夕凪の彼方
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事務員補助として働き始めて一週間、毎朝の化粧にも慣れ、次第に生徒や先生方とも仲良くなり、仕事や小松田さんのフォローにも慣れてきたころだった。
いつも授業のあと、乱太郎君たちとかくれんぼしたり、町まで出てきり丸君のアルバイトのお手伝いをしたり、ユキちゃんたちとお茶屋に出かけたりと、子どもたちと過ごすことが日課になっていた。
その日は、放課後、用具委員顧問の吉野先生と一緒に定期点検を手伝うことになっていた。
用具倉庫に置かれた武器の在庫状況をみんなと確認していくのだが、その中の一つに思わず目が止まった。
「……あの、これって六尺棒…ですか?」
え?と声を漏らしたのは、用具委員のしんベヱ君だ。
「詩織さん、これが何だか知ってるの?」
「うーん、棒術に使う六尺棒かなって思ったんだけど」
「委員長の食満先輩に聞いてみたら?」
「そうだね。えっと、食満君は…」
「事務員補助の詩織さん、呼びました?」
すぐに背後から声が聞こえ、思わず肩がビクッとしてしまった。
六年生の食満君は生徒の中で一番年齢が高いということもあって、しんベヱ君や一年生たちとは違う、より忍者らしい雰囲気がある。
「これって六尺棒だと思って」
「そうです。六尺棒で間違いありません」
その返答に、少しだけ私の中で好奇心が湧いた。
「……ちょっと使ってみてもいいですか?」
「え…ええ、どうぞ」
立て掛けられていた六尺棒を手に持ち、周囲に当たらないよう用具倉庫から出て、脇構えの動作を取る。
久しぶりの感触に懐かしさが込み上げてきた。
「詩織さん、扱ったことあるんですか?」
「…うん。亡くなった父から」
琉球から伝わったという形を一つ一つ構えていく。
直足袋を履いた足先は砂を外八文字に描く。裏八相、逆手、猿臂、最初はぎこちなかった動きが指先に棒が馴染んできたことでブレが少なくなる。
最後に追い突きを構えて終えると、背後から拍手が聞こえた。
「詩織さんすごーい!」
「ありがとう、しんベヱ君」
食満君が六尺棒を握り、試し振りをした。
「技に長けてる人が扱うと威力は過ごそうですね」
「いやいや、私はそんな…すごく久々に触ったし、長けてるなんてものじゃ…」
「ちょっと持っててださい」
そう言って食満君が、私に六尺棒を渡す。
そして反対の手から取り出した鉄双節棍を私に向かって振った。
「わっ!」
反射的に逆手に持ち替え、鉄双の先を弾いた。
そのまま六尺棒の持つ左腕を引き、右腕をねじって身体に寄せて棒先を食満君の首元に向けた。
「びっくりしちゃった……ごめん、咄嗟のことでつい」
咄嗟のことと言えど、事務員補助が生徒に向かってやっていいことではない。
途端に心拍数が上がる。
だが、食満君は気にしていないようで、むしろ笑顔を向けた。
「凄い!久々と言いながらこの機敏な身のこなし!本当にただの事務員補助ですか!?」
「本当に今のはごめんねっ…怪我はない、よね?」
私の心配も知らず、用具倉庫の戸で見ていた吉野先生に駆け寄った。
「吉野先生も今の詩織さんの六尺棒の捌き見てましたよね!?これで事務員補助は忍術学園に勿体ないんじゃないですか!?」
「確かに、確かに。今のは素晴らしかったですよ」
「詩織さん!今度から私の鉄双節棍の相手をしてもらえませんか?いや!ぜひ!」
「そんな……私で?いいの?」
曇りなき眼を向けて懇願する食満君の姿に、思わず了承してしまった。
◇
用具委員の仕事を終え、しんベヱ君と食堂へと向かう。
「詩織さんって凄いね〜。あーんな長い棒振り回すんだもん」
「へへ、そうかな?ありがとう」
「教わったのはお父さんからだけ?」
「うん、そうだよ。父は武術が好きだったからね。男兄弟ばかりだったから、唯一女の私もやれって言ってね」
「へぇ〜詩織さんの兄弟って男の人ばかりなんだ」
「うん、まあね」
