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猫と春。⑦

 ――また、誰かを好きになっていいのだろうか。何度目かわからない和泉のため息の先には、春田の横顔がある。
 秋斗を喪って以来、悲しみと復讐の冷たさに凍り閉ざしていた心に、春の風がやわらかく吹いてきた。その傍にいると心地好くて、守られている気分になる。
 話すつもりのなかった、あんな身の上話を春田はどう思っただろうか。喪う間際になって秋斗のことを強く想っていると自覚して、復讐まで考えてしまうような男だ。なんだか重いと避けられても仕方がない。
 それはそれとして、さすがに二度も同意を得ずにキスをしたことに怒るかもしれないと今朝は怯えていたのだが、春田は怒らなかった。猫が見ているところですることじゃないと注意されただけ。
 何故春田にキスをしてしまったのか。一度目は衝動が勝ったと思う。責めるでもなく、別の言葉を被せてくるでもなく、ただ話を聞いて優しく抱きしめてくれた――秋斗を守れなかった自分なんて優しくされる資格もないのに。
 けれど、春田は「誰に優しくしようと自分の勝手」と言った。遠慮がちなのか、大胆なのかわからない。危うげでいながら安心できるぬくもりを持つ腕にはっきり惹かれていると自覚した。
 泣いていた春田を抱きしめた時に響いてきた音が胸の奥で鳴り始めた。溢れてくる気持ちを抑えきれないまま、春田にキスしていた。
 二度目はもう、確信犯だった。黒猫は春田の部屋で寝ていたし、一度のキスだけでは物足りない自分がいて――春田創一と、キスしたかった。
 春田もキスをしたくなる時があると言っていたし、それはやはりお互いに相手がいないとできないこと。和泉自身は春田と、と望んだが、春田は誰でも良かったのかも知れない……。
 横目に見るその唇は少し厚めで、ぽってりしていて。形や感触も秋斗のそれとほとんど同じだが、秋斗とのキスはだいたい彼にリードを奪われていたので、春田が素直に受け入れてくれたことも何だか新鮮で。
 ここがオフィスでなかったら、がっついてしまいそうだ。上司だから大丈夫と春田が笑ってくれるにしても、度を越したら怒られるに決まっている。
 それでも、こんなふうに想うのも春田創一に惹かれ始めているからだ。秋斗を死なせた犯人への復讐ばかりが占めていた心にまだ余裕は見当たらない。だが、誰かのことを好きだと感じている自分のことは嫌いではない――。
「和泉くん、お悩みかしら」
 作業のあまり進んでいないパソコンのディスプレイへ目を戻したところに、大ベテラン女史の荒井舞香がやってきた。
「……悩み、と言われますと……まあ」
「だったら、相談室においでませ」
 曖昧に答える和泉に、舞香が差し出してくるのは『なんでもすっきり天空相談室』のプリント。
 仕事面でも生活面でも社員の悩みに寄り添い共に解決していく、言わばメンタルヘルス向上のために設置されたとの話だ。
 誰かに相談して悩みが解決するならこの世界はもう少し平和だと和泉は思う。
 抱えている問題が悪い方向へ転がってしまうと犯罪が起きる。そして警察の出番となる。
 そういう意味では、恋愛は人を生かすし殺しもする厄介な感情である。
「どんな些細なことでもいいから、是非利用してみてね。お夕飯の献立でもいいのよ」
「はい」
 受け取ったプリントの文字をぼんやりと眺め、キーボードの横に置く。仕事の進みは良くない。
 真面目に不動産の仕事をしている場合でも恋をしている場合でもない。何のために天空不動産に入社したのか忘れてはいない。
 胸の奥に秋斗への愛と、大事な存在を奪った犯人への憎悪が燃えている限りは色恋にうつつを抜かしている場合ではないのに……。
「……和泉さん、疲れちゃいました?」
 優しい声色に、飼い犬みたいに耳が向いてしまう。そちらを見れば両手に紙コップを持った春田がいた。
「少し休憩しましょ。甘いの、食べられます?」
「はい、一応……」
 渡された紙コップからふわっと香るコーヒーのアロマ。添えられるのはチーズクリームをサンドした薄焼きクッキー。クッキーの柔らかな甘みがチーズクリームの塩気とコクを引き立てる、酒と一緒に食べても良さそうな風味だ。
 春田にははっきり食の好みを伝えてはいないが、和泉自身はチーズがわりと好きなので、時々チーズを使ったメニューを出してくれるのは嬉しい。
「このクッキー、北海道の物産展で売ってたんすよ。あんまり甘くないから、お酒にも合うって」
「春田さんは甘いもの苦手なんですか?」
「いや、別にそうでもないんすけど。なんか大人って感じだったから買っちゃいました」
 甘いものはむしろ好き、おしることか。でももう四十歳になるし、一人暮らしだから余計に食べるものは気を付けている。
 スーパー家政夫さんから教わりつつ自炊に励んでいるだけでも立派なのに、体調面も考えているとは。心の不健康が身体の不健康からくるものなら、恋をする心はちゃんと食事ができているから出て来たのか……やはり、春田のせいだ。
 言い知れない、じわじわ回ってくる毒薬のような。身体に取り込まれて効果をすぐにあらわすもの、時間をかけて効き始めるもの。
 食事をただの栄養補給とは、自分は何を考えていたのだろう。ただただ肉体を動かすために、生命維持に最低限摂取していれば、復讐を完遂するまで生きられたら充分……そんな思考だった。思考すらしていなかったような気がする。
