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猫と春。⑨

 この緊迫した場で口にする冗談でもないが、春田は思わず笑ってしまった。
「断トツのトップだっけ」
「まあな。それはおいといて、……春田の思いを辿ってきたんだよ」
 あの世にいると降ってくる、現世に生きている人の思いを示す花びら。春田と知り合ったことで、秋斗のもとには春田の思いも舞い降りてくるようになったそうだ。
 意識は無くとも思いは消えるものではない。生きている人間の心が生み出すものだから、現世の人間に見えないそれも、あの世の存在であれば感知できる。
「え~? おれの花びらってどんな?」
「春田、おまえさー、さらわれたってのにのんきすぎ」
 黒猫は春田の背後に来て、両手の拘束具に目をやる。錠はすでに六道が解いてくれているので、捕まっているフリをしているだけだ。迂闊には動かない。
「秋斗が来てくれたから、怖くなくなった」
「……ふん」
 そっぽは向いてもしっぽの揺れ方からして、黒猫はご機嫌だ。とはいえ状況は決して良くもない。
 どこかへ行ってしまった六道が戻ってくるかもわからないのだ。どうなってしまうんだろう。
「なあ……秋斗を撃った犯人がおれの部屋に盗聴器仕掛けたとかはある?」
 犯人かどうかは不明だが、背後から襲ってきた人物は明確に春田を狙ってきた。
 先日の盗聴器やカメラだって自分の部屋だけで、和泉の部屋にはまったく仕掛けられていなかったから。
「それって、なんでかな。秋斗とおんなじ顔のおれが気に入らないとか? それとも、和泉さんとわりと仲良くしてるのがダメ、みたいな?」
 六道菊之助のように、市井に紛れている警察官もいる。もしかしたらどこかで会っている可能性もある。見張るにしてもこちらには見つからずに、気配を消して自然にやれてしまうような?
 黒猫は返事をしない。春田の前に立ち、背中を向けて全身の逆立てている。
 コンクリートに革靴の底がゆっくりと落とされる音が聞こえてきた。春田が黒猫から目を上げれば、黒っぽいコートの裾を小さくなびかせながらゆったり近づいてくる人影がある――手袋をはめた右手に、大ぶりのナイフのようなものを持って。
 威嚇の姿勢を解かない黒猫と、散乱している注射器だった破片。
 それらを一瞥した、五十代ほどと思しき男性は汚いものでも見るような視線を春田に向けてくる。
「……忌々しい顔だな。潰せ、と言っておいたのに」
 廃工場の明滅する照明に、刃がギラつく。ナイフを逆手に持った男は一気に春田との距離を詰めてきた。鼻をついてくる臭いがピアス男のそれよりも薄まってはいるが、甘ったるいケミカル臭だ。
「イズミの奴め、こんな野良犬にまた篭絡されて……それで復讐? 笑わせるな……おまえの悪い癖だからよく分かってるんだよ! ひとつに集中しすぎて周りが見えなくなる、学生の時からそうだった……折角、俺が直してやったのに、おまえときたら」
 上官の命令を無視するような腑抜けや愚か者に育てた覚えはないのに。
 春田に対して呟いているではない。独り言のようで、ここにはいない誰かを戒めているように聞こえた。
「一匹潰せばまた一匹。よくも使えない駄犬ばかり。そうだ、命令を聞くしか能のない犬も、言うことを聞かない野良犬もイズミには相応しくないんだよ。ただの添え物でいい、あいつの影ですらなくていい。あれは孤高なんだ……イズミに、バディなんざ要らないんだっ……!」
 それなのに、どうして。どうしておまえは――正気とはまるで思えない、血走った両の目はぎょろりと春田を睨みつける。
「どうしてだ、イズミ。こんな薄汚い野良犬なんか見てるんだ。愛だの恋だのに浮ついて、高潔さまで喰われてしまって……野良犬から莫迦がうつったせいだ。莫迦に付き合っておまえまで莫迦になることはなかった。命令も聞けない、単身で敵の巣に飛び込む莫迦な犬風情、無視しておけば良かったんだ……」
 イズミ、イズミとケミカル臭とともに漏れてくるその名前。和泉のことを指しているのか。
 だとすれば、この正気でなさそうな男も警察関係者? 先程、六道やピアス男が言っていた『将軍様』はこの男……?
