22.乾いた叫び
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暗くなった森の中を走っていた。
足を止めたら、きっと自分のしてしまったことに、とてつもない後悔が押し寄せて来てしまいそうで、走るのを止めるのが怖かった。
朔の日、星明かりだけが頼りの森で時折、岩や木の根に足を取られそうになるのを庇いながら、たた闇雲に走っていた。
もう、あの温かい場所へは戻れない。
きっとこんな身勝手な私を、あの場所も彼も、もう一度受けれてくれることなんてない。
泣きたい気持ちを抑えて、走るしかなかった。
昨日まであると思っていた当たり前は、当たり前でないのだと思い知らされる。そして、幸せは長く続かないのだと。私の幸せは誰かの犠牲の上に成り立っていて、きっとそれは大切な人を不幸にさせる。
私は誰かに求められるような存在じゃないんだと、強く実感せざるを得なかった。私は誰かの取るに足らない存在でしかない。
『あんたなんかいなきゃよかったんだ!』
『あんたのせいで!』
『あんたは不吉なんだよ!』
こんな私にも幸せを願っていいと思ったことが間違いだった。半助さんの優しさに、愛情に、つい甘えてしまっていた。
だけどそれはただ彼に重荷を背負わせているだけ。
「ゆっくり、進んでいきたいと思ってます」
半助さんのその言葉に救われたはずだった。
私は待つのには慣れているから――そう応えたのも嘘じゃない。
だけど、どこかで想像してしまった。
『ゆっくり考えた末に、あなたとは添い遂げられない』と言われる未来を。
そう言われる未来が頭を過ぎるたび、心がすり減っていた。
いつか言われるのなら、自分から手放したほうが楽になれるのだと思い至った。
ただ遠くへ、どこへ行くあてもないまま、息苦しさも立ち止まりたい気持ちも放り投げて走っている。
タソガレドキに掴まって彼の足手まといになるくらいなら、いっそ、山賊が出てきて私を襲ってほしいとさえ思う。
そんな絶望を抱きながら暗い森を走っていた。
背後から、聞き慣れた声がした。
かすれた声で「詩織さん!」と呼ばれると同時に、腕を引かれた。
思わず立ち止まり、顔を上げる。そこに立っていたのは……。
「……利吉さん」
「こんな時間に、どうしてここに?」
利吉さんは私を見つめながら、肩に手を置く。その顔には明らかな不安が浮かんでいて、私の方が胸が痛くなる。
心配した眼差しを向ける彼を見た途端、張り詰めていた緊張や恐怖がどっと溢れ出す。
涙が溢れて止まらない。
自分から彼の胸に飛び込んでいた。
「詩織さん?どうしたんです?」
利吉さんは私の肩に手を回すと優しく抱きしめてくれた。
寒い森の中を走っていた私の身体はすっかり冷えていて、彼の温もりがとても身体に染みた。
どこかの廃寺で私たちは過ごした。
灯りを点けると敵に居場所が察知されますから、と利吉さんは薄暗闇のなか手を繋いで、心細い私に安心を与えてくれる。
その手のひらに触れる熱を感じながら、利吉さんに事情を説明していた。
尊奈門さんから、半助さんの命を狙うと矢文が届いたこと。
朔の日の今日、尊奈門さんが私を迎えに来るという内容だったこと。
半助さんの破れた服を縫っていたら、尊奈門さんからの果たし状が何通も出てきたこと。
迷惑をかけまいと、無断で忍術学園を抜け出してきたこと。
発する声は自分でも驚くほど震えていた。
同時に、もう戻れないということだけ強く実感した。
利吉さんは私の話を聞き終えると、冷静な口調で尋ねる。
「大変でしたね…土井先生にはそのことは?」
「半助さんは学園長の仕事で留守にしていましたが、もう戻ってきているはずです」
忍術学園を出る前に、半助さんにひと目会いたかった。けれどきっと半助さんなら私の気持ちに気付いてしまうし、それこそ尊奈門さんと戦うようなことにはなってほしくなくて、彼に会わないまま飛び出した。買い物から戻らない私を、彼はもしかしたら心配しているのかもしれない。
