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まずは『友達』から【いずはる】

Side:H


 和泉の手が頬を撫でる。優しい感触になんとなく覚えがあった。
 色気を灯して消えないまなざしに射抜かれてドキッとしてしまう。
「和泉さん……おれが一人になって嬉しかったって……なんで?」
 結婚披露パーティーにも参加して祝ってくれていたと思っていたのに、別れたことが嬉しいなんて。もしかしたら和泉も牧に恋をしていたのかと春田は明後日の方向の勘繰りをしてしまう。それとも、他人の幸せが妬ましいタイプなのか。
「春田さんが一人になったということは、私にもチャンスが巡って来たと思って」
「――チャンス?」
「はい。春田さんが、好きです」
 艶めいて熱っぽい低音が紡ぎ出した言葉が春田の思考回路を一瞬ストップさせた――スキデス、すきです、好きです――耳の奥で何度もリフレインする甘すぎる声音。

「……だっ……だからっておれ、すぐに転ばないし!」
 そんな余韻を振り切るように春田は叫んだ。牧がまだ心にいるのに、好きと言われてもすぐに和泉に乗り換えられるものか。
 深酒から吐いて後片付けまでさせておいて、恥ずかしいところはもう晒してしまったとは言え。
「けれど、私――俺も、こんな絶好の機会を逃すつもりはありません」
 春田に愛するパートナーがいたから片想いを伝えないまま離れた。そのハードルが無くなってしまった今、遠慮はしない――穏やかで、優しげで、悲しみを移していたおもてがはっきりと、ケダモノじみた欲を濃くした男のそれになっている。
 視線を突き刺されて目を離せない。心臓がどくん、どくんと強く脈打つ。頬も耳も熱くなっているのがわかるのに、ごまかす言葉も出てこなかった。

「牧さんからあなたを奪ってしまおうとも考えました。でも、俺は春田さんの笑顔と優しさに救われて好きになったから、そうするべきではないと諦めました――牧さんがあなたから離れたなら、告白しても罪にはならないでしょう?」
 聞いてはいけなかったような、思いの外激情的な告白にいよいよ春田もわからなくなってくる。
 牧が自分を捨てて出て行ってしまったから、別れてしまったから裏切ることにはならないにしても、妙な後ろめたさはある。
 和泉の心の奥に、もうこの世にはいない恋人への永遠の愛があるように、昨日今日で忘れられる恋でもない。
 もしも牧が戻ってきた時に和泉が隣にいたら、牧はどんな顔をするんだろう――別れた時の牧の顔を思い出してみて、泣きそうになってしまった。

 牧が大きな案件を抱えて昼夜頑張っているから、自分はサポートをしっかりできるように励んでいた。
 帰りも遅かったし、休みの日にも呼び出されて出社したり、疲れていた夫が家ではゆっくりできるように努力していたつもりなのに――逆に責任を感じさせてしまった。気遣いが重いとはっきり言われてしまった。
 それからすれ違っていって、遂には必要最小限しか口もきかなくなり……牧は、荷物をまとめて実家に帰った。実家の方がまだ楽だと言い残して、それきり連絡もない。
 あの時の、一切の感情を失くした顔。目はこちらに向かないまま背を向けられた。
 嫌われたならそれはそれで構わない。だが、あの時の牧は「もう春田創一に興味はない」顔をしていた。
 道端の雑草やゴミと同じ。気に留める必要すら――。
 戻ってきても牧は笑ってくれないだろう。荷物も引き払ったから戻る理由すら彼が自ら回収していった。
 縋るものを失って、酒の量も増えた。牧が帰ってこない家に帰っても虚しいだけだから。
 人生をかけた本気の恋をして弱くなってしまった。その責任を取れるのは他でもない自分自身だけ。二人で抱えきれなかったものなのに一人で全部抱えるのは辛すぎる。だから酒に頼って、一時でも辛さを忘れたかった。

