夕凪の彼方
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朝ぼらけの冷たい空気が漂う校庭の中、
護身用の棒を手に見回りをしていた。
事務服の上から半纏を着て、マフラーを巻いているけれど肌寒い。耳が冷えるのを防ぐ頬被りがなければ、きっと今頃はさらに凍えていただろう。
はぁ〜っと指先を温めると、寒さのあまり鼻先がつーんと痛んだ。
「朝早くからお疲れ様です」
振り返ると、そこには食満君、立花君、中在家君の三人が立っていた。
「あ、食満君。それに立花君や中在家君も。実習の帰り?」
「ええ、そうです」
「それよりこれを」
立花君が差し出したのは風呂敷包みだった。その上には「詩織さんへ」と書かれた手紙が添えられている。
中を確認すると、美しい柘植櫛(つげぐし)が入っていた。差出人は尊奈門さんだ。
「タソガレドキの曲者がどうして詩織さんに?」
立花君の疑問に、冬休みにあった出来事を説明した。
すると食満君が面白がるように言う。
「兵助や伊作だけでなく、他所の曲者まで射止めてしまうなんて凄いですね」
「しかし、あの曲者なら直接渡しそうな気もするが」
「きっと近づかないように、土井先生が見張ってるのでは?」
「たしかに」
「え、土井先生が…ですか?」と私は不安気に尋ねる。
食満君は苦笑しながら肩をすくめた。
「二人がそういう仲なのは上級生には周知の事実です」
「そ、そっか…そうだよね」
「手紙にはなんて?」
「うーんと……」
私と半助さんの仲がバレていたことに緊張で心拍数が上がる中、尊奈門さんからの手紙に目を通した。
――詩織さんへ
もうこの手紙も10通目になりますが、読まれているでしょうか?私が貴女に会いにいこうするだび、土井の奴が私たちの間を邪魔させるのです。貴女が土井と一緒にいるのは実は何か深い訳があるんですよね。私が貴女を守ってみせます。待っていてください――
「……すんごい考えがねじ曲がったラブレターだな」
「10通も」
「でも詩織さんが、読んだのはこれが初めてなんですよね?」
「ということは、最低9回は土井先生が彼の行動を止めているということですね」
食満君や立花君たちの会話を聞きながら、気付けば手紙を握る指先に力が入っていた。
◇
尊奈門さんの贈り物を自室に運ぶ途中、半助さんと廊下でばったり会った。
「おはようございます。その包みは?」
「これは…尊奈門さんからで…」
「また送ってきましたか…」
やつれたような声に、胸が痛んだ。
「もしかして、今までも私の気付かないうちにこういう事ってあったんですか?」
「……心配かけたくなくて黙っていましたが」
「寝不足なんじゃないですか?」
「そんなことないですよ」
彼はいつものように優しく微笑んだが、その姿はどこか痛々しい。
「……あまり、無理しないでくださいね?」
「…ええ、分かってます」
でもその答えが、私にはどこか脆く聞こえた。
夕暮れ時、用具倉庫に授業で使用した物品をしまい、事務室に戻ろうと校庭を歩いていた。
漠然と言葉にならない想いが、靄のように心の中に充満している。
木々の隙間から差し込んだ西日が視界を遮り、思わず手で塞ぐ。
そのとき、聞いたことのある声が私の名を呼んだ。
「詩織さん!!」
「そ、尊奈門さん…!」
塀からひょこっと顔を出した彼は、周囲を見渡すと私の前に降り立った。
「やっと会えた!今日はここまで小松田さんにも土井にも会わずに来れるなんて!」
彼は覆面をずらし、嬉しそうな表情を見せる。
元気そうな彼に思わずほっとしてしまったけれど、すぐに悲しみが押し寄せた。
「あの、尊奈門さん……もうこういったことは辞めてくれませんか?」
「え?」
表情が固まる彼に、言葉を続ける。
「あの…私は半助さんと付き合っているんです。それにここ最近は尊奈門さんの相手をしていて、休めていないようですし……」
少しの沈黙の後、彼は一歩前に出ると冷静な声で言った。
「私は奴の口から、詩織さんと付き合っているとは一度も聞いたことがありません。付き合っているというのは詩織さんの勘違いです。きっと、土井半助に誑かされているんです」
「そ、そんなことは…!」
思ってもみなかった言葉に、昨夜の半助さんを思い出す。
あんなにお互いを求めて深い夜を過ごしたし、何より彼の嫉妬で苦しむ姿だって見たのだ。
