11.花咲く想い
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
翌朝、瞼に日差しの眩しさを感じて目を開いた。肌寒さに布団から起きるのを躊躇っていると衝立の向こうから、土井先生と大木先生の話し声が聞こえてきた。
「……なるほど。学園長の手紙にはそんなことが」
「ああ。だから折角なら寄り道でもしてくか?」
「寄り道ですか?」
「あの嬢ちゃんといい雰囲気じゃねえか。夜中に抜け出して何やってたんだか」
「やましいことはしてないですよ!」
「土井先生ともあろう方が手を出してないんですか?毎年、くノ一教室の色の授業では実技相手の指名ナンバーワンじゃないですか」
「なんで大木先生がそれを知ってるんですか」
「へへへ、私の情報網を舐めてもらっちゃ困りますよ」
ドクン、と鼓動が静かに響いた。
初めて聞く「色の授業」という言葉に、しかも実技がどんなことかをするのかと想像ばかり浮かんでいく。
彼が他のくノ一たちからの指名を受け、色の実技に参加している姿を嫌でも思い浮かべてしまう。
あの優しい眼差しが、温かい手のひらが、彼の大きな分厚い胸板が、私ではない誰かに触れられる。そして彼は誘惑するような言葉を囁かれて、それに応じるのかもしれない。
胸の奥がチクリと痛む。
思わず布団の中で、ぎゅっと膝を抱えるように身を縮めた。初めて嫉妬を覚えた瞬間だった。
その時、衝立の向こうから、土井先生の少し低くなった声が風に乗って聞こえてきた。
「雪下さんには言わないでくださいよ?誤解して傷つく姿を見たくないんです」
「ふーん、優しいんですね土井先生は」
彼は優しい。それは初めて会ったときから知っていた。
昨日までその優しさがつらいと思っていたし、でも同じ気持ちだと知って嬉しくなって、けれど再びその優しさが胸をキュッと苦しくさせる。
私に知ってほしくないことがある。それは昨日言っていたありのままとは違うの?
「あ、雪下さん、起きましたか?」
天井を見つめながら悶々と考え込んでいると、明るい声が聞こえ、私は慌てて「は、はいっ」と慌てて起き上がる。服を整えて外に出ると、土井先生の優しい笑顔が向けられる。昨夜の出来事が鮮明に蘇り、頬が熱くなるのを感じた。
それでも、胸の奥にできた小さなしこりは痛みを大きく主張するのだった。
◇
「おかえり詩織さん!待ってたよ〜!」
忍術学園に戻ると、正門で出迎えてくれた小松田さんはニコニコ顔で私たちを食堂へと連れて行く。
食堂に入ると、そこには学園長をはじめ、食堂のおばちゃん、山田先生、木下先生、山本先生など、ほとんどの先生が揃っていた。
「遅くなったが、雪下くんの歓迎会じゃ!」
学園長がパーン!とクラッカーを鳴らし、食堂内に拍手が響き渡る。
「遅くなったが、忍術学園へようこそ!」
拍手と共に、温かな笑顔が私に向けられる。
食堂のおばちゃんが私の手を引いてくれた。
「詩織ちゃん、ほらこっち座って」とおばちゃんに促され、真ん中の席に座る。その隣に大木先生と土井先生も座るのだが、大木先生はすぐに野村先生を見つけるや否や席を立って行ってしまった。
「詩織ちゃんのために、今日は特別な料理を用意したのよ!」
「わあ、おばちゃん、ありがとうございます!」
テーブルには、色とりどりの料理が並べられ、食堂は賑やかな笑い声に包まれる。先生たちの和やかな雰囲気に、私も次第に楽しい気持ちになっていると、学園長先生が思い出したように話した。
「そうじゃ雪下くん。今日から一人部屋じゃからな」
「え?」
「山本シナ先生からもお願いされてんじゃ」
そこへ山本先生が徳利を持ってやってきた。
「そろそろ詩織さんも、私に気を遣わずゆっくり過ごしてほしいと思ってね」
微笑む山本先生の視線は、私ではなく隣の土井先生に向けられている。そのことに気付いた瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。今朝の、土井先生と大木先生が話していた”色の授業”のことが頭をよぎる。
視線の先には大木先生が見え、私は自然と席を立った。
「雪下さん?」と土井先生が見つめてくる。
