23.守りの要
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幸せはいつも手のひらから零れ落ちていく。
目の前の幸せは、不変ではなく儚く散りゆくものなんだと。
幼い頃の夢を見た。
もう何十年も昔の、幸せだった頃の遠い昔の夢。
「ーー」
過去に置いてきた名で、家族が私を呼ぶ。
陽だまりのような温かさを感じてしまう夢の中の世界は、全てが懐かしくて、切なくて、かけがえのないものだった。
夢の中が一変し、気がつくと花畑の中に身を置いていた。
そこで愛しい彼女の膝に頭を乗せて私は眠っている。
時折吹く風が、花や草を揺らし心地よく頬を撫ぜた。
半助さん。
詩織さんの柔らかな声が心地よく耳に響く。
目を開くと、彼女と視線が重なり、どちらからともなく微笑み合う。
そんな幸せで穏やかな空間に、よい子たちの笑い声が近くから聞こえてくる。
土井先生。詩織さん。
こっちに来て一緒に遊びましょう。
私は起き上がり、子ども達と一緒に走り回ったりする。
そんな私と子ども達を見つめる彼女の眼差しはとても優しい。
いつまでもこんな幸せを守っていきたい。
詩織さんとこんなふうに、いつまでもずっと。
柔らかな陽の匂いと花の香りが、目覚めてもなお残っている気がした。だが目を開ければ、文机の硬い感触と冷たさが現実を突きつけてくる。
あの後、山本先生の持ってきた矢文を読んですぐ、私は自分が怪我をしていたことも忘れて忍術学園を飛び出していた。
山田先生の呼ぶ声に耳を傾けずに、町へ向かって駆けていた。
けれど真夜中の星明かりだけが頼りの中、どこにいるかも分からない彼女を探すのは霧の中で探しているのと同じだった。結局、止めに来た山田先生に「今は無茶をするな」と諭され学園に戻ったのだ。
タソガレドキから逃れるために、迷惑をかけまいと忍術学園を去った彼女が、どこへ行くかなんて全く検討がつかなかったのだ。兵法がまるで役に立たないことを実感するには十分だった。
残された矢文を見つめながら、先程まで見ていた夢を思い出す。
花畑の中、彼女に膝枕してもらい、子どもたちの笑い声に包まれる。
戦さとは無縁の場所。
夢の中でも私は彼女に対して、こういう安心できる場所にいて欲しいと思っているのだ。傷つくことも、失うことも、悲しむこともない場所で笑っていてほしい。そしてその隣に私がいるべきではないのだと、昨日までの私は思っていた。
けれど実際に彼女がいなくなって、あたたかな夢を見て、私自身が彼女の隣で共にいたいのだと、強く望んでいるのだと気付いた。
これからもずっと、彼女に「半助さん」と名を呼んでほしい。
そして私も「詩織さん」と彼女の名を、この先もずっと、ずっと呼んでいたい。そう強く思った。
『私はここにいますね』
歓迎会をした夜、詩織さんがそんなことを言って私の背中になぞった指の感触を、昨日のことのように如実に思い出すことができるのに、彼女はいない。
清八さんと詩織さんが馬に乗って忍術学園を出て行くのを見て、どこか遠くに行くのではないかと不安だった時だって彼女は言った。
『私はずっと傍にいますよ?ずっと』
ずっと傍にいる。不確定の約束を漫然と漠然と信じていた。
彼女とこの先もずっと一緒だと確固たる希望があった。
けれど、そんな未来は簡単に崩されてしまう。
体中を虚無感が襲い、ただ消えた温もりを必死に探していた。
「ちょっと利吉さん!入門票にサインを!」
外から小松田くんの声が聞こえたかと思うと、戸が勢いよく開け放たれ、利吉くんが部屋へ飛び込んできた。
眉間に深い皺を寄せた彼の視線が、鋭く私を貫く。
「詩織さんがタソガレドキ忍軍の組頭である雑渡昆奈門に連れ去られました。その証拠がこの簪です」
