食堂の料理は五臓六腑に染み渡る
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温かな朝日が瞼にあたり、目覚めると板間の部屋。現実的ではない目の前の事実に深い溜め息を吐く。今日で何日目だ?昨日は女としての尊厳を失くした。ようやくそこで寝覚めのぼうつとした頭が覚醒した。週明けにはプレゼン資料を先輩に渡さねばならない。忍たまの世界に行ってて資料作れませんでしたなんて言い訳を、あの鬼先輩が許すはずもないし、そんな言い訳なんて異常だ。やばい。あの鬼先輩のことだから私不在でも速攻で資料を作ってしまえるだろう。だが後からネチネチと地獄の果てまで追いかけてきて嫌味を言われるか、アルハラで終電近くまで付き合わされるかのどちらかもしくは両方だ。この事態を打破するには元の世界に戻らねばならない。さてどうしたものか。
とりあえず起き上がり寝間着から事務服に着替える。昨夜土井先生から支給されたのだ。着ていた弓道着を見て「とても立派」と物珍しそうに見ていた彼。聞けば庶民の履く袴には腰板がないのだと言う。ならば弓道着で過ごすことは止めた方が無難だと判断し、事務服を拝借することにしたのだ。リュックの中には着替えもあるが洋服なんて着れば余計に存在が浮いてしまう。郷に入っては郷に従え。
「詩織さん、おはようございます」
ちょうど事務服の上着を着終え、袴を手にしたところだった。つまり下半身は下着だけの状態。声とともに襖が開く。消えろ。
「わ!す、すみませんっ!」
願いが通じ開かれた襖が勢いよく閉じる。ついでに今見た記憶も消してくれ。今開けたのは紛れもなく練り物嫌いな同い年の土井半助である。どういう了見で勝手に女性の部屋を開けるんだ。そもそもここはくノ一長屋だし、いくら教師と言えど大人としてのマナーを守っていただきたい。心の中で好き勝手に言い放つ。板のない袴は背筋がふにゃっとしたままな気がして馴染むのに時間がかかりそうだった。馴染む前に元の世界に帰りたい。
着替えを終えて襖を開けると、気まずそうに空を見上げる土井先生がいた。気配を消すな。
「先程はすみませんでした」
「記憶を消していただければ問題ないです。ところでどうしましたか?」
「あ、ええっと、一年は組の授業に出られるかと思って」
忍者になる授業、興味はある。頷くと「では朝食がてら食堂でも」と誘われる。スマートなワンオーワンミーティングの誘いだ。現実にいたら惚れる部下はいる。需要はここにある。
食堂のおばちゃんが私に「事情は学園長先生から伺っているわ」とフレンドリーに接してくれたお陰で、緊張の糸が解れた気がした。ここに来てからというもの女性より男性と話すことが多いから知らないうちに気を張っていたのかもしれない。女だからと舐められて溜まるか。特に留三郎くんと文次郎くん。あっ、しまった。心の中で名前を呼んだ瞬間、彼らの姿が視界に入る。食堂の向こうで、早食い競争をしている。
「詩織さん、こっちに来て一緒に食べませんか?」
伊作くんが呼ぶ。競走していた二人の眼差しがこちらに向けられる。こっちを睨むな。
「破廉恥女!土井先生から離れろ!」
なんて奴らだ。周りの忍たま達から向けられる訝しげな視線が痛い。精神的ダメージ100。
「こら、お前たち。詩織さんに失礼だろ?」
「土井先生、そんな奴に気を許してはいけません!」
「もしや昨夜すでに例の物をお使いになられたのですか!?」
「そんなわけあるかあああ!!!!!」
とんだ茶番のせいで、目の前には膨れたたん瘤を拵えた少年が二人。私は副菜のおひたしを食べている。うん美味い。
「全く、文次郎のせいでとんだ災難を受けちまった」
