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オレはとっくに諦めた

 白い指がキーボードの上を踊る。剥き出しの硬い骨がキーを打つたびにカタカタと小気味良い音が鳴った。
 彼がパソコンを触るときは、手袋を外すのが常だった。彼は布越しで感覚が鈍るのを嫌っていた。
 キーには元々はアルファベットが印字されていたはずだが、すでに削れて読めなくなっている。このキー配列に慣れきった持ち主はブラインドタッチしかしないので、さして不便はしていないようだが。
 軽やかな通知音が鳴る。
 複数のグラフが表示されていた画面の端に通知ウィンドウが浮かんだ。
 その瞬間、キーを叩く軽快な音が絶える。
 おや、とでもいうように、頭蓋骨は骨の瞼を瞬かせた。その通知は彼が開発の大部分を任されたシステムからのものだった。
 眼窩に浮かぶ白い眼光の先には、「信号を検知」という端的な文字列があった。
 システムにアクセスしようとして、サンズは一瞬だけ躊躇を見せた。彼は今、他の同僚たちと同じく、決意を用いた生体実験の対応に追われていた。正直なところ、他のことをしている余裕はあまりない。
 けれども、久々に訪れた重力波観測システムからの通知の誘惑は甘美だった。
 ──マイケルソン干渉計。
 原理自体は初歩的な光学装置の一つだ。ただし、このプロジェクトにおいて要求される精度は凄まじい。
 何せ、この装置の目的は重力波による時空のごく微小な歪曲を観測することなのだから。
 この地下から遠く離れた宇宙で連星が衝突合体した時、一部の質量がエネルギーへと変じ、その膨大なエネルギーは空間の歪みの波となって宇宙空間を伝搬していく。その歪みの大きさというのがまた、途方もなく小さい。地球から太陽までの距離が原子一個分変化する程度のものなのである。この微小な変化を検知しなければならないのだ。
 地上の人間たちが構想し、実用化まで持ち込んだそれを、サンズは地下で再現することに成功していた。
 彼はこの重力波観測装置設計プロジェクトの主任だった。
 サンズの専攻は物理学である。それも、一般相対性理論及びそれを応用した宇宙物理学に詳しい。そのため彼は、地下からの脱出方法を探るこのラボの中で、時空理論を用いたアプローチでの結界突破技術の開発を任されていた。
 肋骨の内側に沸々と静かな熱が湧くのを感じながら、取り出されたデータと解析結果を開いた。口の端に自嘲じみた笑みが浮かぶ。──自分の主導するプロジェクトに進展があったというだけで興奮できるのだから、研究者とは現金なものだ。
 その観測対象が、本来の目的からかけ離れたものであったとしても。
 通知メッセージの文面から、干渉計が観測したものが連星衝突による重力波でないことはわかっていた。もし重力波の理論波形のテンプレートとの照合により取り出されたのならば、その旨も通知時に表示されるようにプログラムされている。
 そもそも、観測機から得られる生データはノイズが多く、そのままでは目的の波を見つけることは至難だ。ゆえに隣接する観測機の記録同士で積を取ってノイズを落としたり、波形のテンプレートでフィルターにかけたりでもしなければ、そもそも信号とノイズを分けることができない。
 解析プログラムから通知があったということは、ノイズから信号を篩い分けるために用意した、いくつものフィルターのどれかに引っかかったということだ。そして今回使われたフィルターは「連星衝突による重力波の波形を取り出すためのもの」ではない。
 だからこれは、未知の要因による波形であったということ。
 重力波のテンプレートとの一致でないならば、三機の観測結果が一致したため──観測記録の積が大きく、ノイズが偶然に一致した確率を超えたために通知が行われたのだろう。
 表示されたグラフにも、やはり、同じタイミングで似通った形状の振動が見受けられた。
「ただの地震ならいいが……地上の様子も探るべきか」
 資源に限りのある地下で、純粋に物理学を探求する余裕はほとんどない。まして重力波観測装置のような、全長がkm単位になる巨大な実験施設など、よほどの理由がない限り建造されるはずがなかった。地下で発展している魔法技術を援用することによって、多少の小型化と低予算化の目処が立っていたにせよ。ゴミ捨て場に流れ着いた現代宇宙物理学の参考書を熟読したり、地下では見えるはずもないのに星を見るための望遠鏡を自作したりするような、若い頃のサンズがやってきた個人レベルの酔狂とは、文字通りスケールが違うのだ。
 それが叶ったのは──叶ってしまったのは、この干渉計が天体現象だけではなく、地上の人類の動向を探るのに使えるだろうと判断されたからである。
 地下の干渉計の設計目的は、結界外の大規模魔術の観測だった。モンスターを地下世界に閉じ込める結界を生成、あるいは破壊するような、強大な魔力反応を検知するための方法の一つとして考案、発表された。