そう言って利吉くんは床板に手に持っていたそれを置いた。紅葉の金細工が施された、彼が詩織さんにプレゼントした簪は、先が少し折れ曲がっていて、全体的に泥土が付いている。
利吉くんの言葉に驚きを隠せなかった。けれど昨夜、雑渡さんは尊奈門くんに対して「娘を探しに行くぞ」と言ったのだ。けれどなぜ、彼が詩織さんを探すのか検討がつかない。
「雑渡さんが…?詩織さんはどこに?」
状況が全く分からなかった。雑渡さんに連れ去られたところを利吉くんは見ていたのだろうか。彼女はどこにいたのだろうか。胸中を察した彼は説明を付け加えた。
「山の中を彷徨っていた詩織さんを私が見つけ、廃寺で夜を越しました。忍術学園に戻る途中で雑渡に襲われ、連れて行かれてしまい……私の実力では太刀打ちできず…あれでも手加減されていると思います」
「詩織さんは山の中を…?」
てっきり町のどこかにいるものだと思っていた。
山賊がいるかもしれない、危険な場所にいたなんて。
目の前の利吉くんは、その真っ直ぐすぎる眼差しを私に向ける。
「なぜ、詩織さんが抱え込んでいた苦しみにに気付かなかったんですか?」
思わず息を飲んだ。そんな不安を彼女が抱いていたなんて、考えもしなかった。
利吉くんが口布を被り直し、唇を覆ったその布には微かに紅が付いていた。それは見覚えのある色だった。
「なぜこんなところに紅がついているか分かりますか?」
利吉くんの声は震え、しかし弱々しさの中に覚悟の滲む響きがあった。
そんな所に紅の痕があれば、自然と分かるものだけれど、利吉くんの言葉を聞きたくない私がいた。
「詩織さんにお願いされたんです。『土井先生を忘れさせてください』と。これがキスを迫る彼女に私にできた精一杯でした」
悔しげなその言葉に、私の胸がざわつく。
視線を再び口布の紅痕に向ける。
布越しとはいえ、彼女は私以外の人を求めた。私を忘れたいといって。それはつまり、そうまでしないと私が忘れられない…忘れなくていいのに、私は忘れたくもないのに。
今まで彼女は私のことを想っているのだと呑気にしていた自分が情けなく思えてきた。
「詩織さんは言っていました。自分は重荷なんじゃないか。いつか自分が必要とされなくなるんじゃないかと。なぜ…もっと…ちゃんと…彼女を繋ぎ止められなかったんですか!?」
利吉くんは力強く声を発する。
普段の冷静な彼は形を潜めていた。
『私、待つのは得意ですから』
あの時の言葉の裏にそんな気持ちを隠していたなんて。
でも思い返せば『私のこと、どう思っていますか?』と聞いてきた時も『これからの幸せです。半助さんはどう思いますか?』と聞いてきた時も。あれは不安の裏返しだったのではないかと。
私が彼女に本当に隠したい本心を隠していたように、彼女もまた本当の気持ちを隠していたのだと。
「……すまない」
冷たい現実の中で、今までは『詩織さんの傍にいるだけで十分』だと思っていた自分が、彼女を守る覚悟のない甘えそのものだったことに気付かされる。
私は何一つ、詩織さんのことを考えられていなかったのではないか。
お互いに気持ちが通じ合えていると、それに満足していた。
そのとき、廊下から人の気配を感じ、私も利吉くんも外に視線を向けると、きり丸と団蔵が身体を震わせて立っていた。
「あの、先生…」と二人は私を見つめる。
「どうしたんだ?」
先日の私と清八さんのどちらが詩織さんとお似合いかと口論していた二人の姿はなかった。
「もしかして、僕たちが喧嘩してたから…詩織さん、いなくなっちゃったんですか?」
眉を寄せて酷く悲しむ二人に、息が苦しくなる。
「そうじゃないんだ。私が…私のせいなんだ。お前たちのせいじゃない」
