このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

猫と春。⑩

 やわらかなオフホワイトのニットに内側に、温かい肌と鼓動が叫ぶ音がする。
 胸元のペンダントの細い鎖が涼やかに鳴った。
「春田さん、良かった…………あなたまで喪わなくて、良かった……!」
 今にも泣きだしそうにふるえる声が、腕の力を強める。春田はその強さに心底安堵した。
 二度と和泉に逢えなくなってしまう恐怖を今しがた味わわされていたから。
「――い、い、ずみ…………いずみ、戻ってきたのか……?」
 春田に死の恐怖をもたらした男の声は、足元から聞こえてきた。自分を刺そうとしていたこの男の身に何が起こって、助かったのか。
 男の右手の甲には赤く、新しい傷が走っている。先ほど聞こえた銃声らしき音を思うと、六道か誰かがどこかから狙撃したのだろう。
「ははは、そうだろ……いずみ……、おまえは綺麗だから、世間の汚泥のなかじゃ、生きていけないとわかっただろ……!」
 警察という規律と正義がおまえの在るべきところだ。規律を乱しおまえを汚す野良犬は排除してやったんだから。
 男は倒れたまま、時折笑い声を交えて和泉を見上げた。だが、その目線はあちこちにブレて実際にここにいる和泉のことを捉えているのかはわからない。
 春田は和泉の着ているフライトジャケットの袖をぎゅっと握った。背中に回った腕が力を緩める。
「大丈夫です、春田さん。あなたのことは必ず、俺たちで守りますから」
「にゃっ!」
 黒猫も蹴りはかわしきれてケガはしなかったようだ。頼もしい返事に和泉がふっと表情を柔らかくする。
 春田から一旦身体を離し、和泉は倒れ伏している男の前に片膝を突く。横顔には険しさと疑念、そして哀しみのような様々な感情の色が浮かんでいる。
 彼らのすぐ近くに、春田への凶器になり損ねたナイフが落ちている。和泉と男、二人ともが手を伸ばせば届く距離だ。
「……探してもなかなか尻尾を掴ませないわけだ。公安の内部に犯人がいたなんて」
 恋人を殺した犯人を前にして、和泉は静かに問いかけた。潔白でいるために隠していたのか、真相をわかっていて嘲笑っていたのか――何にしろ、正気ではない男の様子からは量れない。
「野良犬を駆除してやっただけさ。アレは、おまえに悪い病気をうつした」
 たいへん優秀で、正義感が強くて、常に規律正しかった警察官を堕落させた。そんなものは人間ではない、畜生か悪魔だ。歪んだ笑みは和泉へとまっすぐ向けられた。
「……真崎秋斗は、誇りある警察官でした。自身が苦しみを知る分、周りに愛を与えられる人間でした」
 真崎秋斗からもたらされた愛を悪い病気と言うのなら、一生治らなくてもいい。和泉の手が胸元に揺れるロケットペンダントを握りしめる。
「経歴や成績や、素行だけがあいつのすべてじゃない。愛情も、強い正義感もありました。警察官として生きる能しかなかった俺に秋斗が命を張って、心から人を愛する気持ちを教えてくれたんだ……!」
 人を愛する気持ちは悪い病気なんかじゃない。要らないモノでもない。それが生身の人間らしさだ。口から入る食べ物が肉体をつくる栄養になっていくように、心にも栄養は必要で、経験しなければ育ちもしない。
 警察官として、時に冷静、冷徹を通さなければいけない場面もある。だが、同時に自分たちは心も意思もある血の通った人間だ。
 もたらされる感情に触れ、湧き上がる感情に胸をときめかせる。それは、誰にでもあること――。
「――だから、秋斗に対するその言い方は撤回してください…………足利さん」
 和泉が口にした名前に、黒猫の耳が片方ぴくりと揺れた。秋斗にとってもあの世での仕事だけではなく、個人的にも因縁のある相手の名前だからか。
 和泉から足利と呼ばれた男の歪んだ表情が、さらに歪んだ。
「大事に、大事に、だいじに育ててやったのにっ……! 野良犬がああああっ!」
 足利の右手がナイフへと伸びた。素早く反応した黒猫が足利の背中に全体重を乗せるように踏みつけた後、右手へと牙を立てる。
 和泉も反射的に動いて、ナイフを強く蹴り飛ばした。カン、カンと巨大タンクにぶつかって落ちたような音が響き渡る。
 そんなところへ、一人分ではない靴音が迫ってきた。六道と似たようなスーツ姿の、鋭い目つきをした男性が複数名走ってくる。
「春田さん、和泉さん、大丈夫ですか……!」
 男性らは六道と同じ、公安警察官なのだろう。暴れる足利を数人がかりで押さえ込んでいる。
 その様子を横目にしながら、六道は春田と和泉へ安否を問いかけてきた。
「俺は大丈夫……でも、まさかとは思ったけどな…………足利さんが、秋斗を」
 信じられないという面持ちの和泉に、六道が険しい表情を隠さず頷く。
「はい。実は、一年前の一件からマークはしていたんです…………和泉さんが退職した後、すぐのことで」

