水戸洋平
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湘北高校はそれなりに進学校だと思って進学したのだけれど、入学初日からそれは失敗だったと気付かされた。同じクラスに不良生徒が二人もいるなんて。しかも一人は赤髪だし。そんなわけで最終学歴が最悪高卒になるかもしれないと思った私は、すぐに親戚のカラオケ店でバイトを始めて社会人になったときの生活費用を貯めることにした。
連休明けの平日。その日、私は珍しく夜遅くまでバイトをしていた。私と同じ時期に新しく入ったバイト君がいるらしいけれど、私はずっとホールにいて会ったことがなかった。親戚のおじさんに空いた部屋の片付けを頼まれてホールから片付けに向かった。部屋にはすでに一人が片付けをしている最中だった。長身で、ガタイがよくて、リーゼント……
「……水戸くん?」
「あ?えーっと誰すか?」
同じクラスだよ、と言いたかったけれど、クラスと違ってコンタクトと髪をポニーテールにして化粧もしている。たしかに分からないかもしれない。
「同じクラスの名無しだよ」
「え!?まじで!?」
驚いた水戸くんはお盆を落としそうになり慌てて抑えた。
「普段と違ってたから分かんなかったよ」
「そうかな?えっと、いつもはこの時間なの?」
話のネタもなく私はありきたりのことを尋ねる。内心めちゃくちゃ緊張している。彼は不良の中ではクールだけれど、怒らせると怖いと噂で聞いた。クラスの男子がこそこそ桜木軍団の影の番長は水戸だと言っていたのを聞いた。
「んーまぁだいたいこのくらいの時間かな。バスケ部寄ってから来るから」
「バスケ部って……」
「花道だよ、桜木花道」
「へぇ……あ、晴子ちゃんが誘ったって聞いた」
「晴子ちゃんと知り合い?」
「中学が同じ、明るいよね」
「そりゃあもう花道にとっての女神だからな」
笑いながらテーブルを片付ける水戸くん。その横顔はとても楽しげだ。よほど桜木くんと仲が良いのだろう。
バイトを終えると事務室にいたおじさんが水戸くんに「家まで送ってってくれないか?」と頼んでしまったため、隣を水戸くんが歩いている。
「しっかし教室とは雰囲気が違うから驚いたよ」
「なるべく目立たないようにしてるからね」
「勿体ないなぁ。今のほうが可愛いのに」
突然の言葉に鼓動が止まる。ああ、この水戸くんはきっと女の子には誰彼構わずそんな言葉をかけるのだろう。身体に悪い。
「水戸くん、女の子慣れしてるでしょ?」
「オレ、これでも彼女いない歴イコール年齢だけど?」
全く世渡り上手も適度にしてほしい。私を揶揄っても何もならないのに。水戸くんの余裕のある返しにそう思わざるを得ない。
「信じてないだろ?」
「そんなことないけど」
いやそんなことある。けど怒らせたくないので何とかはぐらかす。ああ早く家につかないかな。
「晴子ちゃんと同じ中学だったなら、花道と晴子ちゃん上手くいくと思う?」
「うーん」
正直恋愛のことは分からない。私が決めるものでもないし。
考えてるふりをしているうちにマンションに着いた。
「オートロック?え、なんで湘北に来たの?バイトも必要ないんじゃないの?」
「オートロックだからってそんなに変わらないよ。湘北は進学校って聞いてたから。それに卒業後の資金も貯めたいし」
「へぇ……お嬢様にはお嬢様の悩みがあるものなんだねぇ」
「お嬢様って」
「はは、じゃあな。また明日」
「うん、じゃあ……」
振り返ると水戸くんが手を振ってロビーの壁に背を預けて立っていた。様になりすぎだって。
部屋に入ってからも脳裏には水戸くんの済まし笑顔が映っていた。
翌朝教室で会った水戸くんに「おはよ」と声をかけられたけれど、変な緊張から会釈だけになってしまった。暗い奴と思われてしまったかもしれないな。
