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猫と春。⑧

 賑わう白昼の街なかにあってそれは自然で、どこか不自然な気配だった。
 背後から視線を感じて和泉は振り向いてみたが、うっすら気配だけ残して姿は消えていた。
 二月最初の連休で商店街も人通りは多い。加えて福引抽選会も開催されているので、会場となる広場の特設テント付近は特にごった返している。
 先ほど買い物をしてきた先で抽選補助券を四枚もらってはいたが、五枚ないと福引には挑戦できないため宝の持ち腐れ。またはゴミのようなもの。
 誰かに譲ってしまっても構わない――視線を感じたのはその時だった。
 残されているのはよく知っている気配。和泉は踵を返し、気配の残滓を追いかけていく。
 商店街の裏通り、利用客がほとんど見当たらない路地の陰。袋小路となる辺りに、和泉よりも年かさに見えるコート姿の男性が佇んでいる。
「……足利さん」
 和泉が名前を口にすると、足元に注がれていた目線が上げられる。
 足利尊は和泉の先輩にあたる警察官で、警視庁公安部に籍を置いている。
 元公安警察官だった和泉に対しての監視役は別にいる。監視役でもない、もう警察官としては関わりのない足利がどうしてこんな商店街などに居るのか――。
 和泉が警察を退職した一年前よりも足利の顔色が悪いように感じられたが、それは黙っておくことにする。
「元気そうだな、和泉。顔色も良くなって」
「……その節は、心配かけてすみませんでした」
 秋斗を喪った後は生活状態も良くなかった。とりあえず肉体が動けばいいとゼリー飲料やブロックタイプのクッキーなど最低限のエネルギー摂取だけだったので、周囲に顔色を心配されたのは一度や二度ではなかった。
 春田と出会っていなければ、今も変わらずそんな食生活をしていたと思う。
「菊も心配してるぞ。たまには顔くらい見せてやれ」
 第二営業所のオフィスビルの近くでおむすび屋を出している。そう言う足利に和泉はかぶりを振った。
「き……六道は俺の教場にいましたが、俺が退職した以上関わるつもりはありません。監視なら別にいますし、元バディでもあれが公安であるなら、尚更俺が不用意に近づいてはいけないでしょう」
 公安部とはそういうものだ。警察組織を構成する他の部署のように、世間にはオープンにできない捜査や任務に携わる部署で、一般人の立ち入る領分では決してない。
 六道が何のためにおむすび屋を営んでいるかは不明だが、任務のためのカムフラージュならば正体を知る者が安易に近づいては都合が悪いと理解はしているはず。
 警察学校時代に教官と生徒だった誼があるにしても、だ。
「……それなら、真崎を殺した犯人グループの件にも首を突っ込むのは止めろ」
「……それは」
 眼光が鋭く和泉を刺した。秋斗を撃った犯人が見つからない限り、公安も犯人がいると思しき犯罪グループをマークし続けている。そして、同時に、和泉自身も公安からは容疑者扱いされている。
 真崎秋斗が殺害された現場にいて、目撃者が見当たらないことから犯人として疑われるのは仕方のないこと。撃たれた様子も死に際も目の当たりにして、和泉が立っていた位置からの狙撃も不可能と検証はされたが――確実にシロとも言えないと判じられている状況だ。
 疑わしいから事件の捜査には関われない。それも和泉が警察を辞めた理由のひとつだった。
「捜査権限もない一般人が犯行現場に出入りするな。おまえもまだ疑われているんだ、証拠なんていくらでもでっち上げられるんだぞ」
「っ……!」
 ないところから証拠を作り出すのも、公安の得意とするところ。
 足利の目を見れば本気なのもわかってしまう。犯人グループがいるだろうと和泉が向かう場所には、必ず捜査官が身を潜めている。
 今度踏み込めば彼らを動かして、真崎秋斗殺害の罪で逮捕させる。足利の言いたいことは恐らく……。
「……真崎のことはいいかげん忘れろ。命の洗濯でもして来たらいい」
 足利は和泉の手に紙片を握らせ、袋小路を先に出て行った。
 握らされた紙片は福引の抽選補助券だった。手持ちを合わせてちょうど五枚にはなる。よく見れば一等賞品に『熱海温泉旅館宿泊券』とあった。
「……?」
 しわのついた補助券の裏が少しばかり透けて見える。手持ちの券の裏面は全部真っ白なのに、足利に渡されたものにだけ何か書いてある。
 店によっては裏面に店名をスタンプしていることがあるので、きっとそれだろうと裏返してみた。
(――これは)
 走り書きに和泉は目を見張った。鼓動が嫌な予感に跳ね上がる。
 紙片に記してある文字列は、公安警察官やその協力者が使う暗号だった。和泉にも容易に解読できてしまうそれを、どうしてわざわざ置いていった?
 疑念が浮かぶ。あの日、秋斗を独りで現場におびき出した人物がいたと考えられてはいるが、本当に居るのかも知れない。
 そして、現場にあったはずの秋斗のスマートフォンが遺留品のなかになかったことも思い出される。秋斗を目の前で失ったショックが周りを見えなくしていて、所持品確認の時に全く気付けていなかった。
 自ら狭めてしまっていた視界の外で、どんな工作がされたのか――公安とは、そういうものだった。
「……にゃーん」
 紙片を手のなかで握りつぶしたところへ、黒猫がそろそろと近づいてくる。
 何やら注意深く辺りを見回した後、いつものように擦り寄ってきた。
 頼まれていた買い物の途中だったと和泉は思い出す。春田もきっと待っていることだろう。
「……帰るか」
「にゃん!」
 和泉は紙片をコートのポケットに突っ込み、黒猫の頭を優しめに撫でる。
 胸騒ぎは消えない。近づけたと思っても肩透かしだった真相への道筋が見えた気はしても、そこにある真実は生やさしくないと感じられる。
 復讐も秋斗のためと言っておきながら、結局は自己満足でしかないとわかってはいる。復讐を果たせたところで秋斗はこの世に戻ってこない。秋斗にきちんと「愛している」さえ伝えられない。心の、秋斗が存在していた部分にぽっかり空いてしまった穴は二度と埋められやしないのに。
「にゃー!」
 立ち尽くしたまま歩き出せない和泉のスラックスの裾を黒猫が噛んで引っ張る。
 待っている人のことを黒猫の方がしっかり理解しているようだ。ここから歩かなければ辿り着けない場所がお互いにある。
「……わかった、行くよ」
 猫は、居心地の好い場所を知っていると言われている。この黒猫にとっての居心地の好い場所はきっと自分と同じだと、和泉は思って踏み出した。
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