 一年前に複数の半グレ集団が抗争を起こした。違法薬物密売をめぐっては、シマを取り仕切る暴力団の目が光っている。
 薬物の取引を良しとしないヤクザと半グレ集団とで静かな睨み合いが続いていたのだが、抗争は突如勃発した。
 半グレ集団と暴力団――それぞれの幹部クラスに嘘の情報を流した人物がいる。社会的に悪とされる集団をぶつけての潰し合いが目的だったのか……それは未だ、定かではないが。

「そいつらの鎮圧の指示をしたのが足利でした。陣頭指揮にまで回って……その時、流れ弾に当たって大怪我したんです」
 撃たれた銃弾は急所からはギリギリ外れてはいたが、出血が多く、一時心停止にまで至るも、医師が臨終を告げる直前に息を吹き返したという。
 黒猫が鼻をひくつかせたのに春田は気付いた。六道の話を近くで聞かせるべく抱き上げようとするもかわされ、逆に背中を踏み台にされて肩に乗られた。
 執着が、消えようとした命の火に代わって燃え上がる。心臓が一度止まったのに、蘇った。
「足利は回復してすぐに、このグループに潜入しました。リーダーが足利の持つ裏のコネクションに食いついて、それこそ密売で大儲けしていたんです。マトリとも組んで捜査していたのに、特定のルートだけ不透明……それが、ここのグループが持ったルートです」
 公安警察官としてキャリアも長い足利がいつまでも手をこまねいているのもおかしな話。
 そこで六道も潜入捜査に加わり、手掛かりを探ると同時に足利の監視もしていた。正体がバレないように派手な服装はしていたが、足利に全然気付かれなかったのもおかしなことだった。
 潜入捜査では素性がバレないように振舞うのは当たり前だが、敵か味方かという区別はだいたい付けられる。刑事のカンみたいなものだ。
 しかし足利は、潜入した六道に少しも気付かなかった。気配を察する様子もなかった。それどころか。
「……秋斗を撃ったと聞かされたんです。和泉さんを汚したから、邪魔だったって」
 悪びれる表情をするでもない。まるで正義を執行したかのように誇らしげだった。
 足利本人から犯行の告白を聞いた六道は、秋斗の事件についても一から洗い直すよう要請した。
 明かされた話が真実ならば――足利は職務の上ではなく、私欲で殺人を犯したことになる。
「……証拠が揃えられたのか。本当に、足利さんが秋斗を」
「骨は折れましたけどね。それも俺らの仕事なので――温情なんかかけられませんよ」
 犯した罪に対して温情をかけるのは警察官の仕事ではない。捜査や事実確認、アリバイ検証など起きたことへの裏付けをすることに個人の感情は必要ない。
「ああ……俺もそう教えたし、そう教えられてきた」
 犯罪に対する正義は冷徹なもの。けれど、それは警察という組織が有する正義であって、個々人が持つ正義の形とは違う。
 足利が振りかざした正義はまさに個人的な……自分勝手なものと見なされる、
 和泉はふと、天井を見上げた。ややあって小さく息を吐き出した後、六道に向き直る。
 指先までぴんと伸ばした右手を、こめかみの前に掲げた。六道も和泉に倣い、敬礼の姿勢を取る。
「……後は司法の管轄です。個人の感情が優先されるところじゃありません」
「わかってる……ありがとう、六道巡査部長」
「警部補です。和泉さんが辞めてすぐに昇進しました」
 張り詰めた空気が六道の明るい声で破られた。敬礼の姿勢を解くと、六道は春田の方へ一歩近寄る。
「春田さん」
「は、はい」
 六道から本命チョコを渡されていたこと、本気だと宣言されていたこと。それらを急に思い出して春田は少し身構えたが、「たいへん申し訳ありませんが」と前置きした六道は頭を下げる。
「事情聴取などあるので、もう少しだけ付き合ってください」
 秋斗や違法薬物の件とは別に、春田自身が足利に誘拐された件についても捜査するということらしい。
「まあ仕方ねえよ。警察の仕事だからな」
 耳元で黒猫がやれやれとばかりに呟いた。その声色には明るさが含まれていた。
 できれば今日中に終わればいいなと思った春田だったが、「それはちょっと無理かも……」と和泉が申し訳なさそうな面持ちで首を横に振った。
1/4ページ
スキ