「でも、もうちょっとでバレンタインデーだし、そういうパッケージ見るだけでもなんかワクワクしますよねー。今度の休みにぶちょーとバレンタインのお菓子つくって、夕方からわんだほうに集まってパーティーするんすよ」
「そうなんですか」
 春田に言われて和泉はふと、ディスプレイの傍らのカレンダーを見てみる。
 二月十四日、水曜日で公休日。
 不動産会社に入社してみて、土日祝日は展示会などがあるので出勤し、公休日は基本的に週半ばの水木なのだと知った。公務員は一応、土日祝日は休みなので平日休みにはまだ少し慣れない和泉だ。
「和泉さんも良かったら来ません? 飲食店なんでさすがに猫は入れないけど」
 参加者も半分くらい顔見知りというか身内なので気軽に来てほしい。春田がそう言ってはくれるが、何かこう、こんなに浮足立っていていいのかとも思う自分もいる。
 復讐をしなければと考える自分もいるし、春田のあたたかさに触れていたいと感じる自分もいる。
 きっとどんな自分も間違いではない。しかし、秋斗はこんな姿をどう思うか……。
「…………」
 横に置いておいた悩み相談室のプリントにピントが合った。
 自分ひとりでどうにもならないなら、誰かに助言を求めてみよう。



 オフィスの一角にある面談室。そのドアには『なんでもすっきり天空相談室』と簡易的に貼り紙がされていた。
 昼休み、和泉はドアをノックし、そっと開けてみる。
「――よく来たな」
 ノートパソコンの置かれた机、そしてデスクチェアに座っているのは武川営業部長。なんとなく反射でドアを閉めそうになってしまった和泉だ。
「失礼します……」
 春田には野暮用だと言って、先にランチに行ってもらっている。外では黒猫が待っているだろうから。
 机の前に置かれたパイプ椅子に座り、武川とはノートパソコン越しに対面する格好になった。
「ここでの話は口外しないから、なんでも安心して相談してほしい」
「はあ……」
 よくわからないが、何故か武川に相談する方が逆に不安になってきてしまう。
 この悩みだって最終的には自分自身が解決すべきものだ。意見は参考程度に留めておこうと最初から決めている。
「あの、自分の中で優先してやるべきことがあるのですが……それなのに、ある人のことが気になってしまいまして……」
 復讐と春田のことはぼかして口に出してみた。
「なるほど……大事な仕事があって恋をしている余裕なんかないのに、ハートが勝手にそっちに向いてしまう――そういうことだな?」
「まあ、はい。そんな感じです。大事な仕事のことはもちろん忘れていません。でも、気持ちが引っ張られてしまうんです」
 秋斗がこの腕のなかでこと切れた瞬間を忘れるわけがない。秋斗への愛を強く自覚した瞬間でもあり、愛する存在を奪った人間への憎しみが燃え上がった日でもある。
 自覚した愛憎がこの三年、心も身体も突き動かしてきた。誰に止められようが、目的を果たすまでは心変わりは許されない。
 秋斗を喪った後、バディを組んだ六道菊之助にも言われていた――「復讐なんて意味がない」「前を向いて欲しい」「秋斗のことは仕方なかった」と。
 警察官であり、現場に立つ以上は命の保証が絶対でないのもわかっている。
 悲しみだっていつまでも引きずれはしない。だとしても六道は、警察学校での同期で一、二を争った秋斗の死を感傷的には受け止めていなかったように見えた。
 復讐の無意味さを何度も何度も説いてきて、バディとしての領分を超えて干渉してきたのを和泉は拒否した。
 それだけ復讐に強い思いを抱き、警察も辞めたのに……心はどうして、春田が与えてくれるあたたかさに惹かれてしまうんだろう。
「自分でも、自分自身を顧みない生活をしていたとは思います。だけど、その人に出会って、優しい気持ちを向けられて、あたたかい思いをもらって……乾いていた土に水が与えられた、そんな感じがするんです」
 乾いた土壌に水と栄養が注がれ、恋の芽まで生えようとしている。そんなくすぐったさすらも愛おしく感じられてしまう。
「……だったら、告白すればいいんじゃないか?」
「え」
 和泉の話を聞いた武川は、そんなことを言い出してきた。……告白とは、愛の告白か。
「イベントはそのためにある……和泉、ちょうど次の休みはバレンタインデーだっ! 大チャンス到来だぞっ」
「大チャンス……?」
 武川の背中に燃え盛る炎が浮かんでいるような。普段、仕事をしている時は落ち着いているのに。
「そうだ、チョコと一緒に熱い想いをぶつけてみるんだ……!」
 バレンタインデーそのものに関心が無かったと和泉は我が身を振り返った。そういえば、二月の半ばに女性職員からおすそ分けのお菓子をもらったり、秋斗もジャムパンの他にチョコレート菓子を寄越してきていたのは、バレンタインデーだったからか。
 秋斗は秋斗でパンのついでに何も言わずに渡してくるものだから、別に意識もしていなかった。
(バレンタインデーのチョコだったのか……)
 なんだか急にがっくり来てしまう。秋斗がチョコレートに込めていた気持ちにすら気付いていなかったとは――こんな自分が、春田にチョコレートを渡せるのか……。
「部長……私が、贈り物など出来るんでしょうか……?」
「和泉……誰にだって初めてのことはある。一度目で失敗しても、次はある!」
 妙な説得力のある力強い励ましだが、不安にもなってくる。
 渡された『愛の処方箋』には、『アタックチャーンス!』と記されていた。
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