勘違いなんてあるはずがない。
けれど、目の前の力強い眼差しをした彼は、一歩も退かずに語気を強める。
「では奴に聞いてみたらどうですか? 詩織さんをどう思っているのか。付き合っているなら、隠すようなことはせずに夫婦になる契りくらいしているもんでしょう?」
「……」
言葉が出なかった。
契りもなにも、お互いに想いだけを重ねていた。それで十分だった。
でも、目の前の彼に現実を突きつけられたような感覚だった。
「ほらやっぱり。奴にとったら貴女は都合のいい相手だということですよ。詩織さんはそんな奴のとこにいるべき人じゃないんです。私と一緒に……っわ!」
尊奈門さんが手を伸ばそうとしたその時、急に何かが彼の額に当たり、ピタリと動きが止まった。
彼の額に当たったそれが、白い粉くずを零しながら地面に落ちる。それは使いかけの短いチョークだった。
「尊奈門くん、あまり詩織さんに変なことを言うのは止めてくれないか?」
「半助さんっ!」
振り返ると、そこには肩で息をする半助さんがいた。
尊奈門さんに気付いた彼はここまで走ってきたのだろうことが脳裏をかすめた。
「出たな!土井半助!詩織さんを賭けて俺と勝負しろー!」
「悪いが詩織さんは物じゃないんだ。いい加減、尊奈門くんも諦めてくれないか?」
尊奈門さんの苦無に対して、半助さんは面倒くさそうに出席簿で応戦している。それが余計に尊奈門さんをイラつかせていた。
二人の間に入ることもできず、ただ成り行きを見守っていると、突然、背後から声が聞こえてきた。
「お嬢さん、新顔だね」
驚いて振り返ると、尊奈門さんと同じ色の忍者装束を着た包帯を巻いた人が木の枝に座っていた。
「あの…あなたは?」
「私は尊奈門の上司、雑渡昆奈門」
感情の見えない声色と、表情の見えない彼に、尊奈門さんとは違って体に緊張が走るのを感じた。
「ところで、尊奈門さんを止めていただけませんか?」
「どうして?」
「どうしてって…二人とも怪我してしまいますよ?」
「土井殿の方が尊奈門より強い。彼が怪我をすることはない」
「でも、こんな無用な争い…」
「別に尊奈門が怪我してもお嬢さんは困らないだろう?」
その冷たく抑揚のない声が、まるで私の心臓を掴むように響いた。
雑渡さんの目線は私を突き刺すようで、思わず声が震える。
「そういう問題じゃなくて…」
雑渡さんはまるで子どもの言い訳を聞き流す大人のように、何の感情も動かない目で見つめてきた。
その視線が、私の全身に冷たい汗を浮かばせる。
雑渡さんの声色はすごく低くて、冷たかった。
私が何を言ったところで、この人の考えは変えられないような感じがした。
「ほら、もう決着がつく」
半助さんがチョークを投げて体制を崩した尊奈門さんは、そのまま綾部君の作った落とし穴へと落ちていってしまった。
一段落ついて肩をなで下ろした半助さんが、こちらに向かって来る。
「雑渡昆奈門さん、すみませんがお引き取りを」
「毎回すまないね土井殿」
楽しむような口ぶりで答える昆奈門さんに、半助さんは短く溜め息を吐く。
「尊奈門くんも雑渡さんも、部外者なんですから小松田くんの目を掻い潜ってるからといって、そう何度も易々と入って来るのは困りますよ」
「まぁこっちも、曲者なんで、曲者らしくね」
そう言うと雑渡さんは倒れた尊奈門さんを抱き上げて塀の向こう側へと姿を消した。
周囲には私と半助さんだけになる。夕陽が沈み、辺りは薄暗くなりつつある。
そのとき、半助さんが急にお腹を押さえて屈み込んだ。
「ぅう……!」
「半助さん!?大丈夫ですか!?」
私は急いで寄り添い、彼を支える。
「ちょっと医務室の新野先生のところまで…連れてってくれますか?」
医務室へと連れて行くと新野先生は「いつもの神経性胃炎ですね」と診断し、いつもの薬を処方した。
横になって休んでいる彼に尋ねる。
「やっぱり私のせいですよね」
「いや詩織さんのせいじゃないですよ」
「おや?土井先生は雪下君のことを名前で呼ばれたんですね」
新野先生が温かな笑みを向け、半助さんが躊躇いながら答える。
「あ、ええ、そうなんです。冬休みにそう呼んでたら馴染んでしまって」
どうしてだろう。
胸の奥に深い靄のような、なにかが渦巻く感覚が私を襲った。
その何かから逃れるように、その場を立ち上がる。