「詩織さん、戻ってきますよね?」
「ああ……必ず戻ってくるさ」
二人の頭を交互に撫で、安心を与える。
きり丸が脇に何かを抱えていることに、そのとき気付いた。
「渡しそびれていたんですけど、これ。詩織さんから預かってた先生の服です」
手渡された忍者装束を見て、彼女に縫い直しをお願いしていたことを思い出す。
後ろ襟の部分を見て、手が止まった。
「これは……」
私の言葉に、利吉くんたちが手元をのぞき込む。
黒色の目立たない糸で麻の葉の刺繍が編み込まれていた。
刹那、幼い頃に母が縫っていたことを思い出す。思い出したように利吉くんが小さく呟いた。
「背守り、ですね」
「背守りって母ちゃんが子どもの服に縫い付けて無病息災を願うっていうやつ?」
と団蔵が尋ね、きり丸が答える。
「そうそれ。でも先生って子どもって歳じゃないですよね」
「いや、きり丸くん。これはきっと詩織さんが土井先生にはずっとこの先も元気でいて欲しいという願いを込めて縫ったんだと思うよ」
刺繍のひと針ひと針を指先で触れる。彼女の優しさが滲み出ているようで愛おしかった。
ちょうど刺繍のある身頃の中心に、なにか硬いものが入っていることに気付いた。
せっかく縫って貰ったのにと申し訳なく思いながら、はさみで糸を解いていく。
そこから柿渋の塗られた小さな和紙が出てきた。同時に、彼女が柿渋を借りていたという留三郎の言葉が思い出された。
小さな和紙は二つ折りに折られていて、広げると中に筆でこう書かれていた。
【人の世の 夢と知りつつ 守られし その日々こそが 形見なりけり】
震える手で、その意味を噛み締める。
―この世が夢のように儚いものだと知っていても、
あなたと過ごした大切に守られたあの日々こそが、
私にとって何よりも大切な宝物です―
言葉に表せない切なさが涙となり、頬を伝っていく。
咄嗟に、利吉くんやきり丸たちに背を向けた。
こんな情けない姿を見せるわけにはいかない。
三日前の忍術学園を出る夜、彼女の部屋には筆が机の上に置かれていたではないか。
それは、このためだったのだろうか。あのとき、私がもっと彼女を繋ぎ止めていれば……。
何も気付けなかった自分が腹立たしい。
和歌の中の彼女は、すでに私にサヨナラと訣別しているみたいで、自分に対する苛立ちと同じくらい、初めて彼女に対して苛立ちを覚えた。
私に黙っていなくなって、私の言葉がちっとも伝わってなかったなんて、私のことを信じてくれないなんて。
いったい、どこで私たちが間違ってしまったのか。
けど一つだけ分かることがある。
間違っていたら直せばいい。
彼女の中にある、重荷だと思っている私の偶像を。
そして今度こそ、真っ正面から伝えねばならない。私の本当の気持ちを。
「利吉くん、きり丸、団蔵……心配かけてすまなかった」
その声には先ほどまでの弱さが消え、決意が宿っている。
「詩織さんは……私が連れ戻します」
突然、部屋の扉が勢いよく開いた。そこに立っていたのは、学園長だった。
「土井先生、話は聞かせてもらったぞい!」
杖を大きく振り回しながら学園長が叫ぶ。
「雪下くんの作った甘露煮を、わしはまた食べたいんじゃ!だから、土井先生!雪下くんを連れ戻しにタソガレドキまで行ってよし!! ……ついでに、ここはは組も連れて行って『土井先生&一年は組の愛と勇気の雪下くん奪還大作戦』とでも名付けるのはどうかのう?」
「学園長…!こんな騒ぎに子どもたちを巻き込むわけにはいきません!」
るんるん気分の学園長に、思わず突っ込んでしまう。うう・・胃が・・。
すると、周囲から声が飛んできた。いつの間にか、は組の生徒が揃っていたのだ。
「先生!私たちも一緒に詩織さんを助けに行きましょう!」
「行かせてください、先生!」
