夕凪の彼方
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
小松田さん達と紅葉狩りに行く前夜、仕事を片付けて事務室を出ると、廊下に座り月夜を眺める土井先生がいた。
「お疲れ様です。今夜は朧月ですね」
薄雲に隠れるように、輪郭を掴めない幻想的な月が闇夜に浮かんでいる。月夜の光は土井先生の輪郭をはっきりと照らす。
「明日の紅葉狩り、私も行っていいかな?」
「……え?……あっ…は、はい」
突然の言葉に、思考が一瞬停止してしまう。
「ちょっと、今の間は…?」と土井先生は笑った。
「いえ、来ないとばかり思ってたので…あ、えっと、来てほしくないわけじゃないですよ?」
だめだとばかり考えていたから、言葉がしどろもどろになってしまった。
土井先生は立ち上がると、静かに言葉を発した。
「では、明日よろしくお願いしますね」
「はい」
「それだけです。おやすみなさい」
「あの………」
「どうしたんですか?」
「……いえ、なんでもありません。おやすみなさい」
引き止めた私に不思議そうな眼差しを向けた彼は、背を向けて教員長屋へ戻っていった。
ほんの小さな違和感だった。
もしかしたら違うかもしれないのに。
土井先生との距離が、まるで朧月のように、近くに見えるのに手を伸ばしても触れられないような気がした。
◇
翌朝、身支度を済まし朝食を食べ終えて、校門へ向かうとすでに久々知君の姿があった。その隣に同室の尾浜君の姿が見える。
「楽しそうだなって思って!俺も行っていいですか?」
「うん、みんなで行ったらきっと楽しいよ」
「詩織さん、兵助が豆腐を作ったので食べてくださいね!」
なるほど。それで久々知君は風呂敷を持っているのね。
そのあと順々に吉野先生、土井先生、小松田さんがやって来て紅葉狩りに向けて出発した。
空は肌寒く、遠くの山はもう山肌が露になっている。
もうすぐそばまで冬が来ているのだと知る。
目的地に着くと、ほとんどは見頃を終えた紅葉の葉が落ちていた。
「もう、けっこう枯葉になってますね」
「秋はあっという間でしたね」
空を見上げていた土井先生に、声をかける。
「一週間でこんなに散っていると思わなくて・・・・・・すみませんでした」
「いえ気にしないでください」
やっぱり小さな違和感を抱いた私は、土井先生が話を続けようとしたのが分かり、わざと背を向けた。
きっと「雪下さん」て呼んでくれると期待して。
でも現実は違った。
肩を軽く叩かれるだけだった。
「途中で買ったお饅頭でも食べませんか?」
「………」
違和感は確実なものに変わっていく。
けど何て言えばいいのか分からず固まっていると、枯葉を踏む音とともに誰かが姿を現した。
「わーい!お饅頭おいしそー!!」
「しんベヱ!?」
「しんベヱ君!?」
突然現れたしんベヱ君は、土井先生の持っていたお饅頭の包みを解いた。一足遅れて乱太郎君ときり丸君も姿を現した。
「土井先生、気づかなかったんすか?」
「き、気付いていたさ!お前たちなんで付いてきたんだ?」
「それは先生方や久々知先輩たちが集まってどこかにでかけるのを目撃したからでえーす!」
「…ったく仕方ないなあ…まあ来たからにはお前たちには課外授業をする!ついてこい!」
「「「え〜!!!」」」
土井先生は三人を連れて山の中へ消えていった。私は追いかけようとしたが、忍でもない私には到底追いつけるはずもなく、探すのも難しかった。
結局みんなのもとに戻り、小松田さんたちとレジャーシートに座る。強い風が吹いて肩にかけていた羽織を握った。
用意したおにぎりを頬張りながら、ただただ虚しさを噛み締める。
どうしようもない悲しみがそこにあった。
土井先生が、私の名を呼んでくれていないことに。
雪下さんでも、詩織さんとも呼ばれない。
ただそれだけのことが、どうしてこんなに苦しいんだろう。
伝えたらきっと先生は呼んでくれると分かっているのに、心のどこかで怖がっている臆病な私がいるのが不思議でならなかった。
「詩織さん!詩織さん!こいつが作った豆腐料理を食べてみてください!」
「ちょ…勘右衛門!詩織さん…食べてくれますか?」
両隣に尾浜君と久々知君が腰掛け、久々知君の風呂敷からお弁当に入れられた豆腐料理が顔をのぞかせた。
「うん、いただこうかな」
久々知君の豆腐料理はとても美味しかった。
時折私と目が合うと、久々知君は顔を赤らめて微笑むので、その度に胸が締め付けられるような微かな感覚があった。けれど、それが何なのか正体が掴めないまま、ただ徒に過ごした。
土井先生たちが戻ってきたのは、帰り支度を始めた頃だった。その頃には、私は久々知君や尾浜君から忍術を教えてもらったりしていて、土井先生と話すタイミングはないまま忍術学園への帰路を歩いた。
吉野先生、土井先生、小松田さんが先頭を歩いている。その後ろを私と1年生、5年生が歩いていた。
1年生は「四方六方八方〜手〜裏剣っ」と歌っている。
「もうすぐで冬ですね。湯豆腐や豆腐鍋が美味しい季節ですね!あんかけ豆腐に麻婆豆腐なんかもいいですよね!詩織さんはどの豆腐料理が好きですか?・・・・・・詩織さん?」
「あ・・・ごめんごめん。久々知君って本当に豆腐が好きだね」
私がそういうと、尾浜君がニヤリと笑って言った。
「詩織さん、兵助のために豆腐料理作ってくれません?」
「勘右衛門なに言ってるんだよ!詩織さん気にしなくていいですからね」
久々知君は顔を真っ赤にさせながらも嬉しそうだ。
「うーん・・・いいよ!帰ったら食堂のおばちゃんに聞いてみるね」
何かしていないと、土井先生のことばかり考えそうになっていた私は、尾浜君の冗談を聞き入れていた。
「久々知先輩!尾浜先輩!美味しそうな話が聞こえた気がするんですけど、なんの話ですかあ?」
「お!しんベヱ!聞いてくれ。詩織さんが兵助のために豆腐料理を作ってくれることになったぞ!」
「えー!!僕も食べたい!食べたーーい!!」
「いいよいいよ〜みんなに作るよ」
そのとき、前を歩く土井先生が、一瞬だけ視線をこちらに向けた気がした。けれども、土井先生が微笑みを向けることも言葉を投げかけてくれることもなかった。
土井先生の背中が遠い存在に見えた。
それでも、何か言いたくて、口を開こうとしたけれど、冷たい風が言葉をさらっていった。
結局何も言えないまま、久々知君たちの会話に耳を傾ける。
冬の訪れを感じる冷たい風が吹き、羽織が無意味に感じられた。
→