猫と春。⑩
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最後の荷物として、春田は今朝まで使っていた寝具を入れたケースを玄関先に出した。
あとは掃除を終えれば、三年住んだアパートともお別れだ。
春の大型連休も間近に迫る四月下旬の平日、今日は新居に引っ越しする日。とは言え荷物はある程度持って行ってしまっている。
四月に入って間もなく、和泉が一軒家を購入したと明かしてきた。公安警察官時代に貯めていた分を頭金にしたそうだ。
分譲の戸建てでアパートの部屋よりも広いが、それほど豪邸でもない。今のアパートや第一・第二営業所からも遠くはない。動物病院も近所にあるし、治安もいい方だ。大きなベッドを置ける寝室もある。
そんな和泉の新居の合鍵を手渡された意味は考えるまでもなかった。黒猫がちょうど来ていなかったこの夜、春田は初めて和泉に深く求められたから。
牧との恋が終わった後、この先はそういうことと無縁だろうとぼんやり思っていたのに――アパートとお別れする前に色っぽい思い出がひとつ増えてしまった感が否めない。
和泉は和泉で身の振り方を悩んでいたのだが、警察には戻らず天空不動産で正式採用となった。
気持ちが吹っ切れたせいか、業務も着実に覚えてこなしている。警察学校の教官をしていた経験もあってか、四月からの新入社員たちを気にかけているようだ。なぜか営業地域の小中学生とも仲が良い。
そして、黒猫はと言うと――。
「にゃーん」
玄関の外から鳴き声だけ聞こえてきた。いつもは遠慮なく部屋に入ってくるのに。
春田は服についた埃をはらい、開け放している玄関へと足を向ける。黒いさんかくの耳がひょこっと動くのが見えた。
「秋斗、おはよ」
「にゃー」
きょろきょろと金色の目が注意深く辺りを見回す。黒猫の正体も、おしゃべりできることも春田以外は知らない秘密だ。
「入んねーの? メシは?」
「……埃っぽいとこで食えるかっての。新居に行ったらでいい」
猫様は相変わらず猫様である。しかし、春田ももう慣れてしまっていた。
「荷物、あんまりないんだな。これだけ?」
玄関先に出しておいた寝具セットを黒い前足がつつく。何度も春田の部屋に来ているから、荷物がこれだけでないのは知っているくせにそんなことを言ってくる。
「秋斗のクッション、もう和泉さん家に持ってったよ」
昨日も一昨日も黒猫が姿どころか気配もさせなかったので、猫用の円形クッションは和泉に運んでもらっていた。
スマートフォンで時間を見れば、そろそろ和泉が車で迎えに来てくれる頃合いだ。掃除のために開けていた部屋の窓を閉めなければ。
「春田」
部屋に再び戻ろうとする足を黒猫が止めた。神妙な声色に振り返ると、そこに淡い金色と桜色の光がふわふわ浮かんでいる。
黒猫の姿はなく、淡い光は人間らしき形をつくる。輪郭はぼやけていても、誰なのか春田にはわかった。
「……和泉さんのこと、本当にありがとな。これからもよろしく頼むぜ?」
和泉が大事に持っている、ロケットペンダントのなかの笑顔と同じ。触れることはきっとできなくても、春田はそっと手を伸ばした――途端に光は霧散して、空気中にきらきら溶けていく。
「…………」
黒猫の姿もなかった。間もなく五月を迎える空の青色がまぶしく目に映る。膜を張った涙は袖口で拭った。
何も「さよなら」を告げられたわけではない。たぶん、また、今日みたいにひょっこり、どこかで遭遇すると確信している。
あの世での仕事も忙しいのだろう――秩序と平和を守る警察官なら。
部屋の窓を全部閉めたのを確認し、外に出ると和泉が車に背をもたせかけて待っていた。
「荷物、これだけですか?」
「はい。片付けもちゃんと終わったんで、だいじょーぶです」
寝具ケースと通勤用カバン、最低限置いておいた衣類などが入ったバッグを後部座席に置いた後、春田はがらんとした部屋へと目を向ける。
このアパートに引っ越してきた時は、牧と別れて一人きりだった。あれから三年経って、思い出と失恋の傷から逃げた場所から出発する今日は、隣に和泉がいる。
「……そういえば和泉さんって、下の名前『こう』って言うんすよね。幸せって書いて」
「…………そんな、藪から棒に……はい」
少し顔を逸らして照れる様子を見せる和泉に、春田は満面の笑みを浮かべる。
