夕凪の彼方
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小川のせせらぎに耳を傾けながら、両手を洗濯カゴに入れて洗濯板で着物をゴシゴシと洗う。
川の水はもうすっかり冬仕様になっていて、これが昼間ではなかったらきっとすぐに霜焼けになっていただろう、というくらいの冷たさだった。
「詩織さん、まだ目が腫れてますね」
きり丸君に言われ、目頭を押さえる。
そうかな?と聞くと、きり丸君は頷いた。
「あんまり無理しない方がいいっすよ?」
「そうだね」
彼は不安がるような、悲しい声で尋ねた。
「どうしたんすか。土井先生と喧嘩でもしたんですか」
「ううん、そんなんじゃないよ」
「あのあと、土井先生教室に戻ってきても心ここに在らずって感じで。相当ダメージを受けてるんじゃないすか」
昨日、あれから土井先生を避けるように食堂にも行かず、自室に篭っていた。山本シナ先生が心配そうに声をかけてくれたのに、私は何も言葉を返せなかった。
朝一で忍術学園を出て、町で朝食を食べ、きり丸君のアルバイトを手伝っている。
「ところで、もうすぐ冬休みですけど、詩織さんは家に戻るんですか?」
「え?冬休み?」
「忍術学園は閉まるんで、先生方もみんな帰るんですよ。僕は土井先生の長屋に居候させてもらってますけど」
「そう、なんだ」
「詩織さんは、実家どこなんですか?」
洗った着物を絞りながら、驚きを隠せなかった。
全く予想していなかった。
忍術学園が閉まるということに。
行くあてが無くなるということに。
「実家は…ないんだ……あ、ごめん、こんな話」
思わず漏らしてしまった弱音に、きり丸君は動じることもなく、あっけらかんとした口ぶりで答える。
「なんだ、じゃあ、一緒に土井先生の長屋に来たらいいじゃないですか。そしたらすぐに仲直りできますって。それにきっと先生も喜びますよ」
子どもらしい発想に、少しだけ胸が温かくなった。
土井先生と仲直りしたい。
そう思うのに、彼に対する気持ちを認識してしまった今、前のように優しくされては余計に辛いだけのような気がした。
洗濯板から手を離して空を見上げる。
芽生えた感情を、どう扱っていいのか私には分からない。
「でも、どうかな……」
____
きり丸は、詩織の顔をじっと見つめながら、心の中でため息をついた。詩織がいくら否定しても、表情や仕草はそれを覆い隠せていない。
自分ならもっと簡単に話して、すぐに解決できるのに。
2人をなんとかしてあげたいという気持ちが、湧き上がっていた。
_____
「大丈夫ですよ。土井先生って鈍いとこあるから、こっちから言ってあげないと分かんないですよ?詩織さんからちゃんと話せば、土井先生もきっと分かってくれますって」
きり丸君は明るい声で言うけれど、私に向けられる眼差しには真剣味が漂っているように感じられた。
土井先生も気持ちを分かってくれる。
きり丸君のその言葉は、まるで先生も私のことを意識しているかのようで。
ねぇ、きり丸君。
土井先生は、私のことどう思ってるか知ってる?
