10.それはまるで
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まだ忍のころ、あぜ道に身を潜め夜を明かしたときのことだ。月明かりをまとった美しい花を見た。朝になって、その花がただの蓮華草だと知り、不思議とその花を可愛く、それでいてほっとするような気持ちになったことがあった。静かにその存在を主張せずにいる花に、なぜか温かい気持ちになったのだ。野原に咲いた一輪の花は確かに私の心に穏やかな気持ちにさせた。
蓮華草の花言葉が『安らぎ』と言うのだと知ったのは、山田家でお世話になっているとき、山田先生の奥さんから教えてもらった。
『あなたのそばに、その花のような存在の方がいれば、きっと心安らぐ時が来るのでしょうね』
『私にとったら、生徒がその存在ですよ』
そう答えた日のことを思い出していた。
『いつも先生にはお世話になっているので、お礼の気持ちなんですが、受け取ってもらえますか?』
彼女が私に対してただの職場の同僚で、特別な思いで渡したわけではないことは重々承知していたはずだった。
けれど、抽斗に仕舞ったその栞を見るたびに、彼女の笑顔が脳裏に浮かんでいた。
「なんですか土井先生、さっきからニヤけちゃって」
「え?ニヤけてませんよ」
夜、翌日の授業準備をしていると、山田先生が言った。
「そうですか?さっきから、こーんな顔しちゃって」
目尻を下げて物真似のつもりなのか、ニヤケ顔をこちらへ向ける山田先生。
「そんなことありませんって」
「ほんとですかあ?私には、てっきり雪下君から貰った栞が嬉しくてニヤケてるのかと思いましたよ」
「そうでしたか?」
ここで変に否定したら認めてるようなものだ。なるべく平穏を装い言葉を返す。栞をもらったことを山田先生に話してしまったことに少しだけ後悔した。
「素敵じゃないですか。紅葉を持って帰ってくるなんて」
「ええ、そうですね」
私は心の中で何度も雪下さんに問いかける。
あなたにとったら私はただの同僚なんですよね?
それとも、特別だから栞をくれたんですか?
『土井先生と一緒に紅葉を見たかったなぁ、と思って』
あれは、どんな気持ちで言ったんですか?
何度問いかけても心の中の彼女は、ただ微笑むだけ。
女性からの贈り物は、これが初めてではない。
忍をしていた時も、教師になってからも、ご近所の若い娘からも、幾度と貰ったことかある。
でも、贈り物をもらう時、いつも贈り主の心を見透かしてしまう自分がいた。これは何か見返りを求めているのだろう、とか、忍になってから人を疑うことが増えたと実感する。
それなのに、雪下さんに対してそんな疑心は一切抱かなかった。素直に彼女の好意が嬉しいと感じ、こうして大事に抽斗に仕舞っている。
それがすでに彼女への気持ちを表しているのだと分かりつつも認めたくない自分もいた。
◇
利吉くんが彼女を連れて来て初めて会ったとき、綺麗な人だと思った。だから利吉くんのお嫁さんでも仕方ないなとも思った。でも違うと知り、安堵のようなものが芽生えたのは事実だ。
『私も詩織さんのことは詳しくはないですが、そこの家では酷い扱われようでした。けれど、私を手当てしてくれてる間も、詩織さんは悪口も一切言わなかったんです』
初めはそんな彼女の手助けをしたいだけだった。
始めての実習の彼女になにかしてあげたくて、食堂のおばちゃんに頼んでお弁当を用意してもらった。
『行ってらっしゃいを言うためにここで待っていてくれたんですか?』
『誰にも言われないで行くのは寂しくないですか?』
彼女の背を見届けながら、身体の奥が熱を抱くのを感じていた。彼女と話せば話すほど、彼女のことを知りたいと思う自分がいることに戸惑いを感じた。
『突然すみません。はしたなかったですよね。あの…今度、酢の物が出てきたらお願いできますか?私、酢の物が苦手で』
『へへ…私の座右の銘です。亡くなった父もよく言っていました』
『もう!利吉さんったら!私の方が年上なのに!』
『土井先生まで私を子ども扱いなさるんですか?』
『私は利吉さんを頼るので、土井先生も私を頼ってくださいね?』
時折見せるギャップが、真っ直ぐな言葉が、私の中に緩やかに馴染んでいき、次第に胸が温かい気持ちを抱いていた。
『あの……私の話を聞いてくれますか?』
『土井先生は強いですね』
