夕凪の彼方
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○温かな場所○
朝の温かな陽射しに包まれて目を覚ますと、昨日までとは違う場所に、忍術学園で働くことになったことを思い出す。
あのあと、山本シナ先生が現れてくノ一教室の宿舎まで案内してくれたのだ。
「おはよう。よく眠れた?」
山本シナ先生が衝立の向こうから顔を覗かせる。
整った綺麗な顔立ちに、こちらがドキドキしてしまう。
「おはようございます。はい、よく眠れました」
「ふふ、よかった。じゃあ支度をして、朝ごはんを食べに行きましょうか」
忍術学園では食堂で朝昼晩のご飯を食べるのだという。
さっそく昨日いただいた事務服に着替える。
「あら?化粧はいいの?」
「実は、その…やり方が…よく分かってなくて」
こんなことを言ったら、きっと軽蔑されてしまうかも知れないと思いながら小さな声で呟いた。
母は幼い頃に亡くなって、兄弟はみんな男で、長年住んだ親戚の家では『お前なんかに必要ない』と誰にも教わる術も道具もなかったのだ。
身体中がかぁーっと熱くなる。
けれど山本シナ先生の笑顔が崩れることはなかった。
「じゃあ今度から私が教えるわ!とりあえず今日は私にさせてくれる?」
山本先生は嬉々として素早い手つきで私の顔に化粧を施した。手渡された鏡を見て、一瞬自分だと信じられなかったほどだ。
「先生……すごいですね!」
「あら!そう?詩織さん素材が良いから映えるわ!」
お世辞だとしても山本先生の言葉は嬉しかった。
◇
食堂へ向かう途中で、ピンク色の忍者服を着た女の子の三人組と出会った。
「山本シナ先生!おはようございます!」
「おはよう。ユキちゃん、トモミちゃん、おしげちゃん」
「先生、こちらの方は?」
「今度から事務員補助で働く詩織さんよ。色々教えてあげてね」
「「「はぁーい!」」」
「よろしくね」
「「「よろしくお願いします!」」」
三人の元気な挨拶に、私も背筋がピンと伸びる。
彼女たちの前では私は大人なんだけど、改めて自覚したからだ。
山本先生とユキちゃんたちと、同じテーブルで朝食を食べていると、急におしげちゃんが席を立った。
「しんベヱさま!」
「おしげちゃん!」
離れた席にいた青柄の忍者服を着た三人組の男の子のもとに小走りで近付いたおしげちゃんは、ハンカチを取り出すとしんベヱと呼ばれた男の子の鼻をかんだ。
「おしげちゃんはしんベヱの鼻をかむのが好きなのよ」
二人を見つめていた私に、トモミちゃんが教えてくれた。
「へぇ」
「あそこにいるのは一年は組の乱太郎、きり丸、しんベヱ…なんですけど、あんまり絡まない方がいいですよ」
「そうそう」とユキちゃんが頷く。
「アイツらに関わるとろくな事が起きませんよ」
「そ、そうなんだ…」
再び彼らに視線を向けながら、ご飯を摘む。食堂のおばちゃんのご飯はすごく美味しくて、何杯でもおかわりできてしまいそうなくらい。
けれど、御盆の上にある小鉢に手がつけられないまま、最後に小鉢と睨み合いになってしまった。
「詩織さん、どうしたんですか?」
「あ、いや…えっと……」
小鉢の中身はワカメの酢の物だ。酢の物が苦手なために睨み合いをしているなんて知られたら、きっと幻滅されるに違いない。
「もしかして、酢の物嫌いなんですか?」
「へへ…実は、そうなんだ…大人なのにね…」
喉を鳴らし、食べる決意を固め、箸を握る。
大人なのだから、子どもたちの前ではいい姿を見せなければ……
目を瞑り、えいっと口に放り込み無心で噛んで胃に流した。
「土井先生より早い〜!」
「え?」
トモミちゃんとユキちゃんは、なんだか嬉しそうに言うのだけれど、話が飲み込めない私は首を傾げた。
「土井先生は練り物が嫌いで残すから、よく食堂のおばちゃんに怒られるんです」
「へぇ…」
昨夜会った若い男性が土井先生だったと思い出し、まさか彼が?と疑ってしまう。
「その土井先生より、詩織さんは苦手なものを早く食べれるなんて!私たちくのたまの憧れです!」
キラキラとした眼差しを浴びるのが忍びなかったけれど、彼女たちは私のことを受け入れてくれたようで、嬉しく思った。同時に、話の種になってくれた土井先生に心の中で感謝を伝えた。
◇
毎朝、職員が集まって話すことはないらしく、突然の招集に職員室は慌ただしかった。
「今日から事務員補助を勤める雪下詩織と言います。よろしくお願いします!」
黒い忍者装束をまとった先生たちに拍手で歓迎され、私の挨拶は終わった。昨日挨拶した山田先生や土井先生、山本シナ先生もこちらに笑みを向けているように見えて、緊張していた気持ちが解れる。
「なにか困ったことがあれば、先生方に聞くように」