 もし人類が今度こそモンスターを根絶やしにするための兵器を開発、試運転したら、それとわかるように。彼らの進軍を予知できるように。
 彼らの持つ膨大な魂の力を利用した兵器が使われた場合も、わずかながら時空が歪むだろうと予想されていた。地下にモンスターを閉じ込めている結界の生成に匹敵するような、大規模な魔術が使われたならば、観測できる程度の波が生じる。また、地下結界に大きな変化があった場合も同様の事象が起こるだろうという計算結果も出ていた。

「……ちょっと、いいか」
 サンズは背後を通りがかった同僚を呼び止めた。フードを被った猫背の青年が足を止める。
「重力波観測システムに反応があったんだ。多分、自然現象じゃない。連星衝突の波形じゃなかったし、地震計も反応していなかった。俺は地上の人間が何かやったんじゃないかと睨んでいる」
 それで、と同僚はサンズに先を促した。
「あんた、地上の電波通信傍受を担当してたろ。忙しいところ悪いが、ちょっと調べてもらえねえか」
 彼は困ったように腕の中の書類に視線を落とした。──のだと思う。彼の顔は真っ黒で、表情を読み取ることができない。しかし、被っているフードが少しだけ俯いていた。
 地下と地上は結界によって分断されている。モンスターが地上に出ることは絶対にできない。しかし、行き来できるものもあるのだ。ウォーターフェルには地上から落ちてきたものが流れてくるし、過去には遺跡に人間の子供が落ちてきたことだってある。特に子供が落ちてきた穴はそれなりの大きさがあり、陽光が直接差していた。
 ここで、光とは電磁波である。光が通れるならば、電磁波が通るのも道理だ。──つまり、地上の人間が電波を使用して行っている通信も、わずかばかり地下に漏れてきている。
「大規模な兵器開発のニュースが流れてないか、確認してくれるだけでいいんだ。俺もウォーターフェルに新聞が落ちてないか探しに行ってくる。……もし何もなければ、一杯奢るからさ。バーガーとポテトをつけてもいい」
 そこまでいうなら、と彼は肩をすくめた。相変わらず、そっけなくてぞんざいな仕草だった。
「ありがとさん」
 同僚はその言葉に応じるように軽く片手を上げて去っていった。その背がドアの向こうに消える前に、サンズは自分のパソコンに視線を戻した。
 流れるようなタッチで、キーボードに骨の指を走らせる。
 この研究所は地下の技術の中心地だ。地下の各所には温度、湿度、気圧、放射線、魔力濃度、その他諸々の様々な計測器が設置されている。それらの情報はこの研究所に集積され、気象予報や災害予知のために解析されていた。故に、地震計の情報にアクセスするのも容易だった。
 重力波観測器は非常に繊細な装置だ。
 この干渉計は直角に分光させられた二本のレーザー光経路から成り立っており、装置の全景は巨大なL字型をしている。L字型の端には鏡が設置されており、そこでレーザー光が跳ね返って、光は二本に分けられたところへと戻っていく。合流した二本のレーザー光は波としての性質により、二本の経路長の差によって──光の波長の整数倍か、半波長分のあまりがあるかによって、干渉が起こり、レーザーの強度が増減する。整数倍なら、同じ波形同士の重ね合わせなので2倍の強度になるし、半波長のずれがあれば振幅が反転するので強度は0に近づく。このレーザーの強度の変化から、時空の歪曲──光の経路長の伸び縮みを観測するわけだ。
 厄介なのは天体現象による重力波だけではなく、地震や地上のミサイル試験、高速鉄道の通過まで、あらゆる地面の振動を拾い上げてしまうことだった。
 もちろん、地面の振動の影響を取り除くために、装置には各種の工夫が施されている。例えば、L字型のレーザー経路の端に置かれた鏡には幾重もの振動吸収装置が取り付けられている。それでも完全にノイズを取り除くことはできない。
 地面振動によるノイズの可能性を排除するために、まずは地下で観測されている各種の記録と照合した。干渉計で波を観測した時間帯の前後に変化が見られたものはないか、一つ一つ確認していく。
 ──気圧。相関なし。
 ──温度。相関なし。
 ──放射線濃度。相関なし。
 ──魔力濃度。相関なし。
 ──騒音計。相関なし。
 やはり、手がかり一つ見つからない。
「……行くか」
 ため息をついて立ち上がり、近道を使う。瞬間、サンズの姿は掻き消えた。


「無え」
 持ち帰った新聞を机の上に投げ置き、サンズは椅子に背を預けて天井を見上げた。無機質な白い天井に、規則的に配置された蛍光灯が眩しい。
 水を吸って文字の滲んだ新聞をいくら精読しても、兵器開発の情報は得られなかった。
 ──いくら極秘の実験だったにしても、時空が歪むほどの実験を報道屋に気づかれずに行うことなどできるのか?