昼休みになると珍しく晴子ちゃんがやってきた。
「桜木くんいる?」と水戸くんに真っ先に声をかけるのを見て、私より水戸くんが彼女にとって仲の良さが深いのだと思い知る。同じ中学だったのにな。いやいや、でも、単に桜木くんの居場所に詳しいのが水戸くんなだけだろうし。
悶々と考えていると机をトントンと叩かれて上を向くと晴子ちゃんがいた。
「今日の放課後、一緒にバスケ部の見学に行かない?」
「ごめん、今日用事があって」
バイト禁止の高校なので咄嗟にそう答える。ふと視界の端で水戸くんの頬が緩んだように見えた。
「そっか、じゃあ今度バスケ部の見学行きましょ?」
「うん、わかった」
中学時代から晴子ちゃんは男子に人気だった。明るい彼女に私もそう思ってしまう。あんな風になりたいな。けど引っ込み思案で人見知りの私には難しいな。
その日の帰り、図書室に寄ってから帰る途中、昇降口に他校の不良が入ってくるのを見た。不良は野間くんを連れ出し校舎裏へと消えていった。変な胸騒ぎがして、周囲を見渡す。水戸くんの姿を自然と探しているのだと気付いた。
バイトの時間になっても水戸くんは現れなかった。シフトでちゃんと確認したけれどいない。おじさんに水戸くんは?と聞かれ咄嗟に「今日は家の用事で来れないみたい」と答えた。
5月14日、休日だから街中は混んでいて、午後からのバイトに向かう途中、パチンコ屋から見知った顔が出てきて思わず足を止めた。
「負けた〜大負けだ〜」
「残念だったな大楠」
水戸くんたち桜木軍団が目の前にいた。回れ右をして路地を曲がるとふいに声をかけられた。
「なーにしてんの?もしかして逃げてた?」
「……そ、そんなこと」
「それよりさ、この間はバイトありがとな。休みだって伝えといてくれて。助かったぜ。じゃあな」
水戸くんはそれだけ伝えると背を向けて元の道を戻っていった。その背中を見つめてしばらく呆然としてしまった。いや、別になにも気にすることはないのだけれど。水戸くんたちが謹慎中になった経緯を晴子ちゃんから聞いたのは例の日の翌日のことだった。そして今のバスケ部にはその騒動を起こした三井先輩という三年生も復帰しているらしい。桜木くんといい、その三井先輩といい、それに水戸くんたちも見学に行っているのだから、私がバスケ部の見学に行ったらきっと生きて帰ってこれないかもしれない。なんて怖い場所だろう。晴子ちゃんはやっぱりすごいな、と思ってしまうのだった。
それから数日して、バイトが水戸くんと被った。謹慎中の彼は普段と変わらぬ出で立ちで、その姿はやはり自信があるように見えてしまう。
「ラッキー。今日は名無しさんも一緒なんだ」
「ラッキー?」
「ここだと一層可愛い名無しさんが見られるからな」
「おいおい、洋平。うちの姪っ子に手を出すなよ」とオジさんが揶揄う。「分かってますヨ」と水戸君が笑う。うん、そういう揶揄いの対象になってしまったらしい。クラスでも水戸くんは桜木君を揶揄うし、そのノリだろう。金曜日のカラオケは夕方から混み始める。二次会にカラオケに来る人も多く、すでに出来上がった状態のお客さんを受付で相手をするのは少々面倒だったりする。水戸くんの言うように、可愛いと言う客もいるので余計に面倒なのだ。
「お姉さん、学生?いいの?こんなところでバイトしてて」
「オジさん達相手してくれるならバイト代より高い金払うよ~!!」
下世話な話を振ってくるのなんて慣れっこで、機械的に笑みを向けて淡々と事務を進める。けれどその日は違った。会計中の酔った客が私の手を急に掴んだ。荒い息をさせながら、「お嬢さん可愛いね?彼氏いたりするの?」と舐めるような視線を向ける。気持ち悪い。緊張と恐怖で固まる私に客は、自分よりも下だと思ったのか「ねえ俺とホテルいこうよ」と強引に引っ張る。