「では私は事務に戻りますね」
心の中で尊奈門さんの言葉がこだまする。
《私は奴の口から、詩織さんと付き合っているとは一度も聞いたことがありません》
そんなことはない。
大丈夫。
そう言い聞かせていた。
冷たい風が、服の隙間から入り込む。
「詩織さん」
振り返ると、私の後を追うように、脇腹を押さえた半助さんがそこにいた。
「半助さん……あの、」
自分でも驚くほど小さな声で、呟くように、言葉にしていた。
「私のこと、どう思っていますか?」
そう勇気を振り絞って尋ねた。
◇
北風が冷たい。
くのいち長屋のお風呂に首元まで湯に浸かっていても、冷えた心は簡単には温まらない。
――詩織さんは、私にとって大事な方です――
彼はそう言った。
嬉しいはずなのに、急に心細くなった。
その怯えている本質から逃れようと、浴槽の中で体育座りをしてみるけれど、逃れることができない。
半助さんに大事にされているのは知っている。
私のことを好きなのも知っている。
でも、
『隠すようなことはせずに夫婦になる契りくらいしているもんでしょう?』
『付き合っているというのは詩織さんの勘違いです』
『奴の口から、詩織さんと付き合っているとは一度も聞いたことがありません』
聞きたかった。
あなたの口から、
『あ、隣のおばちゃん!こっちの方は土井先生の婚約者の詩織さんです!』
『詩織です!は、はじめまして!』
婚約者だと。
彼女だと。
付き合っていると。
『関係が進むことが怖いことは私にも分かります…私は待ちますよ。いくらでも。あなたが怖いと思わなくなるまで、雪下さんのペースでゆっくり進んでいけるまで』
あの時の彼の言葉に、心が救われた気がした。
でも、
心のどこかで、彼はもう待ってくれないんじゃないかって思ってしまった。
半助さんにとってそれ以上の存在にはなれない。
それは、いつか、私のことを不要と思える日が来る。
その考えに至った途端、奈落の底に落とされたような感覚が体を襲った。
そんな考えを払拭しようと空気を吸い込み、頭まで湯船に浸かった。
心の中のモヤも一緒に溶けていくはずだった。それでも、その不安は私をしっかりと掴み、離さなかった。
→
護身用の棒を手に見回りをしていた。
事務服の上から半纏を着て、マフラーを巻いているけれど肌寒い。耳が冷えるのを防ぐ頬被りがなければ、きっと今頃はさらに凍えていただろう。
はぁ〜っと指先を温めると、寒さのあまり鼻先がつーんと痛んだ。
「朝早くからお疲れ様です」
振り返ると、そこには食満君、立花君、中在家君の三人が立っていた。
「あ、食満君。それに立花君や中在家君も。実習の帰り?」
「ええ、そうです」
「それよりこれを」
立花君が差し出したのは風呂敷包みだった。その上には「詩織さんへ」と書かれた手紙が添えられている。
中を確認すると、美しい柘植櫛(つげぐし)が入っていた。差出人は尊奈門さんだ。
「タソガレドキの曲者がどうして詩織さんに?」
立花君の疑問に、冬休みにあった出来事を説明した。
すると食満君が面白がるように言う。
「兵助や伊作だけでなく、他所の曲者まで射止めてしまうなんて凄いですね」
「しかし、あの曲者なら直接渡しそうな気もするが」
「きっと近づかないように、土井先生が見張ってるのでは?」
「たしかに」
「え、土井先生が…ですか?」と私は不安気に尋ねる。
食満君は苦笑しながら肩をすくめた。
「二人がそういう仲なのは上級生には周知の事実です」
「そ、そっか…そうだよね」
「手紙にはなんて?」
「うーんと……」
私と半助さんの仲がバレていたことに緊張で心拍数が上がる中、尊奈門さんからの手紙に目を通した。
――詩織さんへ
もうこの手紙も10通目になりますが、読まれているでしょうか?私が貴女に会いにいこうするだび、土井の奴が私たちの間を邪魔させるのです。貴女が土井と一緒にいるのは実は何か深い訳があるんですよね。私が貴女を守ってみせます。待っていてください――
「……すんごい考えがねじ曲がったラブレターだな」
「10通も」
「でも詩織さんが、読んだのはこれが初めてなんですよね?」
「ということは、最低9回は土井先生が彼の行動を止めているということですね」
食満君や立花君たちの会話を聞きながら、気付けば手紙を握る指先に力が入っていた。
◇