「では、今から忍術学園に……きっとみんな心配していますよ?」
「でも、私がいたら迷惑になってしまいます」
きっともうすでに迷惑で、面倒くさくて、重荷なのだ。
そんな気持ちを誤魔化すように、食堂の献立に「さよなら」なんて隠した。
誰かが気付いてくれたら、と淡い期待を抱いていた。でもそんなことはなかった。
「そんなことないですよ。土井先生だって……!」
「これ以上、半助さんの重荷になりたくないんです」
「重荷?」
「私のせいで、彼の幸せを奪いたくないんです…」
私を愛してくれる彼は、私以上にもっと相応しい人がいるんだと思う。
それはきっと、『あんたなんかいなけりゃ良かった』と言われるような人じゃない。
私のように幸せに手を伸ばせない人じゃない。
きっと、彼を笑わせて愛を注いであげられる人なんだと思う。それは私じゃない。
「詩織さん……」
「利吉さん……私、もう…どうしたらいいのか分かりません」
震える声を漏らしながら、私は彼の胸元に顔をうずめる。
迷惑をかけたくない一心で逃げ出してしまったけれど、なにが最善だったのか自分でも分からなかった。
破れた障子から隙間風が入り込む。利吉さんが寒さを凌ぐように、私を強く抱きしめる。
半助さん以外の男の人の温もりを知るのは初めてだった。
……このまま、半助さんのことが忘れられればいいのに。
利吉さんを見上げる。
彼に助けられ、忍術学園へ連れて行ってくれたときよりも、大きく頼もしく見えた。
『冬休みは私のところへ来ませんか?』
真剣な眼差しを向けていた彼は、今もまた同じ眼差しを私に向けている。
『土井先生で物足りない時はいつでもお相手しますから』
あのときの利吉さんの冗談に、救いの手を求めてしまう。
目の前の彼の気持ちが分かっているからこそ、その手で私を――。
「このまま、逃げてもいいですか……あなたと一緒に」
思わず吐き出した言葉に、自分でも驚いた。
心の中でぼんやりと思っていたことが、こんな風に言葉になるなんて。
抱きしめる利吉さんの腕がほんの少し力が込められたのは、きっと気のせいじゃない。
「今だけでいいんです……私が必要だって、そう言ってほしいんです」
顔を上げ、頼るように見上げると、利吉さんは少し困ったような、けれど優しい眼差しで私を見つめていた。
利吉さんは、きっとそんな流れで関係なんて持たないことは分かっていた。
それでも人の温もりに触れたかった。一時の満足感が欲しかった。
ふと、持っていた風呂敷の中に、以前トモミちゃんからもらった色の授業で使うという匂い袋が入ったままになっていたことを思い出す。
このまま流されてしまいたい――ふとそんな衝動にかられた。
震える手で風呂敷を開け、包まれていたものを取り出すと、ふわりと甘い香りが漂った。
深く息を吸い込んだ瞬間、刺激が体中に広がり、身体が火照り出した。
「っ!…詩織さん……これは、媚薬じゃ?」
すぐに存在に気付いた彼は、手にしていた匂い袋を振り払い遠くに投げ捨てた。
けれどもう遅かった。
私は理性が崩れていくのを感じていた。
もうこれ以上、考えたくなかった。苦しみたくなかった。
「利吉さん……お願い……何もかも忘れさせてください」
利吉さんの胸にしがみつく。鼻先を掠める彼の匂いが、やけに強く感じられる。
喉が渇いたみたいに、彼に触れたい衝動に駆られる。
「詩織さん……」
利吉の手のひらが私の頬に触れる。その手の優しささえ、もどかしくてたまらない。
自分の意思でこうしたいのか、それとも匂い袋のせいなのか。
そんなことを考える余裕すらなかった。
「利吉さん……お願い……」
ふわりと漂う甘い香りに、意識がぼんやりしていく。
体の火照りは止まらず、頬が熱くなる。
自分の中の理性が霧散し、目の前の利吉さんを求めていた。
「詩織さん、だめです」
「どう……してですか?」
「詩織さんは土井先生と「もう!もう……戻れません。だから・・・利吉さん、お願い・・・忘れたいの」
