猫と春。⑨
ずるり、ずるりと緩慢に、引きずるような足音が近付いてくる。六道が履いている革靴が鳴らすのとは別の音。
廃工場をアジトにするのは刑事ドラマに出てくる犯人やそのグループだけかと思っていたが、現実でもたむろしているのか……?
「――あ~れ~? なんでカルマ氏いるんしゅかあ?」
引きずる足音の人物らしき声は大きく、工場内にも反響するほど。舌足らずながら今どきの若者といった声色だ。
「てか、そのカッコ何すかあ? サラリーマーン? アハハっ」
「転職しようと思っててさ、今から面接なの」
「アラフォーで足洗おーとか無理ゲーじゃね? アハハ、こっちのがおカネもーかるじゃん」
大物のお客さんいっぱいいるし、働かなくていいからすげーラクじゃん?
話し方がどこか間延びしていて、途中奇妙な笑いが入り、子供っぽい。
黙って聞いていても背筋が気持ち悪くなる。そんな彼と六道が普通に会話できているのに春田はぞっとした。
「カルマ氏って今日、こっち来る日だっけえ? もしかして、誰かタレコミしたぁ……?」
「俺が裏切るとか有り得ないし。将軍様に首切られるっての」
「だよねぇ~! アハハっ、二月に東京湾ダイブは死んじゃう~」
アハハ、アハハと甲高い笑い声が響き渡った。そう言えばぁ、間延びした声はまだ話を止めなかった。
「そーだ、ボク、お客さんにお注射しに来たんだったぁ」
「――は」
六道の背中が壁になって、春田がいる位置からは六道が会話している相手の様子はよく見えない。が、注射の一言ははっきり聞こえた。お客さんとはもしや。
「しょーぐんがさあ、お客さんにお注射してぇ、交番の前にでも捨てとけって言ってたよぉ?」
そしたらあとはおまわりさんが片付けといてくれるんだって!
へらへらとした笑い声を散らしながら、遊びの一部と言わんばかりの口ぶりはまるで年端もいかない幼児。善悪の分別もつかず、純粋さと残酷さを持ち合わせて弄ぶ。
ある程度歳を重ねた分別ある人間なら、そういうことを考えても、表には出さないだろうが。
「はあ? いくらあの将軍様でもそんなこと言わねえだろ?」
「このお客さんのぉ、カオが気に入らねんだって~。アハハ。注射したらボコって顔もつぶせってさ」
「へえ……。まあ、俺も? この顔は、殺したいくらい嫌いだ」
顔を潰す方は俺も手伝ってやる。六道の声は春田の心臓も凍り付かせるくらいに冷え切って、感情もなくなっていた。
敵なのか味方なのか、好きとか本命チョコとかもわからなくなってくる。
これは本当に、注射され顔を潰されて交番前に転がされるルートかもしれない。
六道の隣を通り過ぎて、会話の相手の顔が春田にも視認できた。黒地に蛍光グリーンで毒々しいイラストが描かれたTシャツの襟の上、血管がはっきり浮かぶほそい首にタトゥーらしき模様。唇と両耳、鼻にもリング状のピアスを複数着けている。こけた頬と両目に正気の色はうかがえず、一歩近づかれる毎に薬物めいた臭いが濃くなっていく。甘ったるくてケミカルな後味の、エナジードリンクに似たような臭い。
骨ばった右手には注射のシリンジ。細い針が妖しげに光る。
「お客さん、何やったか知らねえけどぉ、ごめんねぇ」
どの口が「ごめんね」と言うんだ……。下手に大声を上げて刺激するのもきっと良くない。しかし、両手が縛られたままで抵抗も無理め。針の先がどんどん近づいてくる。シリンジのなかで揺れている透明な液体は絶対に違法薬物的なやばいやつだ。
「…………にゃーん」
「!」
万事休す。ぎゅっと目をつむった春田だが、その耳に不意に鳴き声は聞こえてきた。
「ねこぉ? どっかのスキマから入ったかなぁ」
甘ったるいケミカル臭を吐き散らかしながら、ピアス男は大仰に辺りを見回す。
「やだなー、ボク、ねこアレルギーなんだよぉ。カルマ氏、捕まえて外にぺってし……」
骨ばった右手から急に、シリンジがコンクリートの床に落ちて割れた。
ピアス男も白目を剥き、春田に寄り掛かるように倒れ込んでくる。この数拍でピアス男の身に何が起こったんだろう。やがて重力に逆らえず、ずずずっとシリンジの中身が散った床へと転げてしまった。
咄嗟に「もしも」を思ってしまうが、背中がわずかに動いていて呼吸はしていた。
「……どこの猫か知らないけど、ナイスアシスト」
六道の声は背後からだった。かちり、と錠の外れる小さな金属音も。ややあって春田の両手を縛り付けていた拘束具の締めつけから解放された。
