何色にも染まらぬ君へ
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見上げれば漆黒。
つい先程まで夕刻だとばかり思っていたけれど、いつの間にか空には数多の星々が煌めいていた。
委員会活動で書類の処理を先生から任されたまでは良かったのだけれど、思いの外時間がかかってしまった。
おかけでバスケ部の練習には全く顔を出すことができなかった。
彩子さんがいくら敏腕とはいえ、いつも二人でこなしている仕事を一人でするのはきっと大変だったに違いない。
また何かしらで埋め合わせをさせてもらえるようにお願いしなければ。
そんなことを考えながら体育館へ向かう。
扉の前に立ち、中の様子を窺ってみるけれど、ボールをつくような音は全くしなかった。
もしかしてもう帰ってしまったのだろうか。
一瞬そんな考えが頭を過るけれど、すぐに打ち消す。
何故ならばまだ体育館の明かりはついているからだ。
仮に誰もいないのなら、電気は消されて真っ暗になっているはずだ。
そっと重い扉を開けて中を覗きこむ。
ぐるりと見渡せば、探していた人物は壁に凭れて眠り込んでいた。
珍しいこともあるものだ、と思った。
授業中やお昼休みに眠っている姿はよく見かける。
それでも体育館で眠っているところなんて一度も見たことがなかった。
今日の練習は彼が自主練を中断して眠ってしまうほど、過酷なものだったのだろうか。
いつだって本気で。
いつだって一生懸命で。
高みを目指して練習をするその姿を見るのが、私は何よりも大好きなのだ。
足音を立ててしまわないように注意しながら体育館の中を歩く。
彼の眠りを妨げるものは、何人たりとも許されない。
いつかそんな話を誰かから聞いたことがあったから。
「楓くん…?」
彼の前に屈みこみ、小さく名前を呼んでみる。
私の声は届いていないようで、ぴくりとも反応しなかった。
彼の寝付きのよさには感心させられる。
それにしても一体いつから眠っているのだろう。
まさか自主練もせずに、練習が終わってからすぐにここで眠ってしまったということはないとは思うけれど、万が一そうであるならば身体が冷えてしまって風邪を引いてしまう。
「楓くん、こんなところで寝てたら風邪引くよ?」
とんとん、と肩を叩いてみるけれど、あいかわらずの無反応。
呼吸で身体が上下していなかったら、生きていることを疑ってしまいそうだ。
しばらく様子を見守ってみても、状況は全く変化を見せず。
眠れる森の美女ならぬ、眠れる体育館の王子の耳元に私はそっと唇を寄せた。
「好きだよ、楓くん」
普段は絶対に口にしない言葉。
恥ずかしくて、とてもじゃないけれど面と向かってなんて言えない。
だけど今なら、眠っているこのときなら、言えるような気がしたのだ。
頬が上気するのを感じて、私は勢いよく楓くんから離れた。
心臓が破裂するんじゃないかと思うくらいに激しく脈打っている。
動悸よ、おさまれ、おさまれ、そう念じながらふと視線を上げれば、漆黒の瞳と目が合った。
「!?!?」
声にならない声を上げて、私は驚きのあまりバランスを崩し、とすんと尻餅をついた。
いつもなら痛みを感じるはずなのに、今の私は完全に痛覚が麻痺していた。
「か、か、楓くん…!」
「おー…」
なんとか絞り出した声は情けなく震えている。
そんな私の様子など気に止めることもなく、楓くんは真っ直ぐに私を見据えている。
その瞳はすっかり覚醒していて、狸寝入りをしていたことを私はすぐに理解した。
一体いつの間にそんな技を習得したのだろうか。
私があまりの動揺に口をぱくぱくとさせていれば、楓くんは事も無げに言葉を紡いだ。
「もう1回」
やっぱり。
やっぱり。
やっぱり。
私のさっきの言葉をちゃんと聞いていたんだ。
私の素直な気持ちが彼に伝わったことは嬉しい。
でも、今はそれ以上に恥ずかしくて死んでしまいそうだ。
今すぐここから逃げ出したいのに、いつの間にかスカートの裾をがっしりと掴まれていて、それさえ許してもらえそうにない。
「ま、また今度、じゃダメ?」
「ダメ」
鸚鵡返しに可愛らしく言われてしまえば、私がそれに逆らえるわけもなく。
観念した私は膝立ちになって、もう一度彼の耳元に唇を寄せた。
《愛を囁いて》
たった一言
その言葉を紡ぐたび
私の心はあたたかくなる
《終》