シナリオライアーのススメ
待って、どうして置いていくの。
言語もまだ完璧には発達していない幼子の叫びは終ぞ届かぬままで、その女性は泣きながらその場を去った。街はクリスマスのムード一色でも、田舎の役場にはそんな空気は流れて来ない。女性が泣いていたところで、幼子にとってそれは考えの及ばぬ事であり、ただひたすら置いて行かないでと泣き叫んだ。
日も暮れて、寒さが増し、泣く力さえもう残されていない幼子は、女性が持たせたリュックに入っていたおにぎりを黙ってかじった。
そうして、泣き疲れ意識を手放すと、次に目を覚ました時には幼子は、暖かい毛布に包まれて、ストーブの焚かれている部屋に寝転がっていた。
むくりと起き上がる。すると、物音に気付いたのかキッチンの方からゆっくりと老婆が歩いて来た。家の至る所に手すりが付けられていて、それを掴みながらだ。
「坊や、身体は寒くないかい?」
そう問い掛ける老婆に、幼子は小さく頷く。部屋を見渡し、当然ながら見知らぬ家の居間であることを理解したが、寒くて寂しくてどうしようもなかった幼子にとって、助けて貰ったということは考えずともわかることだった。
「そうかい、それは良かった。今暖かいスープをいれるからね」
そう微笑むと、キッチンに戻りながら別の部屋に向かって、おじいさん、坊やが目を覚ましましたよ、と大きめの声で知らせる。すると、奥の部屋から老爺がゆっくりと杖を突きながら歩いて来て、幼子の隣まで来るとゆっくりと座った。
「坊や、何処も痛くはないかえ?」
その問いに黙って頷くと、うんうんと嬉しそうに笑った。
「坊やがあんまりにも可愛らしいからね、連れて来てしまったよ。うちの子になってくれたら、坊やを海賊の頭として迎えるつもりなのだが」
そう言ってニヤリと笑う老爺の後ろから、スープを入れてきた老婆が呆れた顔で出て来る。
「おじいさん、またしょうもない嘘ついて。ごめんなさいね坊や、悪い人じゃないんだけれど、もう癖みたいなもので」
そう言って、幼子の近くの机にスープをコトリと置いた。
「かい、ぞく?」
聞いたことの無い単語に首を傾げると、老爺は満足そうに笑い、幼子の頭をくしゃっと撫でる。
「嘘だよ。うちはただの小さい農家の年老いた夫婦だ。それでも良ければうちに居てくれ」
幼子は小さく小さく頷いて、目の前のスープをゆっくり飲んだ。心まで暖かくなったそれは、以後幼子の大好物となる。
「おじいさんが畑で作った大根がね、僕大好きなんだ!」
その日の晩御飯はおでんだった。と言っても中身は畑の大根と、少しの練り物のみの簡素なものだったが。幼子は少年となり、小学校へ通うようになる。
「お前は知らないだろうがな、この大根は実は種の開発からワシが全部手掛けている······」
そこまで言いかけるが、途中でお婆さんの言葉に遮られる。
「そんなわけないでしょう。これは昔からこの地域で作られてる品種ですよ」
そんなことを言いながらクスクスと笑うお婆さんは、少年の頭を優しく撫でると、よっこらせと立ち上がり、空いている食器をまとめて流しへ運ぼうとする。その足取りがあまりに不安定で、少年は急いで立ち上がるとお婆さんから食器を奪った。
「僕が片付けるから、ゆっくり食べててよ」
お婆さんは、あらあらと嬉しそうに笑い、食器を落とさないかどうかを優しく見守りながら、少年の優しさを噛み締めた。
しかし足腰の弱ってきた夫婦にとって、畑を続けていくことはこれ以上厳しかった。元より貧しかった生活を更に切り詰め、少年にお腹いっぱい食べさせることだけを考えながら、少しの貯金を切り崩し、座って出来る内職を始め、なんとか日々の生活を送っていた。家庭が貧しいことは少年にだって察することができ、時に内職を手伝いながら、食事も半分ほど食べてあとは二人が食べてよと食器を片付け、家事をよくするようになった頃、少年は11歳だ。
「お前がうちに来てくれて、今日で十年になるな」
お爺さんが、ストーブで沸かしたお湯をすすりながらそう言った。くしゃくしゃの笑顔で少年の頭を撫でると、上着を着込んでお婆さんと少年にも上着を渡す。出掛けることを察した少年は、二人の愛用の杖を取りそれを渡した。