 そして、野良犬やら駄犬やらと、誰かを貶めているだろう言い方。この顔が、忌々しい?
 春田は背中に汗が伝うのを感じた。目の前の男が憎悪の対象としている、自分と同じ顔かたちをした人間――真崎秋斗を撃ったのは……。
「……こいつだよ」
 黒猫は唸る。相手には鳴き声にしか聞こえないが、春田の耳にははっきりことばが届いた。
「野良犬の護衛が野良猫か。よく躾けたな」
「っ……! こいつはっ! おれの、親友だよっ!」
 せせら笑う男に春田は思わず叫んだ。住んでいる世界は別でも、大事な友だちだ。
 そんなことはどうでもいいと、男は右脚を振り上げ、黒猫目掛けて蹴りを放つ。
 黒猫は反射的に蹴りをかわすも、革靴のかたい爪先が春田の腹に入った。
「う……ぐ……」
 息が止まりかけた。もう少し上を蹴られたら、心臓が止まったかも知れない。
 拘束は解けていて動けはするが、黒猫のようにはかわしきれない速さの蹴り――相当訓練を積んできたらしい。素人では相手にもならない。
 項垂れる春田の顎の下に、ナイフの切っ先が当てられる。首を切られたら人生が終わる。
 戦闘の心得もないのに、警察官と思われる相手を出し抜くのは無謀だ――けれど、どうせ終わるなら終わるなりに、言いたいことを言ってやる。
「…………別に、おれひとり殺しても、また同じ顔の奴出てくるでしょ」
 春田は男をまっすぐ見据え、唇の端を上げた。
 世の中には自分と同じ顔の人間が少なくとも三人はいると言う。見たら死ぬは眉唾だろうが、ここで春田創一がいなくなっても、あと一人くらいはいるはずだ。
「どこにいるんすかね……。この顔、死ぬほど嫌いなんでしょ。殺したいくらい」
 どうせ殺されるなら、同じ顔をした奴が姿を変えている黒猫があの世へ連れて行ってくれる。
 一人で死ぬわけではない、その事実があることに安堵さえしていた。
「……でも、おれを殺したら、もうやめてほしい。おんなじ顔してても人間としては別々だし、おれは春田創一で、真崎秋斗じゃないんで」
 同じ姿かたちをしていても、和泉幸のバディで恋人の真崎秋斗ではない。殺すにしても混同しないでほしい。
「イズミが野良犬なんかのために道を誤ってしまった。別に、その顔で何だろうが、消えてしまえばどうでもいいんだよ」
 真崎秋斗と同じ顔の人間をこの世から消す。正気を失い大きく見開かれた両目にも、動作にもためらいはなかった。
 顔を目掛けてナイフが振り下ろされてくる。春田はぎゅっと目を閉じる。
 黒猫が聞いたことのない、悲痛な叫び声を上げるのが聞こえた。
 そして、誰かが走ってくるだろう足音と、工場内に響き渡った銃声も――。



 ――顔にも、首にも、身体のどこにもナイフが突き立てられる感触はやってこない。
 春田は恐る恐る、まぶたを開いてみた。視界がやや暗いので、明かりを求めて目を上げると。
「――春田さんっ……!」
 何故か、泣きそうな顔をした和泉がいる。そう気付いたら鼻の奥がつんとして、頬を濡らすものが伝っていく。
 和泉が背後を振り返ったのはほんの一瞬で、両腕をこちらに伸ばしてくる。拒む理由はひとつも無かった。両手に絡んだままの拘束具を焦りながら振り切り、春田は和泉の肩に顔を埋めた。
 背中を抱く腕の強さに、心からの安らぎを覚える。
 好きな人と逢えた。生きて逢えた。ふつふつと込み上げてきたたくさんの感情を、春田はふるえる声に吐き出してしまう。
「……い、……いずみ、さあん」
 力の抜ける全身を、和泉も全身で抱きしめてくれた。
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