22.乾いた叫び
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理性の糸はギリギリだった。
詩織さんが頼ってくれたことが嬉しくないわけじゃない。むしろ、その温もりに溺れそうだった自分が許せない。
脳裏には、彼女の中にいる土井先生の影が焼き付いていた。
彼女を一時の衝動に任せて抱くことが、どれほど愚かなことか、自分でもわかりすぎているほどわかっていた。
それで得られる満足感が、本当に欲しいものと程遠いことも。
それでも、腕の中で詩織さんの体温を感じるたび、自分の感情がどこまで理性に従えるのか、自信がなくなりそうになる。
――ごめんなさい、詩織さん。
そう胸の中で何度も呟いた。
詩織さんは、いつの間にか静かに眠りについていた。乱れた呼吸が落ち着き、すうすうと小さな寝息が耳に届く。
――あなたを守るのが俺の役目なんです。
◇
夜が明ける。
隙間だらけの廃寺の屋根から、ほんのり赤みを帯びた朝日が差し込んできた。
空気はひんやりとしていて、昨夜の出来事が遠い過去のものに思えるくらいだ。
「……詩織さん、朝です」
そっと肩を揺らすと、詩織さんがゆっくりと瞼を開けた。
その瞳はまだ少し潤んでいて、昨夜の出来事が頭をよぎっているのか、微かに顔を赤らめる。
「利吉さん……ごめんなさい、昨日は……」
「ああ、謝るのは私の方です。辛いときに、十分な支えになれなくて」
微妙に視線を交わしながら、詩織さんが小さく首を振る。
「違います、利吉さんがいてくれて……本当に助かりました。ありがとうございます」
その言葉に、胸の奥がほのかに温かくなる。
それでも、彼女の気持ちは土井先生のほうを向いているのだという現実を、忘れることはできない。
外に出ると、青空が広がり、空気はどこまでも冷たく清々しかった。
「詩織さん、大丈夫ですか?」
廃寺の入口から一歩外へ出た彼女を振り返りながら、そう問いかける。
詩織さんは頷くと、小さな笑みを浮かべた。その笑顔に、救われる思いがした。
「行きましょう。忍術学園に戻らないと」
詩織さんと並んで歩き始めた朝の道。冷えた空気が、どこか二人の心を穏やかに整えていくようだった。
「こんなところにいたの、お嬢さん」
冷たい声が上から降ってくるのと同時に、握っていた彼女の手の感触が消えた。
「雑渡…昆奈門……!」
「やあ、山田先生の息子のフリーの売れっ子忍者の利吉くん」
雑渡は詩織さんを肩に持ち上げている。
「詩織さんっ!!」
「利吉さん!」
叫び声も虚しく、奴は木々を飛び越え離れていく。
私も跳躍し、奴の後を追う。
なぜ雑渡が?詩織さんを好いていたのは尊奈門じゃなかったのか?
「ふざけるな!なぜお前が詩織さんを連れ去る!おいっ待て!」
喉から血が滲むほど叫んでも、雑渡の後ろ姿は遠のいていくばかり。
待て。そう繰り返すだけの無力な自分が憎かった。
風に乗って奴の声が耳に届く。
「この娘にはそんなに利用価値があるっていうのかい?」
嘲笑したような口調に怒りが込み上げる。詩織さんは道具じゃない。
懐から手裏剣を取り出すが、詩織さんに向かって投げることを躊躇い、手から離すことができなかった。
木の枝をいくつも飛び越えて後を追うことが精一杯な中、雑渡は木の枝をクルッと回転し上に跳ね上げると、私の真上にある枝を踏みつけて折り落とした。
私が枝を避けている隙に、雑渡の気配が遠退いていく。
体勢を整え、木の上へと飛び越えたときだった。
「きゃっ!」
詩織さんの悲鳴が聞こえ、すぐさま声のした場所へ駆けつける。
だが、葉の落ちきった木々が寒そうにあるばかりで、すでに気配は消え失せていた。
辺りを見渡し、どっちの方角へ逃げたのか気配を探る。
そのとき、視界に何かがキラッと光ったのが見えた。
目に飛び込んだのは泥まみれの簪だった。
それは以前、私が彼女に贈ったものだ。
『ちょっと髪を結い上げてみませんか?』
『土井先生、女性に簪をプレゼントする意味はご存知ですか?』
『知らないな。意味なんてあるの?』
『ええ、ありますよ』
『あなたを護るという意味があります』
紅葉の金細工は土で汚れ、簪の先がやや折れている。
この小さな簪を振るい、あの男の腕から逃れようと抗ったことを物語っていた。
手のひらに載る小さな簪。それを握る指先が震えた。
こんなものに頼らずとも護るべきだったはずなのに。
……自分自身を護るための道具として彼女にプレゼントしたかったんじゃない。
私が、貴女を護るために……。
行き場のない苛立ちが、胸を焼くように沸き上がる。
詩織さんが連れ去られた原因が、紛れもなく自分自身にあることをわかっている。
それでも、土井先生への感情がどうしようもなく膨れ上がっていく。
なぜ、あの人はいつまでも詩織さんとの関係を徒に引き伸ばすのか。
彼女を守れるだけの力があるのに、彼女の隣に立つ権利があるのに。
『彼の重荷にはなりたくないんです』
その中途半端な優しさが、詩織さんにそんな言葉を言わせたと思うと、彼に嫉妬にも似た苛立ちが込み上げた。
いつしか簪を握る手のひらには熱が籠もる。
その熱を抱えたまま、私は忍術学園に向かって走っていた。
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