猫と春。⑩
――数日後の昼、春田の傍らで黒猫が身を伏せて唸っている。金色の両目の先では、おかかおむすび店主に扮した六道菊之助がコーヒーの入った紙カップ片手に座っていた。
和泉はまた、『なんでもすっきり天空相談室』を訪れているので不在である。
春田の手にも六道と同じ、コーヒーが入っている紙カップ。同じ広場に出店しているコーヒーショップのものだ。
六道が持ってきた話は明るくはなかった。拘留されていた足利が、拘置所内で亡くなったという。
迎えるはずだった命日から執着で逃れていたのを黒猫が探していたので、お迎えが来たのだろう。あの世の警察の仕事はこれで一件落着で、黒猫はまた別の人間を探しているらしい。
被疑者死亡となってしまったが、これまでの捜査で得た証言や証拠などからも足利が真崎秋斗殺害犯として間違いはないため送検するとのこと。
潜入捜査に行った警察官が逆に犯罪グループに取り込まれることも少なくはない。ミイラ取りがミイラになるやつだと六道はため息を吐いた。
「ところで春田さん、返事聞かせてほしいんですけど……」
真剣みを帯びた警察官の表情が、ころっとさわやかな笑みに変わった。切り替えが早い。
「返事……?」
「こないだチョコ渡した時の! 俺が、春田さんのこと好きだって話ですよー」
そんなこともありましたっけ。ドタバタしていてすっかり春田の頭からは抜けていた。
ファンも多いイケメンがどうしてこんな四十手前のさえないリーマンに告白なんて……自分自身にかっこいい要素は見いだせない春田だが、六道は首を横に振る。
「春田さんってそういうところじゃないんですけど、そういうところです。隣にいて、居心地が好いって言うか」
「んにゃああああ!」
黒猫はさっきからずっと不機嫌で、六道に当たっている。和泉はもう少しかかるだろうか。
「仕事が息詰まりそうなことばっかりだから、春田さんの顔見ると呼吸の仕方を思い出せる感じなんですよね」
「にゃあああっ!」
べしべしと猫パンチの当たりの強さがわかってしまう音。エプロンを爪が引っ掻いて、ちょっとほつれてしまっている。
「……なんか俺、こいつに敵認定されてません?」
六道の前で名前を呼ぶわけにもいかず、春田は「こらっ」と言ってたしなめてみる。だが猫パンチのラッシュは続いた。
昔、警察学校で同期だったなら、仲良くすればいいのに。
「すんません、いつもはこんなんじゃないんすけど……」
「ははは、気にしないでください。きっと春田さんのことが大好きすぎて、俺に取られたくないんですよ」
そうなのかなあ、春田は小首を傾げた。黒猫に好かれている自信はあまりない。黒猫は和泉のことが大好きなので、むしろ敵認定なのでは……。
ざっけんなよ、と小声が聞こえてきた。黒猫的にも憤慨らしい。六道がキッチンカーに戻って行った後、後ろ足で砂をかける行動をとった。
「春田てめー、いつまで引っ張んだよ。和泉さんのこと、好きなんだろ」
おまえがはっきりしないから菊にも期待持たせちまうんだろうが! 猫様はだいぶお怒りだ。
「好きだけどさ……秋斗は、いやじゃないの?」
大好きな人が、自分以外の人間の隣にいること。永遠に、自分だけを想っていてほしいとは思わないのか。
復讐心は和泉から消えても、秋斗への愛は時を止めて胸の奥で生き続ける。それなら誰にも目をくれず、一生愛し続けてほしいと望んでもおかしくないのに。
「人の気持ちは移ろうものなんだよ。春田、おまえの気持ちだってずいぶん変わっただろ?」
「…………うん」
ずっと引きずっていた牧への気持ちに区切りをつけて、今は和泉を想っている。
変わらず続いていくと信じていたことも、時が経てば何かしら変化している――それは、人の心も同じ。
「だからこそ、だよ。オレは、和泉さんが幸せに生きてくことを望んでる」
あの世の存在になってしまった以上、現世で生きている人間の心に干渉はできない。
愛しい人の幸せな道行きを祈るだけ――現世からの想いや祈りが届くように気持ちは届かなくても、生きて幸せであってほしいと祈ることはできるから。
「で、和泉さんの幸せには春田が必要だとオレは思ってる。おまえが和泉さんを心ある人間として生き返らせた事実は曲げられないもんな」