父や兄弟の話をすること自体、もう何年もしていなかったと言葉にしてから気付いた私は、とっさに唇を噛み締めた。
気を緩めたら、思い出で涙が溢れてしまいそうで。
そんな姿を子どもに見せたくないという意地が、私の中にあった。
食べ始め少し経った頃、吉野先生が私たちの元にやってきた。
「雪下さん、ご飯中すみません」
「はい、なんでしょう?」
「先程の六尺棒の捌きを学園長先生にお伝えしたら、なんと……」
「なんと…?」
「事務員補助だけじゃ勿体ないから、『事務員補助兼教員補助に昇格~!』とのことです」
「……教員補助??」
「実は上級生の授業は先生が足りないこともあって、先生全員で授業を受け持っているんです。なので……少しでも先生方の苦労を減らすためだと思うんですけど」
「な…なるほど…」
「それと戸部先生からも、剣術授業にも補佐してほしいそうです」
隣で食べるのに夢中だったしんベヱ君が手を叩いた。
ふとした興味で六尺棒を振ってみただけだったけれど、先生たちから頼りにされていることが、気恥ずかしくも嬉しかった。
「すごーい!詩織さん!」
「そ…そうかな…?」
「さっそく明日からの五年生の実習に付き添ってほしいと、木下先生がお呼びですよ」
「わかりました!食べ終わったら向かいます!」
食べ終えようとした頃合に、斜め向かいから「聞きましたよ」と声が降ってきて、顔を上げると土井先生がいた。
ちょうど来たところらしく、御盆にはご飯がよそられている。
「六尺棒なんてどこで習ってたんですか?」
そう聞かれ、亡くなった父の話をしても暗くなるだろうし、変に慰められるのも嫌だった私は、少し考え込んでしまった。
「亡くなったお父さんから習ったんですよね!」
考えているうちにしんベヱ君が口を開いていた。
「詩織さんのお父さんは、なんと武道の達人で!男兄弟ばかりだった詩織さんも武道を習っていたんです!」
「…そ、そうなんです。だから、少しだけですが」
「えー!そんなことないよ詩織さん!食満先輩の攻撃を躱して六尺棒で追い込んでたじゃない!」
「そう、だったね…へへへ。でもそれは食満君も分かってて追い込まれただけだと思うよ?」
だって忍者なんだもん。
私の素人に毛が生えたようなレベルでは敵わないはずもない。
「今度、土井先生に相手してみてくださいよ」
「え?さっすがに先生には勝てないよ〜」
「いえ、私も普段握るのはチョークばかりなので、六尺棒は不慣れですから」
そう言う先生の口元は笑っている。
これは絶対に私より上手いにに違いない…。
「もう、土井先生まで……あ!いけない!木下先生のとこに行かなきゃでした。すみません、先に上がりますね」
職員長屋にある木下先生の部屋へ向かう途中、小松田さんと出会した。
「詩織さん!聞きましたよ!僕を差し置いて教員補助なんてずるいじゃないですか!」
「ご、ごめんなさい」
「もー!酷いですよぉー!でも、気をつけて行ってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
◇
木下先生と明日の打合せを終えて、くノ一長屋に戻る途中、再び土井先生と廊下ですれ違った。
風呂上がりでいつもの黒頭巾が外れ、長いくせっ毛に目に止まる。
「雪下さん、食堂でのことなんですけど…もしかして棒術の話はあまり触れられたくない話でしたか?」
小さな声で尋ねられ、私は首を横に振った。
「いえ、そんなことないですよ。それに家族の話をしたのは、すごい久しぶりだったので、懐かしかったです」
「それなら良いんですけど、あまり無理はしないでくださいね。学園長の思いつきで教員補助にもなっちゃったわけですし」
「まあ、なんとかなりますよ!あ、教員補助なので遠慮なく私を頼ってくださいね?」
そのとき、安藤先生の笑い声が響いた。
「雪下君、この忍術学園のトラブルの90%は一年は組が原因って知っていました?悪いことは言わないので、お手伝いするなら、優秀なうちの一年い組に来られてはどうですかな?」
