会いたかったから/意識しちゃう【いずはる】
夜も深くなってきた午後十一時前、春田創一の部屋のドアチャイムが不意に鳴らされた。
今季観ているドラマをリアルタイム視聴し、明日に備えてそろそろ寝ようとしていた時だった。
こんな遅い時間に訪ねてくるなんて誰だろう。知り合いならまだしも、知り合いではなくドロボーさんやその類の人なら怖すぎる。もしかしたら隣室の住人が部屋を間違えただけの可能性もあるが。
狭い玄関に行ってすぐ、施錠しただけのドアにチェーンを掛けた。そしてドアの外に居るだろう誰かの様子をスコープからうかがってみる。
(……和泉さん?)
ドア板一枚隔てた外に佇む姿とうつむき加減な顔から、以前ともに働いていた和泉幸のように思う。
それでも油断はできないので、春田はドアを開けずに呼び掛けてみた。
「和泉、さん?」
春田が声を掛けると、ドアの向こうから「はい」と返ってくる。よく聞いていた自信なさげで穏やかな低音だ。
久しぶりに耳にした声が胸の奥をくすぐる感じがした。和泉は天空不動産を退職した後、前職の警察官に復帰したとしか知らなかったから。
天空不動産に和泉がいた時は、今は別の住人がいる隣室に住んでいた。短期間に和泉とはいろいろありすぎて、それもいい思い出になりかけていたところ。
チェーンは掛けたまま、カギを外して少しだけドアを開けてみた。もわっと入り込んでくる真夏の夜の生ぬるい空気。
開けた隙間から覗いてみると、和泉と目が合った。緩められたネクタイ、ハリを失ったワイシャツの襟、無造作に肘まで捲られた袖、鼻の下と顎に少し伸びたヒゲ。乱れた前髪の幾筋かが額と目元に陰をつくっている。
「すみません……こんな遅くに訪ねてしまって」
申し訳なさそうにする和泉に、春田は首を横に振った。もしかしたら警察の仕事なのかもしれない。
ドラマを観ている間にパトカーのサイレンは鳴っていなかったと思うが……。
「どうしたんすか、聞き込みとか?」
「いえ……あの、仕事ではなくて……仕事なら一人では来ません」
警察官が単独行動することは基本的にない。パトロールにしろ捜査にしろ複数名で行う。
今夜はもう仕事は終わって、プライベートの時間らしい。だったらなおのこと、こんな夜中にどうして来たんだろう。
それに和泉には付き合っている相手がいるはずだ。子細は聞かされてはいないものの、長年の知り合いと、とは伝わってきている。
「春田さん……」
ドアとの距離を詰めてくる靴音がした。春田との視線も短くなる。生ぬるい空気に溶け込む汗のにおい。
いとおしそうに歪むまなざしには見覚えがあった――和泉が、亡くしてしまった恋人の墓前で浮かべた泣き笑いのような表情に宿していたのと似ている。燃えているみたい。
「あなたに会いたくて、来てしまいました」
甘さと欲の混ざった吐息が空気に同化した。まるで好きな相手にでも会いに来たような言い方。
奥からドキドキしかける胸を、春田はTシャツの上から右手で押さえた。
和泉とは何もなかったとも言えないが、和泉からすれば春田創一との間には何もなかった。なのに自分だけが覚えている、血の味のキスが急に思い出される。
「……なんで、急に会いに来たんすか」
チェーンは外さないでおいて、春田は訪ねてきた理由を問いかけた。元上司と部下で、隣人だった以外の関係は自分たちにはないのだから、何らかの理由を和泉は持ち合わせているはず。こんな夜半に訪ねてくるのなら連絡のひとつもくれればいいのに……そう考えて、和泉と連絡先を交換していなかったと気付く。
仕事以外での接点もあまりなかったし、和泉がわざとそうしていたような。
「どうしても、春田さんのことが忘れられなくて……。俺、あなたと働いていた時に呼吸の仕方を思い出せました。苦しい気持ちをあなたが楽にしてくれた。でも、春田さんと離れて、また息苦しさを感じてしまって」
さながら恋愛ドラマのような言葉だ。きっとドラマならすぐにチェーンを外して和泉を部屋に招き入れて、深い関係になる流れになるだろうか……。現実問題、付き合っている相手がいると噂されているのに部屋に入れようものなら確実に修羅場が来る。そんなの二度とごめんだ。
「和泉さん、付き合っている人いるんでしょ? なんかずっと和泉さんのこと支えてたとかって」
ずっと前から片想いしてたとか、仕事の面でもパートナーとか健気さをやけに強調された説明だったが、和泉が自分から相手を選んで警察に戻ったのだ。裏切っては刺されるどころではない。
「支えてもらっていたのを感謝する気持ちと、春田さんのことが好きという気持ちは全く別ものなんですが……。それに俺、今は誰とも付き合っていませんよ……?」
「…………はい?」
誰から流れてきたか、噂は所詮噂でしかない。何がフェイクで何が本当か、情報は人を振り回す。