「痛っ」
けれどその次の瞬間には客は床に倒れていた。目の前には水戸くんの背中。
「お客さん、酔ってるね~立てる?大丈夫?外までオレが送りますよ」
水戸くんは客を殴り倒しておきながら、何事もなかったかのように客を庇いながら外へと連れ出した。しばらくして戻ってきた水戸くんは、気むずかしそうな顔を向けてきた。
「大丈夫だったか?」
「う、うん……あんなに気持ち悪いの初めてだったから……」
まだ少し膝がガクガクしているのをバレないように、椅子に座る。
「あーもうすごい怖かったんだろ?こんなに膝震えちゃって」
水戸くんは茶化すように言うけれど、その言葉に彼の優しさを感じた。水戸くんは良い人なのかもしれない。
バイトを終えて、水戸くんの隣を歩く。
「あの汚い客に握られた手、出してみ」
「え?」
とりあえず言われた手を出すと、彼の大きな手のひらに包まれた。
「オレじゃ不満かもしれねえけど、嫌な思い出のままだと嫌だろ?」
そう言って手のひらをこちょこちょと擽った。
「ちょっと痒いよ!」
一気に嫌な気持ちが飛んで行ったみたいに心が軽くなるのを感じた。水戸くんはやはり不思議な人だ。
「そんなに痒かったか? でも名無しさんは本当に可愛いんだから、変な奴が近づいてこねえように気をつけないとな」
「それって水戸くんも含まれる?」
「はは、そうかも」
カラッと笑う彼の手は優しく私を掴む。もう大丈夫だよ。そう言ったら手が離されてしまう気がして、それは勿体ないなと思って結局何も言わずにそのまま歩いた。
バスケ部は予選を勝ち進んでいるらしい。教室で桜木くんや水戸くんの会話が聞こえてくるから聞かずとも分かってしまう。とはいえ、バイト以外で水戸くんと学校で喋ることはないけれど。晴子ちゃんがクラスにやって来る回数が増え、そのたびに私は見学に来ないかと誘われる。いつもは断っていたけれど、その日はたまたまバイトもないし、何となく行くことになった。
晴子ちゃんたちと放課後の体育館へ向かうと、すでにバスケ部は活動していた。桜木くんに、晴子ちゃんのお兄さんに、小暮さん、と知っている部員を見つけながらバスケ部を眺めていると、こちらを見つめている視線に気付いた。
「晴子ちゃん、あの14番のゼッケン着てる人って誰?」
「あれが三井さんよ」
スポーツ刈りをしたイケメンは騒動の人物だったらしい。目が合っちゃったよ、としょげていると肩にポンと何かが触れた。
「珍しいじゃん。見学?」
「水戸くん」
「今日はないの?家の用事」
「うん、今日は休み」
晴子ちゃんたちに聞かれないようにヒソヒソと会話をしているのを見た水戸くんの友達が彼を揶揄った。
「洋平、女の子じゃなくて花道見ろよ」
「わりぃわりぃ」
それからしばらく練習を見ていた私は暗くなる前にみんなと別れた。一人で通学路を歩いていると、小走りで走ってくる靴音が聞こえてきて、音は私の隣で止まった。
「家まで送ってく。また変な野郎に声をかけられても困るだろ」
「でも別に今は地味な格好だからいいよ」
「女子高生ってだけでそういう目を向ける奴もいるってこと」
お節介にも水戸くんは家まで送ってくれた。眼鏡をして、髪もおさげにしているこんな地味な私を。水戸くんは隣を歩きながら、花道はさ~と桜木くんの話をする。それが少しだけ子どもっぽくて可愛い。ふふっと笑うと「やっと笑った」と言うので、やっぱりズルいなと思ってしまうのだった。
「じゃあまた学校でな」
いつものように私がロビーに入るまで彼は扉の前で手を振っている。じゃあね、と私も手を振ってエレベーターに乗った。
◇
その日はとても良い天気で、晴子ちゃんが「翔陽との試合観に行かない?」と誘われたけれど、やはり気が引けるので断り、商店街の本屋に行こうと自転車を走らせていた。