思い浮かんだ言葉を声に出そうとしたとき。
「きり丸君!詩織さん!」
土手の上から、聞き覚えのある声が届いた。
「利吉さん!」
「やあ、2人とも。元気にしてたかい?」
「どうしたんすか、こんなところで」
「近くまで来たから忍術学園に寄って行こうかと思ってね」
河原に降りてきた利吉さんと目が合う。
いつものように、彼は爽やかな笑みが向けた。
「ちゃんと土井先生に見張られてましたか?」
「え、ええ…」
「?……どうかしました?」
「利吉さん。いま、詩織さんに土井先生の話はちょっと…」
「土井先生と何かあったんですか?」
利吉さんの顔が曇っていくのをきり丸は見逃さなかった。
「い、いえ!なんもないです!あ!そうだ利吉さん。山田先生なら冬休みに帰ると仰ってましたよ!」
「へぇ、父が……で、きり丸君は何を私に隠してるんだい?」
「な、なんも隠してないですよ〜」
「まるで私が忍術学園に来てほしくないような……その反応、図星だな?」
「いえ!そんなことないですう!」
「詩織さん、もしよければ私に話してくれませんか?」
そう言って利吉さんの手のひらが、私の肩に触れる。
彼の言葉に、一瞬何もかも打ち明けてしまおうかという気持ちが芽生えた。
同時に、利吉さんから向けられる優しさは、単なる優しさだけではないような気がした。自惚れなのかもしれないけれど、それこそ私が土井先生に向ける気持ちに似ているような。
「心配かけてしまってすみません。何もないですよ」
「そう…ですか」
眉を寄せて納得していない表情をした彼は、肩に触れていた手のひらをそっと離した。
◇
バイトの手伝いを終えて、忍術学園へと戻ると、利吉さんは手土産を持ってきていたらしく、一緒に食べないかと誘ってくれた。
「茶菓子を持ってきたので一緒に父の部屋で話しませんか」
部屋にはきっと、山田先生と同室の土井先生が昨日のテストの採点をしているにちがいない。
昨日の今日でまだ顔を合わせるなんてできそうにない。
「仕事があるので、すみません」
仕事なんてないはずなのに、断る理由につい嘘をついてしまった。利吉さんがなにか言いそうになったとき、きり丸君が彼の背を押した。
「ささ!山田先生の部屋はこちらですよ!」
「ちょ…きり丸君!」
瞬く間に一人取り残された私は、とりあえず仕事を見つけようと、裏庭で薪割りをすることにした。
裏庭には、お風呂を沸かすために焚べる薪が大量に置かれている。いつもなら鍛錬だからと食満君や潮江君たちが薪割りをしてくれるのだけれど、彼らはこの数日間野外実習で忍術学園を留守にしていた。
冷たい風が吹き抜け、手足はかじかんでいるが、心はそれ以上に重く感じていた。
薪を振り下ろすたび、頭の中に浮かぶのは土井先生のことばかり。
忍術学園に来てからというもの、人の温かい優しさに触れてばかりで、向けられる好意にどう接していいのか戸惑っている私がいる。
今までの私の人生の大半は、遠い親戚の家で、親のことも私のことも罵られて生きてきた。人の嫌悪感や拒絶に慣れていたから。
そして、土井先生に抱く感情が、優しくされたことで勘違いしてしまったのだと思うと途端に怖くなった。
きっと土井先生はそんなことを望んでいるわけではないに決まっているのに。私に優しくしたがために何も思っていない人に好意を抱かれるなんて嫌に違いない。
不意に背後から声がかかり振り返ると、そこには利吉さんが立っていた。
彼の表情は先ほどと変わらず穏やかなのに、
さっきまでとは違う何かを感じた。
「利吉さん……どうしたんですか?」
「詩織さん、冬休みは私の家に来ませんか?」
利吉さんの言葉に、一瞬言葉を失った。
心が揺れる。
冬休みの居場所を失いかけている今、利吉さんの優しい誘いはとても魅力的に映った。
「でも……」
「それとも…忍術学園にいることが辛いのであれば、私のもとへ来ませんか?」
熱い眼差しが私の瞳を逃さないように捕らえる。
私だってその言葉の意味がわからないほど子どもでない。
さっき思った利吉さんから向けられる優しさが、やはりそういう類のものだと知り、同時に胸が苦しくなった。
利吉さんは、私にとって命の恩人で……
できれば無碍に扱いたくない。
けれど、
それ以上に、私の胸を熱く焦がせるのはあの人しかいないのだと、自覚した。
突然、利吉さんが背後に視線を移す。
「盗み聞きですか、土井先生」
枯葉を踏む音とともに姿を現したのは紛れもない土井先生だった。
昨日ぶりだと言うのに、脈は上がり身体が熱くなる。
「盗み聞きだなんて利吉くん、私は雪下さんに話があって来たんだもの」
「私に、ですか?」
土井先生の眼差しが私に向けられる。
いつもの柔らかい眼差しに緊張が含まれているように見えた。
「冬休みなんですけど、もしよろしければ、私の長屋へ来ませんか?」
思ってもみなかった言葉に、思考が追いつかない。
「……いいんですか?」
「はい。もちろんです。きり丸も喜ぶでしょう。それに…私も雪下さんと仲直りしたいです」
一歩、また一歩と土井先生が歩み寄る。
重なった視線を離すことのないまま、気付けば利吉さんよりも近い距離に先生はいた。
「わざと避けていた訳ではないんです。は組の生徒が詩織さん詩織さんと呼ぶので、私までつい『詩織さん』と呼びそうになっていて、教師として適切な距離を保たないとと思って……でも、結果的に雪下さんを傷付けてしまいました。すみません」