「お前らなあ!……でも、これは私一人で行かせてもらう。お前たちは学園で大人しく待っていなさい」
一年は組の生徒たちが一斉に「ええーっ!」と抗議の声を上げる。
私は学園長に振り返る。
「では学園長、ここはお任せします!」
うかうかしてると本当に着いてきそうなよい子たちなので、そう言い残し、私は部屋を飛び出した。
◇
外の静寂の中、土井は素早く歩を進める。
すると、後ろから近づいてくる気配を感じ視線を横に向けると利吉くんがいた。
「水臭いですよ、お兄ちゃん」
「あの子たちがついてくると言うものだから、ついな」
「でも、案外連れて行ったほうが敵を混乱させられるんじゃないですか?」と利吉くんが静かに提案する。
私は短く笑った。
「いや、相手は雑渡さんだ。感情で動く人じゃない」
「じゃあどうします?」
「おそらく、詩織さんはタソガレドキ城にはいない。中腹のどこかにいる可能性が強い」
利吉くんは目を細めて尋ねる。
「さすがですね。でもなぜです?」
「我々が助けに来るのを雑渡さんが読んでいないわけがない。そして、城そのものに侵入されるのは彼らも避けたいはずだ。黄昏甚兵衛に弁明できない事態は招きたくないだろう」
「なるほど……理にかなっていますね。」
利吉くんの答えを聞きながら、長く息を吐くと白い靄が風に流され消える。
「それなら……先日、タソガレドキはオーマガドキ城の出城を奪ったという話を耳にしました。もしかしてそこに……」
「場所からみて可能性が高いな。すまないが利吉くん、手伝ってくれるかい?」
「ええ、もちろん」
利吉くんが一瞬だけ目を合わせてきた。その短い瞬間に多くの言葉が込められているように感じる。
「負けるわけにはいかないな」
思わず漏れた呟きに、利吉くんは黙って頷く。
それだけで十分だった。冷たい風が背を押すように吹き抜ける中、私たちは再び駆け出した。
→
目の前の幸せは、不変ではなく儚く散りゆくものなんだと。
幼い頃の夢を見た。
もう何十年も昔の、幸せだった頃の遠い昔の夢。
「ーー」
過去に置いてきた名で、家族が私を呼ぶ。
陽だまりのような温かさを感じてしまう夢の中の世界は、全てが懐かしくて、切なくて、かけがえのないものだった。
夢の中が一変し、気がつくと花畑の中に身を置いていた。
そこで愛しい彼女の膝に頭を乗せて私は眠っている。
時折吹く風が、花や草を揺らし心地よく頬を撫ぜた。
半助さん。
詩織さんの柔らかな声が心地よく耳に響く。
目を開くと、彼女と視線が重なり、どちらからともなく微笑み合う。
そんな幸せで穏やかな空間に、よい子たちの笑い声が近くから聞こえてくる。
土井先生。詩織さん。
こっちに来て一緒に遊びましょう。
私は起き上がり、子ども達と一緒に走り回ったりする。
そんな私と子ども達を見つめる彼女の眼差しはとても優しい。
いつまでもこんな幸せを守っていきたい。
詩織さんとこんなふうに、いつまでもずっと。
柔らかな陽の匂いと花の香りが、目覚めてもなお残っている気がした。だが目を開ければ、文机の硬い感触と冷たさが現実を突きつけてくる。
あの後、山本先生の持ってきた矢文を読んですぐ、私は自分が怪我をしていたことも忘れて忍術学園を飛び出していた。
山田先生の呼ぶ声に耳を傾けずに、町へ向かって駆けていた。
けれど真夜中の星明かりだけが頼りの中、どこにいるかも分からない彼女を探すのは霧の中で探しているのと同じだった。結局、止めに来た山田先生に「今は無茶をするな」と諭され学園に戻ったのだ。
タソガレドキから逃れるために、迷惑をかけまいと忍術学園を去った彼女が、どこへ行くかなんて全く検討がつかなかったのだ。兵法がまるで役に立たないことを実感するには十分だった。