 こんなに未練たらしくて惨めで弱っちい自分に好きと言うなんて、和泉も大概人が良すぎる。
 いつの間にか溢れていた涙に、和泉の指が寄り添った。
「……春田さんが牧さんを忘れられないなら、それでいいです。俺も秋斗のことは忘れられませんからね……でも、秋斗への気持ちと春田さんへの気持ちは別なので」
「……だったら、なおさらダメっすよ……そんなの、秋斗さんが」
「かわいそう?」
 言おうとしていたことを先に和泉に拾われた。呆れを隠さない小さなため息に、その言葉が生者のエゴだと春田も理解する。
 もしくは逝ってしまった恋人を想って、二度と恋をするなと決めつけている傲慢。
 別れた人が生きているから次の恋をしていいという理屈もない。するかしないか、結局は自分次第だから。
「ごめんなさい……でも、おれ、まだ次の恋とかわかんなくて。好きって言われたのは嬉しいんすけど」
 和泉と恋をするか、まだ考えられない。思いを素直に言ってみると、和泉は知っている穏やかな笑みを浮かべてみせる。
「いえ、まったく脈がないということでもないようなので、俺としては喜ばしい限りです」
「っ……!」
 ベッドがギシっと大きな音を立てた。裸の胸が密着している。傷痕の見える肩口に少しくせのある髪。背中と肩に伝わる腕の力強さとあたたかさ。
 包み込まれるように抱きしめられるなんて、幼い頃以来かも知れない。
「……春田さん、次に飲みに行く時は連絡ください」
「?」
 友達から、飲み友達から始めましょうという感じか。恋に発展するかはともかく、お付き合いするなら気軽なところからでもいい。
 春田が頷くと、和泉は軽く背中を叩いてきた。
「無茶な飲み方はさせませんから。……ゆうべ吐いてたものがほとんど液体で、固形物らしきものがなかったので」
「……そんなとこまで見ないでくださいよぉ」
「すみません、癖で。飲むにしても楽しく健康的な方がいいでしょう?」
 泥酔の痴態どころか吐いたものの内容までも見られていた。恥ずかしすぎてもう隠せるものもない気がする――まあ、隠し事ばかりよりはマシだろう。
 鍛えられた和泉の胸に、春田は頭を預ける。鼓動が急いでいるように聞こえた。
 ドキドキ高鳴っている胸の音にまで「好き」と言われていると思えてくる。それでいて安心する音。背中を抱く手のひらから指先へ力が入った。
「和泉さん……ありがとう。次に飲みに行くとき連絡しますね」
「はい、是非。……飲みだけじゃなくてもいいですよ、俺からも連絡しますから」
「うん……」

 心の奥に、新しいぬくもりが灯る。肌の表面から優しく伝わる体温と鼓動がそのぬくもりをじんわり、ゆっくり身体のすみずみへと運んでいく感覚。はたして和泉を好きだと想える日が来るか、今はわからないけれど。
 春田は和泉の背中に腕を回して、静かに泣いた。これが牧への――好きだった男への、最後の涙と決めて。

■■■

Side:I


――腕のなかで静かに泣く春田に、和泉は声を掛けずにいた。その涙の意味がなんとなくわかるから、春田が自身の気持ちへの区切りをつけるためだろうと感じるから、肩や背をそっと撫でるだけ。
 過去があって現在の自分がいる。秋斗との恋も人生で数度あった恋のひとつ。
 だが、秋斗の命の時間が突然終わった日、一生心の奥に残り続ける強烈な記憶になった。
 仕種もまなざしも体温も指先もキスも、彼とのすべてが感情と共に忘れられない大切な思い出。

 自分がこうして秋斗を忘れていないのだから、春田にとっての牧凌太も同じ――無理に忘れてくれなくてもいい。
 春田が春田なりに昇華できる日まで、いつまでだって待つつもりだ。それに、牧凌太の存在があったから現在の春田創一がいる。
 通って来た時間が、日々が春田創一をつくってきたのだから、彼の通って来た時間ごと愛おしみたい。
(いいよな、秋斗……)
 答えのない問いは自らの心の奥へ――心臓が動いているから、生きているから恋をしている。叶っても叶わなくても、誰かのことを好きになれる奇跡は滅多にない喜び。

「…………和泉さん」
 小さな声で呼ばれて春田の顔を見ると、目も目元も真っ赤だった。それでもどこかすっきりしているような表情でいる。
「好きになれるかわかんないけど、よろしくお願いします……で、いい?」
 泣いたあととは別の色が頬から耳へと広がっていく。その様子にまた胸が高鳴りを覚えた。
「はい……! よろしくお願いします、春田さん」



 恋をする方へ、二人の距離は少しばかり近づけただろうか。
 どんな過去も抱きしめて、これから紡いでいく恋の方へ始まりの鐘は高らかに鳴り渡る。

 とりあえず最初は、何でも話せる『友達』から――。
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