閑静な住宅路に鉄パイプの音が聞こえてきて思わず自転車を停めた。脳裏で水戸くんが近くにいるんじゃないかと思って視線をめぐらすけれどいない。そう思った矢先、路地裏から桜木くんと三井さんが出てきてこちらに向かって来る。三井さんはひどい怪我をしていた。彼は私を見ると立ち止まった。
「ミッチー!どうした!試合遅れるぞ!」
「すまん、急いでる!その自転車貸してくれないか!?」
駅までの距離を彼は私の自転車に乗り、桜木くんを後ろに立たせ漕いで消えて行った。なんだったんだ今のは。そう思っていると今度は、彼らの出てきた路地裏から殴る音が聞こえてきた。
「これで分かっただろ雑魚が……おい大丈夫かよ、あんたも立ってるの限界だろ?」
その声は確かに水戸くんで、気付いたら身体が路地裏に走っていた。目の前の光景は悲惨だった。バイクと人が倒れて周りには血も飛んでいる。声が出なかった。ただ息が止まる。
「み、みと……くん……」
「あ、おい、何でここにいるんだよ?わりいお前ら、先に試合会場行っててくれ!」
驚いた彼は私の肩をぐっと引いて路地裏から引きずり出す。
「おーい洋平!!」
仲間の声を無視して水戸くんは何かを思案している様子だった。近くの公園のベンチに二人で腰掛け、近くの自販機で買ったカフェオレを彼は差し出した。
「まさか名無しさんが近くにいるとは思ってなかったから。急にあんなの見て怖かっただろ?」
「えっと……」
怖かった。そう言ったらきっと水戸くんのことも怖いと言っているような気がして言えなかった。
「やっぱりお嬢様だな」
「え?」
「いいってそういう気遣い。大抵の奴らは俺たちを怖がってるし」
「そ、そんなこと……」
「じゃあな。オレは花道の試合観に行かなきゃなんねーから」
そう言って彼は駆け足で公園から出て行った。また明日学校でな。いつも帰り際言ってたセリフがないことに寂しさを感じてしまう。私は水戸くんを怖いと思っていたのに、どうしてかそう思っている自分に嫌気がさしてしまう。けれどどうしていいのか分からず、とりあえずカフェオレのプルタブを開けると乾いた音が響くのだった。
連休明けの平日。その日、私は珍しく夜遅くまでバイトをしていた。私と同じ時期に新しく入ったバイト君がいるらしいけれど、私はずっとホールにいて会ったことがなかった。親戚のおじさんに空いた部屋の片付けを頼まれてホールから片付けに向かった。部屋にはすでに一人が片付けをしている最中だった。長身で、ガタイがよくて、リーゼント……
「……水戸くん?」
「あ?えーっと誰すか?」
同じクラスだよ、と言いたかったけれど、クラスと違ってコンタクトと髪をポニーテールにして化粧もしている。たしかに分からないかもしれない。
「同じクラスの名無しだよ」
「え!?まじで!?」
驚いた水戸くんはお盆を落としそうになり慌てて抑えた。
「普段と違ってたから分かんなかったよ」
「そうかな?えっと、いつもはこの時間なの?」
話のネタもなく私はありきたりのことを尋ねる。内心めちゃくちゃ緊張している。彼は不良の中ではクールだけれど、怒らせると怖いと噂で聞いた。クラスの男子がこそこそ桜木軍団の影の番長は水戸だと言っていたのを聞いた。
「んーまぁだいたいこのくらいの時間かな。バスケ部寄ってから来るから」
「バスケ部って……」
「花道だよ、桜木花道」
「へぇ……あ、晴子ちゃんが誘ったって聞いた」
「晴子ちゃんと知り合い?」
「中学が同じ、明るいよね」
「そりゃあもう花道にとっての女神だからな」
笑いながらテーブルを片付ける水戸くん。その横顔はとても楽しげだ。よほど桜木くんと仲が良いのだろう。
バイトを終えると事務室にいたおじさんが水戸くんに「家まで送ってってくれないか?」と頼んでしまったため、隣を水戸くんが歩いている。