残された矢文を見つめながら、先程まで見ていた夢を思い出す。
花畑の中、彼女に膝枕してもらい、子どもたちの笑い声に包まれる。
戦さとは無縁の場所。
夢の中でも私は彼女に対して、こういう安心できる場所にいて欲しいと思っているのだ。傷つくことも、失うことも、悲しむこともない場所で笑っていてほしい。そしてその隣に私がいるべきではないのだと、昨日までの私は思っていた。
けれど実際に彼女がいなくなって、あたたかな夢を見て、私自身が彼女の隣で共にいたいのだと、強く望んでいるのだと気付いた。
これからもずっと、彼女に「半助さん」と名を呼んでほしい。
そして私も「詩織さん」と彼女の名を、この先もずっと、ずっと呼んでいたい。そう強く思った。
『私はここにいますね』
歓迎会をした夜、詩織さんがそんなことを言って私の背中になぞった指の感触を、昨日のことのように如実に思い出すことができるのに、彼女はいない。
清八さんと詩織さんが馬に乗って忍術学園を出て行くのを見て、どこか遠くに行くのではないかと不安だった時だって彼女は言った。
『私はずっと傍にいますよ?ずっと』
ずっと傍にいる。不確定の約束を漫然と漠然と信じていた。
彼女とこの先もずっと一緒だと確固たる希望があった。
けれど、そんな未来は簡単に崩されてしまう。
体中を虚無感が襲い、ただ消えた温もりを必死に探していた。
「ちょっと利吉さん!入門票にサインを!」
外から小松田くんの声が聞こえたかと思うと、戸が勢いよく開け放たれ、利吉くんが部屋へ飛び込んできた。
眉間に深い皺を寄せた彼の視線が、鋭く私を貫く。
「詩織さんがタソガレドキ忍軍の組頭である雑渡昆奈門に連れ去られました。その証拠がこの簪です」
そう言って利吉くんは床板に手に持っていたそれを置いた。紅葉の金細工が施された、彼が詩織さんにプレゼントした簪は、先が少し折れ曲がっていて、全体的に泥土が付いている。
利吉くんの言葉に驚きを隠せなかった。けれど昨夜、雑渡さんは尊奈門くんに対して「娘を探しに行くぞ」と言ったのだ。けれどなぜ、彼が詩織さんを探すのか検討がつかない。
「雑渡さんが…?詩織さんはどこに?」
状況が全く分からなかった。雑渡さんに連れ去られたところを利吉くんは見ていたのだろうか。彼女はどこにいたのだろうか。胸中を察した彼は説明を付け加えた。
「山の中を彷徨っていた詩織さんを私が見つけ、廃寺で夜を越しました。忍術学園に戻る途中で雑渡に襲われ、連れて行かれてしまい……私の実力では太刀打ちできず…あれでも手加減されていると思います」
「詩織さんは山の中を…?」
てっきり町のどこかにいるものだと思っていた。
山賊がいるかもしれない、危険な場所にいたなんて。
目の前の利吉くんは、その真っ直ぐすぎる眼差しを私に向ける。
「なぜ、詩織さんが抱え込んでいた苦しみにに気付かなかったんですか?」
思わず息を飲んだ。そんな不安を彼女が抱いていたなんて、考えもしなかった。
利吉くんが口布を被り直し、唇を覆ったその布には微かに紅が付いていた。それは見覚えのある色だった。
「なぜこんなところに紅がついているか分かりますか?」
利吉くんの声は震え、しかし弱々しさの中に覚悟の滲む響きがあった。
そんな所に紅の痕があれば、自然と分かるものだけれど、利吉くんの言葉を聞きたくない私がいた。
「詩織さんにお願いされたんです。『土井先生を忘れさせてください』と。これがキスを迫る彼女に私にできた精一杯でした」
悔しげなその言葉に、私の胸がざわつく。
視線を再び口布の紅痕に向ける。
布越しとはいえ、彼女は私以外の人を求めた。私を忘れたいといって。それはつまり、そうまでしないと私が忘れられない…忘れなくていいのに、私は忘れたくもないのに。
