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猫と春。⑨

 君はずっと、誰とも馴れ合わない孤高の存在だった。
 冷静に、時に冷徹になれる――安っぽい感情なんかに振り回されない横顔は憎くもあり、同時に美しくもあった。
 だからこそ、君を感情なんかに振り回される安い人間に変貌させてしまった奴は邪魔でしかなかった。
 君と肩を並べて、背中を預け合って事件を解決していく姿には虫唾が走ったものだ。
 孤高であるべき君に、そんな野良犬みたいな奴が相応しいわけがない。だったら、相応しい奴を宛がってやろう――君の相棒にはなれなかった自分の代わりに、忠実で愚かな犬を据えておこう。
 どこぞの野良犬よりはましな、血統書付きだ。
 野良犬が死んだ後、君に忠犬をつけてやるよう進言した。この忠犬もこいつで君にそぐわない恋愛感情なんか持っていたが、あの野良のように君の感情を揺さぶるまでではない。
 失敗を恐れる臆病者だから選んだ。こいつも野良犬に対して思うところがあったようだから、奴の座っていた椅子に自分が座れると尻尾を振って喜んでいた。
 だが、君は――ずっとあの野良犬に与えられた陳腐な恋愛感情に揺さぶられ続けていた。
 忠犬が止めるのも聞かず、野良犬を駄目にした犯人への復讐に走った。孤高で冷静だった君がバカげたことに身をやつすなんて信じられない。
 忠犬も忠犬で次第に、こちらの言うことに従わないようになっていった。職務と命令に忠実であることしか能がないくせに、全くもって愚かしい。
 君が警察官を辞める時、愚かな犬は君を止めなかった。君の意思を尊重した――そう言えば聞こえはいいが、君が警察から抜け出したところで何ができた?
 愛しい愛しい野良犬を殺した犯人は無事に捕まえられたのか。君の手で引導を渡してやることはできたのか……いや、できるわけがない。
 君がただ傷つく様を黙って見ていることしかできないことに、同情と愉悦を感じている。せめて死ぬ前に後悔できればいい、どうしてあんな野良犬を愛してしまったのかと。

 ……なのに、野良犬はまた君の前にあらわれた。正確にはあの野良犬と同じ顔かたちをした凡庸な人間。
 凡庸なら凡庸なりにおとなしく社会の歯車でいればいいのに、野良犬と同じ顔でまたも君の感情に揺さぶりをかけている。
 許せない、許せるわけがない。一度もこちらに向けられなかった熱を抱く君の眸が野良犬なんかに向くなんて、絶対に許せないんだよ――!
 この野良犬もどきが野垂れ死んだら、君の顔はどんなふうに歪むんだろうか。


■■■


 ――錆びた金属と、古い油のにおいが春田の鼻腔をついた。後頭部が鈍く痛む。頬の下にあるのは固く冷たいコンクリートのよう。
 二、三回まばたきをして目を開けてみると、自分の部屋……ではなく、見知らぬ工場のような場所だった。
 両手は動かそうにも腰の後ろ辺りで縛られているようで、ガチャガチャと金属のぶつかり合う音がする。もしかしなくても、捕まったようだ。
(秋斗、ちゃんと逃げたかな……)
 正体は人間でも見た目にはか弱い小動物だ。小さな親友が暴力なんて受けていないといいのだが。
 寝転がされた体勢で、横目に天井を見れば、切れかかって明滅する蛍光管と、張り巡らされた様々な太さの管。辺りには背の高い巨大ボンベがいくつかある。しかしどれも手入れされている様子はなく、稼働音などもしない。何らかの廃工場と推測できるが、それにも関わらず電気が通っているのは人の出入りがあるからか……。
「……!」
 静けさしかない空間に、靴音が響いてきた。だんだん近くなってくる。
 後頭部を殴ってきた人物の顔は見ていないので、誰が来ても顔見知りでもなければ誰かはわからないと思う。
「…………春田さん」
 ボリュームをぎりぎりまで落としたその声に、春田は顔を上げた。知っている声だ。
「……六道、さん?」
 名前を口にすると、整った顔立ちが少しだけ緩んだ。服装こそいつものおむすび屋のエプロンではなく、かっちりした細身の黒っぽいスーツの上下だが、六道菊之助その人だ。
 でも、背後から殴ってきた人物と声は全然違った。男性には違いないが、もう少し年かさの印象がある声音だったから。
 六道は春田の前に片膝を突いて、転がされていた身体を起こして座らせてくれる。そして、首を垂れた。
「春田さん、巻き込んでしまって本当に申し訳ありません……その上で、もう少しこのまま付き合ってもらってもいいですか」
 六道は両手の拘束を解いてくれる様子ではない。なのに「付き合え」とは。
 上着の下、ワイシャツの胸ポケットからのぞくのは警察官ドラマでよく見る身分証のような、黒いカードケースのような。
 警察官であろう六道がそういうなら、何かしら考えはあるのだろう。春田は自分が囮なのか、単に事件に巻き込まれただけなのかは思案の外に置くことにした。
 六道菊之助はたぶん、悪い人間ではない。今は彼を信じるしかない状況だ。
「……それにしても本当に、春田さんは秋斗そっくりですね。性格は全然違うのに」
 懐かしいものに注がれるまなざしが向けられてきた。良い感情と悪い感情とが複雑に入り混じりながらも、泣きそうな感じが六道の両目に浮かんでいる。
 秋斗も、六道は警察学校で同期だと言っていた。仲はそれなりに良かったのだろうか。
「この顔がとてもとても憎たらしかったのに、春田さんだと憎めなくて困ります」
 ……その言い方だと、六道は秋斗にあまり良い感情を持っていなかったのだと解釈できてしまう。
 秋斗の評にしても「悪い奴ではないが真面目がすぎる」なので、反目し合っていたのか。
 六道の右手の平が頬にくっついた。指先はやや冷えている。照明は点いていても暖房はきいていないようなので、外から風はあまり入らないにしても冷えるのだろう。
「こないだ渡したチョコ、正真正銘本命チョコなので。春田さんのこと、一目惚れって言ったけど、昨日今日の一目惚れじゃないですからね」
「え、おれら、どっかで会いましたっけ……」
 六道のような顔立ちのはっきりしたイケメンなら覚えているはずだが、記憶を遡ってみても昨年末にキッチンカーがオフィスビル近くに出てきた辺りが最初。それ以前に出会った記憶が春田にはなかった。
 思い出せない春田に、思い出さなくてもいいと六道はかぶりを振った。
「……和泉さんと出会ってくれたのが、春田さんで良かった」
 頬に寄り添っていた右手が名残惜しそうに離れていった。春田に目線を合わせて少し屈んだ体勢を取っていた六道はすっと立ち、上着の内側に右手を隠した。
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