「なんだと!?元はと言えばこの不埒な女のせいではないか」
「文次郎、一ついいか?」とツヤ髪美少年が口を挟む。
「お前がそんなに詩織さんにつっけんどんに当たるのは、もしやお前が例の物を使いたいだけではないのか?」
おい、美少年よ、寝言は寝て言え。
「な!?な!?」
「ほう〜?文次郎ちゃんはあんあんなことがしたいのかぁ、そうかぁ」
「留三郎!!」「なんだやるか?」
「お前たち、いい加減にしろ!!!」
拳と頭蓋骨の弾ける音が響く。彼らのたん瘤は一つ増えた。
「で、アンタはいつ帰るんだ?」
留三郎くんが私に尋ねる。こっちが聞きたいくらいだ。
「しばらくは私が世話をすることになった。今日は一年は組の授業に出てもらおうと思ってね」
そのあとも、留三郎くんと文次郎くんが何やかんやあり、土井先生によって場が収束したが、あまりにも五月蠅かったので途中から私は耳を閉じていた。とにかくやっとこさは組のみんなに土井先生が私を紹介し、喜三太くんの隣に座る。うん、見慣れた顔がたくさんいるぞ。やはり乱太郎くんやきり丸くん、しんベヱくんの顔を見ると、本当にアニメの世界に来てしまったのだと実感するのだった。今朝聞いた衝撃の一つが、彼らは十歳ということだ。目の敵にしてくる六年生は十五歳ということも驚きだった。房中術が分からないが、そういう身体を重ねるとかそういうことなら、たとてトリップだとしても気が引ける。というか元の世界なら犯罪ではないか。
「詩織さん?」
おっとバカバカしいことを考えていたせいで折角の忍術の授業を聞きそびれてしまった。は組の生徒がぞろぞろと教室を出ていく。
「この後は山田先生の実技です」
「へえ、やってみたい」
軽々しく発言したことを後になって悔やむ。手裏剣とかそういうものじゃなかった。そりゃもちろん、よく考えれば分かることだった。金楽寺までマラソンだなんて。二十五の体力は最初の一分で限界を迎えた。高校卒業してから体育のない素敵な人生だったが、それと引き換えに体力を等価交換してしまった。ああつらい。
「大丈夫ですか?」
「はっはい…っふ、っは……っ、」
息も切れ切れになりながら走っていると、木の幹に足を取られ前に体ごと傾く。「わわわっ」と間抜けな声を発するが、体に衝撃がないので目を開けると土井先生が私を支えていた。というより胸を掴んでいる。それに気付いた彼は金切り声で叫んだ。
「ぎゃあああああああ!!!」
叫びたいのは私だ。それに恐ろしいものを見たような叫び方は何だ。それなりに私も傷付く。今朝の着替えを見られたことといい、今といい、彼にはラッキースケべの素質があるとみた。
「どうしました?先生」
「いや、あの……いま、鋼のような感触が……」
「ああ」
ブラジャーのことを教えてあげる。流石に見せられないが。それでも彼は顔を仄かに赤らめながら興味あり気に聞いていた。なんだ。ブラジャーからワイヤーを抜き取って武器にでもするのか。それは忍たまの世界が米花町になってしまう。でも乱太郎くんが解決してくれるに違いない。
「まぁ、南蛮から伝わったものと言えば分かりやすいですかね」
「なるほど。だからそんなに胸が強調されてるんですね…あっ」
「土井先生?」
私は極めて笑顔を取り繕う。例え彼の胸倉を掴み、拳を振り上げいたとしても心の中は菩薩だ。もう一度言う。私は極めて笑顔だ。微笑みのヴィーナスだ。視線を胸から外せ。
「……まったく、土井先生がこんなに助平でむっつりだとは思いませんでした」
これが初恋キラーなのかそうなのか。いやはや眉唾物である。元の世界の住人よ、これが画面で見せない彼の本性だ。
「そ、そういう目で見てたわけではっ!!」
はああん?二十五で言い訳がましいぞ。ん?二十五?