 白い眼光が天井の一点を睨む。
 否、できるわけがない。
 あの振幅だ。もしこれが何者かが引き起こした現象であるならば、確実に「人間の魂」が関わっている。これほど膨大なエネルギーを得られるのは、それしかあり得ない。
 それなのに、地上の通信傍受を頼んだ同僚も、何の候補も見つけることができなかった。彼もまた訝しむそぶりを見せており、何度も首を捻りながら謝罪と共に「見つけられなかった」と報告した。そしてバーガーとポテトとナゲットを要求した。
 別に、彼がわざと隠したのだと疑っている訳ではないが。バーガーのために地下の危機を伏せることはしないだろう。それぐらいの信頼はある。
 ──それ以上におかしなことがあった。
 空の頭蓋の中で思考が渦を巻く。
 地下に設置された干渉計は三つある。それぞれがある程度の距離を置いて配置されており、観測した波の時間差によって振動の源の方角を推測することができた。複数の地震計の記録から震源を探るのと同じ原理だ。
 この計算によって、二つ分かったことがある。
 一つ目。やはり、地面の振動由来ではなかったこと。伝搬速度は光速だった。媒質は物体ではなく、空間そのものだ。
 二つ目。──震源が、地下世界の内部だったこと。
 深いため息が漏れる。
 初めはバグかと思った。何度も計算したが、計算結果は変わらなかった。
 解析コードの更新にミスがあったか、干渉計と標準時刻との同期が上手くいってなかったか。それとも半年前のコードの新調が原因か。
 原因になりそうなものをリストアップし、一つ一つの可能性を潰していった。テスト用波形データに対し、解析コードは正しい結果を返した。魔法を用いた1ピコ秒精度の時刻分配に狂いはなかった。全ての可能性は棄却され、──今朝方、また、「地下世界が震源」の時空波が観測された。
 悪態の一つもつきたくなる。アマルガム問題もまだ解決していないのに、これ以上の問題を抱えたくはなかった。
 けれども、見つけてしまった以上、これを無視することもできない。アマルガム以上の問題に発展する可能性だってあるのだから。
 研究所にある情報を過去一週間分、洗いざらい調べたが、大規模な魔力行使の痕跡もなく、異常気象があったわけでもなかった。人間が落下してきた可能性を検討する必要があるだろう。
「サンズ」
 自分の名を呼ぶ声に、頭蓋骨を傾けた。視線の先には小柄な影があった。
 生真面目そうな目つきをした彼も、この研究所の同僚の一人だ。
「疲れてるみたいだな」
「へいへい。サボってるとこ見られちまったな」
「ちゃんと休めよ。君は一人で抱え込みすぎるきらいがある」
 見透かすような同僚の視線から、ついと目を逸らした。踏み込まれるのは苦手だ。
 その気遣いがありがたいものであると、わかってはいても。
「……あんがとさん」



 研究室の中心、大きめの作業台の上に、計算ノートが叩きつけるように置かれた。続いてノートパソコンをカタカタと操作し、スクリーンと画面を共有する。
「多分、……多分、分かった」
 普段の彼らしからぬ熱と動揺の混じった声に、同僚たちは何事かと各々の椅子から腰を浮かせた。
「時間異常だ」
 やつれた表情の頭蓋骨の中心、黒々と空いた眼窩の闇に、いつにも増して鋭い光が浮かんでいる。サンズの手招きに応じ、ぞろぞろと作業台の周りに集まる。
「間違いない。理論上の波形とも一致する。ベータ型の時間断裂だ。──簡単に言うと、時間が巻き戻っている」
 画面上に表示されているのは、実測値と理論予測の重ね合わせ。波形が概ね一致しているのは、それらを初めて見る同僚たちにも一目で分かった。
「博士の理論式をシミュレーションしたんだ。二十年前ぐらいに一緒に書いてた論文の……ほら、この式を落とし込んでみた」
 熱に浮かされたような声。
「パラメータはざっくり入れただけだから、誤差はあるだろうけど……波形の一致率はそれなりに高いだろ」