それでいて、彼女が抱える辛い部分や悲しみを垣間見たとき、どうしようもないほど彼女の支えになりたいと強く思ってしまった。
彼女はそんな私をただの『優しい人』としか思わないだろう。
それに、私がしなければいけないのは、目の前の忍者になろうとする子どもたちを導いてあげることで、私のことなんか二の次三の次であるべきなのだ。
私は彼女に相応しくない。
忍者としていつか死に行く運命である身である以上、私が彼女に対して特別な感情を持っていると外部に知られれば、それこそ彼女の身や忍術学園に危険を及ぼしてしまうかもしれない。
実習で残兵に襲われそうになったときよりも、辛いことが彼女に降りかかるかもしれない。
ならば、この気持ちに蓋をすればいい。
抽斗を開けるたび、彼女のくれた栞に想いを募らせながら、彼女を避ける日々を繰り返していた。
それが正しいと思っていた。
けれど。
『土井先生が詩織さんを泣かせたー!!』
まとめたテストの解答用紙を落とさぬよう指先に力を入れる私の目の前で、雪下さんは泣いていた。
土井先生ごめんなさい、と呟いて教室を出ていく。
『土井先生!追いかけてください!』
庄左ヱ門たちに言われ、私は彼女を追いかけた。
走って、
走って、
彼女の後ろ姿を追った。
事務室の奥間、閉ざされた扉の前で足を止めた。
『もしかして……私がなにかしてしまいましたか?』
胸がどうしようもなく苦しい。
当てはまることならいくらでもある。
彼女を避けるようになったこと。
名前を呼ばなくなったこと。
あまりにも弱々しい彼女の声に、今すぐ襖を開いて彼女を抱き締めたい衝動に駆られ、必死に拳を握り気持ちを閉ざす。
そんなこと、きっと彼女は望んでいない。
深呼吸をして胸の鼓動を落ち着かせる。
『明日は休みですから、町に出かけませんか』
けれど彼女の返事は素っ気ないものだった。
その晩、きり丸が部屋に訪れた。
「土井先生、ちょっといいですか?」
「どうした?きり丸」
普段とは違う佇まいに、きり丸は私の気持ちが筒抜けなんじゃないかと思い、そして予感は的中した。
「早く仲直りしたらどうなんですか」
仲直り、という子どもらしい言葉にそんな簡単なものじゃないと思う自分がいた。
私が彼女に抱く感情は、彼女にとったらただの重荷なのだ。
「心配かけてすまないな」
「俺、まだ子どもだからよく分からないですけど…ちゃんと詩織さんと向き合ったらいいんじゃないですか?」
きり丸のその言葉は、子どもゆえの真っ直ぐな思いで、それが私にはとても眩しく感じた。
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蓮華草の花言葉が『安らぎ』と言うのだと知ったのは、山田家でお世話になっているとき、山田先生の奥さんから教えてもらった。
『あなたのそばに、その花のような存在の方がいれば、きっと心安らぐ時が来るのでしょうね』
『私にとったら、生徒がその存在ですよ』
そう答えた日のことを思い出していた。
『いつも先生にはお世話になっているので、お礼の気持ちなんですが、受け取ってもらえますか?』
彼女が私に対してただの職場の同僚で、特別な思いで渡したわけではないことは重々承知していたはずだった。
けれど、抽斗に仕舞ったその栞を見るたびに、彼女の笑顔が脳裏に浮かんでいた。
「なんですか土井先生、さっきからニヤけちゃって」
「え?ニヤけてませんよ」
夜、翌日の授業準備をしていると、山田先生が言った。
「そうですか?さっきから、こーんな顔しちゃって」
目尻を下げて物真似のつもりなのか、ニヤケ顔をこちらへ向ける山田先生。
「そんなことありませんって」
「ほんとですかあ?私には、てっきり雪下君から貰った栞が嬉しくてニヤケてるのかと思いましたよ」
「そうでしたか?」
ここで変に否定したら認めてるようなものだ。なるべく平穏を装い言葉を返す。栞をもらったことを山田先生に話してしまったことに少しだけ後悔した。
「素敵じゃないですか。紅葉を持って帰ってくるなんて」
「ええ、そうですね」
私は心の中で何度も雪下さんに問いかける。
あなたにとったら私はただの同僚なんですよね?
それとも、特別だから栞をくれたんですか?
『土井先生と一緒に紅葉を見たかったなぁ、と思って』
あれは、どんな気持ちで言ったんですか?