「私と同じ歳なら、これくらい経験ありますよね?」
「ま、まあ……」
「なんでそんな初々しい態度なんです?」
「いや、まぁ……しばらく子どもばかり相手にしてましたから」
なるほど。一理ある。そして運良く私は女性として見られたようで一応生物学的尊厳は守られた。
そのあと何とか必死こいて忍術学園まで戻った私は、この先の身の振り方を今一度思い直すことに決めた。
「それなら事務員はどうですか?」
事務員、と言葉を反芻する。
「あと委員会があるんですけど、上級生が少ない委員会もあるので、補佐してもらえると実習でいない時など助かります」
「委員会なんてあるんですね。わかりました、やります」
そんな話をしたのが半刻前。そして今、私の手には包帯巻き機がある。隣に乱太郎くんが明るく「包帯は〜」と歌っている。保健委員会の伊作くんは、六年生の中でも私には敵対心がないので自ら手を挙げた。間違った判断ではないと思う。保健委員なら危ない所には行かなさそうだし。なおこの時の私は保健委員会が不運委員会だなんて勿論知らない。
「詩織さん、歌いながら巻くと調子が取れますよ」
乱太郎くんのアドバイスに小声でリズムを刻む。うん、確かに調子が良い。
「詩織さんは遥か未来からやって来たと伺いましたけど、ご家族は心配していませんか?」
眉を寄せる彼に笑みを繕う。私だって大人だ。子どもに本音など漏らせない。
「うーん、戻り方も分からないからなぁ。大丈夫、家族とは心で繋がってるから」
我ながら臭いセリフだと思ったが、乱太郎くんが感動していたようなので良しとした。現実的な話、突然いなくなったら誘拐とか事件に巻き込まれたと思われるのだろうか。そうしたら上司が私のスマホに電話して不通なのを知ったら、大家立ち会いのもと家の中を探すのだろうか。そして最終的には警察に通報されてネットで顔を晒されたりするのだろうか。……ちょっと考えただけで恐怖が襲う。まじで勘弁してくれ。帰りたい。だが帰る術も知らない。だから開き直るしかない。
「乱太郎くんのおかげで包帯巻きが終わったよ。ありがとう」
そこへ籠を背負った伊作くんと伏木蔵くんが戻って来た。
「珍しく雨も降らず、山賊にも遭わずラッキーでした」
「乱太郎、伏木蔵と食堂に行って夕食を食べてくるといい」
伊作くんがそう言うと、乱太郎くんたちは医務室を出て行き、部屋には私と二人きりとなった。
「薬草摘みなんてするんだね」
「ええ、詩織さんのいる時代では薬草摘みはされないんですか?」
しないこともないかもしれないが、よく分からない。
「うーん、私は薬草摘みしたことないかなぁ」
「では今度一緒に行ってみますか?」
「いいの?やった」
「そしたら先程摘んで来た薬草を」
足元がお留守になっていた伊作くんは、包帯巻き機に躓き、その身体ごと私の上に覆いかぶさった。さほど衝撃が少なかったのは彼が忍たまで不運なわりには実戦経験を積んできたからだろう。目と鼻の先になった近さに顔が熱くなっていくのを感じたのは、彼氏と別れてからそういうことがご無沙汰だったからだと頭の中で言い訳を宣う。年下に欲情なんてどうかしている。そう思うのに重なった視線をなかなか外そうとしない彼に、体の芯が静かに熱を上げていく。視線を外すタイミングが分からない。ただじっと見つめる伊作くんの表情からは何を考えているのか読み取ることができない。先に動いたのは伊作くんだった。瞼を閉じて身を乗り出す彼。
「おおい、伊作。いるかあ?」