 大きな顔の同僚がスクリーンに近づいて波形を凝視する。
「時空間の破断と結合……再構築……波面の拡散……」
 それぞれの軸の意味、波形が示すものを説明するサンズは常よりも早口だった。しかし、ここにいる全員がその速度の説明で理解できる猛者ばかりだ。ガスターの説明の方がよほど不親切だったものだ。今更問題にはならない。
 かつての上司、ガスター博士は稀代の天才だった。複数の分野に深い知識を有しており、何を専攻している部下とも会話が通じたものだった。彼の最も有名な仕事であるCORE設計は、機械工学と応用物理学の結晶である。対して、決意抽出機は魂魄生物学の最先端技術だ。
 彼は質と量の両方で、抜きん出た成果を出し続けていた。部下たちの間では、「ガスターには体が三つ、頭が九つある」と冗談めかして言われたものだった。彼は文字通り、頭の出来が違いすぎた。
 そんなガスターには、他人に話すことによって思考を整理する習慣があった。アイデアを閃いた時に近くにいた研究員は悲惨なものだった。会話中も無限に湧き出し続けるガスターの思考を、矢継ぎ早に浴びせかけられるのだ。半分も理解できれば良い方だった。
 全員が事態を把握した瞬間に、研究者たちは矢継ぎ早に口を開いた。
「何ができる? 何をすべきだ?」
「犯人を突き止めなければ」
「どうやって?」
「気づかれないようにしないと」
「既に警戒されているのでは」
「時間異常の影響を受けにくい場所は? セーフティゾーンを作れなきゃ意味がない」
「──これは何度目だ?」
 白熱する議論で数時間が溶けた。指数関数的に増えていた案はやがて収束し、対応が形を成し始める。
「随分前に、外界の観測装置作ってたよな。基底世界の情報を読み取るってやつ」
 長身の同僚が声を上げた。
「雑音が多すぎるし、情報の選別も難しくて、解析技術が進歩するまで停止するって話だったけど……」
「──ああ、一定周期で時間変動する要素はあった。それを使えばこれが時間異常だっていう確認ができる」
 食いつくように言葉を重ね、勢いよく頷く。
 理論上、時間異常はこの世界だけにとどまっているはずだった。この膜宇宙の外側には影響を及ぼしていない。ならば、基底世界の時刻を記録し続ければいい。そうすれば、いつ、どれだけ時間の跳びが発生したかがわかる。
「よし、方針は決まった。今はできることから進めていくぞ」
 俺たちはあのガスター博士の部下だったんだ。もっと酷い無理難題を押し付けられたことだってある。
 時間異常のひとつやふたつ、解明できないわけがない。




 聞きなれた通知音。
 この数日の間に、何度聞いたことか。とっくに十を越えている。
 苛立ちまぎれにシステムを開き、──解析結果を見た瞬間、サンズの目つきが険しくなった。
 振幅が小さい。
 遡行時間が短いことを意味している。震源はウォーターフェルの東部第三地区。
 ──もし犯人が存在するなら、まだこの近辺にいる可能性が高い。
 近道を使って計測器を手に取り、近くにいる同僚に声をかける。
「時間異常を観測した。遡行時間が短い。震源を探ってくる」 
「了解。こちらからも情報が得られ次第携帯に送る」
「助かる」
 低い声を残して、サンズの姿が研究所から消える。一瞬の後、ずんぐりとした骸骨の影がウォーターフェルの草花の間に立っていた。
 高い天蓋はサンズの切望する星空に似て、青白い鉱石が遠く淡く輝いている。ウォーターフェルを訪れるときは、いつも鉱石の作る星の似姿を見上げて地上に想いを馳せるものだったが、今回ばかりはその余裕がなかった。
 青白い光を帯びた花が下から骨の指を薄く照らす。片手に持った小型の魔力濃度計が逆光で黒々として見えた。思っていたよりも暗く、数値が読みにくい。画面がデジタルのものを持ってくるべきだったかと、サンズは内心でため息をついた。