土井先生の言葉に、頬が緩んでいくのがわかり口元を掌で覆い隠す。どうしようもなく嬉しかった。
私を嫌いになったわけじゃないんだと、
土井先生も私といるのは苦ではないんだと、
「………よかった……よかったです」
秋の風が落ち葉を揺らす。
目の前にいる土井先生と利吉さんが、私を見つめている。
二人はきっと私の答えを待っているのだ。
「利吉さん。先ほどのお誘いなんですが、私……」
「まあ、今回は土井先生に譲るとしましょうかね」
利吉さんはそう言って、少し冗談っぽく微笑んだ。
その瞳に、わずかな諦めが感じられた。
私はその言葉に驚き、彼の顔をじっと見つめた。
「利吉さん……」
何かを言いたかったけれど、言葉がうまく出てこない。
彼はそんな私の戸惑いを察したかのように、そっと微笑みを浮かべた。
「詩織さん、また土井先生のことで悩んだら、私がいつでも相談にのりますからね。貴女に悲しい顔は似合いませんよ」
優しい声でそう言いながら、利吉さんは土井先生に視線を向けた。2人の間に一瞬緊張感が漂ったのを感じた。
「では私はこれで。父の洗濯物を持って帰らないといけませんから」
利吉さんは軽く手を振って踵を返す。彼の背中がどんどん遠ざかっていく。私はその姿をしばらく目で追っていたが、どこかホッとしたような、けれど寂しいような気持ちが心の中に広がっていった。
利吉さんが完全に見えなくなり、私は土井先生の方へ視線を戻す。そこには、いつもと変わらないようで、でもどこかぎこちない表情を浮かべている土井先生がいた。
誰もいない裏庭で見つめ合う。
『土井先生って鈍いとこあるから、こっちから言ってあげないと分かんないですよ?』
『土井先生だって嬉しいに決まってます』
きり丸君の言葉が静かに私の背中を押す。
「……あの、一つ我儘を言ってもいいですか?」
「もちろんです」
手を土井先生に伸ばす。
少しでもいいから、触れたい。
「……手を…握っていただけますか」
土井先生が私の手を握った途端、
ぎゅっと手を引かれたかと思えば、
彼のぬくもりが私を包んだ。
私の身体はすっぽりと先生の腕の中におさまり、ただそこには裏庭の静寂とお互いの呼吸音と服越しに感じるお互いの心音だけが静かに流れていた。
→
川の水はもうすっかり冬仕様になっていて、これが昼間ではなかったらきっとすぐに霜焼けになっていただろう、というくらいの冷たさだった。
「詩織さん、まだ目が腫れてますね」
きり丸君に言われ、目頭を押さえる。
そうかな?と聞くと、きり丸君は頷いた。
「あんまり無理しない方がいいっすよ?」
「そうだね」
彼は不安がるような、悲しい声で尋ねた。
「どうしたんすか。土井先生と喧嘩でもしたんですか」
「ううん、そんなんじゃないよ」
「あのあと、土井先生教室に戻ってきても心ここに在らずって感じで。相当ダメージを受けてるんじゃないすか」
昨日、あれから土井先生を避けるように食堂にも行かず、自室に篭っていた。山本シナ先生が心配そうに声をかけてくれたのに、私は何も言葉を返せなかった。
朝一で忍術学園を出て、町で朝食を食べ、きり丸君のアルバイトを手伝っている。
「ところで、もうすぐ冬休みですけど、詩織さんは家に戻るんですか?」
「え?冬休み?」
「忍術学園は閉まるんで、先生方もみんな帰るんですよ。僕は土井先生の長屋に居候させてもらってますけど」
「そう、なんだ」
「詩織さんは、実家どこなんですか?」
洗った着物を絞りながら、驚きを隠せなかった。
全く予想していなかった。
忍術学園が閉まるということに。
行くあてが無くなるということに。
「実家は…ないんだ……あ、ごめん、こんな話」
思わず漏らしてしまった弱音に、きり丸君は動じることもなく、あっけらかんとした口ぶりで答える。
「なんだ、じゃあ、一緒に土井先生の長屋に来たらいいじゃないですか。そしたらすぐに仲直りできますって。それにきっと先生も喜びますよ」
子どもらしい発想に、少しだけ胸が温かくなった。
土井先生と仲直りしたい。
そう思うのに、彼に対する気持ちを認識してしまった今、前のように優しくされては余計に辛いだけのような気がした。
洗濯板から手を離して空を見上げる。
芽生えた感情を、どう扱っていいのか私には分からない。
「でも、どうかな……」
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きり丸は、詩織の顔をじっと見つめながら、心の中でため息をついた。詩織がいくら否定しても、表情や仕草はそれを覆い隠せていない。
自分ならもっと簡単に話して、すぐに解決できるのに。
2人をなんとかしてあげたいという気持ちが、湧き上がっていた。
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「大丈夫ですよ。土井先生って鈍いとこあるから、こっちから言ってあげないと分かんないですよ?詩織さんからちゃんと話せば、土井先生もきっと分かってくれますって」
きり丸君は明るい声で言うけれど、私に向けられる眼差しには真剣味が漂っているように感じられた。
土井先生も気持ちを分かってくれる。
きり丸君のその言葉は、まるで先生も私のことを意識しているかのようで。
ねぇ、きり丸君。
土井先生は、私のことどう思ってるか知ってる?