「……六道さん、この人、大丈夫……?」
「息はしてるから大丈夫ですよ。エナドリにちょっと、ね」
甘ったるいケミカル臭の正体がエナジードリンクと知って、春田は少しほっとした。違法薬物も危ないが、カフェインの過剰摂取も身体に毒だろう。
「……春田さん、もう少しだけ、縛られてるフリしてここに居てください」
「……はい」
ピアス男が逃げたという報告をしてくる。六道はそう言って、ピアス男を春田から引き剥がし巨大ボンベの陰へと引きずっていった後、場を離れて行った。
拘束具のカギは外されて逃げようと思えば逃げられるだろうが、下手に動けばピアス男が起きて騒いでしまいそう。巨大ボンベの陰から立て続けにくしゃみが起きる。
「……にゃー」
寝落ちる前にねこアレルギーと言っていたような。迷い猫が本当に入ってきたか。
「――春田っ!」
「うわっ!」
黒い影が目の前に舞う。音もなくコンクリートの床に着地した黒猫は、飛び散ったシリンジの破片と中身から素早く距離を取る。
「わっ、くさっ。何だよこれ……やべーやつじゃん」
鼻を近づけるまでもなく、シリンジの中身が違法薬物だと黒猫は顔をしかめる。
「あぶねーから近づくなよ、秋斗」
「そのあぶねーところに首突っ込んじまってるんだよ、オレもおまえも」
この廃工場はとある違法薬物の密輸、販売に関わっていた犯罪グループがアジトにしていた場所らしい。
三年前にそのグループを追っていた捜査官が殉職した後は拠点を何度か変えており、つい最近になってまた、この廃工場に戻った。
あの世での『仕事』で追っていた人間に関わりがあるので、黒猫も独自に調べはしていたそうだ。
「……でも、三年前って、もしかして……?」
春田の脳裏に疑問が浮かぶ。はっきりと口には出せない問いを察し、黒猫が頷いた。
「オレが撃たれたとこだ。……撃った奴の顔は見てたけど、和泉さんに伝える前に心臓が止まっちまってお迎えだよ」
「見てたんだ……」
「当然だろ……まあ、偶然ってかラッキーっていうか、死んでから追いかけることになるとは思わなかったけどな」
命の理を曲げてこの世にしがみつき続けている人物こそ、真崎秋斗を撃った犯人――。
腹の底が冷え切る、そんな感覚が春田を襲う。
犯人が黒猫の姿から真崎秋斗を思い出しはしないだろうが、秋斗は自身の、この世での時が閉じた場所に来て平気なんだろうか……。
「……秋斗、なんで、犯人がここだってわかんの」
黒猫がこの世の存在ではなく、何か不思議なチカラみたいなものはあるにしても、こんなピンポイントで居場所を探し当てられるものか。
銀色のひげがわずかに揺れ、金色の目がぴかっと光る。
「天才だからな、オレ」
廃工場をアジトにするのは刑事ドラマに出てくる犯人やそのグループだけかと思っていたが、現実でもたむろしているのか……?
「――あ~れ~? なんでカルマ氏いるんしゅかあ?」
引きずる足音の人物らしき声は大きく、工場内にも反響するほど。舌足らずながら今どきの若者といった声色だ。
「てか、そのカッコ何すかあ? サラリーマーン? アハハっ」
「転職しようと思っててさ、今から面接なの」
「アラフォーで足洗おーとか無理ゲーじゃね? アハハ、こっちのがおカネもーかるじゃん」
大物のお客さんいっぱいいるし、働かなくていいからすげーラクじゃん?
話し方がどこか間延びしていて、途中奇妙な笑いが入り、子供っぽい。
黙って聞いていても背筋が気持ち悪くなる。そんな彼と六道が普通に会話できているのに春田はぞっとした。
「カルマ氏って今日、こっち来る日だっけえ? もしかして、誰かタレコミしたぁ……?」
「俺が裏切るとか有り得ないし。将軍様に首切られるっての」
「だよねぇ~! アハハっ、二月に東京湾ダイブは死んじゃう~」
アハハ、アハハと甲高い笑い声が響き渡った。そう言えばぁ、間延びした声はまだ話を止めなかった。
「そーだ、ボク、お客さんにお注射しに来たんだったぁ」
「――は」
六道の背中が壁になって、春田がいる位置からは六道が会話している相手の様子はよく見えない。が、注射の一言ははっきり聞こえた。お客さんとはもしや。
「しょーぐんがさあ、お客さんにお注射してぇ、交番の前にでも捨てとけって言ってたよぉ?」
そしたらあとはおまわりさんが片付けといてくれるんだって!