学園長はそう言うと、どこから出したのか「えい!」と地面になにかを投げ、途端に部屋は真っ白に包まれた。
初めて見る忍者っぽい技に関心して、とりあえず窓を開けようとすると、急に腕を誰かに掴まれた。煙幕が晴れる。掴んでいたのは土井先生だった。
「煙幕のなか、闇雲に動くのは危険ですよ」
「あ…、すみません」
優しい声色とは違って、しっかりと掴んだ手の力に、彼が男性であることを再認識した。
「はぁ…毎度毎度、学園長も普通に部屋を出て行けばいいのに…」
ため息混じりの言葉に、彼の苦労が伺える。
「雪下さん、何か困ったことがあればいつでも相談に乗りますからね?」
「土井先生…ありがとうございます」
彼が苦労人気質なのだと、会って二日目の私にもすぐに分かるほど、この土井先生は優しい先生なんだと強く印象に残った。
◇
その日は一日、小松田さんの補助として過ごした。
主に、ばら蒔いてしまった上級生の課題用紙の整理や、昨夜割ってしまった湯呑みの新調などなどの言葉通り(小松田さんの補助)を行った。
「本当に助かるよ!詩織さん!」
何度も手伝ううちに、小松田さんは私の名前で呼ぶようになった。
「雪下さんって呼ぶの、何だか改まっちゃうから、詩織さんでいい?」と茶目っ気に聞かれ、了解してしまったのだ。
「小松田さんの実家は扇子屋なんですね」
「そうだよ!たまにドクタケ城が悪いことを企むために来るけど、そのたびに兄が断ってるんだ」
「扇子で…ですか?」
扇子で悪いことをするという考えが中々思い浮かばず、悩んでいると、小松田さんが自信満々に教えてくれた。
「霞扇の術、ていうのがあるんだ」
「かすみ…おうぎ?」
「えーっとね……扇子に眠り薬とかをつけて…っとそうだ、術に関することだったら、図書室にいっぱい本があるから借りてみたら?」
どうやら小松田さんは説明を放棄したらしい。
けれど少し忍者の術について、興味を抱いてしまった私は、放課後図書室へ向かった。
◇
図書室は、さすが忍術学園というくらい忍術などに関する本が並んでいた。
初心者向けの本ってないかな…?
「お姉さん、何か本探してます?」
可愛らしい声が聞こえ、下を向くと、一年生の忍者服を着た男の子がいた。
「うん…初心者向けの忍術に関する本を借りようと思ったんだけど…」
「それなら、こっちの棚にありますよ」
男の子はその棚から一冊を取り出し、「これなら初心者向けです」と教えてくれた。
「ありがとう。いっぱい本があるから困ってたんだ」
「いえいえ、自分、図書委員ですから。もしかして、お姉さんって新しく来た事務員補助の人?」
「うん。詩織って言うの」
「詩織さんね。僕は、一年は組のきり丸」
「そっか。ありがとうね、きり丸君」
貸出カードに自分の名前を書いて、きり丸君に差し出す。
「へぇ。お姉さんの名前って素敵だね」
「そう?普通だと思うけど」
「敵の忍者とか変わった名前が多いから。冷えたチンゲン菜とか」
「冷えた…チンゲン菜…?」
変わった名前の人もいるのね。と、きり丸君と喋っているところに「きり丸ー!」と男の子の声が廊下から響いてきた。
「どうしたんだよ乱太郎」
「それがしんベヱが、4年綾部喜八郎先輩の作った落とし穴に落ちてしまって…引っ張り上げるの手伝ってくれる?」
「あ、でも今日は図書委員の当番だから」
「そしたら私がしんベヱ君を助けに行こうか?」
二人の会話を聞いていた私は、乱太郎君に尋ねた。
「しんベヱ重いけど大丈夫かなぁ」
「大丈夫!力仕事なら任せて!」
さっそく乱太郎君とともに校庭へと向かう。
校庭の真ん中に大きな落とし穴があるのが見えた。
「詩織さん、この辺は綾部先輩の作った落とし穴が沢山あるので注意してください!」
「え、そうな……きゃっ…!」
突然足下が崩れた。
身体を浮遊感が襲い、落下していることが気付くと同時にお尻に衝撃があたった。
上から乱太郎君の声が降ってくる。
「詩織さーん!大丈夫ですかー?」
「うん!大丈夫ー!」
「いま先生方呼んできますねー!」
気配が遠ざかっていき、私は小さくため息を吐いた。
なんの役にも立てなかったな。
これじゃあ事務員補助なんて務まらないだろうな。弱音で頭がいっぱいになりそうになったとき、目の前にロープ紐が垂れ下がってきた。見上げると乱太郎君と土井先生の姿があった。
「引き上げるので、それに掴まってくださーい!」
二人によって、私としんベヱ君は無事落とし穴から救出された。
「お前たち、あそこに『落とし穴危険』って立て看板あったの見てなかったのか?」
「「見てませんでしたぁー!」」
「ごめんなさいっ、私も見落としてしまって…」
「いや、雪下さんはいいんですよ。私はこいつらの担任でして…雪下さんはここに来たばかりですし、それに吉野先生からはとても頼りにしてるって聞いてます」