「しっかし教室とは雰囲気が違うから驚いたよ」
「なるべく目立たないようにしてるからね」
「勿体ないなぁ。今のほうが可愛いのに」
突然の言葉に鼓動が止まる。ああ、この水戸くんはきっと女の子には誰彼構わずそんな言葉をかけるのだろう。身体に悪い。
「水戸くん、女の子慣れしてるでしょ?」
「オレ、これでも彼女いない歴イコール年齢だけど?」
全く世渡り上手も適度にしてほしい。私を揶揄っても何もならないのに。水戸くんの余裕のある返しにそう思わざるを得ない。
「信じてないだろ?」
「そんなことないけど」
いやそんなことある。けど怒らせたくないので何とかはぐらかす。ああ早く家につかないかな。
「晴子ちゃんと同じ中学だったなら、花道と晴子ちゃん上手くいくと思う?」
「うーん」
正直恋愛のことは分からない。私が決めるものでもないし。
考えてるふりをしているうちにマンションに着いた。
「オートロック?え、なんで湘北に来たの?バイトも必要ないんじゃないの?」
「オートロックだからってそんなに変わらないよ。湘北は進学校って聞いてたから。それに卒業後の資金も貯めたいし」
「へぇ……お嬢様にはお嬢様の悩みがあるものなんだねぇ」
「お嬢様って」
「はは、じゃあな。また明日」
「うん、じゃあ……」
振り返ると水戸くんが手を振ってロビーの壁に背を預けて立っていた。様になりすぎだって。
部屋に入ってからも脳裏には水戸くんの済まし笑顔が映っていた。
翌朝教室で会った水戸くんに「おはよ」と声をかけられたけれど、変な緊張から会釈だけになってしまった。暗い奴と思われてしまったかもしれないな。
昼休みになると珍しく晴子ちゃんがやってきた。
「桜木くんいる?」と水戸くんに真っ先に声をかけるのを見て、私より水戸くんが彼女にとって仲の良さが深いのだと思い知る。同じ中学だったのにな。いやいや、でも、単に桜木くんの居場所に詳しいのが水戸くんなだけだろうし。
悶々と考えていると机をトントンと叩かれて上を向くと晴子ちゃんがいた。
「今日の放課後、一緒にバスケ部の見学に行かない?」
「ごめん、今日用事があって」
バイト禁止の高校なので咄嗟にそう答える。ふと視界の端で水戸くんの頬が緩んだように見えた。
「そっか、じゃあ今度バスケ部の見学行きましょ?」
「うん、わかった」
中学時代から晴子ちゃんは男子に人気だった。明るい彼女に私もそう思ってしまう。あんな風になりたいな。けど引っ込み思案で人見知りの私には難しいな。
その日の帰り、図書室に寄ってから帰る途中、昇降口に他校の不良が入ってくるのを見た。不良は野間くんを連れ出し校舎裏へと消えていった。変な胸騒ぎがして、周囲を見渡す。水戸くんの姿を自然と探しているのだと気付いた。
バイトの時間になっても水戸くんは現れなかった。シフトでちゃんと確認したけれどいない。おじさんに水戸くんは?と聞かれ咄嗟に「今日は家の用事で来れないみたい」と答えた。
5月14日、休日だから街中は混んでいて、午後からのバイトに向かう途中、パチンコ屋から見知った顔が出てきて思わず足を止めた。
「負けた〜大負けだ〜」
「残念だったな大楠」
水戸くんたち桜木軍団が目の前にいた。回れ右をして路地を曲がるとふいに声をかけられた。
「なーにしてんの?もしかして逃げてた?」
「……そ、そんなこと」
「それよりさ、この間はバイトありがとな。休みだって伝えといてくれて。助かったぜ。じゃあな」