身体の中で疼く欲に抗うこともできず、彼の頬を両手で包み込み、唇を近づけていた。
きっとこんな私を、半助さんも利吉さんも軽蔑するに違いない。
でもそうまでしないと、こんな私にも優しい人たちだから。
瞼を瞑り、彼の唇に私の唇を重ねた。
触れてすぐに、その感触が唇ではないことに気付いた。
それは利吉さんの覆面だった。それでも布越しに彼の唇を感じるには十分だった。
「詩織…さんっ、こんな…こと、しても……、っ……」
「り、きち、さん…っ…、……、…」
忘れたいのに。
閉じた瞼の裏側に半助さんの姿が浮かんでは消えて、また浮かぶ。
頬を涙が静かに伝っていく。
やがて唇が離れると、利吉さんが言った。
「こんなことをしても、詩織さん自身が傷付くだけです」
「そ、んなこと……だって…」
「詩織さんがこんな形で逃げたら、それこそあなたの気持ちが傷付くだけです。そんな顔をしないでください。私だって、本当は……」
ぽろぽろと涙が溢れ出す。
利吉さんの言葉は正論だった。たとえ利吉さんと身体を重ねても、満たされるのはこの一瞬だけだろう。
「じゃあ……どうすれば」
「ちゃんと土井先生と向き合ってください。大丈夫です。土井先生が詩織さんのことを嫌いになるなんてないんですから」
「そんなこと…」
「むしろこんなんじゃ土井先生が納得しませんよ」
利吉さんの瞳が憂いを帯びて揺らぐ。
彼の優しさが、今の私には溜まらなく苦しくて、嬉しくて、泣きたくて、悲しかった。
私の身勝手な過ちを、目の前の彼が正してくれることに。
彼が離れずにそばにいてくれることだけで、心が少しずつ救われていく気がした。
それでも、匂い袋で吸った分の効果が落ち着くまで、私は利吉さんの温もりに包まれていた。
身体の奥がじんじんと疼くのを堪えていた。時折、利吉さんの吐息が耳にかかって「あっ…」と甘い声が出てしまって、彼もそれに耐えていた。お互いに見えない膜を張るように、一線を越えないように、ただ温もりだけを分け合っていた。
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足を止めたら、きっと自分のしてしまったことに、とてつもない後悔が押し寄せて来てしまいそうで、走るのを止めるのが怖かった。
朔の日、星明かりだけが頼りの森で時折、岩や木の根に足を取られそうになるのを庇いながら、たた闇雲に走っていた。
もう、あの温かい場所へは戻れない。
きっとこんな身勝手な私を、あの場所も彼も、もう一度受けれてくれることなんてない。
泣きたい気持ちを抑えて、走るしかなかった。
昨日まであると思っていた当たり前は、当たり前でないのだと思い知らされる。そして、幸せは長く続かないのだと。私の幸せは誰かの犠牲の上に成り立っていて、きっとそれは大切な人を不幸にさせる。
私は誰かに求められるような存在じゃないんだと、強く実感せざるを得なかった。私は誰かの取るに足らない存在でしかない。
『あんたなんかいなきゃよかったんだ!』
『あんたのせいで!』
『あんたは不吉なんだよ!』
こんな私にも幸せを願っていいと思ったことが間違いだった。半助さんの優しさに、愛情に、つい甘えてしまっていた。
だけどそれはただ彼に重荷を背負わせているだけ。
「ゆっくり、進んでいきたいと思ってます」
半助さんのその言葉に救われたはずだった。
私は待つのには慣れているから――そう応えたのも嘘じゃない。
だけど、どこかで想像してしまった。
『ゆっくり考えた末に、あなたとは添い遂げられない』と言われる未来を。
そう言われる未来が頭を過ぎるたび、心がすり減っていた。
いつか言われるのなら、自分から手放したほうが楽になれるのだと思い至った。
ただ遠くへ、どこへ行くあてもないまま、息苦しさも立ち止まりたい気持ちも放り投げて走っている。
タソガレドキに掴まって彼の足手まといになるくらいなら、いっそ、山賊が出てきて私を襲ってほしいとさえ思う。
そんな絶望を抱きながら暗い森を走っていた。
背後から、聞き慣れた声がした。
