
アキトと呼ばれ、血に塗れた大きな手が頬に触れてきて……。
「…………あ」
和泉が怪我をして倒れていた朝、意識朦朧としていた彼に口づけられた――うるせえ唇、と囁かれながら。それから手当てに必死になっていて、今の今まですっかり忘れていた。
「……春田、さん? 顔……赤いですよ」
唐突に和泉とのキスが記憶に蘇ったせいだが、当のキスをしてきた本人は気にせず春田の頬に手を添えてきた。いつから外にいたのか、指が冷えている。
「……いや、その……ちょっと、呑みすぎちゃったかな?」
ばっちり掘り起こされたあの時のキスが、触れた大きな手が何故か胸の鼓動を速める。
実は大して呑んではいないが、春田は笑ってごまかした。
「にゃうう」
唯一の目撃者である黒猫が、足元から恨みがましい目線を送ってくる。ある意味もらい事故なのに、そんな目をしないでいただきたい。
「えーと、その写真のヒトは、おれとは別人なんすよね? びっくりした~」
この居た堪れない空気のなかにいたくない。強引なのは承知の上で、春田はいろいろなことを逸らしにかかった。さりげなく和泉とも距離を取る。
「世の中には自分とそっくりなヒト、三人はいるって話ですもんね。よく見たらアキトさん、おれよりイケメンだし」
「にゃおお~」
イケメン、というところに黒猫が反応した。胸を反らして得意げな顔をしている。救助猫にイケメン猫と、どれだけ肩書を得るつもりなのだろう……。
「その……アキトとそっくりな人がこんな近くにいるとは思いませんでした。世の中は狭いものですね……」
「ですよねー。和泉さんが初日に逃げちゃったの、やっぱおれの顔のせいだったんすね」
3Dプリントしました、でも通じるレベルでそっくりだ。それなら驚くのも無理はない。
「あの時は大変申し訳ありませんでした……」
「いーですって。気にしないでください」
頭を下げようとする和泉を春田は止めた。あのきっちりした礼をすれば、腹の傷に障るから。少しずつ治ってきているだけに傷が開いたら大変だ。悪いことはいつまでも引きずってほしくない。
話はこの辺りで切り上げて、春田はリュックサックからドアのカギを取り出す。
「それじゃ、おやすみなさい。あったかくして寝てくださいね!」
和泉だけではなく、どこに棲みかを定めているかわからない黒猫にも「おまえもあったかくするんだぞ」と言ってその場を離れた。
そそくさとドアを開けて部屋に入ろうとしたら、足元からするりと黒猫も入ってきてしまう。
「ちょ、おま、ペット禁止って前に言ったじゃん!」
「なあーん」
玄関の照明のオンオフは人感センサー式ではないので、暗がりに紛れた猫の姿は見えない。
慌てて施錠し、春田は靴を脱ぎ捨てる。壁のスイッチでリビングの照明を点けて室内を見回してみたら、黒猫はエアコンの温風が程よく当たる場所を陣取り、クッションの上でまるくなっていた。
(……あ)
少しくたびれたスクエア型の、パステルブルーのギンガムチェック模様のクッション。
同じデザインで色違いの、パステルグリーンのクッションは春田が寝室に置いている。
お揃いのクッションは、かつて恋愛関係にあった牧凌太と二人で選んだものだった。恋仲になって間もない頃に、何かお揃いのグッズを買おうと春田から提案し、あまりそういうことを好まない牧も外から見えないものならとクッションにした。
パステルブルーのクッションは牧が背もたれや昼寝用の枕として使っていた。
三年前に牧と別れた後、彼を思い出させるものや置いていったものはほとんど処分していた。それも春田が決めたことではなく、牧からの指示。思い出が残るのは辛いだけだから、と。
それでも、お揃いで買ったクッションだけはどうしても捨てられずにいた。もう残り香というにおいもなく、色も少し褪せてしまっている。牧のにおいを求めて抱きしめた日もあったけれど、最近はエアコンの付いているリビングの壁側に置きっぱなしでいた。
真っ暗だった中で黒猫はよく、寝床になりそうなものを探し当てたものだ。猫が、自分が心地よく過ごせる場所を見つけるのが得意とは言うけれど。
(牧も枕にしてたし、寝心地いいのかな……)
春田はクッションの傍らにぺたんと座り、まるくなった黒猫に指を近づける。
牧が戻ってきたわけではない。牧はもう、戻らない。でも、思い出のクッションには小さな重みが乗っかっている。
三年の時間は経っても、牧凌太と恋をした時間はなかったことにはならないのだ。彼と愛し合った日々に後悔はない。そう思いたいから毎日笑えるように頑張ってるけど、時折涙が溢れる夜もある――。
今夜がまさにそんな夜だ。部屋に一人でいたら泣きそうだったから、一人にならないためにわんだほうで呑んできた。親しい人たちがいる場所はあたたかい。
そして、黒猫のぬくもりも指先に優しい。そっと撫でると黒猫は、閉じていた目を片方だけ開く。長い尻尾の先が、春田の指先に触れてきた。
「……にゃ」
眠たげな声を出して、黒猫は目を閉じた。今夜はここを寝床にするつもりらしい。
気まぐれなだけか、一緒にいることが増えたから猫側にも情が湧いたのか。ただ、今夜はこの部屋に自分一人だけではない。その事実が、とても嬉しい。
「…………ありがとな」
小さな寝息を聞いて、自然とそんな言葉が転がり出てきた。
胸のどこかに残っている、わずかな未練の棘は未だ抜けないまま。しかし時間は確実に、三年前に失った愛に寄り添い、痛みを緩やかにしてくれていた。
■
翌朝、春田と共に部屋から「にゃん♪」と出てきた黒猫の姿に、和泉が驚いていた。
「にゃおお、にゃんっ」
朝ごはんもきっちり食べて満足な顔をしながら、黒猫は和泉の足元にまとわりつく。
「もー、挨拶くらいちゃんとしろよー。和泉さん、おはよーございます」
「おはようございます……春田さんのところに泊まってたんですか?」
「はい……まあ、そんな感じっす」
ペット禁止のアパートなので、一晩保護しましたは言い訳になるのだろうか。というか黒猫、ほとんど毎日やってくるので他人のふりも既に出来なくなっている。
呼び名くらいはあっていい気はするものの、これ以上に情が移ったら本気で責任を持たなくてはいけない感じがする。どこの飼い猫か、野良猫なのかもわからないのに。
和泉のズボンの膝下辺りに額を擦り付け、黒猫はゴロゴロ喉を鳴らす。春田が食事の世話をするのは当たり前みたいな態度でいるのに、和泉に対して甘えまくっているのがまた解せない。下僕と恋人に対する扱いの違いのようだ。
恋人といえば、和泉が持っているロケットペンダントのなかで笑っている、アキトとはどうなんだろう。顔が同じだったからと勘違いしてキスしてきたなら、和泉にとって愛すべき存在であるとは思う。ロケットペンダントに写真まで入れて、肌身離さずにいるのは、そういうこと……?
(……ま、おれが気にすることじゃないし)
他人にあれこれ詮索されるのは気持ちのいいことではない。春田は考えるのをやめた。
「にゃーん」
出かける時間と黒猫が報せてくれる。下げていた目線を上げると、和泉の目とかち合った。
「……行きますか」
その唇に淡い笑みを浮かべる和泉に、春田は小さく頷いた。