【番外編】雨の日、小春日和
何を映しているのかわからない。その両目に、自分の姿が映ることはない――そうわかっていても長年の想いは捨てきれない。
コンビニエンスストア内のゴミ箱に、六道菊之助は目をやった。どうしたら片想いを捨てられる踏ん切りがつくのだろう。
冬を呼ぶ雨が降りしきる土曜日。張り込み場所からはやや遠くにあるこの店にもホットドリンクが目立つようになり、カウンター上のケースでは冬の風物詩たる中華まんが温められている。冷え込んでくれば売れるものは必然的にあたたかいものだ。
入れ替わり立ち代わり、コンビニの利用客は引っ切り無し。カップ麺のフタを開けたどこぞのトラックドライバーらしき恰幅の好い中年男性に睨まれたので、六道はゴミ箱の前から離れた。
飲み物と適当に選んだパン。カロリーと栄養補助のための箱入りのクッキーバー。
それらは左手に持ったレジ袋に入っていて、右手にはなんとなく買ってしまったあんまんの入った紙袋。
張り込み場所に戻るころにはきっと冷めてしまっている。なんだか、隣にいてもこっちを見てくれないあの人のようだ。生きているくせして、現実を映していない冷めた目を思い出す。
愛が彼を動かしている。そして憎しみも同じく、彼の心臓を燃やしている。そのどれもが自分には向けられていない。
想っていても伝えなければ相手はわからない。見つめているだけではどうにもならないと知っている。だけど、もし、想いを伝えて拒否されてしまったら? 築いた関係や信頼が、過ごした時間すら意味を変えてしまう。
関係が変わることを望んでいるのに、関係が変わることを恐れている。その先を思い起こせなくなっていたのは一体いつの頃だったか。この二十年近く、ずっと自分自身が変われずにいるから、あの人が愛憎によって変わってしまったのを目の当たりにしてしまったから……未来が、想像できない。
雨落とす空と同じ、重い灰色だ。
開いた自動ドアの外へ出た途端だった。正面から勢いよく走ってきた子どもにぶつかられ、そのはずみで右手に持っていたあんまん入りの袋が手から離れて宙に舞った。
それは濡れた道路に転がり、水たまりに浸かってしまう。子どもの後を追ってきた父親と思しき男性はこちらに一瞥だけくれ、何も言わずに店内へ入っていった。
ため息も出てこなかった。レジ袋に入れておけば起こらなかった事態だろう。けれど、選んだレジ袋がいちばん小さいサイズだったので、あんまんは入りきらなかっただけ。走ってくる子どもはブレーキなんかかけられない生きものだ。
白い紙袋にじわっと濁った水の色が染みていく。さすがに拾っても喰えはしない。だが、このまま放置しておいてカラスに散らかされてもいけないので、拾ってゴミ箱に捨てようと思った。
「あの……もしかして、落としちゃったんすか?」
水たまりからあんまんを拾うべく身を屈ませた、その背後から不意に声をかけられた。
振り向いて六道は目を見張った。映った姿は真崎秋斗――長年片想いしているあの人に、愛と憎しみという強烈な感情を遺して死んでいった――六道の同期だった男と同じだった。あいつが生き返ったと思えるくらい。
脳裏に浮かぶ、いつも自分の前を走って不敵に笑っていた在りし日の真崎の姿。嫌いだった。何でも先に奪っていってしまう真崎秋斗のことが心底。だから、真崎の訃報を聞いて、これでようやく自分に順番が回って来たと内心ほっとしていた。
もうこの世からいなくなってしまった真崎への想いにしがみついているあの人も、そのうち忘れてしまってこっちを見てくれると信じていたのに――。
「こういう日もありますよね。雨降ってるし、みんな慌てちゃうんすよ」
真崎秋斗と同じ顔をしているのに、喋り方はまるで違った。生意気だった真崎の口調を思い出してしまい、六道はすこ混乱してしまう。
そして、目の前の彼は先ほど子どもがぶつかっていったのを見ていたらしい。
「よかったら、これ食ってください。多めに買ったやつなんで」
彼の両手には大きいサイズのレジ袋いっぱいの荷物。右手に持っていたのを肘あたりに提げ、左手の袋に手を突っ込む。そこからあんまんが入っていたのと同じ包みを出した。
「あ、でも……落としたのは俺のミスなので」