安藤先生の隣で「安藤先生!!」と鬼のような形相で地団駄を踏んでいる土井先生。
「トラブルも成長の種ですよ。まあ、なんとかなりますよ」
そう言うと、安藤先生は「そんなにトラブルがお好きならお好きに」と言って行ってしまった。
「……土井先生は安藤先生が苦手なんですか?」
「一年い組はテストの平均点が90点代…それに比べては組は0.2とか視力テストのような点数ばかりで…それに寒いオヤジギャグも」
そう言いながらお腹に手をあて、ため息をつくので、相当ダメージをうけているらしい。
「大丈夫ですよ!は組のみんなは伸び代が大きんですよ」
「そんなこと言ってくれるの雪下さんだけですよ」
向けられる土井先生の視線が、少し柔らかいように感じた。一呼吸置いて、彼は言葉を紡いだ。
「明日は五年生の実習に行くんですね」
「はい。山の中での野営訓練みたいです」
「実習とはいえ、怪我には気をつけてくださいね…あ、いや、雪下さんは子どもじゃないんだけど…余計な心配でしたね」
照れ笑いを浮かべる姿に、先ほど感じた柔らかい視線は、は組の生徒に向けるそれと同じなんだと気付いた。
やっぱり、土井先生は子ども思いで優しい人なのだろう。
「つい、気になってしまってね」
「ふふ、大丈夫ですよ。五年生はみんな優秀と聞きました。それに木下先生もいますし、なんとかなりますよ」
「さっきから、そればっかりですね」
「へへ…私の座右の銘なんです。亡くなった父もよく言ってました。明日、早いので失礼しますね。おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」
くノ一長屋に戻ると、すでに宵の月が空に浮かび上がっていた。
胸の鼓動が静かに、けれどハッキリと脈を打ち付けているのが感じられる。
久しぶりに家族の話をしたからだろうか。それとも明日の実習に胸が高鳴っているのか。
その晩、私は久しぶりに母や父、兄弟の出てくる夢を見た。懐かしい平和だった頃の思い出が蘇ってきて、私の胸を焦がすのだった。
→
いつも授業のあと、乱太郎君たちとかくれんぼしたり、町まで出てきり丸君のアルバイトのお手伝いをしたり、ユキちゃんたちとお茶屋に出かけたりと、子どもたちと過ごすことが日課になっていた。
その日は、放課後、用具委員顧問の吉野先生と一緒に定期点検を手伝うことになっていた。
用具倉庫に置かれた武器の在庫状況をみんなと確認していくのだが、その中の一つに思わず目が止まった。
「……あの、これって六尺棒…ですか?」
え?と声を漏らしたのは、用具委員のしんベヱ君だ。
「詩織さん、これが何だか知ってるの?」
「うーん、棒術に使う六尺棒かなって思ったんだけど」
「委員長の食満先輩に聞いてみたら?」
「そうだね。えっと、食満君は…」
「事務員補助の詩織さん、呼びました?」
すぐに背後から声が聞こえ、思わず肩がビクッとしてしまった。
六年生の食満君は生徒の中で一番年齢が高いということもあって、しんベヱ君や一年生たちとは違う、より忍者らしい雰囲気がある。
「これって六尺棒だと思って」
「そうです。六尺棒で間違いありません」
その返答に、少しだけ私の中で好奇心が湧いた。
「……ちょっと使ってみてもいいですか?」
「え…ええ、どうぞ」
立て掛けられていた六尺棒を手に持ち、周囲に当たらないよう用具倉庫から出て、脇構えの動作を取る。
久しぶりの感触に懐かしさが込み上げてきた。
「詩織さん、扱ったことあるんですか?」
「…うん。亡くなった父から」
琉球から伝わったという形を一つ一つ構えていく。
直足袋を履いた足先は砂を外八文字に描く。裏八相、逆手、猿臂、最初はぎこちなかった動きが指先に棒が馴染んできたことでブレが少なくなる。
最後に追い突きを構えて終えると、背後から拍手が聞こえた。
「詩織さんすごーい!」
「ありがとう、しんベヱ君」
食満君が六尺棒を握り、試し振りをした。