その声に伊作くんが距離を取る。開いた襖から留三郎くんが姿を現した。
「ど、どうしたんだい。留三郎」
留三郎くんは私に気付くと眉を寄せた。
「その曲者の」
「詩織さん、でしょ?」
「その……詩織さんは、弓が使えるんだよな?学園長先生が練習できる場所を作ってやれと用具委員会に伝達があったんで」
「弓道場を……?」
「あんたのいる時代とは違うかも知れませんがね」
「留三郎、言い方」
「ったく伊作。お前は気を許し過ぎだって」
「それでどうして僕の所へ?」
「用具委員会で練習できる場所を作ったんだが、確認してもらおうと思ってな。土井先生からここにいると聞いて来たんだ。おい、少しいいか」
留三郎くんはそう言って私の返事も聞かずに部屋を出ていく。それは私がついて来ることを信用しているからなのか、主導権は自分だと言いたいのかそれはよく分からなかった。向かったのは用具倉庫の近くだった。木枠に紙が貼り付けられた的は変わらない姿でそこにある。安土代わりに古い畳が置かれていた。しんべヱくんと喜三太くんが手を振って出迎えている。傍には私の弓矢と弽や胸当ての入ったポーチが置かれている。学園から支給された足袋のままでも大丈夫だろう。遠的で外での射は経験がある。
「ちょっと引いてみてもいいかな?」
「ええ、どうぞ」
胸当てと弽を着けて的前に立つ。執り弓の姿勢で的に視線を向け、ゆっくりと深呼吸をする。すぅ、不思議な気持ちだった。時代が変わっても私はいつもと変わらず弓を手にしている。弦調べを終えて、矢を番える。射法八節に従って動いていく。会に入り自然と矢が放たれるのを待つ。皆中音が夜闇に響く。すごーい!しんべヱくんたちが驚く。数日ぶりの弓で不安はあったけれど腕は鈍っていないようで一安心。
「留三郎くん、大丈夫みたい。ありがとう」
「……お礼を言われるほどでは」
視線を逸らして答える彼にまた何か機嫌を損ねることをしただろうか。そこへしんベヱくんが無邪気な笑みを向けて尋ねた。
「食満先輩も弓を引けますか?」
「まあ、引けなくもないが……道具をお借りしてもいいですか?」
弓を手にした留三郎くんは、矢を番えるとそのまま弓手を斜め下に押し出すように弦を引き分けた。数秒会を保った彼の離れには鋭さがある。耳を劈く弦音に思わず息を飲んだ。
「食満先輩もすごーーい!」
そう言ってしんベヱくんが拍手する。
「すごいね。今のって、斜面打起しだよね?」
私の質問に留三郎くんは首を傾げる。ああそうか、と口を閉じた。ここは戦国の時代なんだ。斜面打起しがこの時代では当たり前なんだと。
「さっきの引き方、あれが貴女のいる時代の引き方なんですか」
「ええ、そうです」
そう言うと留三郎くんはフッと唇から空気を漏らす。
「分かりました。貴女が別の時代から来たということを信用しましょう」
「なんで、急に?」
「あんな脇を開けてゆっくりと引いていたら、あっという間に敵に殺られます。貴女のいる時代は大層平和なようで」
そりゃあ失敬。ここより平和なのはそうだが何か棘がないか。まあいい。信用してくれるようになったのは素直に嬉しい。
「ありがとう、留三郎くん」
精一杯の笑顔を向ける。少しでも私に慣れてくれ。しかし彼は視線を合わせたかと思えばすぐに視線を外した。
「留三郎〜!詩織さーん!一緒に食堂へ行こう…てあれ、留三郎、顔が赤いけどどうしたんだい?」
伊作くんがやって来てそう言った。留三郎くんはそっぽを向いて食堂に向かって歩き出す。
「別に、何でもないさ」
