猫と春。⑩
バレンタインデーは波乱のうちに過ぎていってしまった。
春田が和泉へ渡すつもりだったチーズケーキはダメになってしまったのだが、帰宅後に和泉からバレンタインのチョコレートをもらっていた。
淡い金色の小箱に、ハートの形をしたアーモンド風味のガナッシュチョコと、オレンジリキュールが香るトリュフチョコが二つずつ入っていたのを二人で分けて食べた。
黒猫は報告があるとあの世に戻っていて、珍しく二人きりなのにチョコを食べただけでバレンタインデーは終わってしまった。
和泉に好きと伝えていないし、和泉から好きだとも言われていない。気持ちはもうとっくに固まっているのに、言い出せずにいた日々が続いたある日――和泉から、会ってほしい人がいると告げられた。
真剣なまなざしが春田の胸を鋭く突き刺した。きっと、たぶん、和泉にとってはとても大切な存在なのだろう。会いたくないとも強く返せず、迎えてしまった二月二十三日。
「――……お墓?」
和泉に連れられてきた場所は、郊外にある霊園だった。無数の墓石の間を吹き抜ける、まだ冬の冷たさを帯びた風。
供花と、水を入れた手桶を持った和泉の後ろを追って、春田は参道を歩む。
やがて和泉の脚が止まった。数ある区画の一か所に迷わず来られる辺り、何度も訪れているのだろう。
長躯を屈める和泉の目前の、墓石に掘られた文字に春田ははっとした。
「…………和泉さん、ここ」
その背中に問いかけると、振り返らずに答えてくれた。
「……はい。秋斗が、ここにいます」
何の装飾もない、つるりとした石の表面には『真崎家』と刻まれている。
愛おしいものに触れるようにそっと、和泉は指先で名前を撫でた。
真崎秋斗を死に至らしめた真犯人は捕まった。けれど、和泉が望んだ復讐は――彼の憎悪のやり場は無くなってしまった。どんな思いが和泉の胸のなかにあるのかは、和泉自身にしかわからない。
墓石を拭き清め、花を供え、静かに手を合わせる。和泉のすることを黙って見守っていると、「にゃー」と猫の鳴き声がどこかから聞こえてきた。
声のする方へ眼をやると、しばらく姿を見せなかった黒猫がいた。
黒猫の周りにはきらきら、ふわふわと淡い金色の光の粒が漂っている。心地好さげな表情を浮かべる黒猫だが、春田には疑問が湧いてきた。
(……待って、秋斗ここにいるのに、お墓参りっていいの……?)
私のお墓の前で……というフレーズがある。今の状況としては秋斗の遺骨は墓の下だが、和泉の祈りの行き先は黒猫ということになる。
「まー細かいこと気にすんなよ。オレのからだは埋まってるんだし」
あっけらかんと言ってのける黒猫に春田は頭を抱えた。なんだか和泉を騙しているようで据わりが悪い。
いっそのこと和泉に、黒猫が誰なのかを明かしてしまった方が気が楽かもと思ってしまう。
「……春田さん」
祈りを終えた和泉がゆっくり立ち上がって、こちらを向いた。ずっと張り詰めていたものから解放されて、穏やかに微笑む。
「ありがとうございます、付き合っていただいて」
「いえ……あの、会ってほしい人って」
春田が墓石の名前へ目を向けたのに、和泉は頷いた。
「春田さんに出会えていなかったら、今日はなかった。本当に死んでいたかも知れない……だから、秋斗にも俺を生かしてくれた人に会ってほしかったんです」
和泉の言葉に春田が思い出すのは、アパートの玄関先で血まみれになって倒れていた時の姿だった。黒猫がもう少し遅かったらお迎えが来ていたと言っていた寒い日の朝。刺された人間を介抱するなんて状況は、二度とあってほしくない。
しかし、真崎秋斗は……春田は足元を見る。黒猫が目を細めるのが小憎らしい。春田が何とも言えない感情で見ているのを無視して、猫は和泉の方へと駆け寄っていった。
近づいてきた黒猫に合わせて和泉は膝を折った。顎の下を優しく撫でられた猫はすこぶる機嫌が好い。
「春田さんのピンチを教えにきてくれたの、こいつなんですよ」
まだまだ記憶に新しい日のことを和泉が口にした。春田が誘拐された後の出来事を。
黒猫が和泉の部屋に行ってドアを開けさせ、春田がさらわれた現場へ案内したらしい。
その場に残されていた、潰れてしまったケーキの箱や路面に、見覚えのあるタイヤ痕を見つけたそうだ。
「それだけで場所、わかるもんなんですか……?」
「いえ。でも、誰の車のタイヤ痕かは知っていたので――足利さんが、俺をおびき出そうとしているのはわかりました」
和泉はコートのポケットから、しわくちゃの紙片を取り出した。商店街でやっていた福引抽選会の補助券で、その裏には秋斗が撃たれ、春田が捕らわれた廃工場の場所と日付が暗号で書いてあるとのこと。