へらへらとした笑い声を散らしながら、遊びの一部と言わんばかりの口ぶりはまるで年端もいかない幼児。善悪の分別もつかず、純粋さと残酷さを持ち合わせて弄ぶ。
ある程度歳を重ねた分別ある人間なら、そういうことを考えても、表には出さないだろうが。
「はあ? いくらあの将軍様でもそんなこと言わねえだろ?」
「このお客さんのぉ、カオが気に入らねんだって~。アハハ。注射したらボコって顔もつぶせってさ」
「へえ……。まあ、俺も? この顔は、殺したいくらい嫌いだ」
顔を潰す方は俺も手伝ってやる。六道の声は春田の心臓も凍り付かせるくらいに冷え切って、感情もなくなっていた。
敵なのか味方なのか、好きとか本命チョコとかもわからなくなってくる。
これは本当に、注射され顔を潰されて交番前に転がされるルートかもしれない。
六道の隣を通り過ぎて、会話の相手の顔が春田にも視認できた。黒地に蛍光グリーンで毒々しいイラストが描かれたTシャツの襟の上、血管がはっきり浮かぶほそい首にタトゥーらしき模様。唇と両耳、鼻にもリング状のピアスを複数着けている。こけた頬と両目に正気の色はうかがえず、一歩近づかれる毎に薬物めいた臭いが濃くなっていく。甘ったるくてケミカルな後味の、エナジードリンクに似たような臭い。
骨ばった右手には注射のシリンジ。細い針が妖しげに光る。
「お客さん、何やったか知らねえけどぉ、ごめんねぇ」
どの口が「ごめんね」と言うんだ……。下手に大声を上げて刺激するのもきっと良くない。しかし、両手が縛られたままで抵抗も無理め。針の先がどんどん近づいてくる。シリンジのなかで揺れている透明な液体は絶対に違法薬物的なやばいやつだ。
「…………にゃーん」
「!」
万事休す。ぎゅっと目をつむった春田だが、その耳に不意に鳴き声は聞こえてきた。
「ねこぉ? どっかのスキマから入ったかなぁ」
甘ったるいケミカル臭を吐き散らかしながら、ピアス男は大仰に辺りを見回す。
「やだなー、ボク、ねこアレルギーなんだよぉ。カルマ氏、捕まえて外にぺってし……」
骨ばった右手から急に、シリンジがコンクリートの床に落ちて割れた。
ピアス男も白目を剥き、春田に寄り掛かるように倒れ込んでくる。この数拍でピアス男の身に何が起こったんだろう。やがて重力に逆らえず、ずずずっとシリンジの中身が散った床へと転げてしまった。
咄嗟に「もしも」を思ってしまうが、背中がわずかに動いていて呼吸はしていた。
「……どこの猫か知らないけど、ナイスアシスト」
六道の声は背後からだった。かちり、と錠の外れる小さな金属音も。ややあって春田の両手を縛り付けていた拘束具の締めつけから解放された。
「……六道さん、この人、大丈夫……?」
「息はしてるから大丈夫ですよ。エナドリにちょっと、ね」
甘ったるいケミカル臭の正体がエナジードリンクと知って、春田は少しほっとした。違法薬物も危ないが、カフェインの過剰摂取も身体に毒だろう。
「……春田さん、もう少しだけ、縛られてるフリしてここに居てください」
「……はい」
ピアス男が逃げたという報告をしてくる。六道はそう言って、ピアス男を春田から引き剥がし巨大ボンベの陰へと引きずっていった後、場を離れて行った。
拘束具のカギは外されて逃げようと思えば逃げられるだろうが、下手に動けばピアス男が起きて騒いでしまいそう。巨大ボンベの陰から立て続けにくしゃみが起きる。
「……にゃー」
寝落ちる前にねこアレルギーと言っていたような。迷い猫が本当に入ってきたか。
「――春田っ!」
「うわっ!」
黒い影が目の前に舞う。音もなくコンクリートの床に着地した黒猫は、飛び散ったシリンジの破片と中身から素早く距離を取る。
「わっ、くさっ。何だよこれ……やべーやつじゃん」
鼻を近づけるまでもなく、シリンジの中身が違法薬物だと黒猫は顔をしかめる。
「あぶねーから近づくなよ、秋斗」
「そのあぶねーところに首突っ込んじまってるんだよ、オレもおまえも」
この廃工場はとある違法薬物の密輸、販売に関わっていた犯罪グループがアジトにしていた場所らしい。
三年前にそのグループを追っていた捜査官が殉職した後は拠点を何度か変えており、つい最近になってまた、この廃工場に戻った。
あの世での『仕事』で追っていた人間に関わりがあるので、黒猫も独自に調べはしていたそうだ。
「……でも、三年前って、もしかして……?」
春田の脳裏に疑問が浮かぶ。はっきりと口には出せない問いを察し、黒猫が頷いた。
「オレが撃たれたとこだ。……撃った奴の顔は見てたけど、和泉さんに伝える前に心臓が止まっちまってお迎えだよ」
「見てたんだ……」
「当然だろ……まあ、偶然ってかラッキーっていうか、死んでから追いかけることになるとは思わなかったけどな」
命の理を曲げてこの世にしがみつき続けている人物こそ、真崎秋斗を撃った犯人――。
腹の底が冷え切る、そんな感覚が春田を襲う。
犯人が黒猫の姿から真崎秋斗を思い出しはしないだろうが、秋斗は自身の、この世での時が閉じた場所に来て平気なんだろうか……。
「……秋斗、なんで、犯人がここだってわかんの」
黒猫がこの世の存在ではなく、何か不思議なチカラみたいなものはあるにしても、こんなピンポイントで居場所を探し当てられるものか。
銀色のひげがわずかに揺れ、金色の目がぴかっと光る。
「天才だからな、オレ」
