猫と春。①

 観葉植物どころか、家具も大して見当たらない。元々作りつけられている棚以外は、通勤用カバンと放り出されている替えの衣類など、そして最低限の生活必需品。
 生活のにおいがほとんど感じられない部屋には、こうなることがわかりきっているかのように応急手当セットがあった。包帯にガーゼ、固定用テープ、傷用の軟膏に解熱剤……。
 部屋を血で汚すまいと、春田は浴室で和泉の手当てをしていたのだが、自分より体格のよい成人男性――しかも意識がない人間のケアは一人では大変すぎる。
 猫の手も借りたいところだが、一緒に入り込んできた黒猫は和泉の傍にいておとなしくしているだけだ。
 幸いにも出血は止まっていた。シャワーで洗い流した傷口に軟膏を塗ったガーゼを貼って、テープで止めるまでした春田は、タオルと着替えを探したが、見当たらなかったので急ぎ自身の部屋に走った。
 タオルと洗い替えのスウェット上下を取りに行って戻る時、玄関先に和泉の血が落ちていないか確認して、それらしきものがないことに一先ず胸を撫で下ろす。
 本当は腹に傷をこさえた人間が意識なく倒れている時点で、救急や警察に通報すべきだったと今も思ってはいる。しかし、あの黒猫に「ダメだ」と強く止められた気がした。
 奇妙な猫だ。なんだか、猫の姿だけして、心は人間みたい。
(……そんなわけ、ないよな……? 映画とかじゃあるまいし)
 大切な人間を見守るために、死んだ人間が別の姿に転生するフィクションはごまんとあれど、それが現実で起きるとは限らない。天国から見守っているとか、守護霊になったくらいは信じられるかもだけど。
 再び和泉の部屋に入ると、浴室から黒猫がひょこっと顔を出した。
「んなーーお、にゃにゃん!」
 金色の眸をきらきらさせて、なんだか喜んでいるように見えた。もしかして、和泉が目覚めたのか。
「――和泉、さん?」
 替えのスウェットは脱衣所に置き、バスタオルを持って洗い場に入ると和泉の眸がはっきりこちらを見た。数度まばたきを繰り返したあと、和泉は洗い場の床に横たえられた身体を反射的に起こすが――。
「っ……ぐう……っ!」
 脇腹に浅くない傷があるのだから、当然ながら響く。手当てされた傷を押さえながら、今度はゆっくりと、痛みに顔をしかめつつも起き上がり、辺りを見回した。
「…………春田、さん?」
 何故自分がここにいるのかわからない。そんな表情で和泉は春田を見上げてきた。
「和泉さん、ケガして倒れてたんすよ。ほんとは救急車呼びたかったんですけど、ワケありっぽいんで勝手に鍵借りちゃいました」
 バスタオルを和泉に差し出しながら、春田は経緯を説明した。コートや服を脱がせたり、傷口を洗う際にズボンなどを濡らしてしまったことも同時に謝る。
 手当ての経験なんかないので、傷口に貼り付けたガーゼがもう緩んでいる。傷口の大きさからして、ドラッグストアに売っている大きめのサイズのパッドの方が安全かもしれない。
「……すみません、お手数をかけました」
 和泉は小さく頭を下げた。どこで腹に傷を負ったのか明かすではなく。
「なーん」
 頭を下げて俯いたままの和泉の膝へ、黒猫がゆったりとした動作で乗り上がった。
「そうだ。和泉さんが倒れてたの教えてくれたの、こいつなんです。命の恩人なんで、ちゃんとお礼してあげてくださいね」
 膝の上でゴロゴロ喉を鳴らす黒猫。不思議なやつだと春田は思った。和泉が春田から受け取ったバスタオルで両手を拭いたあと、ぎこちなくもしなやかなウェーブの背中を撫でる様子はとても微笑ましい。本当に見知らぬ一人と一匹なのかと
疑ってしまうくらい、仲の良い姿に見えてくる。
 和泉の容態も悪くはなさそうなので、着替えを手伝ったら自分の部屋に戻ってもよさそうだ。春田も春田で、顔やスウェットに和泉の血がついていた。
「和泉さん着替えられたら、おれ一旦帰りますね。後で大きな絆創膏買ってきますけど、必要なものあったら遠慮なく言ってくださいね。スウェット、おれのだから脚の長さ合わないかもだけど」
 とりあえずの着替えとして持ってきたスウェットの存在を告げると、「にゃおお」と黒猫が和泉の膝から下りてきて、春田の足元にまとわりついてくる。自分も春田の部屋についていくと言わんばかりに。このアパートはペット禁止なので、いくら可愛い猫だろうと室内にいるのがバレたら最悪退去だ。先日話していたのを覚えていたにしても、賢い。
 人間ひとりを助ける活躍をしたのだから、朝ごはんくらいは与えてもいいだろうか。
「春田さん……」
 和泉の絆創膏を買うついでに黒猫のフードもと思う背後から、和泉の声がした。傷のある横腹を押さえながらも、自力で立てていた。
 傷を洗う時に上衣はすべて脱がせていたので、今の和泉は上半身裸だ。
 四十代後半にしては程よく鍛えられ、無駄な脂肪のない引き締まった体躯をしている。左肩に目立つ傷痕、そして小さいながらも身体の数か所にも点在している。
 先ほどは介抱と手当てに集中していて気付かなかったが、胸元に銀色のロケットペンダントが光っている。
 前職は明かしたくないと入社初日に和泉が言っていたのを春田は思い出した。想像でしかないが、裏社会みたいなところと繋がりのあるお仕事だったのかも――腹に傷をつくるなんて手術でもしなければ何らかのワケありと、自分ではなくても考えるだろう。
 和泉から話してくれるまでは詮索しないでおこう。足元をうろつく黒猫が前足でつま先を踏みつけて来たので、春田は近づいてきた和泉と少し距離を取った。
「それじゃ、また後で来ますんで……」
「ありがとう、ございます……」
(……あ)
 初めて、和泉幸の双眸とまともに目線が交わった気がした。こちらをまっすぐ見つめようとするまなざしは困っているような、戸惑っているような、鳴いているような――胸の奥底で、久しく聞いていなかったその音が、わずかに鳴って波紋を形づくる感覚がしたような……。
(……?)
 黒猫がしびれを切らしたか、すかさず脛にパンチを当ててくる。複雑に感情が混ざった和泉のまなざしを背にして、春田はそそくさと部屋を後にした。
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