何度問いかけても心の中の彼女は、ただ微笑むだけ。
女性からの贈り物は、これが初めてではない。
忍をしていた時も、教師になってからも、ご近所の若い娘からも、幾度と貰ったことかある。
でも、贈り物をもらう時、いつも贈り主の心を見透かしてしまう自分がいた。これは何か見返りを求めているのだろう、とか、忍になってから人を疑うことが増えたと実感する。
それなのに、雪下さんに対してそんな疑心は一切抱かなかった。素直に彼女の好意が嬉しいと感じ、こうして大事に抽斗に仕舞っている。
それがすでに彼女への気持ちを表しているのだと分かりつつも認めたくない自分もいた。
◇
利吉くんが彼女を連れて来て初めて会ったとき、綺麗な人だと思った。だから利吉くんのお嫁さんでも仕方ないなとも思った。でも違うと知り、安堵のようなものが芽生えたのは事実だ。
『私も詩織さんのことは詳しくはないですが、そこの家では酷い扱われようでした。けれど、私を手当てしてくれてる間も、詩織さんは悪口も一切言わなかったんです』
初めはそんな彼女の手助けをしたいだけだった。
始めての実習の彼女になにかしてあげたくて、食堂のおばちゃんに頼んでお弁当を用意してもらった。
『行ってらっしゃいを言うためにここで待っていてくれたんですか?』
『誰にも言われないで行くのは寂しくないですか?』
彼女の背を見届けながら、身体の奥が熱を抱くのを感じていた。彼女と話せば話すほど、彼女のことを知りたいと思う自分がいることに戸惑いを感じた。
『突然すみません。はしたなかったですよね。あの…今度、酢の物が出てきたらお願いできますか?私、酢の物が苦手で』
『へへ…私の座右の銘です。亡くなった父もよく言っていました』
『もう!利吉さんったら!私の方が年上なのに!』
『土井先生まで私を子ども扱いなさるんですか?』
『私は利吉さんを頼るので、土井先生も私を頼ってくださいね?』
時折見せるギャップが、真っ直ぐな言葉が、私の中に緩やかに馴染んでいき、次第に胸が温かい気持ちを抱いていた。
『あの……私の話を聞いてくれますか?』
『土井先生は強いですね』
それでいて、彼女が抱える辛い部分や悲しみを垣間見たとき、どうしようもないほど彼女の支えになりたいと強く思ってしまった。
彼女はそんな私をただの『優しい人』としか思わないだろう。
それに、私がしなければいけないのは、目の前の忍者になろうとする子どもたちを導いてあげることで、私のことなんか二の次三の次であるべきなのだ。
私は彼女に相応しくない。
忍者としていつか死に行く運命である身である以上、私が彼女に対して特別な感情を持っていると外部に知られれば、それこそ彼女の身や忍術学園に危険を及ぼしてしまうかもしれない。
実習で残兵に襲われそうになったときよりも、辛いことが彼女に降りかかるかもしれない。
ならば、この気持ちに蓋をすればいい。
抽斗を開けるたび、彼女のくれた栞に想いを募らせながら、彼女を避ける日々を繰り返していた。
それが正しいと思っていた。
けれど。
『土井先生が詩織さんを泣かせたー!!』
まとめたテストの解答用紙を落とさぬよう指先に力を入れる私の目の前で、雪下さんは泣いていた。
土井先生ごめんなさい、と呟いて教室を出ていく。
『土井先生!追いかけてください!』
庄左ヱ門たちに言われ、私は彼女を追いかけた。
走って、
走って、
彼女の後ろ姿を追った。
事務室の奥間、閉ざされた扉の前で足を止めた。
『もしかして……私がなにかしてしまいましたか?』
胸がどうしようもなく苦しい。
当てはまることならいくらでもある。
彼女を避けるようになったこと。
名前を呼ばなくなったこと。
あまりにも弱々しい彼女の声に、今すぐ襖を開いて彼女を抱き締めたい衝動に駆られ、必死に拳を握り気持ちを閉ざす。
そんなこと、きっと彼女は望んでいない。
深呼吸をして胸の鼓動を落ち着かせる。
『明日は休みですから、町に出かけませんか』
けれど彼女の返事は素っ気ないものだった。
その晩、きり丸が部屋に訪れた。
「土井先生、ちょっといいですか?」
「どうした?きり丸」
普段とは違う佇まいに、きり丸は私の気持ちが筒抜けなんじゃないかと思い、そして予感は的中した。
「早く仲直りしたらどうなんですか」
仲直り、という子どもらしい言葉にそんな簡単なものじゃないと思う自分がいた。
私が彼女に抱く感情は、彼女にとったらただの重荷なのだ。
「心配かけてすまないな」
「俺、まだ子どもだからよく分からないですけど…ちゃんと詩織さんと向き合ったらいいんじゃないですか?」
きり丸のその言葉は、子どもゆえの真っ直ぐな思いで、それが私にはとても眩しく感じた。
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