和泉だって「付き合っている相手はいない」とウソをついているのかも知れないから。
「どこの誰がどう言ったのかは知りませんが、俺が今好きなのは春田さんしかいない……。警察に復職すると決めて、離れてしまうのに告白しても迷惑なだけだと思って送別会の時は言えなかった。でも忘れられなくて、告白しなかったことが悔やまれて仕方なくて」
ドラマよりもドラマみたいだった。穏やかな声が熱を帯びていく。いろいろなウソを知っているはずの目なのに、とても焦っている。恋をした本気の色にまみれたまなざしはどこかで見てきたのに、最近は遠ざかっていて。
「うじうじしてるくらいなら当たって砕けて来いと、同僚から背中を叩かれました……」
当たって砕けてしまったら、失恋なのでは。和泉が砕けるつもりで来たのかはわからない。
春田はドアの隙間から、ドキドキを抑えていた右手を和泉の頬へと伸ばしてみる。時節柄この世のものではない存在もうろつくようだし、自分がドラマを観ながら寝落ちして夢を見ているパターンもある。
手のひらがぺたりと貼りついた頬は汗ばんでいて、あたたかかった。
「……春田、さん?」
頬に触られた和泉はわかりやすく戸惑う目をした。この慌てる感じは天空不動産での和泉っぽい。
「なんか、恋愛ドラマみたいだなって思って」
ベタな展開だろうと恋をしているふたりがハッピーエンドに進めるなら、こんな展開もあり。
だけど自分自身が和泉に恋をしているかはまだわからない。抑えられないドキドキはこの胸の奥から起きていても、それが恋とも限らない。ドラマみたいな恋にあこがれる年頃もとっくに過ぎている。
頬に触れる右手の上から、和泉の左手が重ねられた。和泉は頬から手をずらし、手のひらへキスをしてくる。
「……本当に、春田さんのことが好きです」
また、そんな、かっこよさげな。ドキドキして止まらない。どう頑張って理性的になろうとしても、全然冷えない空気が乱してくる。夏にありがちな勢いとかワンナイトとか、そんなに若くもないのに。
ドアのチェーンを外すと同時に気持ちのタガも外れてしまいそう――和泉の顔を見た瞬間から言いたかった。
「おれも、和泉さんに会いたかった」
暑い昼間の名残を抱いたままの空気が全身にまとわりつく、その正面から抱きしめられた。
ワイシャツから首筋から感じる、和泉の持つにおいが気付かせてくれる。このひとが好きだと。
今季観ているドラマをリアルタイム視聴し、明日に備えてそろそろ寝ようとしていた時だった。
こんな遅い時間に訪ねてくるなんて誰だろう。知り合いならまだしも、知り合いではなくドロボーさんやその類の人なら怖すぎる。もしかしたら隣室の住人が部屋を間違えただけの可能性もあるが。
狭い玄関に行ってすぐ、施錠しただけのドアにチェーンを掛けた。そしてドアの外に居るだろう誰かの様子をスコープからうかがってみる。
(……和泉さん?)
ドア板一枚隔てた外に佇む姿とうつむき加減な顔から、以前ともに働いていた和泉幸のように思う。
それでも油断はできないので、春田はドアを開けずに呼び掛けてみた。
「和泉、さん?」
春田が声を掛けると、ドアの向こうから「はい」と返ってくる。よく聞いていた自信なさげで穏やかな低音だ。
久しぶりに耳にした声が胸の奥をくすぐる感じがした。和泉は天空不動産を退職した後、前職の警察官に復帰したとしか知らなかったから。
天空不動産に和泉がいた時は、今は別の住人がいる隣室に住んでいた。短期間に和泉とはいろいろありすぎて、それもいい思い出になりかけていたところ。
チェーンは掛けたまま、カギを外して少しだけドアを開けてみた。もわっと入り込んでくる真夏の夜の生ぬるい空気。
開けた隙間から覗いてみると、和泉と目が合った。緩められたネクタイ、ハリを失ったワイシャツの襟、無造作に肘まで捲られた袖、鼻の下と顎に少し伸びたヒゲ。乱れた前髪の幾筋かが額と目元に陰をつくっている。
「すみません……こんな遅くに訪ねてしまって」
申し訳なさそうにする和泉に、春田は首を横に振った。もしかしたら警察の仕事なのかもしれない。
ドラマを観ている間にパトカーのサイレンは鳴っていなかったと思うが……。
「どうしたんすか、聞き込みとか?」
「いえ……あの、仕事ではなくて……仕事なら一人では来ません」
警察官が単独行動することは基本的にない。パトロールにしろ捜査にしろ複数名で行う。
今夜はもう仕事は終わって、プライベートの時間らしい。だったらなおのこと、こんな夜中にどうして来たんだろう。
それに和泉には付き合っている相手がいるはずだ。子細は聞かされてはいないものの、長年の知り合いと、とは伝わってきている。
「春田さん……」
ドアとの距離を詰めてくる靴音がした。春田との視線も短くなる。生ぬるい空気に溶け込む汗のにおい。