ズンズンと歩いて行く彼の背中を伊作くんが見つめている。
「ふーん……」
伊作くん、それは何の「ふーん」だ。
「お前たち、さっさと行くぞ!」
「あ、待ってよ留三郎っ!詩織さんも行きましょう」
そう言う伊作くんの手のひらが、私の手を包む。
その握られた手のひらと、先を歩く留三郎くんの後ろ姿を見ながら、私は胸が温かくなるのを感じた。
元の世界に帰る方法はまだ分からない。でも、まあいいか。とりあえず、今夜は美味しい夕飯を食べよう。そう思うことにした。
とりあえず起き上がり寝間着から事務服に着替える。昨夜土井先生から支給されたのだ。着ていた弓道着を見て「とても立派」と物珍しそうに見ていた彼。聞けば庶民の履く袴には腰板がないのだと言う。ならば弓道着で過ごすことは止めた方が無難だと判断し、事務服を拝借することにしたのだ。リュックの中には着替えもあるが洋服なんて着れば余計に存在が浮いてしまう。郷に入っては郷に従え。
「詩織さん、おはようございます」
ちょうど事務服の上着を着終え、袴を手にしたところだった。つまり下半身は下着だけの状態。声とともに襖が開く。消えろ。
「わ!す、すみませんっ!」
願いが通じ開かれた襖が勢いよく閉じる。ついでに今見た記憶も消してくれ。今開けたのは紛れもなく練り物嫌いな同い年の土井半助である。どういう了見で勝手に女性の部屋を開けるんだ。そもそもここはくノ一長屋だし、いくら教師と言えど大人としてのマナーを守っていただきたい。心の中で好き勝手に言い放つ。板のない袴は背筋がふにゃっとしたままな気がして馴染むのに時間がかかりそうだった。馴染む前に元の世界に帰りたい。
着替えを終えて襖を開けると、気まずそうに空を見上げる土井先生がいた。気配を消すな。
「先程はすみませんでした」
「記憶を消していただければ問題ないです。ところでどうしましたか?」
「あ、ええっと、一年は組の授業に出られるかと思って」
忍者になる授業、興味はある。頷くと「では朝食がてら食堂でも」と誘われる。スマートなワンオーワンミーティングの誘いだ。現実にいたら惚れる部下はいる。需要はここにある。
食堂のおばちゃんが私に「事情は学園長先生から伺っているわ」とフレンドリーに接してくれたお陰で、緊張の糸が解れた気がした。ここに来てからというもの女性より男性と話すことが多いから知らないうちに気を張っていたのかもしれない。女だからと舐められて溜まるか。特に留三郎くんと文次郎くん。あっ、しまった。心の中で名前を呼んだ瞬間、彼らの姿が視界に入る。食堂の向こうで、早食い競争をしている。
「詩織さん、こっちに来て一緒に食べませんか?」
伊作くんが呼ぶ。競走していた二人の眼差しがこちらに向けられる。こっちを睨むな。
「破廉恥女!土井先生から離れろ!」
なんて奴らだ。周りの忍たま達から向けられる訝しげな視線が痛い。精神的ダメージ100。
「こら、お前たち。詩織さんに失礼だろ?」
「土井先生、そんな奴に気を許してはいけません!」
「もしや昨夜すでに例の物をお使いになられたのですか!?」
「そんなわけあるかあああ!!!!!」
とんだ茶番のせいで、目の前には膨れたたん瘤を拵えた少年が二人。私は副菜のおひたしを食べている。うん美味い。
「全く、文次郎のせいでとんだ災難を受けちまった」
「なんだと!?元はと言えばこの不埒な女のせいではないか」
「文次郎、一ついいか?」とツヤ髪美少年が口を挟む。
「お前がそんなに詩織さんにつっけんどんに当たるのは、もしやお前が例の物を使いたいだけではないのか?」