今まで彼女は私のことを想っているのだと呑気にしていた自分が情けなく思えてきた。
「詩織さんは言っていました。自分は重荷なんじゃないか。いつか自分が必要とされなくなるんじゃないかと。なぜ…もっと…ちゃんと…彼女を繋ぎ止められなかったんですか!?」
利吉くんは力強く声を発する。
普段の冷静な彼は形を潜めていた。
『私、待つのは得意ですから』
あの時の言葉の裏にそんな気持ちを隠していたなんて。
でも思い返せば『私のこと、どう思っていますか?』と聞いてきた時も『これからの幸せです。半助さんはどう思いますか?』と聞いてきた時も。あれは不安の裏返しだったのではないかと。
私が彼女に本当に隠したい本心を隠していたように、彼女もまた本当の気持ちを隠していたのだと。
「……すまない」
冷たい現実の中で、今までは『詩織さんの傍にいるだけで十分』だと思っていた自分が、彼女を守る覚悟のない甘えそのものだったことに気付かされる。
私は何一つ、詩織さんのことを考えられていなかったのではないか。
お互いに気持ちが通じ合えていると、それに満足していた。
そのとき、廊下から人の気配を感じ、私も利吉くんも外に視線を向けると、きり丸と団蔵が身体を震わせて立っていた。
「あの、先生…」と二人は私を見つめる。
「どうしたんだ?」
先日の私と清八さんのどちらが詩織さんとお似合いかと口論していた二人の姿はなかった。
「もしかして、僕たちが喧嘩してたから…詩織さん、いなくなっちゃったんですか?」
眉を寄せて酷く悲しむ二人に、息が苦しくなる。
「そうじゃないんだ。私が…私のせいなんだ。お前たちのせいじゃない」
「詩織さん、戻ってきますよね?」
「ああ……必ず戻ってくるさ」
二人の頭を交互に撫で、安心を与える。
きり丸が脇に何かを抱えていることに、そのとき気付いた。
「渡しそびれていたんですけど、これ。詩織さんから預かってた先生の服です」
手渡された忍者装束を見て、彼女に縫い直しをお願いしていたことを思い出す。
後ろ襟の部分を見て、手が止まった。
「これは……」
私の言葉に、利吉くんたちが手元をのぞき込む。
黒色の目立たない糸で麻の葉の刺繍が編み込まれていた。
刹那、幼い頃に母が縫っていたことを思い出す。思い出したように利吉くんが小さく呟いた。
「背守り、ですね」
「背守りって母ちゃんが子どもの服に縫い付けて無病息災を願うっていうやつ?」
と団蔵が尋ね、きり丸が答える。
「そうそれ。でも先生って子どもって歳じゃないですよね」
「いや、きり丸くん。これはきっと詩織さんが土井先生にはずっとこの先も元気でいて欲しいという願いを込めて縫ったんだと思うよ」
刺繍のひと針ひと針を指先で触れる。彼女の優しさが滲み出ているようで愛おしかった。
ちょうど刺繍のある身頃の中心に、なにか硬いものが入っていることに気付いた。
せっかく縫って貰ったのにと申し訳なく思いながら、はさみで糸を解いていく。
そこから柿渋の塗られた小さな和紙が出てきた。同時に、彼女が柿渋を借りていたという留三郎の言葉が思い出された。
小さな和紙は二つ折りに折られていて、広げると中に筆でこう書かれていた。
【人の世の 夢と知りつつ 守られし その日々こそが 形見なりけり】
震える手で、その意味を噛み締める。
―この世が夢のように儚いものだと知っていても、
あなたと過ごした大切に守られたあの日々こそが、
私にとって何よりも大切な宝物です―
言葉に表せない切なさが涙となり、頬を伝っていく。
咄嗟に、利吉くんやきり丸たちに背を向けた。
こんな情けない姿を見せるわけにはいかない。
三日前の忍術学園を出る夜、彼女の部屋には筆が机の上に置かれていたではないか。