いとおしそうに歪むまなざしには見覚えがあった――和泉が、亡くしてしまった恋人の墓前で浮かべた泣き笑いのような表情に宿していたのと似ている。燃えているみたい。
「あなたに会いたくて、来てしまいました」
甘さと欲の混ざった吐息が空気に同化した。まるで好きな相手にでも会いに来たような言い方。
奥からドキドキしかける胸を、春田はTシャツの上から右手で押さえた。
和泉とは何もなかったとも言えないが、和泉からすれば春田創一との間には何もなかった。なのに自分だけが覚えている、血の味のキスが急に思い出される。
「……なんで、急に会いに来たんすか」
チェーンは外さないでおいて、春田は訪ねてきた理由を問いかけた。元上司と部下で、隣人だった以外の関係は自分たちにはないのだから、何らかの理由を和泉は持ち合わせているはず。こんな夜半に訪ねてくるのなら連絡のひとつもくれればいいのに……そう考えて、和泉と連絡先を交換していなかったと気付く。
仕事以外での接点もあまりなかったし、和泉がわざとそうしていたような。
「どうしても、春田さんのことが忘れられなくて……。俺、あなたと働いていた時に呼吸の仕方を思い出せました。苦しい気持ちをあなたが楽にしてくれた。でも、春田さんと離れて、また息苦しさを感じてしまって」
さながら恋愛ドラマのような言葉だ。きっとドラマならすぐにチェーンを外して和泉を部屋に招き入れて、深い関係になる流れになるだろうか……。現実問題、付き合っている相手がいると噂されているのに部屋に入れようものなら確実に修羅場が来る。そんなの二度とごめんだ。
「和泉さん、付き合っている人いるんでしょ? なんかずっと和泉さんのこと支えてたとかって」
ずっと前から片想いしてたとか、仕事の面でもパートナーとか健気さをやけに強調された説明だったが、和泉が自分から相手を選んで警察に戻ったのだ。裏切っては刺されるどころではない。
「支えてもらっていたのを感謝する気持ちと、春田さんのことが好きという気持ちは全く別ものなんですが……。それに俺、今は誰とも付き合っていませんよ……?」
「…………はい?」
誰から流れてきたか、噂は所詮噂でしかない。何がフェイクで何が本当か、情報は人を振り回す。
和泉だって「付き合っている相手はいない」とウソをついているのかも知れないから。
「どこの誰がどう言ったのかは知りませんが、俺が今好きなのは春田さんしかいない……。警察に復職すると決めて、離れてしまうのに告白しても迷惑なだけだと思って送別会の時は言えなかった。でも忘れられなくて、告白しなかったことが悔やまれて仕方なくて」
ドラマよりもドラマみたいだった。穏やかな声が熱を帯びていく。いろいろなウソを知っているはずの目なのに、とても焦っている。恋をした本気の色にまみれたまなざしはどこかで見てきたのに、最近は遠ざかっていて。
「うじうじしてるくらいなら当たって砕けて来いと、同僚から背中を叩かれました……」
当たって砕けてしまったら、失恋なのでは。和泉が砕けるつもりで来たのかはわからない。
春田はドアの隙間から、ドキドキを抑えていた右手を和泉の頬へと伸ばしてみる。時節柄この世のものではない存在もうろつくようだし、自分がドラマを観ながら寝落ちして夢を見ているパターンもある。
手のひらがぺたりと貼りついた頬は汗ばんでいて、あたたかかった。
「……春田、さん?」
頬に触られた和泉はわかりやすく戸惑う目をした。この慌てる感じは天空不動産での和泉っぽい。
「なんか、恋愛ドラマみたいだなって思って」
ベタな展開だろうと恋をしているふたりがハッピーエンドに進めるなら、こんな展開もあり。
だけど自分自身が和泉に恋をしているかはまだわからない。抑えられないドキドキはこの胸の奥から起きていても、それが恋とも限らない。ドラマみたいな恋にあこがれる年頃もとっくに過ぎている。
頬に触れる右手の上から、和泉の左手が重ねられた。和泉は頬から手をずらし、手のひらへキスをしてくる。
「……本当に、春田さんのことが好きです」
また、そんな、かっこよさげな。ドキドキして止まらない。どう頑張って理性的になろうとしても、全然冷えない空気が乱してくる。夏にありがちな勢いとかワンナイトとか、そんなに若くもないのに。
ドアのチェーンを外すと同時に気持ちのタガも外れてしまいそう――和泉の顔を見た瞬間から言いたかった。
「おれも、和泉さんに会いたかった」
暑い昼間の名残を抱いたままの空気が全身にまとわりつく、その正面から抱きしめられた。
ワイシャツから首筋から感じる、和泉の持つにおいが気付かせてくれる。このひとが好きだと。
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