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名前を書く。【いずはる】

 仕事は早く終わる分にはいい。しばらく泳がせていた犯罪グループの構成員がうまいこと尻尾を出してくれたので、今夜のカチコミは予定よりも早く切り上げられた。
 帰りを待っている人がいることを知っている相棒が気を回してくれたお陰で、日付が変わらないうちに帰宅できた和泉だったが――。

「……?」

 同居人は夢のなかにいる時間。大きな音を立てないように部屋に入り、リビングの明かりを点けてみたら……ローテーブルの上に、大きめの紙が置いてあった。
 ドラマなどでよく見るのは緑色の枠の離婚届だが、ここにあるのは濃いピンク色の枠線で、婚姻届の文字だ。
 何故婚姻届がここにあるのか、仕事帰りの頭で考えてみてもわからない。そもそも婚姻届は茶色の枠線だったような……枠線が濃いピンク色だけではなく、花やハートのイラストも散りばめられていた。

(……春田さんが、結婚?)

 和泉自身は結婚する予定はないので、ならば同居人……現在、和泉と恋愛関係にある春田に、結婚を望む女性が現れたということになってしまう。
 日本国において現行の法律では、戸籍の上で婚姻を結べるのは男女のみ。同性間での結婚はあっても事実婚、または自治体が定めるパートナーシップ制度の下でのものだ。

 春田に良い女性が出来たのなら自分は潔く身を引くまで。心を救ってくれた恩人の幸せを壊そうとは思わないから――。

「……あ、和泉さん。お帰りなさい」

 そこへスウェット姿の春田が寝起きの顔でやってきた。底冷えするのにスリッパも履かないで。

「あ……は、春田さん、これは」

 和泉は、「ただいま」を言うのを失念してテーブルの上の婚姻届を指す。
 何度かまばたきをした春田はそれを見て、「あっ」と小さな声をあげた。

「……これ、ちずから押し付けられたやつです」
「え」

 ちずは春田の幼なじみで、居酒屋わんだほう店主である兄の荒井鉄平と共に懇意にしている。
 店もオリジナル料理が個性的なのを差し引けば過ごしやすい雰囲気で、和泉もたまに春田と行っている。

 幼なじみとは言え、バツイチ子持ちの彼女が春田に婚姻届を渡す意味は……やはりこの先、父親がいた方が都合のいい局面もあるから、血のつながりはなくてもと思ってか。
 しかし、荒井ちずの名前は『妻になる人』の欄ではなく、『証人』欄に記してあった。やけに勢いのある筆致だ。彼女の兄の名も証人欄にあり、あとは結婚する両人の名前を書くだけ。

 きっと、荒井兄妹は春田が結婚を望む女性の存在を認識しているのだ。自分たちが証人になるから、結婚すればいいと背中を押せるような……素敵な女性なのだろう。

「春田さん……あなたが、結婚したい人がいるなら、俺は」
「? ちずが付録可愛いからって買ったゼ○シィに付いてきたやつですよ。あたし結婚する予定はないからって」

 結婚情報誌に付いてきた婚姻届を押し付けてきた上、わざわざ兄妹で証人欄も埋めてくれた。

「だからどうしろって話ですよねー。おれだって、使う予定ないんだから」

 そう言いながら春田は、『夫になる人』の記名欄につっと指を滑らせた。そのまなざしは愛おしいものを見ているようでいて、どこか淋しげで。

「……和泉さんだって、使わないもの渡されても困っちゃいますよね」

 春田がジレンマを抱いていることに和泉は気付いた。
 愛を伝え合う、交わし合うお互いだけが認識できていればそれでいい。その一方で公に認めてほしくて声を上げる人も少なくはない。
 恋愛や結婚は男女だけのものではないと誰もがわかっていても、認められない側面。
 それでも、たったひとりしかいないこの人と、と臨んだのは他でもない自分たちだ。いばらの道と言われても、そのうち花が咲くことだってあるかも知れないなら――。

「使う日が、来るかも知れませんよ。今ではなくても……この先法律が変わったら」

 そんな日が来たら、『夫になる人』『妻になる人』ではなく、『ふうふになる人』と欄が纏まるかも知れない。
 夫だの妻だのの役割意識も薄れてきている今どき、こんな区分けも古めかしいのではないか。

「でも……法律がどうなろうと、春田創一が俺の大切な人であることは変わりません」

 凍えきり、渇ききった心にひだまりのぬくもりと恵みの雨をもたらしてくれた、優しい人。愛を再び感じさせてくれた人。
 和泉は春田の手を取り、両手で包んだ。

「だから、良ければ……春田さんさえ良ければ、名前は書いておきたいんですが」

 言いながらプロポーズのようだと和泉は思った。婚姻届に自分の名前を書かせてほしいなんて直球が過ぎた。証人欄は埋まっているから、記名する箇所は決まっている。

「……和泉さん、顔、真っ赤」

 春田が小さく肩を震わせて、眦を下げる。笑みの形に口角が両方とも上がった。

「そうですよね。そのうち使えるかもだし、名前書いても大丈夫っすね」

 双方合意ということで、交わすキスもどちらからともなく。
 名前を書くのは夜が明けてからにして、まずは愛を確かめ合った。



『夫になる人』『妻になる人』の表記は二重線で消して、その上に『ふうふになる二人』と手書きした。
 先に和泉が名前を書き入れ、続けて春田も名前を書く。それでおしまい。

「……なんか、和泉さんとちゃんと家族になった感じする」

 同じ枠内に二人の名前が並んでいる。春田の指先が何度も何度も枠線と名前をたどるのに和泉は微笑みを隠さない。そして、歓喜も。

「今日から俺は、春田幸と名乗っても問題ないですよね」
「え~? じゃあ、おれは和泉創一って言いますよ~?」

 どっちも和泉さんで、どっちも春田さんで、呼ばれたら返事してみようか。ふうふなので、と。
 婚姻届に名前を書き記したついでに、ふうふになった記念日として日付も書き込んでおいた。

「バレンタインデーのチョコ、晩ごはんの時に渡しますね」
「はい。俺も用意があるので、忘れず持って帰ります」

 今日はバレンタインデー。愛を贈る日。大好きな人へたくさんの愛と感謝をこめて――。


■■


 出がけにしまっておいたと思った婚姻届が、和泉と春田が揃って帰宅した時には何故かまたリビングのローテーブルの上にあった。
 証人欄の枠外――ちずと鉄平が名前を書いた下に、黒澤武蔵、六道菊之助と署名されている。

「……そういえば今日、ぶちょーが来てくれる日だった」
「……菊も、今日は別件で不在でした」

 証人の名前が増えた婚姻届と共に、赤とピンクを基調とした小ぶりのフラワーアレンジメントも置いてある。間違いなくスーパー家政夫さんの仕業だ。
 そして冷蔵庫の中におかかおむすびとティラミスらしきデザートが入っている。おむすびはご丁寧にもハート型だった。
 何らかの圧を感じる……とお互いに思っていて、同じタイミングで苦笑が漏れた。それもなんだか、二人らしい。

「……まあ、そういうことは、そのうちで。は……創一に渡したいもの、忘れず持ち帰れました」
「おれもです! とっておきのチョコですよ……いず」

 ……幸さん。
 名前を声に出した春田のはにかむ表情に、和泉は思わずキスをした。
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