「少し向こうの先生方とお話したいので。山本先生、ここにどうぞ」
そう言って、私は大木先生の隣に移動した。
「なんだ嬢ちゃん、土井先生の隣に座ってたじゃねえか。喧嘩でもしたのか?」
「い、いえ…」
「なんだ?悩み事か?」
大木先生の気さくな声に、私は意を決して聞いてみることにした。口元に手を当てて小さな声で尋ねてみる。
「あの、今朝の会話を聞いてしまったんですが、土井先生が色の授業をされるって本当ですか?」
「ガハハっ、んなことか!気になるか?本人に聞くのが一番だがな…嬢ちゃんにはちょっと難しいかもしれねえな」
大木先生はニヤリと笑い、私の耳元に手を添えて囁いた。
こう言えば土井先生が私のことをどう思っているのか教えてくれるのだと。
「…本当にそれで伝わるんですか?」
「もちろんだ!土井先生なら簡単カンタン」
その時、突然背後から声がした。
「なにが私なら簡単なんですか?」
私も大木先生も肩をビクッとさせ振り返ると、土井先生がいた。
「やだな土井先生〜なんも話してないですよ〜それよりほら私の作ったらっきょう漬け食べましたか?」
そう言って大木先生は私から土井先生を引き離す。
すると横からひょいっと誰かが間に入った。
「雪下くん!楽しんどるか?」
ほれ、と言って学園長からお猪口が手渡され、何気なしに受け取ると、そこへ学園長はお酒をたぷたぷと注いだ。
「さあさあ飲んどくれ!」
「いただきます」
ぐいっとひと口飲んだ途端、舌が灼けるような熱さを感じた。
「このお酒強くないですか?」
「うーん、ワシのオススメの酒じゃったんじゃが雪下くんには強かったかのう」
「じゃあ嬢ちゃんが飲まないならワシが飲もうかのう!」
大木先生がお猪口を取ろうと手を伸ばしたものの、横から伸びてきた手が奪ってしまった。
「なんじゃい土井先生!ワシが飲もうと思ったんだぞ」
土井先生は脇目もふらずにお猪口を唇をつけ、一気に飲み干した。
「あ、大木先生すみません、美味しそうだったのでつい…」
「ったくわざとじゃろ!」
「ち、ちがいますよ〜」
「ふん、まあ今のでお前さんたちの関係はここにいる全員に筒抜けだからな!」
大木先生の言葉に周囲を見渡すと、微笑ましい眼差しを向ける先生方が見えることに気付いた。
「ち、ちがいますって!」
土井先生がすぐさま否定する。
「なにが違うんじゃ?」
「わ、わたしは…!」
そこで息を止めて周囲を見渡した先生は深呼吸をした。
コホン、とわざとらしく咳払いをする。
「すみませんが、生徒が見てる前でこれ以上の言葉は……乱太郎!きり丸!しんベヱ!他にも六年生と五年生も出てこい!」
土井先生がそう言うと、乱太郎くん達が「バレちゃった〜」と出てきた。それに続いて食満君や善法寺君、久々知君、尾浜君たちが姿を現した。
「いやぁ、詩織さんの歓迎会を開くと小松田さんから聞いたので、是非私たちもと思いまして!」と食満君がみんなを代表して言う。
「お前たちなあ…」
結局、生徒たちも加わりさらに賑やかな歓迎会へとなった。
「詩織さん!僕の作った豆腐を食べてくれますか!?」
「久々知君の作った豆腐、大豆の味が活きてて美味しいよね。私、大好きだよ」
「わ〜!詩織さん!そいつにそんな褒め言葉要らない要らないっ!」
尾浜君に言われ、私はポロッと好きだなんて言葉を漏らしてしまったことに気付いた。軽々しく好きだなんて言ってしまったことに驚きながら、でも豆腐のことだからなと思いつつ、久々知君に目を向けると、顔を真っ赤にさせていた。もしかして誤解を生んだかもしれない。
「僕、雪下さんのために究極の豆腐作りを目指しますね!」
「…あ、うん…待ってるね…?」
きり丸君が私を見ていることに気付き、立ち上がったときだった。さっきの強いお酒のせいなのか、上手く立ち上がれない。
「大丈夫ですか?」
支えてくれたのは土井先生だった。
「もしかしたらさっき学園長先生からもらったお酒が回ってきたのかもしれませんね。苦しくないですか?というより眠そうですね」
「土井先生、詩織さんを部屋まで送ってったらどうですか?」ときり丸君が声をかける。
「あ、ううん。一人で戻れるから、大丈夫だよ」