「いいんすよ。落としたまんまでがっかりするより、ちょっとはあったかくなるから」
その右手から六道の空の右手へと、あたたかい包みが渡る。中身は違うかも知れないけれど、と彼は屈託なく笑ってみせた。真崎とは全然似ていない、朗らかで陽だまりのような笑顔。
彼のまとうスーツの上着にネームプレートが付いているのが見えたので、こっそり確認してみた。
(天空不動産…………春田、創一……)
コンビニの付近に数か所、同名の会社名ののぼりが立っていたので、住宅展示会を近くで開催しているのだろうか。天空不動産のオフィスビルはもう少し遠いから。
「それじゃ、あっちの落ちてるやつ、捨てておきますね」
春田創一の肩にも冷たい雨が落ちてきていた。それを気にすることもなく、水たまりからもう食べられないあんまんの包みを拾い上げ、店内に戻ってすぐに出てくる。
「あったかいうちに食べちゃってくださいね」
雨の中、傘も差さずに春田創一は駆け足で行ってしまった。
空気は変わらず冷たさを帯びて体温を下げようとするのに、右手に持った中華まんの包みだけではなく胸のまんなかもあったかい。
六道は包みのテープを剝がして中を見た。つるりと白くなめらかな、丸みのある見た目はあんまんだ。
遠慮なくかぶりつくと、もちもち、ふわっとした皮の歯ざわり。たっぷり入っているつぶあんの優しい甘さが、胸のまんなかに灯ったあったかさに寄り添ってくれるようだ。
「…………うま」
呟くと、涙が一粒、ぽろっと出てくる。鼻の奥がつんとした。むせそうになったが、六道はあんまんを一気に食べ切った。
最後の一口を飲み下した後、袖口で目元を拭う。自分が落としてしまったあんまんが浸かっていた水たまりに、雨粒が次々と波紋を描き出す。
店内から先ほどの子どもと父親が出てきた。父親はバツの悪そうな顔で、六道に対し小さく頭を下げていった。どういう心境の変化だろう――。
「…………ま、いいか」
空模様はしばらく変わりそうにない。変わらないものを黙って待っていても仕方ないから、走る。
今日、胸に灯った熱にどんな名前を付けようか。降り積もった片想いの残骸を燃やし始めたこの熱の名前は。
コンビニエンスストア内のゴミ箱に、六道菊之助は目をやった。どうしたら片想いを捨てられる踏ん切りがつくのだろう。
冬を呼ぶ雨が降りしきる土曜日。張り込み場所からはやや遠くにあるこの店にもホットドリンクが目立つようになり、カウンター上のケースでは冬の風物詩たる中華まんが温められている。冷え込んでくれば売れるものは必然的にあたたかいものだ。
入れ替わり立ち代わり、コンビニの利用客は引っ切り無し。カップ麺のフタを開けたどこぞのトラックドライバーらしき恰幅の好い中年男性に睨まれたので、六道はゴミ箱の前から離れた。
飲み物と適当に選んだパン。カロリーと栄養補助のための箱入りのクッキーバー。
それらは左手に持ったレジ袋に入っていて、右手にはなんとなく買ってしまったあんまんの入った紙袋。
張り込み場所に戻るころにはきっと冷めてしまっている。なんだか、隣にいてもこっちを見てくれないあの人のようだ。生きているくせして、現実を映していない冷めた目を思い出す。
愛が彼を動かしている。そして憎しみも同じく、彼の心臓を燃やしている。そのどれもが自分には向けられていない。
想っていても伝えなければ相手はわからない。見つめているだけではどうにもならないと知っている。だけど、もし、想いを伝えて拒否されてしまったら? 築いた関係や信頼が、過ごした時間すら意味を変えてしまう。
関係が変わることを望んでいるのに、関係が変わることを恐れている。その先を思い起こせなくなっていたのは一体いつの頃だったか。この二十年近く、ずっと自分自身が変われずにいるから、あの人が愛憎によって変わってしまったのを目の当たりにしてしまったから……未来が、想像できない。
雨落とす空と同じ、重い灰色だ。
開いた自動ドアの外へ出た途端だった。正面から勢いよく走ってきた子どもにぶつかられ、そのはずみで右手に持っていたあんまん入りの袋が手から離れて宙に舞った。
それは濡れた道路に転がり、水たまりに浸かってしまう。子どもの後を追ってきた父親と思しき男性はこちらに一瞥だけくれ、何も言わずに店内へ入っていった。