「お爺さん、何処へいくの?」
少年の問いに、お爺さんはまた頭を撫でて笑う。
「そうだなぁ、砂漠のオアシスでも探そうかとな」
そう言ってニヤリと笑う変わらない笑顔が、少年は大好きだった。
お爺さんについて行くと、街の方まで足をのばし、少年の方を見て言う。
「うちの子になってくれて十年だ。欲しいものをひとつ買ってあげよう」
これは嘘じゃないぞ、とニンマリ笑うお爺さんのポケットには、くしゃくしゃになったお金が何枚か入っていた。
周りを見渡すと、自動車のおもちゃや新品の筆箱、キラキラのついた鉛筆や、暖かそうな帽子も売っている。そういえば、靴の踵がすり減っていることも思い出した。
だけれど、少年はその気持ちだけで充分だった。だって先程お爺さんが飲んでいたのはお湯だ。お茶ですらない。申し訳なさや罪悪感も込み上げ、最後にやりきれないほどの感謝を覚えた。
「欲しいものなんてない」
それは少年が初めてついた、嘘だった。
自動車のおもちゃは家にある空き箱で作れる。筆箱は、綺麗に汚れを拭いて使おう。鉛筆にキラキラなんて必要ないし、暖かい帽子はお婆さんの手作りのニット帽がある。靴の踵はすり減っていても履ける。サイズはまだ合うし、合わなくなったら近所のお兄ちゃんのおさがりだって貰える。
少年はショーウィンドウを見ないように、踵を返した。
老夫婦は、少し悲しそうな顔をしたが、そうか、わかったよと笑って、少年の頭を優しく撫でて、三人で家に向かった。
やがて少年は、高校生となった。
学校なんて行かずに働いて、少しでも恩返しがしたかったけれど、高校くらいは出ておきなさいとお爺さんは何度も少年に言い聞かせ、それならばと朝と夕刊の新聞配達に、22時まではファミリーレストランの厨房で働いた。
朝新聞を配って、その足で学校へ行き、真面目に授業を受け、終わったら夕刊の配達をし、そのまま街へ行きファミリーレストランで働き、廃棄寸前の食材をご好意で頂いて帰宅する。
そうすると、それを使ってお婆さんが暖かいスープを作ってくれ、それが少年の心を満たしていた。
学校生活は、とても楽しいとは言えないもので、やはり田舎の学校である以上は少年が捨て子だったことも隠しきれずに、小学生からずっと少年はひとりぼっちだ。
最初は話しかけてくれた子だって、お母さんに仲良くするなと言われただとか、そんな理由で話し相手などは消えていった。
ずっとそうだったから、少年にとっては慣れたもので、嫌がらせをされないだけマシだったのか、嫌がらせすらもされないほどの存在なのか、そういった悩みですら中学までで終わらせていた。
だから高校生になっても変わらず一人だったし、教室で堂々と一人で昼食をとることも平気だった。
そんな学校生活だからか、性格も外に出るとガラリと変わり、偏屈な、世の中を生きにくい性格が生まれた。所謂捻くれ者というやつである。
しかしそんなある日、思いがけない光を見る。一人教室で読書をしていた少年の所へやってきたのは、同じクラスの男の子だった。
何の用があるのか、と本から目を離さずに相手の出方を伺っていると、その場で腰を屈めて目線の高さを合わせ、ニッコリと笑いかけてくるではないか。
「ねぇ、僕と友達になろう」
そう、真っ直ぐな目で言う。何故自分なのか、何故今まで話したことも無いのにいきなりそんなことを言い出したのか、疑問は山ほどあった。こんな捻くれ者になんの得があるというのだろう。だけれど、そんなことを言われたのは生まれて初めてで、顔を見ようにもあまりにも眩しくて真っ直ぐ見ることができない、そう正に光のように。
「······友達なんかいらない」
それは、少年が二度目についた、嘘だった。
人と関わることも無いので上手な誤魔化し方もわからず、目が泳いでいたかもしれない。
「そっかぁ、でも、僕は君と友達になるって決めたんだよ」
ニコニコと笑っている。どうしてそんなに真っ直ぐ居られるのだろうか。少年には、眩し過ぎて直視出来ないほどに、澄んだ目をしていた。
「勝手にしろ、俺は一人で平気なんだ」
少年はそう言うと、読み掛けの本を閉じて立ち上がり、トイレへ用を足しに逃げた。