それは、このためだったのだろうか。あのとき、私がもっと彼女を繋ぎ止めていれば……。
何も気付けなかった自分が腹立たしい。
和歌の中の彼女は、すでに私にサヨナラと訣別しているみたいで、自分に対する苛立ちと同じくらい、初めて彼女に対して苛立ちを覚えた。
私に黙っていなくなって、私の言葉がちっとも伝わってなかったなんて、私のことを信じてくれないなんて。
いったい、どこで私たちが間違ってしまったのか。
けど一つだけ分かることがある。
間違っていたら直せばいい。
彼女の中にある、重荷だと思っている私の偶像を。
そして今度こそ、真っ正面から伝えねばならない。私の本当の気持ちを。
「利吉くん、きり丸、団蔵……心配かけてすまなかった」
その声には先ほどまでの弱さが消え、決意が宿っている。
「詩織さんは……私が連れ戻します」
突然、部屋の扉が勢いよく開いた。そこに立っていたのは、学園長だった。
「土井先生、話は聞かせてもらったぞい!」
杖を大きく振り回しながら学園長が叫ぶ。
「雪下くんの作った甘露煮を、わしはまた食べたいんじゃ!だから、土井先生!雪下くんを連れ戻しにタソガレドキまで行ってよし!! ……ついでに、ここはは組も連れて行って『土井先生&一年は組の愛と勇気の雪下くん奪還大作戦』とでも名付けるのはどうかのう?」
「学園長…!こんな騒ぎに子どもたちを巻き込むわけにはいきません!」
るんるん気分の学園長に、思わず突っ込んでしまう。うう・・胃が・・。
すると、周囲から声が飛んできた。いつの間にか、は組の生徒が揃っていたのだ。
「先生!私たちも一緒に詩織さんを助けに行きましょう!」
「行かせてください、先生!」
「お前らなあ!……でも、これは私一人で行かせてもらう。お前たちは学園で大人しく待っていなさい」
一年は組の生徒たちが一斉に「ええーっ!」と抗議の声を上げる。
私は学園長に振り返る。
「では学園長、ここはお任せします!」
うかうかしてると本当に着いてきそうなよい子たちなので、そう言い残し、私は部屋を飛び出した。
◇
外の静寂の中、土井は素早く歩を進める。
すると、後ろから近づいてくる気配を感じ視線を横に向けると利吉くんがいた。
「水臭いですよ、お兄ちゃん」
「あの子たちがついてくると言うものだから、ついな」
「でも、案外連れて行ったほうが敵を混乱させられるんじゃないですか?」と利吉くんが静かに提案する。
私は短く笑った。
「いや、相手は雑渡さんだ。感情で動く人じゃない」
「じゃあどうします?」
「おそらく、詩織さんはタソガレドキ城にはいない。中腹のどこかにいる可能性が強い」
利吉くんは目を細めて尋ねる。
「さすがですね。でもなぜです?」
「我々が助けに来るのを雑渡さんが読んでいないわけがない。そして、城そのものに侵入されるのは彼らも避けたいはずだ。黄昏甚兵衛に弁明できない事態は招きたくないだろう」
「なるほど……理にかなっていますね。」
利吉くんの答えを聞きながら、長く息を吐くと白い靄が風に流され消える。
「それなら……先日、タソガレドキはオーマガドキ城の出城を奪ったという話を耳にしました。もしかしてそこに……」
「場所からみて可能性が高いな。すまないが利吉くん、手伝ってくれるかい?」
「ええ、もちろん」
利吉くんが一瞬だけ目を合わせてきた。その短い瞬間に多くの言葉が込められているように感じる。
「負けるわけにはいかないな」
思わず漏れた呟きに、利吉くんは黙って頷く。
それだけで十分だった。冷たい風が背を押すように吹き抜ける中、私たちは再び駆け出した。
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