「すまんのう、雪下くん。わしらは雪下くんの分も楽しんでおくから、ゆっくり休むのじゃよ」
賑やかな食堂から一人抜け出した。
背後からみんなの楽しそうな会話が廊下を響き渡らせる。
嬉しい気持ちでいっぱいのはずなのに、土井先生への疑問が拭えなくて複雑な気持ちだった。
「詩織さん!私が部屋までお送りします」
その声が土井先生ではないと分かっていたけれど期待して振り返ってしまった。でもそこにいたのは久々知君だった。
「あ、でも」
大丈夫だよ、と断ろうとしたとき…
「体調悪いなら、保健委員の私にも手伝わせてください」
六年生の善法寺君が肩に手を添えてくれていた。
「善法寺君…」
「兵助はみんなのところに戻るんだ」
「私も一緒に行きます」
「だめだ」
「いえ、私も」
「だからだめだって」
二人が立ち止まり、そんな会話をし始める。
やばい……
まるで雲に乗ってるみたいにフワフワしてきた。
想像以上のお酒の効きに立っているのも限界を感じてきた。
でも、この二人の前で倒れるわけには行かないと何とか踏ん張る。
が、ダメだった。
ふっ、と意識が一瞬遠のき膝から崩れ落ちた。
「…っ、雪下さん大丈夫ですか?」
床に倒れる衝撃が身体にはしると思ったけれど痛みは無かった。その声は土井先生以外の何者でもなくて、うっすらと瞼を開くと、心配そうに私を見つめる眼差しと視線が重なった。
「伊作、兵助。雪下さんは私が部屋まで連れて行くから、君たちはもう戻っていなさい」
「で、でも…」
久々知君たちの困惑に、土井先生は声を強めた。
「いいから。生徒は教師の指示に従うこと!」
「わ、わかりました…」
土井先生の言葉に、二人が戻っていく。
「大丈夫ですか?歩けますか?ほら、肩に掴まってください」
土井先生の腕が私の腰を掴み、支えるようにして廊下を進む。私は少し照れながらも土井先生の支えに甘え、自室まで静かに歩いた。
部屋に到着すると、土井先生は言った。
「まったくあなたは危なっかしい人なんですから」
「…危なっかしい?」
「兵助も伊作も、あなたに好意があることに気付いてますか?」
「え、まさか…そんな」
気付かなかったと言えば嘘になるかもしれないけれど、私と久々知君たちでは歳が離れすぎてる。
「とにかく…今後は注意してくださいね」
そう言って部屋を出ていこうとするそ土井先生の袖を握り引き止めた。
「それは…土井先生が私にヤキモチを妬いてるってことですか?」
「そ、それは…」
「私にはありのままでいてくれるんですよね?」
頬の熱が酒のせいなのか、緊張のせいなのか分からないほど、
「……そ、そうです。ヤキモチです。だから、そんな簡単に好きだとか他の人に言って欲しくないんです」
「土井先生は…?」
そう言うと、目の前の彼は首を傾げる。
「今朝の大木先生との会話を聞いてしまいました。土井先生は…色の実技って、いったい何をするんですか?」
土井先生は一瞬驚いたように目を見開いたけれど、すぐに困ったような笑みを浮かべる。
「・・・雪下さん、それはあくまで忍術の授業の一環で・・・誤解しないでください」
「でも、土井先生が指名されるって聞いて・・・」
口をとがらせて下を向くと、土井先生は小さく笑い、優しく肩に手を置く。
「いいですか。私は生徒とはそういうことは一切しませんし、あれは勝手にくのいちの生徒が書いてるだけに過ぎません」
土井先生の静かな言葉に、顔がさらに赤くなるのを感じ目をそらせたくなる。少しの沈黙が続いたあと、土井先生がふわりと微笑み、髪にそっと手を伸ばす。
「だから、心配しないでください」
その言葉に安心を抱いたけれど、さっき大木先生に教えてもらった言葉を声に出してみた。
「花を咲かせてくれませんか?」
「……え?」
私の言葉に土井先生は頬を紅く染めて硬直したように微動だにしなかった。
「そういえば土井先生がどう思っているか教えてくれると大木先生が言ってたんです」
「え?えっ…と、その、意味って分かってます?」
大木先生に耳打ちされて教えてもらった。
そう言えばどう思っているのか教えてくれるから、と。
つまり、土井先生の言う「生徒とはそういうことはしない」という何かに言質を証明してくれるってことなのかな?