おい、美少年よ、寝言は寝て言え。
「な!?な!?」
「ほう〜?文次郎ちゃんはあんあんなことがしたいのかぁ、そうかぁ」
「留三郎!!」「なんだやるか?」
「お前たち、いい加減にしろ!!!」
拳と頭蓋骨の弾ける音が響く。彼らのたん瘤は一つ増えた。
「で、アンタはいつ帰るんだ?」
留三郎くんが私に尋ねる。こっちが聞きたいくらいだ。
「しばらくは私が世話をすることになった。今日は一年は組の授業に出てもらおうと思ってね」
そのあとも、留三郎くんと文次郎くんが何やかんやあり、土井先生によって場が収束したが、あまりにも五月蠅かったので途中から私は耳を閉じていた。とにかくやっとこさは組のみんなに土井先生が私を紹介し、喜三太くんの隣に座る。うん、見慣れた顔がたくさんいるぞ。やはり乱太郎くんやきり丸くん、しんベヱくんの顔を見ると、本当にアニメの世界に来てしまったのだと実感するのだった。今朝聞いた衝撃の一つが、彼らは十歳ということだ。目の敵にしてくる六年生は十五歳ということも驚きだった。房中術が分からないが、そういう身体を重ねるとかそういうことなら、たとてトリップだとしても気が引ける。というか元の世界なら犯罪ではないか。
「詩織さん?」
おっとバカバカしいことを考えていたせいで折角の忍術の授業を聞きそびれてしまった。は組の生徒がぞろぞろと教室を出ていく。
「この後は山田先生の実技です」
「へえ、やってみたい」
軽々しく発言したことを後になって悔やむ。手裏剣とかそういうものじゃなかった。そりゃもちろん、よく考えれば分かることだった。金楽寺までマラソンだなんて。二十五の体力は最初の一分で限界を迎えた。高校卒業してから体育のない素敵な人生だったが、それと引き換えに体力を等価交換してしまった。ああつらい。
「大丈夫ですか?」
「はっはい…っふ、っは……っ、」
息も切れ切れになりながら走っていると、木の幹に足を取られ前に体ごと傾く。「わわわっ」と間抜けな声を発するが、体に衝撃がないので目を開けると土井先生が私を支えていた。というより胸を掴んでいる。それに気付いた彼は金切り声で叫んだ。
「ぎゃあああああああ!!!」
叫びたいのは私だ。それに恐ろしいものを見たような叫び方は何だ。それなりに私も傷付く。今朝の着替えを見られたことといい、今といい、彼にはラッキースケべの素質があるとみた。
「どうしました?先生」
「いや、あの……いま、鋼のような感触が……」
「ああ」
ブラジャーのことを教えてあげる。流石に見せられないが。それでも彼は顔を仄かに赤らめながら興味あり気に聞いていた。なんだ。ブラジャーからワイヤーを抜き取って武器にでもするのか。それは忍たまの世界が米花町になってしまう。でも乱太郎くんが解決してくれるに違いない。
「まぁ、南蛮から伝わったものと言えば分かりやすいですかね」
「なるほど。だからそんなに胸が強調されてるんですね…あっ」
「土井先生?」
私は極めて笑顔を取り繕う。例え彼の胸倉を掴み、拳を振り上げいたとしても心の中は菩薩だ。もう一度言う。私は極めて笑顔だ。微笑みのヴィーナスだ。視線を胸から外せ。
「……まったく、土井先生がこんなに助平でむっつりだとは思いませんでした」
これが初恋キラーなのかそうなのか。いやはや眉唾物である。元の世界の住人よ、これが画面で見せない彼の本性だ。
「そ、そういう目で見てたわけではっ!!」
はああん?二十五で言い訳がましいぞ。ん?二十五?