水戸くんはそれだけ伝えると背を向けて元の道を戻っていった。その背中を見つめてしばらく呆然としてしまった。いや、別になにも気にすることはないのだけれど。水戸くんたちが謹慎中になった経緯を晴子ちゃんから聞いたのは例の日の翌日のことだった。そして今のバスケ部にはその騒動を起こした三井先輩という三年生も復帰しているらしい。桜木くんといい、その三井先輩といい、それに水戸くんたちも見学に行っているのだから、私がバスケ部の見学に行ったらきっと生きて帰ってこれないかもしれない。なんて怖い場所だろう。晴子ちゃんはやっぱりすごいな、と思ってしまうのだった。
それから数日して、バイトが水戸くんと被った。謹慎中の彼は普段と変わらぬ出で立ちで、その姿はやはり自信があるように見えてしまう。
「ラッキー。今日は名無しさんも一緒なんだ」
「ラッキー?」
「ここだと一層可愛い名無しさんが見られるからな」
「おいおい、洋平。うちの姪っ子に手を出すなよ」とオジさんが揶揄う。「分かってますヨ」と水戸君が笑う。うん、そういう揶揄いの対象になってしまったらしい。クラスでも水戸くんは桜木君を揶揄うし、そのノリだろう。金曜日のカラオケは夕方から混み始める。二次会にカラオケに来る人も多く、すでに出来上がった状態のお客さんを受付で相手をするのは少々面倒だったりする。水戸くんの言うように、可愛いと言う客もいるので余計に面倒なのだ。
「お姉さん、学生?いいの?こんなところでバイトしてて」
「オジさん達相手してくれるならバイト代より高い金払うよ~!!」
下世話な話を振ってくるのなんて慣れっこで、機械的に笑みを向けて淡々と事務を進める。けれどその日は違った。会計中の酔った客が私の手を急に掴んだ。荒い息をさせながら、「お嬢さん可愛いね?彼氏いたりするの?」と舐めるような視線を向ける。気持ち悪い。緊張と恐怖で固まる私に客は、自分よりも下だと思ったのか「ねえ俺とホテルいこうよ」と強引に引っ張る。
「痛っ」
けれどその次の瞬間には客は床に倒れていた。目の前には水戸くんの背中。
「お客さん、酔ってるね~立てる?大丈夫?外までオレが送りますよ」
水戸くんは客を殴り倒しておきながら、何事もなかったかのように客を庇いながら外へと連れ出した。しばらくして戻ってきた水戸くんは、気むずかしそうな顔を向けてきた。
「大丈夫だったか?」
「う、うん……あんなに気持ち悪いの初めてだったから……」
まだ少し膝がガクガクしているのをバレないように、椅子に座る。
「あーもうすごい怖かったんだろ?こんなに膝震えちゃって」
水戸くんは茶化すように言うけれど、その言葉に彼の優しさを感じた。水戸くんは良い人なのかもしれない。
バイトを終えて、水戸くんの隣を歩く。
「あの汚い客に握られた手、出してみ」
「え?」
とりあえず言われた手を出すと、彼の大きな手のひらに包まれた。
「オレじゃ不満かもしれねえけど、嫌な思い出のままだと嫌だろ?」
そう言って手のひらをこちょこちょと擽った。
「ちょっと痒いよ!」
一気に嫌な気持ちが飛んで行ったみたいに心が軽くなるのを感じた。水戸くんはやはり不思議な人だ。
「そんなに痒かったか? でも名無しさんは本当に可愛いんだから、変な奴が近づいてこねえように気をつけないとな」
「それって水戸くんも含まれる?」
「はは、そうかも」
カラッと笑う彼の手は優しく私を掴む。もう大丈夫だよ。そう言ったら手が離されてしまう気がして、それは勿体ないなと思って結局何も言わずにそのまま歩いた。
バスケ部は予選を勝ち進んでいるらしい。教室で桜木くんや水戸くんの会話が聞こえてくるから聞かずとも分かってしまう。とはいえ、バイト以外で水戸くんと学校で喋ることはないけれど。晴子ちゃんがクラスにやって来る回数が増え、そのたびに私は見学に来ないかと誘われる。いつもは断っていたけれど、その日はたまたまバイトもないし、何となく行くことになった。
晴子ちゃんたちと放課後の体育館へ向かうと、すでにバスケ部は活動していた。桜木くんに、晴子ちゃんのお兄さんに、小暮さん、と知っている部員を見つけながらバスケ部を眺めていると、こちらを見つめている視線に気付いた。
