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なんでもない特別な日【いずはる】

 春田創一、四十歳を迎えてもうすぐ一年が経つ。日々の流れはあまり変わらないような気がしていても、実際はもう一ヶ月過ぎるのかなんて、毎月カレンダーを見ては驚いている自分がいる……今の自分がいちばん若いなんて、どこの誰が言っていたものか――。
 疲れは少し抜けにくくなってきたし、筋肉痛も遅れて来るし、新入社員の若さをまぶしく感じることもある。
 それでも、若い頃に戻りたいかと言われればそうでもないと思う。年齢と経験値を重ねてきたからこそ気付いたり、得られたこともあるのだから、歳を取るのは存外悪くない。無事に一年生きてきただけでも大したことだ。

 午後の物件内見の準備をしているところに、デスクに置いていたスマートフォンがバイブした。メッセージの着信を報せてくれている。
「……あ」
 送信元の名前を見て、思わず春田はにやけてしまう。それは恋人の和泉幸からだった。

 和泉は昨年の初めに中途入社してきた、ちょっと訳アリで、春田のはじめての部下だった年上の男性。研修期間終了を待たずして退職したので、実際天空不動産にいたのは二ヶ月半程度。
 しかしその二ヶ月半程の間で様々な出来事があり、お互いに恋を意識するまでになっていった。
 きちんと恋人として付き合い始めたのが昨年の春田の誕生日――だから、五月五日は春田の誕生日であると同時に和泉と付き合い始めた記念日でもある。
 とは言え、春の大型連休中の祝日で月曜日。不動産会社が集客の見込める大型連休にイベントをぶちこまない理由がない。なので、誕生日当日ではなく公休日の水曜日に落ち着いてやろうと和泉とは話し合っていた。たった二ヶ月半の勤務でも内部事情を知っていてくれる恋人の存在はとてもありがたいものだ。

 和泉も和泉で警察官に復職した後は交番勤務を経て、再び公安部へと戻っていた。
 公安部は不定休で休みを取るのも骨が折れると、和泉が一度警察を辞める時までバディを組んでいた六道菊之助がこぼしていたものだ。
 和泉からのメッセージは、休みが取れたという嬉しい報告だった。急な呼び出しさえなければ一日じゅう一緒に過ごせる。
「……ありがと、幸さん」
 呟いたままの言葉を、春田は打ち込んで返信した。



 日帰り旅行やホテルのレストランで食事などのプランも一応考えはした。和泉からも、「春田さんのためなら出し惜しみしません」と言われもした。
 だが、和泉が連勤続きのなかから休みを勝ち取ってくれたかと思うと、余計な体力も使わせたくないし、外で他人に気を遣わせたくもない――だから、家で何も取り繕わず、一日ゆっくり過ごそうと決めた。
 公安部の仕事で帰宅どころかなかなか休憩もままならない和泉を一日じゅう独り占めできるなんて、とても贅沢だと思う。

 夜中でも朝でもいい、和泉が帰ってくるまで起きているつもりで、春田は少し濃いめのコーヒーを淹れた。飲んでみるとやはり苦いので、砂糖を少しとミルクをたっぷり注ぐ。カフェインが目を覚ましてくれるなら、ブラックコーヒーではなくても大丈夫なはず。
 スマートフォンで動画を見ながら時間が過ぎていくのを、和泉が帰るのをひたすら待つ。
 ひとりぼっちのリビングは静かで、深夜に差し掛かるころだからか余計にしんとしている。動画の明るいBGMさえも静寂へ吸い込まれるような。

 お笑い芸人の無茶ぶりチャレンジ、簡単かつ短時間でできるスイーツ、プロ野球の結果、注目アーティストのPV……何を、どこまで見たのだろうか。頭も意識もいつの間にかクッションの柔らかさに沈んでいく。
 まだ眠りたくないと思ってもまぶたは勝手に重くなっていった。飲み切れていない濃いめのコーヒーも効きやしない。
 三十代だったらまだ、もう少しくらいは起きていられたのに――こんなところでまた、重ねた歳を実感してしまう。
(……もうちょっと、頑張らなきゃ)
 眠気に支配されつつある身体をなんとか起こして、春田はトイレへ向かった。用を足した後、冷たい水で顔を洗うと眠気が少しだけ消えてくれる。
 キッチンで水をコップに一杯飲んでからリビングに戻り、ソファに浅く腰掛ける。日付をほんの少し跨いだ時間、いつもならもうベッドで寝てしまっている。こんな時間まで起きているなんて最近は大晦日くらい。徹夜はいつの間にか、ほとんどできなくなっていた。

 自分よりも六歳も上の和泉はどうやって公安警察の仕事をしているんだろう。
 一般企業でも過労で倒れる人間は多いのに、何日も不休で働き、せっかく取れた休みも自分なんかのために使わせて本当にいいのか。
(……幸さん、もうちょい自分のこと大切にしてくれればいいのに)
 出会った当初の、生きていても仕方ないという雰囲気だった和泉がふと思い出された。
 大けがをして命を投げ出すように、亡くなった恋人の復讐ばかり考えていた頃の和泉を思うと、今の彼は穏やかで生きる気力に満ちている。
 それでも警察官で、毎日世のため人のために身を粉にして働いている。和泉自身が望んだ生き方だから否定はしないが、心配は拭えない。
 今夜も無事で、帰ってきてくれさえすればそれだけで――。

「…………起きてたんですか」

 頭上から影で覆われた。穏やかな低い声が降ってくる。足元にあった目線を上げると照明を背に、額に影をつくる緩いウェーブの前髪が見えた。
 疲れが顔に浮かんでいる。それでもまなざしは優しくて熱っぽい。伸ばされてきた手が春田の頬を包んだ。
「……ただいま、創一」
 薄手のコートの襟へ春田は両手を伸ばした。膝の上に置いていたスマートフォンが滑り落ちるのを気にする余裕もない。
「幸さん、おかえり……っ」
 声をそのままくちびるに重ねて閉じ込める。わずかに血のにおいと、ブラックコーヒーの味がするキス。
 ようやく感じられる生きている心地。大好きなひとのぬくもりとにおいに春田はきつく抱きしめられた。
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