そういうなら、自分もだと春田は思う。敢えて無視し続けてきた、失った恋が残した傷痕は消えることはない。でも、痛みは薄らいだ。
自分一人では持て余していたことだが、和泉と黒猫がいてくれたから。
「……秋斗、ぎゅってしていい?」
春田は黒猫に両手を広げた。大切な友だち、愛おしい存在。
「…………今日だけ、無料サービスしてやる」
次から有料だからな。笑いを交えて黒猫は応え、春田の腕のなかに飛び込んでいく。
手触りのいい、つやつやで柔らかな黒い毛並み。春近いお日様の光をどこで浴びてきたのか、あたたかさに安心する。そしてふんわり、花のような香りもした。
愛する人が幸せであることをこの小さな友だちが祈るなら、愛する人の幸せに必要な存在になれるなら、応えたい。
誰に言われるでもない、自分が決めること。この心が行く先で微笑む人は。
「――春田さん、お待たせしました」
穏やかな声に顔を上げてみれば、和泉が微笑んでいる。胸の奥で、心臓はもう高鳴りをごまかせない。
黒猫は春田の腕からするっと抜け出して、和泉の足元に額を擦り付けに行く。
「…………和泉さん、おれ」
告白がどんな結果になっても後悔はしないだろう。この勇気がもたらす一歩に恥じることもない。
「おれ、和泉さんが、好きです……」
ときめいて、高鳴る心は、目の前に立つたった一人のため。
「血だらけで倒れてた時はびっくりしたけど……和泉さんといると楽しいし、安心するんです。和泉さんはおれが心を生き返らせてくれたって言ったけど、おれも……和泉さんのお陰で、乗り越えられたから」
出会いが光をもたらしてくれたのは、自分も同じ。春田は涙が出そうになるのを堪えて、笑ってみせた。
所在なさげに和泉の右手がわずかに上がる。黒猫が「にゃ!」と短く、力強い声を上げる。
お互いの手は取り合っていい。気持ちを知るために語り合えばいい。限りある現世での時間を生きているなら、伝えればいい。
春田は和泉との距離を一気に詰めて、黒猫を抱きしめた腕を広い背中に回す。耳に触れるのは和泉の胸から響く鼓動の速さ。
やがて、春田の背中にも和泉の腕が絡んだ。
「俺も、あなたが好きです…………春田さん」
心を凍らせていた真冬の雪は融け、春がやってくる。あたたかな陽だまりのある場所を、猫はよく知っているものだ――。
和泉はまた、『なんでもすっきり天空相談室』を訪れているので不在である。
春田の手にも六道と同じ、コーヒーが入っている紙カップ。同じ広場に出店しているコーヒーショップのものだ。
六道が持ってきた話は明るくはなかった。拘留されていた足利が、拘置所内で亡くなったという。
迎えるはずだった命日から執着で逃れていたのを黒猫が探していたので、お迎えが来たのだろう。あの世の警察の仕事はこれで一件落着で、黒猫はまた別の人間を探しているらしい。
被疑者死亡となってしまったが、これまでの捜査で得た証言や証拠などからも足利が真崎秋斗殺害犯として間違いはないため送検するとのこと。
潜入捜査に行った警察官が逆に犯罪グループに取り込まれることも少なくはない。ミイラ取りがミイラになるやつだと六道はため息を吐いた。
「ところで春田さん、返事聞かせてほしいんですけど……」
真剣みを帯びた警察官の表情が、ころっとさわやかな笑みに変わった。切り替えが早い。
「返事……?」
「こないだチョコ渡した時の! 俺が、春田さんのこと好きだって話ですよー」
そんなこともありましたっけ。ドタバタしていてすっかり春田の頭からは抜けていた。
ファンも多いイケメンがどうしてこんな四十手前のさえないリーマンに告白なんて……自分自身にかっこいい要素は見いだせない春田だが、六道は首を横に振る。
「春田さんってそういうところじゃないんですけど、そういうところです。隣にいて、居心地が好いって言うか」
「んにゃああああ!」
黒猫はさっきからずっと不機嫌で、六道に当たっている。和泉はもう少しかかるだろうか。
「仕事が息詰まりそうなことばっかりだから、春田さんの顔見ると呼吸の仕方を思い出せる感じなんですよね」
「にゃあああっ!」
べしべしと猫パンチの当たりの強さがわかってしまう音。エプロンを爪が引っ掻いて、ちょっとほつれてしまっている。
「……なんか俺、こいつに敵認定されてません?」
六道の前で名前を呼ぶわけにもいかず、春田は「こらっ」と言ってたしなめてみる。だが猫パンチのラッシュは続いた。