「晴子ちゃん、あの14番のゼッケン着てる人って誰?」
「あれが三井さんよ」
スポーツ刈りをしたイケメンは騒動の人物だったらしい。目が合っちゃったよ、としょげていると肩にポンと何かが触れた。
「珍しいじゃん。見学?」
「水戸くん」
「今日はないの?家の用事」
「うん、今日は休み」
晴子ちゃんたちに聞かれないようにヒソヒソと会話をしているのを見た水戸くんの友達が彼を揶揄った。
「洋平、女の子じゃなくて花道見ろよ」
「わりぃわりぃ」
それからしばらく練習を見ていた私は暗くなる前にみんなと別れた。一人で通学路を歩いていると、小走りで走ってくる靴音が聞こえてきて、音は私の隣で止まった。
「家まで送ってく。また変な野郎に声をかけられても困るだろ」
「でも別に今は地味な格好だからいいよ」
「女子高生ってだけでそういう目を向ける奴もいるってこと」
お節介にも水戸くんは家まで送ってくれた。眼鏡をして、髪もおさげにしているこんな地味な私を。水戸くんは隣を歩きながら、花道はさ~と桜木くんの話をする。それが少しだけ子どもっぽくて可愛い。ふふっと笑うと「やっと笑った」と言うので、やっぱりズルいなと思ってしまうのだった。
「じゃあまた学校でな」
いつものように私がロビーに入るまで彼は扉の前で手を振っている。じゃあね、と私も手を振ってエレベーターに乗った。
◇
その日はとても良い天気で、晴子ちゃんが「翔陽との試合観に行かない?」と誘われたけれど、やはり気が引けるので断り、商店街の本屋に行こうと自転車を走らせていた。
閑静な住宅路に鉄パイプの音が聞こえてきて思わず自転車を停めた。脳裏で水戸くんが近くにいるんじゃないかと思って視線をめぐらすけれどいない。そう思った矢先、路地裏から桜木くんと三井さんが出てきてこちらに向かって来る。三井さんはひどい怪我をしていた。彼は私を見ると立ち止まった。
「ミッチー!どうした!試合遅れるぞ!」
「すまん、急いでる!その自転車貸してくれないか!?」
駅までの距離を彼は私の自転車に乗り、桜木くんを後ろに立たせ漕いで消えて行った。なんだったんだ今のは。そう思っていると今度は、彼らの出てきた路地裏から殴る音が聞こえてきた。
「これで分かっただろ雑魚が……おい大丈夫かよ、あんたも立ってるの限界だろ?」
その声は確かに水戸くんで、気付いたら身体が路地裏に走っていた。目の前の光景は悲惨だった。バイクと人が倒れて周りには血も飛んでいる。声が出なかった。ただ息が止まる。
「み、みと……くん……」
「あ、おい、何でここにいるんだよ?わりいお前ら、先に試合会場行っててくれ!」
驚いた彼は私の肩をぐっと引いて路地裏から引きずり出す。
「おーい洋平!!」
仲間の声を無視して水戸くんは何かを思案している様子だった。近くの公園のベンチに二人で腰掛け、近くの自販機で買ったカフェオレを彼は差し出した。
「まさか名無しさんが近くにいるとは思ってなかったから。急にあんなの見て怖かっただろ?」
「えっと……」
怖かった。そう言ったらきっと水戸くんのことも怖いと言っているような気がして言えなかった。
「やっぱりお嬢様だな」
「え?」
「いいってそういう気遣い。大抵の奴らは俺たちを怖がってるし」
「そ、そんなこと……」
「じゃあな。オレは花道の試合観に行かなきゃなんねーから」
そう言って彼は駆け足で公園から出て行った。また明日学校でな。いつも帰り際言ってたセリフがないことに寂しさを感じてしまう。私は水戸くんを怖いと思っていたのに、どうしてかそう思っている自分に嫌気がさしてしまう。けれどどうしていいのか分からず、とりあえずカフェオレのプルタブを開けると乾いた音が響くのだった。