思い浮かんだ言葉を声に出そうとしたとき。
「きり丸君!詩織さん!」
土手の上から、聞き覚えのある声が届いた。
「利吉さん!」
「やあ、2人とも。元気にしてたかい?」
「どうしたんすか、こんなところで」
「近くまで来たから忍術学園に寄って行こうかと思ってね」
河原に降りてきた利吉さんと目が合う。
いつものように、彼は爽やかな笑みが向けた。
「ちゃんと土井先生に見張られてましたか?」
「え、ええ…」
「?……どうかしました?」
「利吉さん。いま、詩織さんに土井先生の話はちょっと…」
「土井先生と何かあったんですか?」
利吉さんの顔が曇っていくのをきり丸は見逃さなかった。
「い、いえ!なんもないです!あ!そうだ利吉さん。山田先生なら冬休みに帰ると仰ってましたよ!」
「へぇ、父が……で、きり丸君は何を私に隠してるんだい?」
「な、なんも隠してないですよ〜」
「まるで私が忍術学園に来てほしくないような……その反応、図星だな?」
「いえ!そんなことないですう!」
「詩織さん、もしよければ私に話してくれませんか?」
そう言って利吉さんの手のひらが、私の肩に触れる。
彼の言葉に、一瞬何もかも打ち明けてしまおうかという気持ちが芽生えた。
同時に、利吉さんから向けられる優しさは、単なる優しさだけではないような気がした。自惚れなのかもしれないけれど、それこそ私が土井先生に向ける気持ちに似ているような。
「心配かけてしまってすみません。何もないですよ」
「そう…ですか」
眉を寄せて納得していない表情をした彼は、肩に触れていた手のひらをそっと離した。
◇
バイトの手伝いを終えて、忍術学園へと戻ると、利吉さんは手土産を持ってきていたらしく、一緒に食べないかと誘ってくれた。
「茶菓子を持ってきたので一緒に父の部屋で話しませんか」
部屋にはきっと、山田先生と同室の土井先生が昨日のテストの採点をしているにちがいない。
昨日の今日でまだ顔を合わせるなんてできそうにない。
「仕事があるので、すみません」
仕事なんてないはずなのに、断る理由につい嘘をついてしまった。利吉さんがなにか言いそうになったとき、きり丸君が彼の背を押した。
「ささ!山田先生の部屋はこちらですよ!」
「ちょ…きり丸君!」
瞬く間に一人取り残された私は、とりあえず仕事を見つけようと、裏庭で薪割りをすることにした。
裏庭には、お風呂を沸かすために焚べる薪が大量に置かれている。いつもなら鍛錬だからと食満君や潮江君たちが薪割りをしてくれるのだけれど、彼らはこの数日間野外実習で忍術学園を留守にしていた。
冷たい風が吹き抜け、手足はかじかんでいるが、心はそれ以上に重く感じていた。
薪を振り下ろすたび、頭の中に浮かぶのは土井先生のことばかり。
忍術学園に来てからというもの、人の温かい優しさに触れてばかりで、向けられる好意にどう接していいのか戸惑っている私がいる。
今までの私の人生の大半は、遠い親戚の家で、親のことも私のことも罵られて生きてきた。人の嫌悪感や拒絶に慣れていたから。
そして、土井先生に抱く感情が、優しくされたことで勘違いしてしまったのだと思うと途端に怖くなった。
きっと土井先生はそんなことを望んでいるわけではないに決まっているのに。私に優しくしたがために何も思っていない人に好意を抱かれるなんて嫌に違いない。
不意に背後から声がかかり振り返ると、そこには利吉さんが立っていた。
彼の表情は先ほどと変わらず穏やかなのに、
さっきまでとは違う何かを感じた。
「利吉さん……どうしたんですか?」
「詩織さん、冬休みは私の家に来ませんか?」
利吉さんの言葉に、一瞬言葉を失った。
心が揺れる。
冬休みの居場所を失いかけている今、利吉さんの優しい誘いはとても魅力的に映った。
「でも……」
「それとも…忍術学園にいることが辛いのであれば、私のもとへ来ませんか?」