「おれに幸せ、運んできてくれてありがとうございます!」
その名に違わず、幸せをもたらしてくれた。これからも二人で幸せを見つけていきたい。重ね合わせた手のひらのぬくもりが、とても愛おしいと感じさせてくれる人がいる――この上なく、幸せだ。
和泉の、耳まで赤くなってしまう様子がとても可愛いと春田は思う。カッコよさも知っているだけに、このギャップも堪らない。
「あなたって人はそうやって……俺を、殺そうとしないでくださいっ……!」
心臓がもたないと低い声でこぼした和泉に抱きすくめられた。コットンシャツの胸元で静かにペンダントのチェーンが鳴る。
「名前のことを言うなら春田さんだって……俺の心と身体をもう一度創ってくれた。ちゃんと生きていくために、よみがえらせてくれました」
「そんな、大げさですって……」
和泉と一緒に食卓を囲んでいるだけで、そこまで壮大なことはしていない。
ただ、和泉の心が元気になるために、栄養が必要だと思ったまでだ。
「春田さん、細胞って日々生まれ変わるんです。新しい細胞をつくるのは、食べたものだから」
食べたものが新たな細胞を創り出しているから、旧い細胞が剥がれ落ちていった後は――あらためて和泉から言われて、春田はドキドキした。
指の先、髪の一本一本、和泉の肉体のすみずみにまで想いが行き渡っていたら、それはそれで恥ずかしいような、嬉しいような。
これからは和泉と一緒に生活する。だから、好きな人の健康を保つためには責任重大だ。
小さな友だちにも託された――二人ぶんの愛情を込めて。
「じゃあ、引っ越し祝いに美味しいものつくりましょ? ぶちょーにも教えてもらって」
「そうだ、師匠が手伝いに来てくれるんでした……!」
家主が遅刻では笑えないが、スーパー家政夫さんなら笑って許してくれるだろう。大きな愛の持ち主だから。
「じゃあ……帰りましょうか」
新しい住処へ、自分たちの家へ――。
助手席へ乗り込む前に、春田はもう一度だけアパートに振り向く。
「――秋斗、待ってるよ」
家、間違えんなよ? 黒猫がいつもいた玄関先に呟いて、ドアを閉めた。
『猫と春。』おわり
最後の荷物として、春田は今朝まで使っていた寝具を入れたケースを玄関先に出した。
あとは掃除を終えれば、三年住んだアパートともお別れだ。
春の大型連休も間近に迫る四月下旬の平日、今日は新居に引っ越しする日。とは言え荷物はある程度持って行ってしまっている。
四月に入って間もなく、和泉が一軒家を購入したと明かしてきた。公安警察官時代に貯めていた分を頭金にしたそうだ。
分譲の戸建てでアパートの部屋よりも広いが、それほど豪邸でもない。今のアパートや第一・第二営業所からも遠くはない。動物病院も近所にあるし、治安もいい方だ。大きなベッドを置ける寝室もある。
そんな和泉の新居の合鍵を手渡された意味は考えるまでもなかった。黒猫がちょうど来ていなかったこの夜、春田は初めて和泉に深く求められたから。
牧との恋が終わった後、この先はそういうことと無縁だろうとぼんやり思っていたのに――アパートとお別れする前に色っぽい思い出がひとつ増えてしまった感が否めない。
和泉は和泉で身の振り方を悩んでいたのだが、警察には戻らず天空不動産で正式採用となった。
気持ちが吹っ切れたせいか、業務も着実に覚えてこなしている。警察学校の教官をしていた経験もあってか、四月からの新入社員たちを気にかけているようだ。なぜか営業地域の小中学生とも仲が良い。
そして、黒猫はと言うと――。
「にゃーん」
玄関の外から鳴き声だけ聞こえてきた。いつもは遠慮なく部屋に入ってくるのに。
春田は服についた埃をはらい、開け放している玄関へと足を向ける。黒いさんかくの耳がひょこっと動くのが見えた。
「秋斗、おはよ」
「にゃー」
きょろきょろと金色の目が注意深く辺りを見回す。黒猫の正体も、おしゃべりできることも春田以外は知らない秘密だ。
「入んねーの? メシは?」
「……埃っぽいとこで食えるかっての。新居に行ったらでいい」
猫様は相変わらず猫様である。しかし、春田ももう慣れてしまっていた。
「荷物、あんまりないんだな。これだけ?」
玄関先に出しておいた寝具セットを黒い前足がつつく。何度も春田の部屋に来ているから、荷物がこれだけでないのは知っているくせにそんなことを言ってくる。
