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猫と春。⑧

 ――二月十四日、バレンタインデー当日。
 居酒屋わんだほうでの店主バースデー兼バレンタインパーティーは夜からだ。
 公休日の日中、春田はスーパー家政夫さん宅でチーズケーキづくりに励んでいた。
 普段の食事はアパートの部屋に置いてある家電や調理器具で間に合うものの、手の込んだメニューづくりとなると間に合わないこともある。
 天空不動産に勤めていた時から頼りになる元上司は、そんな場面でも頼りになる。
 チーズケーキひとつ取ってもレシピが数多く存在していること。その中で和泉がどんなものを好むのかなど、考えることも多かった。
 なので、とりあえず基本的なベイクドチーズケーキと、砕いたビスケットを土台にしたレアチーズケーキにブルーベリーソースを添えて。
 そしてバレンタインデーということで、マスカルポーネチーズとドリップコーヒーの風味をきかせたティラミスも。
 今日は家政夫さんの指導とサポートありきでつくったが、和泉がどれかでも気に入ってくれたら一人でも頑張ってみようと静かに意気込む春田だ。
「おっちゃんマジで神。オレ、おっちゃんの家の子になりてえ」
 ひとまずアパートへと変える道すがら、一緒に付いてきていた黒猫が満足げに鳴く。
 スーパー家政夫さん宅がペット可だったもので、黒猫も歓迎してもらえたのだ。春田の部屋では出てこない手づくりごはんが猫様のお気に召した様子である。
「おっちゃんがトリマーとか獣医なら世話になりてえなあ。なんで家政夫?」
「それはおれもわかんない……。急に早期退職したかと思ったら、すごい家政夫さんになってたんだもん」
 春田の上司だったスーパー家政夫さんは、春田が上海から戻ってしばらく経った頃に早期退職を申し出ていた。その後は連絡が取れなくなっていたのだが、春田が牧との別れを決め、今のアパートに引っ越しする直前に偶然街なかで再会した。
 牧とのことで背中を押してもらい、かなり世話もかけたのに、別れてしまったことを春田は詫びた。そして一人暮らしを始めるにあたり、家事を習いたいと頼み込んだ。
 ユニコーンの称号を持つスーパー家政夫さんは快諾してくれた。それ以来、家事と人生の師匠として多くのことを学ばせてもらっている。
「何やっても一級品って人間はいるもんだよな。マジでおっちゃんの子になる……」
「なんてったってペット可物件だもんな……。猫居ても大丈夫かあ」
 春田も個人的にペット可の物件を探してはいるが、求める条件に全部あてはまるとなれば難しい。家賃、通勤距離、間取りはもちろん動物病院が近くにあるか。また、その病院の評判など。
 黒猫がふつうの猫ではないとわかっていても、何かあった時に人間の病院には連れて行けない。自宅処置で下手もできないので、ちゃんとした動物のお医者さんがいてくれた方がいい。
「部屋探すんなら今より広いとこにしろよ。一人で住むとは限らねえんだし」
「秋斗も一緒に決まってんだろ。心配しなくていいよ」
「ばーか、オレじゃなくて」
 黒猫が誰のことを言っているのかもわかっている。だけど、和泉と両想いになれたとして、必ず同居になるかと言えばそうでもない。自分は良くても相手が同居を拒否する可能性もあるからだ。
 あの夜以来、キスもしていない。別に恋愛感情はなくても欲求や勢いがあればどうにでも出来てしまうので、あれは和泉の欲求だったと割り切るしかない。そう思うのは切ないけれど、そうでも思わないとやりきれない。
 だから、今夜、和泉にチーズケーキを渡して、自分の気持ちがどうなるのか確かめてみるつもりでいる。急にしっかり固まらないにしても、和泉の誕生日までに決められたら――。
「……春田、待て」
「?」
 黒猫が低い姿勢を取って唸るのに、春田は足を止めた。アパートは目と鼻の先の距離。
「……くせえ」
 何かを警戒して、黒猫が鼻をひくつかせる。歩いている間に犬の落とし物でもうっかり踏んでいただろうか……それとなく足を浮かせ、靴底を見たがそれらしきモノはくっついていなかった。臭いと言ったのは何のせいだ。
「――……春田創一、だな?」
「!」
 背後から突然、知らない男の声がした。こちらが鈍いにしても、誰かが近づいて来るなら靴の音くらいしそうなのに。
「にゃあああああ!」
 黒猫が牙を剥いて、背中の毛を逆立てる。金色の目が燃えるように光って、春田――の背後に立つ誰かを射た。
 背後に立った人物が、鼻で笑う。
 猫が激しく威嚇するからには、良くない感情や気配を抱いた人間か。
 腰の辺りに、アウターの上からでもごつりと当たってくる感触がある。どういった類の武器だろう。迂闊に動けばぶすっと刺されるか、ズドンと撃たれるか。
「……おれが春田創一ですけど、何すか」
 慌てるな。焦るな。帰る先はもうすぐ近く。大声を出せば和泉が気付いて駆けつけてくれるかも知れないが、あの人を危険に晒せない。
 ケーキの入った箱を持つ手が湿り気を帯びてくる。黒猫は背後の人物を窺いながら、強く警戒した姿勢のまま。
「……君は、要らない」
 だから消えてくれ――あれの前から。
 後頭部付近への鈍い衝撃と共に、目の前がぐらりと揺らいだ。
 和泉のために、教わりながらつくったケーキの箱が手から離れて、道路に落ちてしまう。
 やばい、絶対崩れた。ここまで気を付けて持ってきたのに。
「にゃああ! 春田っ!」
 猫の叫びに秋斗の呼ぶ声も入り混ざった。人前なのに喋っちゃダメだろ――。
 ケーキの箱と同じく、春田自身の身体も道路へと崩れ落ちていく。どこかからブレーキ音が聞こえてきて……春田創一の意識は、閉じた。