熱い眼差しが私の瞳を逃さないように捕らえる。
私だってその言葉の意味がわからないほど子どもでない。
さっき思った利吉さんから向けられる優しさが、やはりそういう類のものだと知り、同時に胸が苦しくなった。
利吉さんは、私にとって命の恩人で……
できれば無碍に扱いたくない。
けれど、
それ以上に、私の胸を熱く焦がせるのはあの人しかいないのだと、自覚した。
突然、利吉さんが背後に視線を移す。
「盗み聞きですか、土井先生」
枯葉を踏む音とともに姿を現したのは紛れもない土井先生だった。
昨日ぶりだと言うのに、脈は上がり身体が熱くなる。
「盗み聞きだなんて利吉くん、私は雪下さんに話があって来たんだもの」
「私に、ですか?」
土井先生の眼差しが私に向けられる。
いつもの柔らかい眼差しに緊張が含まれているように見えた。
「冬休みなんですけど、もしよろしければ、私の長屋へ来ませんか?」
思ってもみなかった言葉に、思考が追いつかない。
「……いいんですか?」
「はい。もちろんです。きり丸も喜ぶでしょう。それに…私も雪下さんと仲直りしたいです」
一歩、また一歩と土井先生が歩み寄る。
重なった視線を離すことのないまま、気付けば利吉さんよりも近い距離に先生はいた。
「わざと避けていた訳ではないんです。は組の生徒が詩織さん詩織さんと呼ぶので、私までつい『詩織さん』と呼びそうになっていて、教師として適切な距離を保たないとと思って……でも、結果的に雪下さんを傷付けてしまいました。すみません」
土井先生の言葉に、頬が緩んでいくのがわかり口元を掌で覆い隠す。どうしようもなく嬉しかった。
私を嫌いになったわけじゃないんだと、
土井先生も私といるのは苦ではないんだと、
「………よかった……よかったです」
秋の風が落ち葉を揺らす。
目の前にいる土井先生と利吉さんが、私を見つめている。
二人はきっと私の答えを待っているのだ。
「利吉さん。先ほどのお誘いなんですが、私……」
「まあ、今回は土井先生に譲るとしましょうかね」
利吉さんはそう言って、少し冗談っぽく微笑んだ。
その瞳に、わずかな諦めが感じられた。
私はその言葉に驚き、彼の顔をじっと見つめた。
「利吉さん……」
何かを言いたかったけれど、言葉がうまく出てこない。
彼はそんな私の戸惑いを察したかのように、そっと微笑みを浮かべた。
「詩織さん、また土井先生のことで悩んだら、私がいつでも相談にのりますからね。貴女に悲しい顔は似合いませんよ」
優しい声でそう言いながら、利吉さんは土井先生に視線を向けた。2人の間に一瞬緊張感が漂ったのを感じた。
「では私はこれで。父の洗濯物を持って帰らないといけませんから」
利吉さんは軽く手を振って踵を返す。彼の背中がどんどん遠ざかっていく。私はその姿をしばらく目で追っていたが、どこかホッとしたような、けれど寂しいような気持ちが心の中に広がっていった。
利吉さんが完全に見えなくなり、私は土井先生の方へ視線を戻す。そこには、いつもと変わらないようで、でもどこかぎこちない表情を浮かべている土井先生がいた。
誰もいない裏庭で見つめ合う。
『土井先生って鈍いとこあるから、こっちから言ってあげないと分かんないですよ?』
『土井先生だって嬉しいに決まってます』
きり丸君の言葉が静かに私の背中を押す。
「……あの、一つ我儘を言ってもいいですか?」
「もちろんです」
手を土井先生に伸ばす。
少しでもいいから、触れたい。
「……手を…握っていただけますか」
土井先生が私の手を握った途端、
ぎゅっと手を引かれたかと思えば、
彼のぬくもりが私を包んだ。
私の身体はすっぽりと先生の腕の中におさまり、ただそこには裏庭の静寂とお互いの呼吸音と服越しに感じるお互いの心音だけが静かに流れていた。
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