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猫と春。⑦

「恋に早いも遅いもねえんだよ。好きだと思ったらその時だって」
 周囲には黒猫がにゃーにゃー鳴いていると思われているだろうが、春田の耳にははっきり人間のことばが聞こえている。
 小皿からフードを食べる黒い後ろ頭に春田は零した。
「でもさあ、さすがに一ヶ月は早いし、牧とだってちゃんと別れたのほんのちょっと前でさあ」
「うだうだ言ってるうちに搔っ攫われんぞ。和泉さんああ見えても、突っつかれれば揺れるタイプなんだからよー」
 今日のフードはカリカリだ。ウェットフードばかりで飽きたと猫様が騒いだから。
「見た目しっかりしてそーだけど……和泉さんって警察官の時、どんな感じだったの?」
 雰囲気的にぽやっとしているところを差し引いたら、頼れる年上の男性という外見だ。
 盗聴器を見つけてくれた時の鋭さも踏まえると、警察官だった頃はとても優秀だったのではないかと春田は思う。
 黒猫は小皿から顔を離して、鼻を鳴らした。
「公安部のエースの名前は伊達じゃなかったって、こないだあらためて思った。警察離れても、根っから警察官じゃんって」
「え、エース? すごいじゃん……」
 警察官のなかでも公安部に配属されるのは能力の高い面々、一握りのエリートとは和泉から聞いていたが……そのなかでエースとまで呼ばれるのはもしかしなくてもすごいことではないか。
 そんな和泉が、大事な存在を喪い復讐にまで燃えている。自ら輝ける居場所を捨ててまで――愛が、和泉の心を揺さぶって、突き動かしている。
 自身の立場よりも、秋斗のことを優先したのだ。
「エースだったのに公安辞めてまで復讐しようとしてるんだな、和泉さん……」
「……別に、復讐しろなんて頼んじゃいねえのに」
 黒猫は奥歯でフードを噛みしめる。苦虫でも噛み潰したかのように。
「……秋斗は、和泉さんの復讐を止めに来てんの?」
 命日が来たのに執着によって生き延びている人間を探しに、秋斗があの世から黒猫に姿を変えて現世に降りてきたのは知っている。だけど、本来の目的があってもほとんど毎日アパートにやってくるのは、実は和泉の復讐を止めるためなのかも。そう春田は考えたが。
「ばーか。あの世の存在が現世の人間の事情に介入できるかよ。オレはあくまで仕事だし、むしろ春田のが心配だ」
 六道菊之助からカードを渡されていた件といい、盗聴器や監視カメラを仕掛けられた件といい。むしろ春田がその身を狙われている可能性がある……黒猫は小さく息を吐いた。
「春田が対象にとってイレギュラー化してる話は上に報告して、見守りの許可はもらってある。オレが守ってやるから安心しろよ」
 寝る場所とメシをもらってる恩義もあるからな。猫に対して不敵な笑みを浮かべていると表現するのはいいのかと思いつつ、春田は黒猫の横顔にそんな感想を持った。
 自分よりもずっと小さな身体の黒猫に守られてしまうのもどうかと思うが、実際部屋の異変に気付いてくれたのは彼だからぐうの音も出ないわけで。
 今日も六道菊之助のおかかおむすび店には、女性客が長蛇の列をつくっていた。
 黒猫は時々キッチンカーに目をやりつつ、カリカリをきれいに食べ終えた。ウェットフードではないので、春田はいつもより多めに水を小皿に注ぐ。
 正直、あの世の存在とは言え、中身が人間ならふつうに人間の食べ物を食べても良さそうな感じはする。そんなことを訊いてみたら、「味覚が猫だから」と返された。
「ところで、あの和泉さんがどういう相談してんだろうな。警察じゃされる側だったのに」
「それは個人情報だから……相談受ける側にも守秘義務はあるし」
 春田も和泉がどんな悩みで相談室に行ったのかは知らない。仕事の悩みなら教え方がまずいとか、ハラスメントを受けたとか……やった側に覚えはなくても、受け取る側がどう思うかだ。
 良かれと思ったことが迷惑になる可能性だってある。上司として接するのも何かと気を使わなければいけない時代の流れであるからして。
「……案外、恋の悩みだったりして」
 やはり不敵、という言葉がぴたりとはまる。そんな感じに黒猫は笑みに目を細めた。
「和泉さんは誕生日が三月二十日で、好きな食べものはチーズ。寝相は悪くない」
「やっぱチーズ好きなんだ……誕生日、来月じゃん。……寝相?」
「寝起きは髪爆発してる。傷跡とホクロの位置は……前に見てるから知ってるか」
 黒猫の口から聞くと、真崎秋斗だから知っていることなのだとなんだか納得してしまう。誕生日は履歴書や運転免許証などで確認できても、食の好みや寝相は和泉本人や近しい人間でなければ知らないことだから。
 和泉に対して気持ちをはっきり伝える覚悟もまだないし、好きという自覚も淡い。ちゃんとバレンタインのチョコレートを用意して想いをこめるなんて、本気めいたことまで考えられない。
 それでも、バレンタインデーの雰囲気に乗っかってお菓子をプレゼントするくらいなら今の自分にもできそうな気がする。バレンタインデーまでに気持ちが固まらなくたって、和泉の誕生日にまでならあやふやな『好き』もなんとか固まっていてくれているような……。
「……でもさ、おれが和泉さんに本気になっちゃったら、秋斗は嫌じゃないの」
 和泉の心深くには秋斗がいるし、姿は違っても秋斗は和泉を大事にしている。
 死んでも大事なひとなら、誰にも触れさせたくないなんて思ったりしないだろうか。
 春田の問いに、黒猫はのっそりと膝に乗り上がってきた。そして大きなあくびをする。
「春田の気持ちは春田のものだ。春田が和泉さんを好きな気持ちだって、他の誰かのものじゃねえし。オレには関係ない」
 まるで他人事だ。春田の気持ちの問題なので、黒猫にしてみれば他人事でしかない。
 本来なら現世とあの世の存在が関わり合うことすら有り得ないのだから、春田が和泉への想いを秋斗に直接話すこともなかった。
 関わってしまった。言葉を交わしてしまった。それもまた奇妙な縁で、お互いに知り合ってしまった。
「……おれ、和泉さんに恋して……いいのかな」
 つやつやした黒い毛に春田はそっと手を添える。ふわふわしてあったかい。
 胸の奥のデリケートな部分を優しく包んでくれるような感触が手から伝わる。
「……だから、それは春田が決めることなんだって」
 呆れたように「なああ」と鳴いて、黒猫はささやかな午睡に目を閉じた。
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