「私と同じ歳なら、これくらい経験ありますよね?」
「ま、まあ……」
「なんでそんな初々しい態度なんです?」
「いや、まぁ……しばらく子どもばかり相手にしてましたから」
なるほど。一理ある。そして運良く私は女性として見られたようで一応生物学的尊厳は守られた。
そのあと何とか必死こいて忍術学園まで戻った私は、この先の身の振り方を今一度思い直すことに決めた。
「それなら事務員はどうですか?」
事務員、と言葉を反芻する。
「あと委員会があるんですけど、上級生が少ない委員会もあるので、補佐してもらえると実習でいない時など助かります」
「委員会なんてあるんですね。わかりました、やります」
そんな話をしたのが半刻前。そして今、私の手には包帯巻き機がある。隣に乱太郎くんが明るく「包帯は〜」と歌っている。保健委員会の伊作くんは、六年生の中でも私には敵対心がないので自ら手を挙げた。間違った判断ではないと思う。保健委員なら危ない所には行かなさそうだし。なおこの時の私は保健委員会が不運委員会だなんて勿論知らない。
「詩織さん、歌いながら巻くと調子が取れますよ」
乱太郎くんのアドバイスに小声でリズムを刻む。うん、確かに調子が良い。
「詩織さんは遥か未来からやって来たと伺いましたけど、ご家族は心配していませんか?」
眉を寄せる彼に笑みを繕う。私だって大人だ。子どもに本音など漏らせない。
「うーん、戻り方も分からないからなぁ。大丈夫、家族とは心で繋がってるから」
我ながら臭いセリフだと思ったが、乱太郎くんが感動していたようなので良しとした。現実的な話、突然いなくなったら誘拐とか事件に巻き込まれたと思われるのだろうか。そうしたら上司が私のスマホに電話して不通なのを知ったら、大家立ち会いのもと家の中を探すのだろうか。そして最終的には警察に通報されてネットで顔を晒されたりするのだろうか。……ちょっと考えただけで恐怖が襲う。まじで勘弁してくれ。帰りたい。だが帰る術も知らない。だから開き直るしかない。
「乱太郎くんのおかげで包帯巻きが終わったよ。ありがとう」
そこへ籠を背負った伊作くんと伏木蔵くんが戻って来た。
「珍しく雨も降らず、山賊にも遭わずラッキーでした」
「乱太郎、伏木蔵と食堂に行って夕食を食べてくるといい」
伊作くんがそう言うと、乱太郎くんたちは医務室を出て行き、部屋には私と二人きりとなった。
「薬草摘みなんてするんだね」
「ええ、詩織さんのいる時代では薬草摘みはされないんですか?」
しないこともないかもしれないが、よく分からない。
「うーん、私は薬草摘みしたことないかなぁ」
「では今度一緒に行ってみますか?」
「いいの?やった」
「そしたら先程摘んで来た薬草を」
足元がお留守になっていた伊作くんは、包帯巻き機に躓き、その身体ごと私の上に覆いかぶさった。さほど衝撃が少なかったのは彼が忍たまで不運なわりには実戦経験を積んできたからだろう。目と鼻の先になった近さに顔が熱くなっていくのを感じたのは、彼氏と別れてからそういうことがご無沙汰だったからだと頭の中で言い訳を宣う。年下に欲情なんてどうかしている。そう思うのに重なった視線をなかなか外そうとしない彼に、体の芯が静かに熱を上げていく。視線を外すタイミングが分からない。ただじっと見つめる伊作くんの表情からは何を考えているのか読み取ることができない。先に動いたのは伊作くんだった。瞼を閉じて身を乗り出す彼。
「おおい、伊作。いるかあ?」
その声に伊作くんが距離を取る。開いた襖から留三郎くんが姿を現した。
「ど、どうしたんだい。留三郎」
留三郎くんは私に気付くと眉を寄せた。
「その曲者の」
「詩織さん、でしょ?」
「その……詩織さんは、弓が使えるんだよな?学園長先生が練習できる場所を作ってやれと用具委員会に伝達があったんで」