尊奈門さんの贈り物を自室に運ぶ途中、半助さんと廊下でばったり会った。
「おはようございます。その包みは?」
「これは…尊奈門さんからで…」
「また送ってきましたか…」
やつれたような声に、胸が痛んだ。
「もしかして、今までも私の気付かないうちにこういう事ってあったんですか?」
「……心配かけたくなくて黙っていましたが」
「寝不足なんじゃないですか?」
「そんなことないですよ」
彼はいつものように優しく微笑んだが、その姿はどこか痛々しい。
「……あまり、無理しないでくださいね?」
「…ええ、分かってます」
でもその答えが、私にはどこか脆く聞こえた。
夕暮れ時、用具倉庫に授業で使用した物品をしまい、事務室に戻ろうと校庭を歩いていた。
漠然と言葉にならない想いが、靄のように心の中に充満している。
木々の隙間から差し込んだ西日が視界を遮り、思わず手で塞ぐ。
そのとき、聞いたことのある声が私の名を呼んだ。
「詩織さん!!」
「そ、尊奈門さん…!」
塀からひょこっと顔を出した彼は、周囲を見渡すと私の前に降り立った。
「やっと会えた!今日はここまで小松田さんにも土井にも会わずに来れるなんて!」
彼は覆面をずらし、嬉しそうな表情を見せる。
元気そうな彼に思わずほっとしてしまったけれど、すぐに悲しみが押し寄せた。
「あの、尊奈門さん……もうこういったことは辞めてくれませんか?」
「え?」
表情が固まる彼に、言葉を続ける。
「あの…私は半助さんと付き合っているんです。それにここ最近は尊奈門さんの相手をしていて、休めていないようですし……」
少しの沈黙の後、彼は一歩前に出ると冷静な声で言った。
「私は奴の口から、詩織さんと付き合っているとは一度も聞いたことがありません。付き合っているというのは詩織さんの勘違いです。きっと、土井半助に誑かされているんです」
「そ、そんなことは…!」
思ってもみなかった言葉に、昨夜の半助さんを思い出す。
あんなにお互いを求めて深い夜を過ごしたし、何より彼の嫉妬で苦しむ姿だって見たのだ。
勘違いなんてあるはずがない。
けれど、目の前の力強い眼差しをした彼は、一歩も退かずに語気を強める。
「では奴に聞いてみたらどうですか? 詩織さんをどう思っているのか。付き合っているなら、隠すようなことはせずに夫婦になる契りくらいしているもんでしょう?」
「……」
言葉が出なかった。
契りもなにも、お互いに想いだけを重ねていた。それで十分だった。
でも、目の前の彼に現実を突きつけられたような感覚だった。
「ほらやっぱり。奴にとったら貴女は都合のいい相手だということですよ。詩織さんはそんな奴のとこにいるべき人じゃないんです。私と一緒に……っわ!」
尊奈門さんが手を伸ばそうとしたその時、急に何かが彼の額に当たり、ピタリと動きが止まった。
彼の額に当たったそれが、白い粉くずを零しながら地面に落ちる。それは使いかけの短いチョークだった。
「尊奈門くん、あまり詩織さんに変なことを言うのは止めてくれないか?」
「半助さんっ!」
振り返ると、そこには肩で息をする半助さんがいた。
尊奈門さんに気付いた彼はここまで走ってきたのだろうことが脳裏をかすめた。
「出たな!土井半助!詩織さんを賭けて俺と勝負しろー!」
「悪いが詩織さんは物じゃないんだ。いい加減、尊奈門くんも諦めてくれないか?」
尊奈門さんの苦無に対して、半助さんは面倒くさそうに出席簿で応戦している。それが余計に尊奈門さんをイラつかせていた。
二人の間に入ることもできず、ただ成り行きを見守っていると、突然、背後から声が聞こえてきた。
「お嬢さん、新顔だね」
驚いて振り返ると、尊奈門さんと同じ色の忍者装束を着た包帯を巻いた人が木の枝に座っていた。
「あの…あなたは?」
「私は尊奈門の上司、雑渡昆奈門」
感情の見えない声色と、表情の見えない彼に、尊奈門さんとは違って体に緊張が走るのを感じた。
「ところで、尊奈門さんを止めていただけませんか?」
「どうして?」
「どうしてって…二人とも怪我してしまいますよ?」
「土井殿の方が尊奈門より強い。彼が怪我をすることはない」
「でも、こんな無用な争い…」
「別に尊奈門が怪我してもお嬢さんは困らないだろう?」
その冷たく抑揚のない声が、まるで私の心臓を掴むように響いた。
雑渡さんの目線は私を突き刺すようで、思わず声が震える。