土井先生が慰めの言葉をかける。
それにしたって、もう少し私も慎重に行動しとけばこんなことにはならなかったのだと思うと、自分の行動が恥ずかしくなった。
「そしたら、私になにか土井先生のお手伝いできることはありますか?」
「私の?」
うーん、と首を傾げて悩む先生に、しんベヱ君が何かを閃いたように言った。
「先生、今日のテストの採点は終わったんですか?」
「もちろんだ!乱太郎、きり丸、しんベヱは補習決定だ!」
「「え〜〜」」
彼らの会話がどこか面白くて、思わず頬がゆるんだ。
「ふふ、仲が良いんですね」
「事務員補助ってことは、詩織さんはくノ一なの?」
しんベヱ君が私に質問を投げかけた。
「ううん。忍のことは全く知らないんだ。だからさっき図書室に忍に関する本を借りに……あ、本を持ってくるの忘れてた…!」
そのとき、校庭の向こうからきり丸君が走ってきた。
「詩織さーん!本忘れてますよぉ〜!」
「きり丸君、ありがとう〜!」
きり丸君から本を受け取り、乱太郎君たちと別れ、職員長屋へ向かう途中、土井先生が微笑みかけてきた。
「さっそく彼らと仲良くなったんですね」
「そう、ですかね?……そうだと嬉しいです」
「ええ…雪下さんは真面目なんですね」
「そうですか?」
「はい。利吉くんがここへ連れてくるのも分かる気がします」
「そう、ですか……でも、本当に利吉さんは命の恩人です」
そこで話が一区切りしたとき、ゴーンと鐘の音が響いた。
今朝、学園長に仕える忍犬ヘムヘムがこの鐘の音を奏でていると聞いたときはとても驚いた。
「あの、雪下さん。良ければ私と一緒に夕食どうですか?」
「いいんですか?」
「もちろん」
◇
本を一旦置きに戻り、土井先生と食堂へ向かった。
夕食時の食堂は朝に比べて生徒で賑わっていた。
土井先生の隣に座り、夕ご飯をいただく。
魚の煮付け、美味しい〜!
パクパクと食べていると、隣に座る土井先生の視線を感じた。
「どうしましたか?土井先生」
「…いや、随分美味しそうに食べるんだなと」
「はい、もうそれはそれは美味しいので」
「ところで、利吉くんとは付き合いが長いのかい?」
「えーっと…」
どういう意味なのか考えあぐねていると、彼は言った。
「はは、そんな深い意味じゃないですよ。私は利吉くんと長いから、お世話になったのならちゃんとお礼を言いたくてね」
そう言って土井先生はお茶を啜る。
利吉さんに出会ったときのことを少しだけ、断片的に話した。私は忍の世界のことはよく分からないけれど、あまり踏み込んだ内容を伝えてはいけないような気がして、言葉を選びながら伝えた。
話し終えると、穏やかな声で先生は言った。
「雪下さんは、本当にお優しいんですね」
「……どうしてですか?」
「利吉くんの仕事内容を話さないように、利吉くんの体裁を崩さないように、そういう配慮を効かせた話し方だからですよ」
そういう話し方を意識していないと言えば嘘になるけれど、それを忍術学園の先生に気付かれ、その上で『優しい』という隣に座る土井先生こそが優しいように私には見えた。
「……そう言っていただいて、ありがとうございます」
気恥しさのようなものが込み上げる。
ふと、土井先生の御盆に一つだけ手の付いていない小鉢があることに気付いた。
今朝トモミちゃんが言っていた言葉が思い出された。
「練り物がお嫌いって聞きましたけど」
「え?あっ…そうなんですよ…これだけは本当にダメでして…」
困った顔をして笑う姿に、お節介心が湧いた。
小鉢から竹輪を摘み食べる。
「ごちそうさまでした」
横を向くと、先生は目を見開き驚いた様子でこちらを見ていた。嫌いな食べ物がなくなってホッとした顔と、何で?という疑問の表情が混ざっている。
「突然すみません。はしたなかったですよね。あの…今度、酢の物が出てきたらお願いできますか?私、酢の物が苦手で」
そういうと、彼は「ふっ」と吹き出した。
「私は今、術をかけられましたね」
「え?術ですか?」
「はい。楽車の術です」
口の中で反芻してみる。らくしゃ…らくしゃ…
「初めて聞きました」
「そうでしょうね」
「ここに来てから、初めてのことばかりで…新鮮ですね。」
「それは良かったです」
しばらくして食堂のおばちゃんがテーブルに来て「今日は練り物食べれたんですね」と笑うと、土井先生は苦笑いをしながら「まぁ…」と言葉を濁していた。
食堂を出て長屋へと向かう廊下、土井先生がおもむろに立ち止まる。
「今度、酢の物が出てきたら、私にお任せください」
「なんだか頼もしいです」
屈託のない笑顔に、私もつられて口角が上がった。
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