猫と春。②

 今朝も玄関ドアを開けると、黒猫が座っていた。冷え込みも厳しい真冬の朝なのに、どこに元気とあたたかさを蓄えているのやら。
「おはよ」
 連休明けだ。春田が声をかければ、黒猫は「にゃー」と一声あげて、抜群のジャンプ力でコートを着た肩、というか通勤用リュックサックに飛び乗ってくる。
「にゃあ、にゃっ」
 後ろから頭をぽこぽこ肉球で叩かれ、隣室の方に目をやればちょうど和泉が出てくるところだった。
「にゃあーん!」
「和泉さん、おはようございます」
 ふたりして声をかけると、和泉はこちらを向いて目をまるくした。
「あっ……あ、はい、おはようございます、春田さん」
「にゃー」
 和泉が春田にだけ挨拶を返したことに、黒猫は春田の後頭部を叩いて不満をあらわにする。
「いてっ……もー、なんでおれに当たるんだよ……」
「にゃにゃ!」
「和泉さん、こいつにも挨拶してやってください……」
 そう言うと和泉はわかりやすく困った表情をするのだが、黒猫が春田のリュックサックから降りて足元に行くと、横腹の傷の痛みに顔をしかめつつ身を屈めた。
「……おはよう」
 ゴロゴロ喉を鳴らし、黒猫は和泉の手に頭を擦り付けた。自分の時と態度が違いすぎる……春田はじっとその様子を見るも、電車の時間が差し迫っているので和泉に声をかける。
「和泉さんも電車っすよね?」
「はい。……あ、時間ですね」
 左手首の腕時計にちらりと目をやり、またも顔を歪めて和泉は屈んだ姿勢から立ち上がる。転んで擦り剝けたレベルの傷ではないので、二日で治すのは難しい。
「……仕事、行って大丈夫っすか? 風邪とか言って休んだ方がいいんじゃ……」
 この連休中はなんだかんだ、和泉のケアに時間を割いていた春田だ。拾って手当てしたものを途中で投げ出すわけにもいかず、世話に来るような人間もいないようなので、食事や着替え、傷のケアを手伝った。血の付いた洗濯物については、スーパー家政夫さんが相談に応じてくれたので、ある程度きれいにできたとは思う。
 着替えや清拭の際に和泉の裸身も目にしたのだが……やはり、きちんと鍛えられた、体脂肪率も一桁くらいではないかというくらい、しっかりした身体つきだった。生活もそれだけストイックにしているのだろうか。
 春田自身、年齢的にそろそろ食生活や運動習慣を見直さなければと考え始めていたので、和泉がどんなトレーニングをしているか聞いてみたいとは思う。
「いえ、入社したての身ですし、このくらいの負傷は慣れているので」
 春田さんが買ってきてくれた鎮痛剤を飲んできました。和泉がふっと笑みを浮かべる。
 和泉と出会ってこの方、どちらかといえばネガティブ寄りの表情しか見てこなかったせいか、目の前の男が穏やかな笑い方をするのを春田ははじめて知った。
「にゃああん!」
「いって!」
 そして、向こう脛に力いっぱいの猫パンチをお見舞いされる。黒猫、朝から何回パンチをしてくるつもりなんだろう。憂さ晴らしなら他所でやってほしい。
「にゃあー、にゃにゃ!」
「もー、わかってるよ。電車遅れるってんだろ」
「にゃん!」
 猫のことばはわからないが、そう言っている気がした。
 こうやって、黒猫は朝の出がけにはもうアパートの部屋の外にいて春田と和泉に顔を見せ、昼には何故か天空不動産第二営業所が入っているオフィスビル付近をうろついている。
 アパートから猫の脚ではなかなかの距離があるはずなのに、どうやって移動しているんだろう。ほぼ毎日のように遭遇していると妙な友情めいたものを感じるようにもなってしまい、和泉から注意されたのを忘れたわけではないけれど、通勤用リュックに猫のごはんを忍ばせるようになった。

 冬のさなかにしては気温が少しばかり春めいた日の昼休み。
 営業所近くの広場のベンチの上、いつもきちんと手入れされているような黒猫のつややかな毛はふわふわあたたかい。膝に乗るまでの仲ではなくても、隣に座るくらいは許されたらしい。
 春田がキャットフードのパウチを開けると、黒猫はふんふん鼻をひくつかせる。
 けれど、パウチからは直に食べず、小皿に出さないと絶対に食べようとしないのだ。おやつをあげた時はパウチからそのまま舐めてたのに、へんなやつ。
 黒猫が食事を始めたのを横目に、春田もランチタイムに入る。おかかおむすび専門という行列のできるキッチンカーがあったので、ひとつ買ってみた。
 おむすびそのものは普通に美味しいが、おもに女性客が行列をつくっていた辺り、おむすびよりイケメン店主が目当てなのだろう。爽やかな感じの、顔立ちがわりとはっきりしたイケメンだった。
 なぜか黒猫が遠巻きにそのキッチンカーを見ていたのは、おかかの香りにでもつられたのかも知れない。
「うにゃ」
 大きめのおかかおむすびを半分ほど食べたところで、黒猫が話しかけてきた。
「あーい、水ー」
「にゃー」
 小皿にのせたキャットフードはきれいに平らげられていたので、同じ皿に春田はペットボトルから水を注いだ。もちろん常温で、今フタを開けたばかり。
 猫と人間は違うから、人間が口をつけたものが猫にどう影響するかわからない。その点から、春田の部屋には黒猫が飲むための水が箱で置かれている。コンビニエンスストアで買うより、ネットショップの方が安上がりだからまとめて買っておいた。
「にゃあ、にゃにゃにゃ、にゃーん」
「和泉さん、本社に行ってんだって。新人研修」
 春田から昼食をせしめている黒猫だが、和泉が一緒に居ればいの一番に和泉の方へと行ってしまう。
 よほど好きなのか、和泉の長い膝下で頭や胴体をこれでもかと擦り付けている。和泉本人は動けず戸惑うばかりなのに、黒猫は全然気にしない。
 そんな和泉は今日、天空不動産本社へ新人研修に行っている。和泉と同じく中途入社の社員が各営業所から集まる形だ。朝、第二営業所に来てから本社へ向かい、直帰だという。
 ケガを手当てした日から少しずつ、和泉の強張った雰囲気は融けていている感じはする――アニマルセラピーとでもいうのか、猫のいる生活が効いているなら、この黒猫のお陰といってもいい。
 だが、アパートのペット禁止ルールは変わっていないし、そもそも黒猫がどこの猫なのかも未だ不明だ。
「……和泉さんもたいがいナゾだけど、おまえもナゾだよなー」
「にゃふっ」
 空になった小皿に水を追加しながら独り言ちる春田に、黒猫は金色の目を光らせて得意げにしてみせる。ミステリアスを自ら主張してくるか。
「はは、へんなやつ……っ!」
 思わず笑ってしまった春田の脇腹に、渾身の猫パンチが入った。
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