「そういう問題じゃなくて…」
雑渡さんはまるで子どもの言い訳を聞き流す大人のように、何の感情も動かない目で見つめてきた。
その視線が、私の全身に冷たい汗を浮かばせる。
雑渡さんの声色はすごく低くて、冷たかった。
私が何を言ったところで、この人の考えは変えられないような感じがした。
「ほら、もう決着がつく」
半助さんがチョークを投げて体制を崩した尊奈門さんは、そのまま綾部君の作った落とし穴へと落ちていってしまった。
一段落ついて肩をなで下ろした半助さんが、こちらに向かって来る。
「雑渡昆奈門さん、すみませんがお引き取りを」
「毎回すまないね土井殿」
楽しむような口ぶりで答える昆奈門さんに、半助さんは短く溜め息を吐く。
「尊奈門くんも雑渡さんも、部外者なんですから小松田くんの目を掻い潜ってるからといって、そう何度も易々と入って来るのは困りますよ」
「まぁこっちも、曲者なんで、曲者らしくね」
そう言うと雑渡さんは倒れた尊奈門さんを抱き上げて塀の向こう側へと姿を消した。
周囲には私と半助さんだけになる。夕陽が沈み、辺りは薄暗くなりつつある。
そのとき、半助さんが急にお腹を押さえて屈み込んだ。
「ぅう……!」
「半助さん!?大丈夫ですか!?」
私は急いで寄り添い、彼を支える。
「ちょっと医務室の新野先生のところまで…連れてってくれますか?」
医務室へと連れて行くと新野先生は「いつもの神経性胃炎ですね」と診断し、いつもの薬を処方した。
横になって休んでいる彼に尋ねる。
「やっぱり私のせいですよね」
「いや詩織さんのせいじゃないですよ」
「おや?土井先生は雪下君のことを名前で呼ばれたんですね」
新野先生が温かな笑みを向け、半助さんが躊躇いながら答える。
「あ、ええ、そうなんです。冬休みにそう呼んでたら馴染んでしまって」
どうしてだろう。
胸の奥に深い靄のような、なにかが渦巻く感覚が私を襲った。
その何かから逃れるように、その場を立ち上がる。
「では私は事務に戻りますね」
心の中で尊奈門さんの言葉がこだまする。
《私は奴の口から、詩織さんと付き合っているとは一度も聞いたことがありません》
そんなことはない。
大丈夫。
そう言い聞かせていた。
冷たい風が、服の隙間から入り込む。
「詩織さん」
振り返ると、私の後を追うように、脇腹を押さえた半助さんがそこにいた。
「半助さん……あの、」
自分でも驚くほど小さな声で、呟くように、言葉にしていた。
「私のこと、どう思っていますか?」
そう勇気を振り絞って尋ねた。
◇
北風が冷たい。
くのいち長屋のお風呂に首元まで湯に浸かっていても、冷えた心は簡単には温まらない。
――詩織さんは、私にとって大事な方です――
彼はそう言った。
嬉しいはずなのに、急に心細くなった。
その怯えている本質から逃れようと、浴槽の中で体育座りをしてみるけれど、逃れることができない。
半助さんに大事にされているのは知っている。
私のことを好きなのも知っている。
でも、
『隠すようなことはせずに夫婦になる契りくらいしているもんでしょう?』
『付き合っているというのは詩織さんの勘違いです』
『奴の口から、詩織さんと付き合っているとは一度も聞いたことがありません』
聞きたかった。
あなたの口から、
『あ、隣のおばちゃん!こっちの方は土井先生の婚約者の詩織さんです!』
『詩織です!は、はじめまして!』
婚約者だと。
彼女だと。
付き合っていると。
『関係が進むことが怖いことは私にも分かります…私は待ちますよ。いくらでも。あなたが怖いと思わなくなるまで、雪下さんのペースでゆっくり進んでいけるまで』
あの時の彼の言葉に、心が救われた気がした。
でも、
心のどこかで、彼はもう待ってくれないんじゃないかって思ってしまった。
半助さんにとってそれ以上の存在にはなれない。
それは、いつか、私のことを不要と思える日が来る。
その考えに至った途端、奈落の底に落とされたような感覚が体を襲った。
そんな考えを払拭しようと空気を吸い込み、頭まで湯船に浸かった。
心の中のモヤも一緒に溶けていくはずだった。それでも、その不安は私をしっかりと掴み、離さなかった。
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