「技に長けてる人が扱うと威力は過ごそうですね」
「いやいや、私はそんな…すごく久々に触ったし、長けてるなんてものじゃ…」
「ちょっと持っててださい」
そう言って食満君が、私に六尺棒を渡す。
そして反対の手から取り出した鉄双節棍を私に向かって振った。
「わっ!」
反射的に逆手に持ち替え、鉄双の先を弾いた。
そのまま六尺棒の持つ左腕を引き、右腕をねじって身体に寄せて棒先を食満君の首元に向けた。
「びっくりしちゃった……ごめん、咄嗟のことでつい」
咄嗟のことと言えど、事務員補助が生徒に向かってやっていいことではない。
途端に心拍数が上がる。
だが、食満君は気にしていないようで、むしろ笑顔を向けた。
「凄い!久々と言いながらこの機敏な身のこなし!本当にただの事務員補助ですか!?」
「本当に今のはごめんねっ…怪我はない、よね?」
私の心配も知らず、用具倉庫の戸で見ていた吉野先生に駆け寄った。
「吉野先生も今の詩織さんの六尺棒の捌き見てましたよね!?これで事務員補助は忍術学園に勿体ないんじゃないですか!?」
「確かに、確かに。今のは素晴らしかったですよ」
「詩織さん!今度から私の鉄双節棍の相手をしてもらえませんか?いや!ぜひ!」
「そんな……私で?いいの?」
曇りなき眼を向けて懇願する食満君の姿に、思わず了承してしまった。
◇
用具委員の仕事を終え、しんベヱ君と食堂へと向かう。
「詩織さんって凄いね〜。あーんな長い棒振り回すんだもん」
「へへ、そうかな?ありがとう」
「教わったのはお父さんからだけ?」
「うん、そうだよ。父は武術が好きだったからね。男兄弟ばかりだったから、唯一女の私もやれって言ってね」
「へぇ〜詩織さんの兄弟って男の人ばかりなんだ」
「うん、まあね」
父や兄弟の話をすること自体、もう何年もしていなかったと言葉にしてから気付いた私は、とっさに唇を噛み締めた。
気を緩めたら、思い出で涙が溢れてしまいそうで。
そんな姿を子どもに見せたくないという意地が、私の中にあった。
食べ始め少し経った頃、吉野先生が私たちの元にやってきた。
「雪下さん、ご飯中すみません」
「はい、なんでしょう?」
「先程の六尺棒の捌きを学園長先生にお伝えしたら、なんと……」
「なんと…?」
「事務員補助だけじゃ勿体ないから、『事務員補助兼教員補助に昇格~!』とのことです」
「……教員補助??」
「実は上級生の授業は先生が足りないこともあって、先生全員で授業を受け持っているんです。なので……少しでも先生方の苦労を減らすためだと思うんですけど」
「な…なるほど…」
「それと戸部先生からも、剣術授業にも補佐してほしいそうです」
隣で食べるのに夢中だったしんベヱ君が手を叩いた。
ふとした興味で六尺棒を振ってみただけだったけれど、先生たちから頼りにされていることが、気恥ずかしくも嬉しかった。
「すごーい!詩織さん!」
「そ…そうかな…?」
「さっそく明日からの五年生の実習に付き添ってほしいと、木下先生がお呼びですよ」
「わかりました!食べ終わったら向かいます!」
食べ終えようとした頃合に、斜め向かいから「聞きましたよ」と声が降ってきて、顔を上げると土井先生がいた。
ちょうど来たところらしく、御盆にはご飯がよそられている。
「六尺棒なんてどこで習ってたんですか?」
そう聞かれ、亡くなった父の話をしても暗くなるだろうし、変に慰められるのも嫌だった私は、少し考え込んでしまった。
「亡くなったお父さんから習ったんですよね!」
考えているうちにしんベヱ君が口を開いていた。
「詩織さんのお父さんは、なんと武道の達人で!男兄弟ばかりだった詩織さんも武道を習っていたんです!」
「…そ、そうなんです。だから、少しだけですが」
「えー!そんなことないよ詩織さん!食満先輩の攻撃を躱して六尺棒で追い込んでたじゃない!」
「そう、だったね…へへへ。でもそれは食満君も分かってて追い込まれただけだと思うよ?」
だって忍者なんだもん。