かすれた声で「詩織さん!」と呼ばれると同時に、腕を引かれた。
思わず立ち止まり、顔を上げる。そこに立っていたのは……。
「……利吉さん」
「こんな時間に、どうしてここに?」
利吉さんは私を見つめながら、肩に手を置く。その顔には明らかな不安が浮かんでいて、私の方が胸が痛くなる。
心配した眼差しを向ける彼を見た途端、張り詰めていた緊張や恐怖がどっと溢れ出す。
涙が溢れて止まらない。
自分から彼の胸に飛び込んでいた。
「詩織さん?どうしたんです?」
利吉さんは私の肩に手を回すと優しく抱きしめてくれた。
寒い森の中を走っていた私の身体はすっかり冷えていて、彼の温もりがとても身体に染みた。
どこかの廃寺で私たちは過ごした。
灯りを点けると敵に居場所が察知されますから、と利吉さんは薄暗闇のなか手を繋いで、心細い私に安心を与えてくれる。
その手のひらに触れる熱を感じながら、利吉さんに事情を説明していた。
尊奈門さんから、半助さんの命を狙うと矢文が届いたこと。
朔の日の今日、尊奈門さんが私を迎えに来るという内容だったこと。
半助さんの破れた服を縫っていたら、尊奈門さんからの果たし状が何通も出てきたこと。
迷惑をかけまいと、無断で忍術学園を抜け出してきたこと。
発する声は自分でも驚くほど震えていた。
同時に、もう戻れないということだけ強く実感した。
利吉さんは私の話を聞き終えると、冷静な口調で尋ねる。
「大変でしたね…土井先生にはそのことは?」
「半助さんは学園長の仕事で留守にしていましたが、もう戻ってきているはずです」
忍術学園を出る前に、半助さんにひと目会いたかった。けれどきっと半助さんなら私の気持ちに気付いてしまうし、それこそ尊奈門さんと戦うようなことにはなってほしくなくて、彼に会わないまま飛び出した。買い物から戻らない私を、彼はもしかしたら心配しているのかもしれない。
「では、今から忍術学園に……きっとみんな心配していますよ?」
「でも、私がいたら迷惑になってしまいます」
きっともうすでに迷惑で、面倒くさくて、重荷なのだ。
そんな気持ちを誤魔化すように、食堂の献立に「さよなら」なんて隠した。
誰かが気付いてくれたら、と淡い期待を抱いていた。でもそんなことはなかった。
「そんなことないですよ。土井先生だって……!」
「これ以上、半助さんの重荷になりたくないんです」
「重荷?」
「私のせいで、彼の幸せを奪いたくないんです…」
私を愛してくれる彼は、私以上にもっと相応しい人がいるんだと思う。
それはきっと、『あんたなんかいなけりゃ良かった』と言われるような人じゃない。
私のように幸せに手を伸ばせない人じゃない。
きっと、彼を笑わせて愛を注いであげられる人なんだと思う。それは私じゃない。
「詩織さん……」
「利吉さん……私、もう…どうしたらいいのか分かりません」
震える声を漏らしながら、私は彼の胸元に顔をうずめる。
迷惑をかけたくない一心で逃げ出してしまったけれど、なにが最善だったのか自分でも分からなかった。
破れた障子から隙間風が入り込む。利吉さんが寒さを凌ぐように、私を強く抱きしめる。
半助さん以外の男の人の温もりを知るのは初めてだった。
……このまま、半助さんのことが忘れられればいいのに。
利吉さんを見上げる。
彼に助けられ、忍術学園へ連れて行ってくれたときよりも、大きく頼もしく見えた。
『冬休みは私のところへ来ませんか?』
真剣な眼差しを向けていた彼は、今もまた同じ眼差しを私に向けている。
『土井先生で物足りない時はいつでもお相手しますから』
あのときの利吉さんの冗談に、救いの手を求めてしまう。
目の前の彼の気持ちが分かっているからこそ、その手で私を――。
「このまま、逃げてもいいですか……あなたと一緒に」
思わず吐き出した言葉に、自分でも驚いた。
心の中でぼんやりと思っていたことが、こんな風に言葉になるなんて。
抱きしめる利吉さんの腕がほんの少し力が込められたのは、きっと気のせいじゃない。