その日の夜、アルバイトが終わり家に帰ると、お爺さんとお婆さんに早速その話をした。なるべく淡々と、捨て子を拾ったことを後悔させないように、自分は気にしていないんだけど、という姿勢を貫いた。
「僕なんか、捻くれ者で話しても楽しくはないと思うんだけどさ」
そう言ってあははと笑う少年を、老夫婦は目に涙を溜めて抱き締めた。少年の嬉しい気持ちは、心が痛くなるほどに伝わったのだろう。
「ど、どうしたの?」
あまりにもきつく抱き締めるものだから、少年はお爺さんとお婆さんの顔を覗き込み問い掛ける。
「いや、······友達、うんと大切にしなさいね」
絞り出すようにお婆さんが言った。まだ友達になると答えたわけではないから、友達ではないんだけれど、と少年はキョトンとしながら考えたが、また今度言えばいいだろう、と決めて嬉しそうに笑った。今日は金曜日だから、土日は休み。月曜日に彼と話をしよう。そう決めて、その日はほかほかの心を抱えて布団に入った。
しかし、月曜日に学校へ行くと彼は来なかった。
不思議に思っていると教室に教師がやってきて、彼が倒れて入院したことを聞かされる。
倒れたとは、一体どういうことだろう。だって先週、友達になろうと言われたばかりじゃないか。
少年は、休み時間に職員室へ行くと入院先の病院を教師に確認し、夕刊を配り終えた後の少しの時間、病院へ足を運んだ。
「やぁ、心配かけたね」
病室へ行くと、寝ていた彼はゆっくりと起き上がり、弱々しく微笑んだ。腕に刺さっている点滴の針が痛々しくて、少年は直視出来ないでいた。
「心配なんか、していないよ。友達になろうなんて言っておいて居なくなるなんて、君はなんて酷い奴だろうね」
そう言って、少年は俯いた。だってあまりにも心配だったから、恐らく今の自分の顔は酷く情けない表情をしている。
「あはは、まったくその通りさ。だけれど見舞いに来てくれたってことは、やっぱり君は僕の友達になってくれたんだろう?」
そう言って嬉しそうに笑う彼の顔はやっぱり眩しくて、少年は最後まで直視出来なかった。
その日から、少年の日課に彼の見舞いが加わった。
夕刊を配り終えた後、少しの時間でも必ず訪れた。
そうして、つまらなさそうな表情の彼を少しでも笑わせようと、お爺さんのように小さなデタラメを話に織り交ぜてたくさん話して聞かせた。
「今日は学校で、校長先生のカツラが飛んで行ったんだ。
それを追いかけて教頭先生や主任の先生が全力疾走さ。」
「今日は道端で喋る猫にあったんだよ。
お前、高級猫缶は持ってないかって聞かれてね。
僕はたまたま持ってたんだ、その高級猫缶ってやつ。
え、何故って、今日のおやつにしようと思ってね。」
そうすると彼は、いつも楽しそうに笑ってくれる。少年は毎日のように、デタラメを探して生きた。教室での人間観察も欠かさなかったし、働いている間も常に何かを探して歩いた。
少年にとって、彼が笑ってくれることが何より嬉しかった。
長い闘病になるらしいと聞き、尚のこと少年はデタラメ集めに時間を割いた。その分の作り話をたくさんストックしておかなければならない。
そのように過ごして、どれくらいの時間が経っただろうか。ある日病室へ行くと、そこはもぬけの殻だった。ナースステーションへ行ってみると、みなバタバタしていて少年の姿は見えていないようだった。
忙しくしている看護師たちの話を総合すると、どうやら彼の容態が悪化し、集中治療室に移動したらしい。
少年の心は金槌で殴られたような衝撃でいっぱいになった。
集中治療室?なぜ彼がそんな部屋に?昨日までは笑っていたじゃないか。
気が付くと、アルバイトの時間が迫っていた。彼の容態はまだ安定していない。少年は公衆電話でアルバイト先の店に電話をかける。友人が危篤状態であると伝えると、そばに居てあげなさいと言ってくれた。いつも厳しい店主だっただけにその言葉が心に染みた。
集中治療室の傍に長椅子があり、そこには彼の母親が祈るように座っている。
今まで、会釈を交わしたことはあれど会話をしたことはない。だけれど、大切な友人の母親なのだから、少年は放っておくことなど出来なくて、控え目に距離をとってその長椅子に座った。