ため息も出てこなかった。レジ袋に入れておけば起こらなかった事態だろう。けれど、選んだレジ袋がいちばん小さいサイズだったので、あんまんは入りきらなかっただけ。走ってくる子どもはブレーキなんかかけられない生きものだ。
白い紙袋にじわっと濁った水の色が染みていく。さすがに拾っても喰えはしない。だが、このまま放置しておいてカラスに散らかされてもいけないので、拾ってゴミ箱に捨てようと思った。
「あの……もしかして、落としちゃったんすか?」
水たまりからあんまんを拾うべく身を屈ませた、その背後から不意に声をかけられた。
振り向いて六道は目を見張った。映った姿は真崎秋斗――長年片想いしているあの人に、愛と憎しみという強烈な感情を遺して死んでいった――六道の同期だった男と同じだった。あいつが生き返ったと思えるくらい。
脳裏に浮かぶ、いつも自分の前を走って不敵に笑っていた在りし日の真崎の姿。嫌いだった。何でも先に奪っていってしまう真崎秋斗のことが心底。だから、真崎の訃報を聞いて、これでようやく自分に順番が回って来たと内心ほっとしていた。
もうこの世からいなくなってしまった真崎への想いにしがみついているあの人も、そのうち忘れてしまってこっちを見てくれると信じていたのに――。
「こういう日もありますよね。雨降ってるし、みんな慌てちゃうんすよ」
真崎秋斗と同じ顔をしているのに、喋り方はまるで違った。生意気だった真崎の口調を思い出してしまい、六道はすこ混乱してしまう。
そして、目の前の彼は先ほど子どもがぶつかっていったのを見ていたらしい。
「よかったら、これ食ってください。多めに買ったやつなんで」
彼の両手には大きいサイズのレジ袋いっぱいの荷物。右手に持っていたのを肘あたりに提げ、左手の袋に手を突っ込む。そこからあんまんが入っていたのと同じ包みを出した。
「あ、でも……落としたのは俺のミスなので」
「いいんすよ。落としたまんまでがっかりするより、ちょっとはあったかくなるから」
その右手から六道の空の右手へと、あたたかい包みが渡る。中身は違うかも知れないけれど、と彼は屈託なく笑ってみせた。真崎とは全然似ていない、朗らかで陽だまりのような笑顔。
彼のまとうスーツの上着にネームプレートが付いているのが見えたので、こっそり確認してみた。
(天空不動産…………春田、創一……)
コンビニの付近に数か所、同名の会社名ののぼりが立っていたので、住宅展示会を近くで開催しているのだろうか。天空不動産のオフィスビルはもう少し遠いから。
「それじゃ、あっちの落ちてるやつ、捨てておきますね」
春田創一の肩にも冷たい雨が落ちてきていた。それを気にすることもなく、水たまりからもう食べられないあんまんの包みを拾い上げ、店内に戻ってすぐに出てくる。
「あったかいうちに食べちゃってくださいね」
雨の中、傘も差さずに春田創一は駆け足で行ってしまった。
空気は変わらず冷たさを帯びて体温を下げようとするのに、右手に持った中華まんの包みだけではなく胸のまんなかもあったかい。
六道は包みのテープを剝がして中を見た。つるりと白くなめらかな、丸みのある見た目はあんまんだ。
遠慮なくかぶりつくと、もちもち、ふわっとした皮の歯ざわり。たっぷり入っているつぶあんの優しい甘さが、胸のまんなかに灯ったあったかさに寄り添ってくれるようだ。
「…………うま」
呟くと、涙が一粒、ぽろっと出てくる。鼻の奥がつんとした。むせそうになったが、六道はあんまんを一気に食べ切った。
最後の一口を飲み下した後、袖口で目元を拭う。自分が落としてしまったあんまんが浸かっていた水たまりに、雨粒が次々と波紋を描き出す。
店内から先ほどの子どもと父親が出てきた。父親はバツの悪そうな顔で、六道に対し小さく頭を下げていった。どういう心境の変化だろう――。
「…………ま、いいか」
空模様はしばらく変わりそうにない。変わらないものを黙って待っていても仕方ないから、走る。
今日、胸に灯った熱にどんな名前を付けようか。降り積もった片想いの残骸を燃やし始めたこの熱の名前は。
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