□□□


「――真崎」
 黒いボディのセダンが春田の住むアパートとは反対方向に走り去って行った。
 燃えたままの金色の目が空中に向く。細かな飛沫のような白い光がふわふわと集まってきて、創り出すのは二つの人型――艶のない真っ黒なコートを羽織った、この世のものとは思えぬ白い肌色の二人。
 そのうちの一人は眼鏡をかけた初老男性と思しき見た目で、片膝を突いて黒猫の頭をそっと撫でる。丸いレンズの左側は透明で、右側は真っ黒に塗り潰された上から金色の文字列を円形にしたような、細かな紋様が刻まれている。
「ここまでよくやった。後はこちらで追尾する」
 黒猫は春田を背後から襲い、連れ去っていった人間にただ威嚇をしていたわけではなかった。
 今まで探していたターゲット。定められた命日を逃れ、理を覆して現世に永らえていた人間。
 理外に在り、生者とは見なされないために迎えの目印となる命の火は光っていない。だからその人物を縛り付ける執着の臭いを探り、見つけ出せたら命の火の代わりとなる目印を刻む。
 黒猫が燃える金色の目でターゲットの目を見つめることで目印を刻み、追跡を可能とした。
「捜査の速さはさすがに十年に一度の逸材だけある。どうしておまえみたいな優秀な警察官が早死にしたのやら……だな」
 もう一人は眼鏡の男性よりは一回り程若い見た目をしていて、オールバックにした長髪をうなじの辺りで一括りにしている。涼やかな切れ長の目元は色男という表現がぴったりな――生前は実際、色男でモテたらしい。
「好きな人を守って死ねたら本望ってやつっすよ――それが運命だったんでしょ」
 冥府には、送られてきた人間の運命が記された膨大なデータベースがあるのだが、閲覧制限がある。
 裁判所に勤めてポストが上がれば閲覧権限は与えられるらしいが、裁判所は事務仕事に次ぐ事務仕事の山でまさしく「これが地獄!」と思えてしまったので、見なくてもいいやと秋斗は思っている。
「なら、あんまり現世に干渉するな。第七法廷から注意があったぞ」
「はあい」
 重大な禁則に触れたなら停職を通り越して刑場にぶち込まれるだろうが、閻魔様からの注意程度なら現世への影響はそれほどでもないと考える。多分、春田と和泉の運命をちょこっと変えたくらいだろう。バタフライエフェクトにもならないはず。
 けれど、春田がターゲットに連れ去られた。相手の目的はきっと、健やかさを取り戻しつつある和泉の心を再び弱らせることだろう――だが、和泉の心を弱らせることが相手にとってどんなメリットになるのかは疑問だ。
 春田創一が居なくなっても相手は困らないだろうが、春田創一が和泉の傍に居ると和泉が弱らないから都合が悪い?
 元々、和泉幸という人間は警察官としては心身ともにタフだ。滅多なことでスキは見せないが、たまにのぞかせるスキは可愛い。そして、自覚していなかった愛を強い復讐心に変えてしまうくらいに、感情が視野を狭める傾向にある。
 和泉の視野が狭まったままでいた方が、相手にとって都合はいいのか。
 それもまた何のためなのかは、秋斗にもわからなかった。単に和泉の立場を悪くしたいだけなら、どんな工作も容易なはずだ……。
「――真崎」
 考え事に沈む意識に、名前を呼ばれて黒猫はぱっと顔を上げる。
「後は私とヒジカタで処理するから、真崎は先に戻りなさい」
 初老の男の、左側のレンズの奥にある眸は凍り付くほどに冷たい闇の色。生前は名奉行と称された彼もまた職務には忠実で、道理を外れた者には冷徹だ。
「いくら優秀でも猫の姿じゃ半人前にもならねえからな。オオオカさんに捜査終了の報告しとけよ?」
 色男で通っていた彼も、忠義と冷徹を併せ持つ鬼の副長と呼ばれた人。
 現世では生前の姿になれない自分にはまだ力はないと、黒い前足が物語る――だけど、せめて。
 黒猫は頭を上げた。目に映るのは、二人分の微笑み。
 風が吹いてきた。冬の冷たさのなかにも淡く、春のにおいがする。黒いコートの裾が風に弄ばれて舞うと、二人の姿は魔法のように消えていた。
 路上に残されたケーキの箱。春田が、和泉を想ってつくったチーズケーキが入っていたのに、横倒しになってしまって中身の安否も想像できてしまう。
 ひとりきり佇む黒猫のひげに、また吹いてきた風が触って揺らす。見返りを口にしない友の気配はまだ、淡い色の花びらとなって空気中に漂っている。
「……黙って戻れとか、和泉さんみてえなこと言いやがって」
 友だちのピンチに何もしないのは、ヒーローのすることではない。黒猫は奥歯を噛みしめた後、後ろ足にぐっと力を入れる。

 小さな足で向かう先は、もう決まっていた。
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