「弓道場を……?」
「あんたのいる時代とは違うかも知れませんがね」
「留三郎、言い方」
「ったく伊作。お前は気を許し過ぎだって」
「それでどうして僕の所へ?」
「用具委員会で練習できる場所を作ったんだが、確認してもらおうと思ってな。土井先生からここにいると聞いて来たんだ。おい、少しいいか」
留三郎くんはそう言って私の返事も聞かずに部屋を出ていく。それは私がついて来ることを信用しているからなのか、主導権は自分だと言いたいのかそれはよく分からなかった。向かったのは用具倉庫の近くだった。木枠に紙が貼り付けられた的は変わらない姿でそこにある。安土代わりに古い畳が置かれていた。しんべヱくんと喜三太くんが手を振って出迎えている。傍には私の弓矢と弽や胸当ての入ったポーチが置かれている。学園から支給された足袋のままでも大丈夫だろう。遠的で外での射は経験がある。
「ちょっと引いてみてもいいかな?」
「ええ、どうぞ」
胸当てと弽を着けて的前に立つ。執り弓の姿勢で的に視線を向け、ゆっくりと深呼吸をする。すぅ、不思議な気持ちだった。時代が変わっても私はいつもと変わらず弓を手にしている。弦調べを終えて、矢を番える。射法八節に従って動いていく。会に入り自然と矢が放たれるのを待つ。皆中音が夜闇に響く。すごーい!しんべヱくんたちが驚く。数日ぶりの弓で不安はあったけれど腕は鈍っていないようで一安心。
「留三郎くん、大丈夫みたい。ありがとう」
「……お礼を言われるほどでは」
視線を逸らして答える彼にまた何か機嫌を損ねることをしただろうか。そこへしんベヱくんが無邪気な笑みを向けて尋ねた。
「食満先輩も弓を引けますか?」
「まあ、引けなくもないが……道具をお借りしてもいいですか?」
弓を手にした留三郎くんは、矢を番えるとそのまま弓手を斜め下に押し出すように弦を引き分けた。数秒会を保った彼の離れには鋭さがある。耳を劈く弦音に思わず息を飲んだ。
「食満先輩もすごーーい!」
そう言ってしんベヱくんが拍手する。
「すごいね。今のって、斜面打起しだよね?」
私の質問に留三郎くんは首を傾げる。ああそうか、と口を閉じた。ここは戦国の時代なんだ。斜面打起しがこの時代では当たり前なんだと。
「さっきの引き方、あれが貴女のいる時代の引き方なんですか」
「ええ、そうです」
そう言うと留三郎くんはフッと唇から空気を漏らす。
「分かりました。貴女が別の時代から来たということを信用しましょう」
「なんで、急に?」
「あんな脇を開けてゆっくりと引いていたら、あっという間に敵に殺られます。貴女のいる時代は大層平和なようで」
そりゃあ失敬。ここより平和なのはそうだが何か棘がないか。まあいい。信用してくれるようになったのは素直に嬉しい。
「ありがとう、留三郎くん」
精一杯の笑顔を向ける。少しでも私に慣れてくれ。しかし彼は視線を合わせたかと思えばすぐに視線を外した。
「留三郎〜!詩織さーん!一緒に食堂へ行こう…てあれ、留三郎、顔が赤いけどどうしたんだい?」
伊作くんがやって来てそう言った。留三郎くんはそっぽを向いて食堂に向かって歩き出す。
「別に、何でもないさ」
ズンズンと歩いて行く彼の背中を伊作くんが見つめている。
「ふーん……」
伊作くん、それは何の「ふーん」だ。
「お前たち、さっさと行くぞ!」
「あ、待ってよ留三郎っ!詩織さんも行きましょう」
そう言う伊作くんの手のひらが、私の手を包む。
その握られた手のひらと、先を歩く留三郎くんの後ろ姿を見ながら、私は胸が温かくなるのを感じた。
元の世界に帰る方法はまだ分からない。でも、まあいいか。とりあえず、今夜は美味しい夕飯を食べよう。そう思うことにした。
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