「あの人の正義には、秋斗や春田さんが邪魔だったんでしょう……。俺はあの人にとって一人の人間ではなく、警察官という操り人形だったんだと思います――正義を、執行するだけの」
忠実に正義を執行し、職務を全うするだけの、警察官という名前の人形。そこに一人の人間としての心は必要ない。
まして愛なんて、心や思考をかき乱すものは。
「春田さんを傷つけることで、俺に絶望を植え付けるつもりだった。すべて失った俺を意のままにコントロールしたかったんだと思います」
浮かんでいた微笑みへわずかに影が差す。心が弱ればつけ込みやすい。そうまでして、あの足利という警察官が和泉を引き寄せたいと望んだのは、彼にも和泉への愛があったからではないだろうかと春田は思う。決して、明るいものではないだろうが――。
「でも、俺は、心を持った一人の人間でいたい。秋斗が命がけでくれた愛を誰にも無駄とは言わせたくないし、春田さんが生き返らせてくれた心を大切にして生きたいんです」
その大きな手へ愛おしそうに頭を擦り付けた後、黒猫は地面を蹴って和泉の肩に飛び乗った。
姿は違っても一緒にいる。たとえ和泉は気付いていなくても。黒猫を愛すべき存在だと捉えているだろう。
これも、ひとつのハッピーエンドと呼んでいいかも知れない。二人の想いがしっかり結ばれているなら。
「……和泉さんは、これからどうするんですか?」
秋斗の命を奪った犯人は捕まって、この先は司法の領分になる。そこへ個人的な感情は介入させられないと、春田が誘拐された件で先日実況見分に来ていた六道が言っていた。和泉の復讐の矛先は無くなってしまった。
目的がない以上、和泉が天空不動産に勤める理由もなくなってしまう。まだ研修中の身分なので、退職の手続きはさほど面倒でもないが。
「俺は……」
俯く鼻先と、泳ぐ視線。もしかしたら辞めることを考えているのかも知れない。
どんな道を選んでもそれは和泉の人生だし、外野の春田が口出しはできないこと。彼の進んでいく先に、幸多からんことを祈るだけ。
「引っ越しの手伝いならしますんで、日程決まったら教えてくださいね」
もっとも、荷物の少なすぎる和泉の部屋を思えば、手伝いも要らないレベル。そこを引いてもお別れする日は知っておきたいではないか。
和泉の肩の上から、黒猫が呆れを隠しもしないでにらんでくる。おまえバカだろ、そう聞こえるようだ。
「どうするか、もう少し考えます……。また、話聞いてもらえますか」
和泉の声に含まれた微妙なもの悲しさに、春田は気付かないふりをして頷いた。
春田が和泉へ渡すつもりだったチーズケーキはダメになってしまったのだが、帰宅後に和泉からバレンタインのチョコレートをもらっていた。
淡い金色の小箱に、ハートの形をしたアーモンド風味のガナッシュチョコと、オレンジリキュールが香るトリュフチョコが二つずつ入っていたのを二人で分けて食べた。
黒猫は報告があるとあの世に戻っていて、珍しく二人きりなのにチョコを食べただけでバレンタインデーは終わってしまった。
和泉に好きと伝えていないし、和泉から好きだとも言われていない。気持ちはもうとっくに固まっているのに、言い出せずにいた日々が続いたある日――和泉から、会ってほしい人がいると告げられた。
真剣なまなざしが春田の胸を鋭く突き刺した。きっと、たぶん、和泉にとってはとても大切な存在なのだろう。会いたくないとも強く返せず、迎えてしまった二月二十三日。
「――……お墓?」
和泉に連れられてきた場所は、郊外にある霊園だった。無数の墓石の間を吹き抜ける、まだ冬の冷たさを帯びた風。
供花と、水を入れた手桶を持った和泉の後ろを追って、春田は参道を歩む。
やがて和泉の脚が止まった。数ある区画の一か所に迷わず来られる辺り、何度も訪れているのだろう。
長躯を屈める和泉の目前の、墓石に掘られた文字に春田ははっとした。
「…………和泉さん、ここ」
その背中に問いかけると、振り返らずに答えてくれた。
「……はい。秋斗が、ここにいます」
何の装飾もない、つるりとした石の表面には『真崎家』と刻まれている。
愛おしいものに触れるようにそっと、和泉は指先で名前を撫でた。
真崎秋斗を死に至らしめた真犯人は捕まった。けれど、和泉が望んだ復讐は――彼の憎悪のやり場は無くなってしまった。どんな思いが和泉の胸のなかにあるのかは、和泉自身にしかわからない。
墓石を拭き清め、花を供え、静かに手を合わせる。和泉のすることを黙って見守っていると、「にゃー」と猫の鳴き声がどこかから聞こえてきた。
声のする方へ眼をやると、しばらく姿を見せなかった黒猫がいた。
黒猫の周りにはきらきら、ふわふわと淡い金色の光の粒が漂っている。心地好さげな表情を浮かべる黒猫だが、春田には疑問が湧いてきた。
(……待って、秋斗ここにいるのに、お墓参りっていいの……?)