すると、少年に気付いたのか顔をあげ、社交辞令程度の微笑みを浮かべた。
「毎日遊びに来てくれて、本当にありがとう。あの子、ずっと嬉しそうに話すのよ、あなたのこと」
そう話す声は透き通るように綺麗で、少しだけ震えていた。
「僕にとって、彼は唯一の、大切な友達です」
だから毎日来て当たり前なのだ、と少年は伝えた。
そのまま、彼は寝たきりとなった。
もっと医療の発達した所へ行けば手術で助かる可能性はあるものの保険適用外らしく、金額は莫大。彼の家庭でその金額を工面することは不可能だった。
世の中、金と権力があるものが助かるような仕組みになっているのだ、と少年は奥歯を噛み締める。
植物状態のまま病院に居続けるより他に、選択肢は無かったのだ。
少年はそれでも、通い続けた。毎日夕刊を配り終えた後に立ち寄り、いつものように枕元で作り話を話して聞かせる。
もう、相槌すら帰ってこないまま、自己満足とわかっていながら、それでも少年は明くる日も明くる日も通い続けた。
なにか奇跡でも起こらない限り、きっと目を覚ますことはないとまで言われ、それならばその奇跡を待とうじゃないかと、その日が来た時のために作り話をたくさん用意しておくことにした。
毎日ノートに書き留め、思い付いたことを片っ端から物語にしていく。
何冊溜まっただろうか、少年の部屋はいつしか溢れんばかりのノートで埋まっていった。
お婆さんが掃除をしていると、少年のノートがたまたま目に留まり、何気無く中身を覗くと、そこには見たことも無いような物語が綴られていた。
少年に問い掛けると、友人に笑ってもらうために書いているのだと笑った。
あまりにも面白くて、お婆さんは散歩に出掛ける度にそれを持ち歩き、ベンチに座ってゆっくりと読み進めるようになった。
ある時、その日もベンチでそのノートを捲っていると、見知らぬ女性が隣に座った。
「こんにちは。突然すみません。いつも読んでいるそれは、一体なんなのですか?毎日見掛けるので、気になってしまって」
聞けば女性は物語が大好きで、いつもお婆さんが楽しそうに読んでいる薄汚れたノートがずっと気になっていたと言う。
「これはね、うちの子が書いた物語なの。とっても面白くって、いつまでも読んでいられるものよ」
そう女性に告げると、お婆さんはゆっくりと立ち上がった。
「もし良ければ、それ私にも読ませていただけないでしょうか?」
帰ってしまうお婆さんを必死に呼び止めそう懇願するも、お婆さんは首を縦には振らなかった。
「これはね、息子が大切な気持ちをこめて綴ったものなの。本人の許可が無ければそれは出来ないのよ。ごめんなさいね。」
大切な気持ちをこめて、という言葉に更に心を惹かれた女性は、それならば本人に直談判させてくれと、お婆さんの後を家までついて行く。
そうして少年の前に現れた女性は、丁寧にお願いをした。
自分が如何に物語が好きか、また、自分の息子にもたくさんの物語に触れて欲しい、そんなに気持ちのこもった作品なら良い物であることは間違いない、お婆さんの読んでいる顔を見れば全てわかる、と。
「どうか、大切に扱いますので、読ませていただけないでしょうか?」
少年はキョトンとしながらも、返してくださるのならいくらでも構いませんと答えた。
女性は何度もお礼を言い頭を下げると、一冊鞄に入れて持ち帰った。
「良いのかい?」
お婆さんが少年にそう尋ねると、少年は不思議そうにお婆さんを見る。
「もちろんだよ。気持ちはこもっているけれど、あれを聞かせてあげるのはまだ、······随分と先の話になるからね。それにたくさんストックしてあるもの」
女性は次の日にノートを返しに来ると、少年に会えないか、とお婆さんに尋ねた。
丁度ファミリーレストランのアルバイトが休みの日だった少年は、その女性の申し出に玄関まで出向く。
「すごく、すごく面白かったです。この作品、本当に世に出ていないのですか?今すぐ出版社を通して日本中に広める価値があると思います!」