「今だけでいいんです……私が必要だって、そう言ってほしいんです」
顔を上げ、頼るように見上げると、利吉さんは少し困ったような、けれど優しい眼差しで私を見つめていた。
利吉さんは、きっとそんな流れで関係なんて持たないことは分かっていた。
それでも人の温もりに触れたかった。一時の満足感が欲しかった。
ふと、持っていた風呂敷の中に、以前トモミちゃんからもらった色の授業で使うという匂い袋が入ったままになっていたことを思い出す。
このまま流されてしまいたい――ふとそんな衝動にかられた。
震える手で風呂敷を開け、包まれていたものを取り出すと、ふわりと甘い香りが漂った。
深く息を吸い込んだ瞬間、刺激が体中に広がり、身体が火照り出した。
「っ!…詩織さん……これは、媚薬じゃ?」
すぐに存在に気付いた彼は、手にしていた匂い袋を振り払い遠くに投げ捨てた。
けれどもう遅かった。
私は理性が崩れていくのを感じていた。
もうこれ以上、考えたくなかった。苦しみたくなかった。
「利吉さん……お願い……何もかも忘れさせてください」
利吉さんの胸にしがみつく。鼻先を掠める彼の匂いが、やけに強く感じられる。
喉が渇いたみたいに、彼に触れたい衝動に駆られる。
「詩織さん……」
利吉の手のひらが私の頬に触れる。その手の優しささえ、もどかしくてたまらない。
自分の意思でこうしたいのか、それとも匂い袋のせいなのか。
そんなことを考える余裕すらなかった。
「利吉さん……お願い……」
ふわりと漂う甘い香りに、意識がぼんやりしていく。
体の火照りは止まらず、頬が熱くなる。
自分の中の理性が霧散し、目の前の利吉さんを求めていた。
「詩織さん、だめです」
「どう……してですか?」
「詩織さんは土井先生と「もう!もう……戻れません。だから・・・利吉さん、お願い・・・忘れたいの」
身体の中で疼く欲に抗うこともできず、彼の頬を両手で包み込み、唇を近づけていた。
きっとこんな私を、半助さんも利吉さんも軽蔑するに違いない。
でもそうまでしないと、こんな私にも優しい人たちだから。
瞼を瞑り、彼の唇に私の唇を重ねた。
触れてすぐに、その感触が唇ではないことに気付いた。
それは利吉さんの覆面だった。それでも布越しに彼の唇を感じるには十分だった。
「詩織…さんっ、こんな…こと、しても……、っ……」
「り、きち、さん…っ…、……、…」
忘れたいのに。
閉じた瞼の裏側に半助さんの姿が浮かんでは消えて、また浮かぶ。
頬を涙が静かに伝っていく。
やがて唇が離れると、利吉さんが言った。
「こんなことをしても、詩織さん自身が傷付くだけです」
「そ、んなこと……だって…」
「詩織さんがこんな形で逃げたら、それこそあなたの気持ちが傷付くだけです。そんな顔をしないでください。私だって、本当は……」
ぽろぽろと涙が溢れ出す。
利吉さんの言葉は正論だった。たとえ利吉さんと身体を重ねても、満たされるのはこの一瞬だけだろう。
「じゃあ……どうすれば」
「ちゃんと土井先生と向き合ってください。大丈夫です。土井先生が詩織さんのことを嫌いになるなんてないんですから」
「そんなこと…」
「むしろこんなんじゃ土井先生が納得しませんよ」
利吉さんの瞳が憂いを帯びて揺らぐ。
彼の優しさが、今の私には溜まらなく苦しくて、嬉しくて、泣きたくて、悲しかった。
私の身勝手な過ちを、目の前の彼が正してくれることに。
彼が離れずにそばにいてくれることだけで、心が少しずつ救われていく気がした。
それでも、匂い袋で吸った分の効果が落ち着くまで、私は利吉さんの温もりに包まれていた。
身体の奥がじんじんと疼くのを堪えていた。時折、利吉さんの吐息が耳にかかって「あっ…」と甘い声が出てしまって、彼もそれに耐えていた。お互いに見えない膜を張るように、一線を越えないように、ただ温もりだけを分け合っていた。
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