土井先生をじっと見つめるが、彼は視線を横にずらす。
「私はなにか土井先生からいただけるんですか?手品みたいなことができるんですか?」
「えっと、それって大木先生の冗談…ですよね?」
「冗談…なんですか…」
口元に手を当てて考え込む。
私の反応をもしかしたら大木先生は楽しんでいたのかもしれない。
「きっと雪下さんが純情だから、大木先生もからかったんですよ」
「え?」
合点がいかず首を傾げる私に、土井先生は笑うので思わずムッとしてしまった。
「私だって二十二歳ですよ?子ども扱いしないでください…では、見せていただけるんですよね?」
「え!?」
素っ頓狂な声をあげる先生の姿に、やっぱり私のことを子ども扱いしていたのだと複雑な気持ちになった。
その瞬間、土井先生と視線が重なる。
土井先生が、唾を飲み込むの音が聞こえた。
「土井先生?」
「ちょっと…目を閉じてくれますか?」
瞬きをして見つめると、そこには恥ずかしそうに眉を寄せて頬を染めた土井先生がいた。高鳴った胸を抑えながら、瞼を閉じると、先生は私の髪をそっと撫でる。
そして後ろ髪に触れたと思った途端、うなじに冷たい感触を覚えた。くすぐったさに息が漏れる。
「ん…」
その感触が土井先生の唇のせいだと気付いた頃には、ちゅっと優しい音を立てて唇が離された。ただそこには触れられていた生ぬるい感覚と余韻を漂わせているだけ。
「これで花を咲かせました。満足しましたか?」
「どこに、花が咲いてるんですか?」
「ここです」
うなじを指差し教えてくれるけれど、私からは見えるはずもない。
「そこじゃ…分かりませんよ」
「ははは…目立つ場所を避けたつもりでしたが」
「私も見てみたかったです」
「じゃあ、もう一回…して…みますか?」
遠慮がちに、けれど魅惑の声で囁く土井先生に、身体の奥が熱が疼くのを感じた。
いけない会話をしているような妙な罪悪感が襲う。
土井先生は優しい眼差しを向けているのにどこかいつもと違う雰囲気を纏っている。
「どうしますか?」
「じゃあ…手首に」
そこなら普段は事務服を着て隠れるから見えないから大丈夫だろう。そう思って袖口をめくる。
「……この傷跡は?」
一段と低い声が聞こえ、それが土井先生の声だとすぐに認識できなかった。彼が掴んだ私の手首には、親戚の家にいた頃にできた傷跡が残っている。
「なんでもないです。昔、家事をしていたときについたものです」
そう言うと、土井先生は袖を肩までたくし上げると、より一層真剣な表情を向けた。
「これも全部、そうなんですか?」
「それは……」
私は一瞬答えるのを躊躇った。
傷をつけたのが親戚だからとか、恥ずかしいとか、そういうことじゃなくて、土井先生に心配をかけたくないから。
「私では頼りになりませんか?」
でも土井先生は辛そうな声で尋ねる。
「そんなことは…」
「貴方のつらいことも、嬉しいことも全部、分かち合いたいんです」
「……どう、して、ですか?」
私の問いかけに、土井先生は言葉を躊躇い、そしてはっきりとした口調で言った。
「好きだからです」
まっすぐな眼差しに心が動揺した。
はっきりと私への想いを言葉にしなくてもいいと思っていた。でも、それだけ土井先生が見ているのは私なんだと胸が締め付けられる。