ノートを手渡しながら少年に力説する女性は、この部分の描写が最高だった、この言い回しは少し万人向けではないけれど、それもまた作風として個性が光る、良ければ知り合いの出版社を紹介させてもらえないだろうか、と、目をキラキラ輝かせている。
「あの、これはそんなつもりで書いたものではなく、ただ友人に笑って欲しくて空想の世界を作っていただけなんです」
なので、せっかくですがお断りさせていただきます、と極力丁寧に伝えた。感想をくれてありがとうございます、と。
しかし女性が諦めることはなく、仕方無く詳しく事情を話すと、更にだったら尚更、と食いついてきた。
「ノートはいつかボロボロになり朽ち果てます。ですが出版すれば何冊でも保管出来る上に、再版も可能です。つまり永遠に残すことだってやろうと思えばできます。それに万が一ご自分の方が早くに亡くなった場合だって、いつでも手に取って読むこともできるじゃないですか。」
それを聞いて、確かに、と納得してしまう。
その少年の顔を見て女性はもう一押しだ、と極め付けの一言を少年に投げ掛ける。
「絶対に売れるので、収入が今より何倍にもなると思います。そうしたら、アルバイトに時間をかけなくて良い分、もっともっと沢山の作品を作ることもできるじゃないですか?」
そうか、と少年は自分にとって理のあることだと理解した。
つまり、デタラメ集めをしてるだけで生活も賄え、更にたくさんのストックを残せるのだ。
お爺さんとお婆さんに恩返しがしたかった少年は、出版社を紹介してもらうことを決意した。
そうして数ヶ月後に、書店に少しずつ並ぶようになり、感想なども届くようになり、高校を出る頃にはもう少年ではない、小説家の夢野幻太郎の名前はそこそこ世間に浸透していた。
その収入でお爺さんとお婆さんに少しずつ恩返しをしながら、デタラメ集めではない小説家としての楽しさを感じ始めた頃、都会へ引っ越すことに決める。
実家は住みやすいように改築したり、お手伝いさんを雇うことすら出来たので、自分が生きている間はゆったり生きて貰えるだろう。
最初は申し訳ないと嫌がっていたが、今までの分の恩返しをどうしてもさせて欲しいとお願いし、お爺さんとお婆さんは夢野の小説を読むことを生き甲斐にのんびりと余生を送っていた。
とある日、出版社との話を終わらせて雑踏の中を歩いていると、自分を呼ぶ声がして振り返る。
一瞬気の所為かと思ったが、どうやら目線の先に居なかっただけで、少し下へと目を動かすと、声の主がそこに立っていた。
それが、Fling Posse 飴村乱数との出会いだった。
「そういえばよ、幻太郎」
Fling Posseのメンバーである有栖川帝統が、思い出したかのようにこちらを見る。
ここは飴村乱数の事務所だ。
「昔、まだ中坊か、小学生だったかもしんねーけど」
そう言いながらゴソゴソと何かを探し、あったあったと取り出す。
「コレ、お前のデビュー作。俺多分読んだことあるんだよな」
幻太郎は首を傾げる。
だって帝統が小学生なら幻太郎は高校一年かそこら。出版社から本を出したのは高校三年くらいだったはずだし、まだ世には出ていない。
「なにで見たのか覚えてないから勘違いかもだけど、内容は面白かったから結構覚えててさ」
絶対これと同じような内容だったんだよー、と首を捻る。
なるほど、と夢野は感心する。
そして、この男にそこまでの記憶力があることも意外で、小さく笑った。
「帝統、本とか読むんだー?」
乱数がびっくりしたように言うと、帝統は失礼な!とでも言いたげな顔で続ける。
「あんまり読まねーよ。ただガキの頃なんかは、かーちゃんが勧めてきたやつは面白いのばっかりだから、そういうのは読んでたぐらいで」
そういえば、どことなく目元や鼻筋に見覚えがある。
夢野は上機嫌になりながら、読みかけの小説を開いた。
もう、彼の仏壇には原本であるボロボロのノートや、出版した本を置いてもらっている。
お爺さんとお婆さんへの恩返しも、終わってしまった。
印税もバンバン入ってくるし新しいものを生む必要なんてもう無いはずなのに、それでも夢野は今日もデタラメを集め続けるのだった。
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