昔、警察学校で同期だったなら、仲良くすればいいのに。
「すんません、いつもはこんなんじゃないんすけど……」
「ははは、気にしないでください。きっと春田さんのことが大好きすぎて、俺に取られたくないんですよ」
そうなのかなあ、春田は小首を傾げた。黒猫に好かれている自信はあまりない。黒猫は和泉のことが大好きなので、むしろ敵認定なのでは……。
ざっけんなよ、と小声が聞こえてきた。黒猫的にも憤慨らしい。六道がキッチンカーに戻って行った後、後ろ足で砂をかける行動をとった。
「春田てめー、いつまで引っ張んだよ。和泉さんのこと、好きなんだろ」
おまえがはっきりしないから菊にも期待持たせちまうんだろうが! 猫様はだいぶお怒りだ。
「好きだけどさ……秋斗は、いやじゃないの?」
大好きな人が、自分以外の人間の隣にいること。永遠に、自分だけを想っていてほしいとは思わないのか。
復讐心は和泉から消えても、秋斗への愛は時を止めて胸の奥で生き続ける。それなら誰にも目をくれず、一生愛し続けてほしいと望んでもおかしくないのに。
「人の気持ちは移ろうものなんだよ。春田、おまえの気持ちだってずいぶん変わっただろ?」
「…………うん」
ずっと引きずっていた牧への気持ちに区切りをつけて、今は和泉を想っている。
変わらず続いていくと信じていたことも、時が経てば何かしら変化している――それは、人の心も同じ。
「だからこそ、だよ。オレは、和泉さんが幸せに生きてくことを望んでる」
あの世の存在になってしまった以上、現世で生きている人間の心に干渉はできない。
愛しい人の幸せな道行きを祈るだけ――現世からの想いや祈りが届くように気持ちは届かなくても、生きて幸せであってほしいと祈ることはできるから。
「で、和泉さんの幸せには春田が必要だとオレは思ってる。おまえが和泉さんを心ある人間として生き返らせた事実は曲げられないもんな」
そういうなら、自分もだと春田は思う。敢えて無視し続けてきた、失った恋が残した傷痕は消えることはない。でも、痛みは薄らいだ。
自分一人では持て余していたことだが、和泉と黒猫がいてくれたから。
「……秋斗、ぎゅってしていい?」
春田は黒猫に両手を広げた。大切な友だち、愛おしい存在。
「…………今日だけ、無料サービスしてやる」
次から有料だからな。笑いを交えて黒猫は応え、春田の腕のなかに飛び込んでいく。
手触りのいい、つやつやで柔らかな黒い毛並み。春近いお日様の光をどこで浴びてきたのか、あたたかさに安心する。そしてふんわり、花のような香りもした。
愛する人が幸せであることをこの小さな友だちが祈るなら、愛する人の幸せに必要な存在になれるなら、応えたい。
誰に言われるでもない、自分が決めること。この心が行く先で微笑む人は。
「――春田さん、お待たせしました」
穏やかな声に顔を上げてみれば、和泉が微笑んでいる。胸の奥で、心臓はもう高鳴りをごまかせない。
黒猫は春田の腕からするっと抜け出して、和泉の足元に額を擦り付けに行く。
「…………和泉さん、おれ」
告白がどんな結果になっても後悔はしないだろう。この勇気がもたらす一歩に恥じることもない。
「おれ、和泉さんが、好きです……」
ときめいて、高鳴る心は、目の前に立つたった一人のため。
「血だらけで倒れてた時はびっくりしたけど……和泉さんといると楽しいし、安心するんです。和泉さんはおれが心を生き返らせてくれたって言ったけど、おれも……和泉さんのお陰で、乗り越えられたから」
出会いが光をもたらしてくれたのは、自分も同じ。春田は涙が出そうになるのを堪えて、笑ってみせた。
所在なさげに和泉の右手がわずかに上がる。黒猫が「にゃ!」と短く、力強い声を上げる。
お互いの手は取り合っていい。気持ちを知るために語り合えばいい。限りある現世での時間を生きているなら、伝えればいい。
春田は和泉との距離を一気に詰めて、黒猫を抱きしめた腕を広い背中に回す。耳に触れるのは和泉の胸から響く鼓動の速さ。
やがて、春田の背中にも和泉の腕が絡んだ。
「俺も、あなたが好きです…………春田さん」
心を凍らせていた真冬の雪は融け、春がやってくる。あたたかな陽だまりのある場所を、猫はよく知っているものだ――。