行燈の灯りだけの薄暗い部屋の中、私は土井先生に過去を打ち明けた。
「この傷跡は…家主のおばあ様につけられました。機嫌が悪くなるとすぐに木の棒で叩かれていました。お前は不吉な人間だ、災いの元凶だ、と。でもその方も戦で旦那さんを亡くされていて、余裕がない中で私を住まわせてくれていたので、仕方がなかったんだと思います」
静かに聞いていた彼は、声を震わせて言った。
「あなたは…どうしてそこまで優しいんですか」
「優しくないですよ…怖いんです。臆病なんですよ。向き合うのが怖いから…受け入れた方が楽なんです」
向き合うのが怖い。だから長い物には巻かれろという他人本意で生きてきた節がある。それが楽だったから。自分のためにそうして生きてきた。
「……これからは、私を頼ってください」
「前に利吉さんに頼ってと言ってたじゃないですか」と笑うと、私の手を彼の手が包み込んだ。気づかないうちに手が震えていたらしい。
「あの時と気持ちの重さが違います」
「ふふ…わかりました。もちろん土井先生も私を頼ってくださいね?」
ふと土井先生が私を抱き締める。
すぅっと匂いを嗅ぐように。
「土井先生?」
「もう一度、花を咲かせるんですよね?」
「…っん」
腕についた傷跡をそっと優しく柔らかな感触が撫ぜていく。
「ん…土井先生、くすぐったいです…」
「いままで…たくさん、がんばりましたね」
彼の言葉は優しく、まるで壊れ物を扱うかのように。私の傷跡一つ一つに、何度も優しく口付けをしていく。唇の熱によって、つらい記憶が薄れていくような気がした。
「…っん…んん……」
土井先生の優しさに、胸が張り裂けそうなほどの感情が溢れ出し、涙が滲むのを感じた。
「…んあっ」
最後に首筋に一際大きな音を立てて吸われた。
「あっ…すみませんっ、ここだと見えちゃいますね…」
土井先生の指先が首筋に触れる。
そこは事務服からでも見えてしまう部分だった。
「…だ、大丈夫ですよ。絆創膏を貼りますから」
「止められずすみません…」
しゅんと沈んでいる目の前の彼からは、先程までの私を求めていた時のような熱い眼差しはすっかり影を潜めている。それが余計に土井先生らしいと思った。
「いえ…なんだか土井先生が近くにいるみたいで嬉しいです」
「では私もいただけるんですか?」
土井先生がいたずらっぽく笑う。
私の力ではきっと吸った痕を残すことなんてできないだろうな。と思っているとあることを閃いた。
「そ、それは…あ、そうだ。ちょっと背中貸してください」
向けられた大きな背中に、私は、指で「雪下詩織」となぞった。
「これで近くに感じられますか?」
そう尋ねると、一瞬土井先生は驚いたように瞬きをして、ふっと微笑むのが分かった。
「では私も」と、私の背中に「土井半助」と指がなぞられていく。
「私もここにいますね」
「ふふ…嬉しいです」
指先が絡み合い、先生は柔らかく包んだ。
名残惜しそうに指先が離れていき、その手のひらは私の前髪を撫でる。
「さ、もう夜も深いのでおやすみになって下さい」
私は先生の袖口をきゅっと握り、ゆっくりと離した。
その指先に名残惜しいことが伝わってほしいと思いを乗せる。
「ええ、おやすみなさい」
彼のいなくなった部屋で、ただ胸が熱かった。
もっと触れて欲しい。もっと。
足りないという想いが、ただ募っていた。
→