私のお墓の前で……というフレーズがある。今の状況としては秋斗の遺骨は墓の下だが、和泉の祈りの行き先は黒猫ということになる。
「まー細かいこと気にすんなよ。オレのからだは埋まってるんだし」
あっけらかんと言ってのける黒猫に春田は頭を抱えた。なんだか和泉を騙しているようで据わりが悪い。
いっそのこと和泉に、黒猫が誰なのかを明かしてしまった方が気が楽かもと思ってしまう。
「……春田さん」
祈りを終えた和泉がゆっくり立ち上がって、こちらを向いた。ずっと張り詰めていたものから解放されて、穏やかに微笑む。
「ありがとうございます、付き合っていただいて」
「いえ……あの、会ってほしい人って」
春田が墓石の名前へ目を向けたのに、和泉は頷いた。
「春田さんに出会えていなかったら、今日はなかった。本当に死んでいたかも知れない……だから、秋斗にも俺を生かしてくれた人に会ってほしかったんです」
和泉の言葉に春田が思い出すのは、アパートの玄関先で血まみれになって倒れていた時の姿だった。黒猫がもう少し遅かったらお迎えが来ていたと言っていた寒い日の朝。刺された人間を介抱するなんて状況は、二度とあってほしくない。
しかし、真崎秋斗は……春田は足元を見る。黒猫が目を細めるのが小憎らしい。春田が何とも言えない感情で見ているのを無視して、猫は和泉の方へと駆け寄っていった。
近づいてきた黒猫に合わせて和泉は膝を折った。顎の下を優しく撫でられた猫はすこぶる機嫌が好い。
「春田さんのピンチを教えにきてくれたの、こいつなんですよ」
まだまだ記憶に新しい日のことを和泉が口にした。春田が誘拐された後の出来事を。
黒猫が和泉の部屋に行ってドアを開けさせ、春田がさらわれた現場へ案内したらしい。
その場に残されていた、潰れてしまったケーキの箱や路面に、見覚えのあるタイヤ痕を見つけたそうだ。
「それだけで場所、わかるもんなんですか……?」
「いえ。でも、誰の車のタイヤ痕かは知っていたので――足利さんが、俺をおびき出そうとしているのはわかりました」
和泉はコートのポケットから、しわくちゃの紙片を取り出した。商店街でやっていた福引抽選会の補助券で、その裏には秋斗が撃たれ、春田が捕らわれた廃工場の場所と日付が暗号で書いてあるとのこと。
「あの人の正義には、秋斗や春田さんが邪魔だったんでしょう……。俺はあの人にとって一人の人間ではなく、警察官という操り人形だったんだと思います――正義を、執行するだけの」
忠実に正義を執行し、職務を全うするだけの、警察官という名前の人形。そこに一人の人間としての心は必要ない。
まして愛なんて、心や思考をかき乱すものは。
「春田さんを傷つけることで、俺に絶望を植え付けるつもりだった。すべて失った俺を意のままにコントロールしたかったんだと思います」
浮かんでいた微笑みへわずかに影が差す。心が弱ればつけ込みやすい。そうまでして、あの足利という警察官が和泉を引き寄せたいと望んだのは、彼にも和泉への愛があったからではないだろうかと春田は思う。決して、明るいものではないだろうが――。
「でも、俺は、心を持った一人の人間でいたい。秋斗が命がけでくれた愛を誰にも無駄とは言わせたくないし、春田さんが生き返らせてくれた心を大切にして生きたいんです」
その大きな手へ愛おしそうに頭を擦り付けた後、黒猫は地面を蹴って和泉の肩に飛び乗った。
姿は違っても一緒にいる。たとえ和泉は気付いていなくても。黒猫を愛すべき存在だと捉えているだろう。
これも、ひとつのハッピーエンドと呼んでいいかも知れない。二人の想いがしっかり結ばれているなら。
「……和泉さんは、これからどうするんですか?」
秋斗の命を奪った犯人は捕まって、この先は司法の領分になる。そこへ個人的な感情は介入させられないと、春田が誘拐された件で先日実況見分に来ていた六道が言っていた。和泉の復讐の矛先は無くなってしまった。
目的がない以上、和泉が天空不動産に勤める理由もなくなってしまう。まだ研修中の身分なので、退職の手続きはさほど面倒でもないが。
「俺は……」
俯く鼻先と、泳ぐ視線。もしかしたら辞めることを考えているのかも知れない。
どんな道を選んでもそれは和泉の人生だし、外野の春田が口出しはできないこと。彼の進んでいく先に、幸多からんことを祈るだけ。
「引っ越しの手伝いならしますんで、日程決まったら教えてくださいね」
もっとも、荷物の少なすぎる和泉の部屋を思えば、手伝いも要らないレベル。そこを引いてもお別れする日は知っておきたいではないか。
和泉の肩の上から、黒猫が呆れを隠しもしないでにらんでくる。おまえバカだろ、そう聞こえるようだ。
「どうするか、もう少し考えます……。また、話聞いてもらえますか」
和泉の声に含まれた微妙なもの悲しさに、春田は気付かないふりをして頷いた。