私の素人に毛が生えたようなレベルでは敵わないはずもない。
「今度、土井先生に相手してみてくださいよ」
「え?さっすがに先生には勝てないよ〜」
「いえ、私も普段握るのはチョークばかりなので、六尺棒は不慣れですから」
そう言う先生の口元は笑っている。
これは絶対に私より上手いにに違いない…。
「もう、土井先生まで……あ!いけない!木下先生のとこに行かなきゃでした。すみません、先に上がりますね」
職員長屋にある木下先生の部屋へ向かう途中、小松田さんと出会した。
「詩織さん!聞きましたよ!僕を差し置いて教員補助なんてずるいじゃないですか!」
「ご、ごめんなさい」
「もー!酷いですよぉー!でも、気をつけて行ってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
◇
木下先生と明日の打合せを終えて、くノ一長屋に戻る途中、再び土井先生と廊下ですれ違った。
風呂上がりでいつもの黒頭巾が外れ、長いくせっ毛に目に止まる。
「雪下さん、食堂でのことなんですけど…もしかして棒術の話はあまり触れられたくない話でしたか?」
小さな声で尋ねられ、私は首を横に振った。
「いえ、そんなことないですよ。それに家族の話をしたのは、すごい久しぶりだったので、懐かしかったです」
「それなら良いんですけど、あまり無理はしないでくださいね。学園長の思いつきで教員補助にもなっちゃったわけですし」
「まあ、なんとかなりますよ!あ、教員補助なので遠慮なく私を頼ってくださいね?」
そのとき、安藤先生の笑い声が響いた。
「雪下君、この忍術学園のトラブルの90%は一年は組が原因って知っていました?悪いことは言わないので、お手伝いするなら、優秀なうちの一年い組に来られてはどうですかな?」
安藤先生の隣で「安藤先生!!」と鬼のような形相で地団駄を踏んでいる土井先生。
「トラブルも成長の種ですよ。まあ、なんとかなりますよ」
そう言うと、安藤先生は「そんなにトラブルがお好きならお好きに」と言って行ってしまった。
「……土井先生は安藤先生が苦手なんですか?」
「一年い組はテストの平均点が90点代…それに比べては組は0.2とか視力テストのような点数ばかりで…それに寒いオヤジギャグも」
そう言いながらお腹に手をあて、ため息をつくので、相当ダメージをうけているらしい。
「大丈夫ですよ!は組のみんなは伸び代が大きんですよ」
「そんなこと言ってくれるの雪下さんだけですよ」
向けられる土井先生の視線が、少し柔らかいように感じた。一呼吸置いて、彼は言葉を紡いだ。
「明日は五年生の実習に行くんですね」
「はい。山の中での野営訓練みたいです」
「実習とはいえ、怪我には気をつけてくださいね…あ、いや、雪下さんは子どもじゃないんだけど…余計な心配でしたね」
照れ笑いを浮かべる姿に、先ほど感じた柔らかい視線は、は組の生徒に向けるそれと同じなんだと気付いた。
やっぱり、土井先生は子ども思いで優しい人なのだろう。
「つい、気になってしまってね」
「ふふ、大丈夫ですよ。五年生はみんな優秀と聞きました。それに木下先生もいますし、なんとかなりますよ」
「さっきから、そればっかりですね」
「へへ…私の座右の銘なんです。亡くなった父もよく言ってました。明日、早いので失礼しますね。おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」
くノ一長屋に戻ると、すでに宵の月が空に浮かび上がっていた。
胸の鼓動が静かに、けれどハッキリと脈を打ち付けているのが感じられる。
久しぶりに家族の話をしたからだろうか。それとも明日の実習に胸が高鳴っているのか。
その晩、私は久しぶりに母や父、兄弟の出てくる夢を見た。懐かしい平和だった頃の思い出が蘇ってきて、私の胸を焦がすのだった。
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