「秋斗のクッション、もう和泉さん家に持ってったよ」
昨日も一昨日も黒猫が姿どころか気配もさせなかったので、猫用の円形クッションは和泉に運んでもらっていた。
スマートフォンで時間を見れば、そろそろ和泉が車で迎えに来てくれる頃合いだ。掃除のために開けていた部屋の窓を閉めなければ。
「春田」
部屋に再び戻ろうとする足を黒猫が止めた。神妙な声色に振り返ると、そこに淡い金色と桜色の光がふわふわ浮かんでいる。
黒猫の姿はなく、淡い光は人間らしき形をつくる。輪郭はぼやけていても、誰なのか春田にはわかった。
「……和泉さんのこと、本当にありがとな。これからもよろしく頼むぜ?」
和泉が大事に持っている、ロケットペンダントのなかの笑顔と同じ。触れることはきっとできなくても、春田はそっと手を伸ばした――途端に光は霧散して、空気中にきらきら溶けていく。
「…………」
黒猫の姿もなかった。間もなく五月を迎える空の青色がまぶしく目に映る。膜を張った涙は袖口で拭った。
何も「さよなら」を告げられたわけではない。たぶん、また、今日みたいにひょっこり、どこかで遭遇すると確信している。
あの世での仕事も忙しいのだろう――秩序と平和を守る警察官なら。
部屋の窓を全部閉めたのを確認し、外に出ると和泉が車に背をもたせかけて待っていた。
「荷物、これだけですか?」
「はい。片付けもちゃんと終わったんで、だいじょーぶです」
寝具ケースと通勤用カバン、最低限置いておいた衣類などが入ったバッグを後部座席に置いた後、春田はがらんとした部屋へと目を向ける。
このアパートに引っ越してきた時は、牧と別れて一人きりだった。あれから三年経って、思い出と失恋の傷から逃げた場所から出発する今日は、隣に和泉がいる。
「……そういえば和泉さんって、下の名前『こう』って言うんすよね。幸せって書いて」
「…………そんな、藪から棒に……はい」
少し顔を逸らして照れる様子を見せる和泉に、春田は満面の笑みを浮かべる。
「おれに幸せ、運んできてくれてありがとうございます!」
その名に違わず、幸せをもたらしてくれた。これからも二人で幸せを見つけていきたい。重ね合わせた手のひらのぬくもりが、とても愛おしいと感じさせてくれる人がいる――この上なく、幸せだ。
和泉の、耳まで赤くなってしまう様子がとても可愛いと春田は思う。カッコよさも知っているだけに、このギャップも堪らない。
「あなたって人はそうやって……俺を、殺そうとしないでくださいっ……!」
心臓がもたないと低い声でこぼした和泉に抱きすくめられた。コットンシャツの胸元で静かにペンダントのチェーンが鳴る。
「名前のことを言うなら春田さんだって……俺の心と身体をもう一度創ってくれた。ちゃんと生きていくために、よみがえらせてくれました」
「そんな、大げさですって……」
和泉と一緒に食卓を囲んでいるだけで、そこまで壮大なことはしていない。
ただ、和泉の心が元気になるために、栄養が必要だと思ったまでだ。
「春田さん、細胞って日々生まれ変わるんです。新しい細胞をつくるのは、食べたものだから」
食べたものが新たな細胞を創り出しているから、旧い細胞が剥がれ落ちていった後は――あらためて和泉から言われて、春田はドキドキした。
指の先、髪の一本一本、和泉の肉体のすみずみにまで想いが行き渡っていたら、それはそれで恥ずかしいような、嬉しいような。
これからは和泉と一緒に生活する。だから、好きな人の健康を保つためには責任重大だ。
小さな友だちにも託された――二人ぶんの愛情を込めて。
「じゃあ、引っ越し祝いに美味しいものつくりましょ? ぶちょーにも教えてもらって」
「そうだ、師匠が手伝いに来てくれるんでした……!」
家主が遅刻では笑えないが、スーパー家政夫さんなら笑って許してくれるだろう。大きな愛の持ち主だから。
「じゃあ……帰りましょうか」
新しい住処へ、自分たちの家へ――。
助手席へ乗り込む前に、春田はもう一度だけアパートに振り向く。
「――秋斗、待ってるよ」
家、間違えんなよ? 黒猫がいつもいた玄関先に呟いて、ドアを閉めた。
『猫と春。』おわり
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