 もし周辺でモンスターが魔力を行使したならば、この濃度計で痕跡を見つけられるはずだった。
 計測器の細い針の振れに気を遣いながら、サンズは慎重にあたりの気配を探った。
 サンズは戦闘には向かない。全てのステータスが1しかないのだから当然だ。1しかない攻撃力ではろくな抵抗もできず、1しかない体力では殺意の載った攻撃が掠るだけで死ぬ。
 しかし、目的が制圧でなく犯人の特定ならば、彼以上に優秀な追手はいなかった。彼固有の技術である「近道」を用いれば、目的の座標へすぐに移動できる。逃走も容易だ。1だけの防御力も、敵意への敏さと直結している。
 この「近道」もまた、彼の専門分野と縁深いものだった。
 サンズの専門は、決意や魂のエネルギーとはかけ離れたものだった。決意抽出機を用いた研究の後任にアルフィーが招かれたのは、彼女が霊魂と物質の相互作用に詳しかったからだ。
 これに対しサンズは、全く別の方向から地下脱出の研究を行っていた。サンズの専門分野は時空間に関わる物理学だ。故に、「空間を捻じ曲げて結界の内外をつなぐ」アプローチでの脱出方法の開発を任されていた。──未だに有効な方法を見つけられず、決意の研究に遅れをとってしまっている現状だが。
 ともかくも、「近道」はその研究の副産物である。この技術では結界を突破できず、結界内を移動することにしか使えないが、サンズ個人にとってはひどく便利な代物だった。
 足音を立てるのを厭い、サンズはまた「近道」で移動する。今度は視界の先、さほどの距離でもない。魔力を消費する感覚と、一瞬の浮遊感。手元の計測器の数値に変動はないか、もう一度確かめる。
 草花のそよぐ音の中に足音が混じっていないか、穴のない耳を傾けた。



「お疲れ様、サンズ」
「……空振りだった」
 半日かけてウォーターフェルの探索を終えたサンズを、アルフィーが出迎えた。他の同僚は帰ったか、地下のラボに潜ったらしい。
 持ち出していた計測器を所定の場所に戻す。ホットランド近くまで行ったからか、計測器の表面はざらざらとした感触になってしまっていた。──今日はもう疲れたから、砂を拭き取るのは明日にしよう。
 座って、と促され、ありがたく椅子に腰掛けた。半日の探索が徒労に終わり、サンズは疲れ果てていた。近道を使い続けたのも疲労の原因のひとつだろう。さして体力や魔力を消費するものではないはずだったが、今までにない回数で連続使用していた。
「これがほんとの骨折り損ってわけだ」
「ジョークを言える元気はまだ残ってるのね。良かった」
 ぱたぱたという足音が静かな研究室に響く。結果を聞いてこない彼女の優しさがありがたかった。それと同時に、彼女の声に疲労が混じっているのを聞き取る。
「自然現象の可能性もまだ捨てきれていないんでしょ。地道にやっていこうよ。わたしも出来ることがあるなら手伝うから」
 そっと目の前に置かれたのは、ジェラートを盛った皿と金色の花のハーブティー。サンズは先にティーカップの方を手に取り、湯気の立つお茶を口に流し込んだ。
「お、ありがとさん」
「もしモンスターが犯人なら、きっと慎重なはずだし……見つかっちゃってもやり直せるんだもん。そんな相手を見つけるのは、きっととっても難しいよ」
「heh. 気長にコツコツ、やらないと……だよな」
「そうだよ。やり続ければきっと、どうにかなるはずだから……!」
 カップを置き、ジェラートの方に手を伸ばす。口に含んだ途端、ひんやりとした冷気が頭蓋に流れ込んだ。飲み込んだ一口分が即座にエネルギーに変換され、疲弊しきった体を癒していく感覚に身を任せた。
 熱いお茶と、食べやすい食料。アルフィーは疲れた時に必要なものをよくわかっている。
「お前さんがまだ研究室にいてくれて良かったぜ。随分楽になった。ジェラート、ありがとな」
 お礼に、明日あたりナイスクリームでも買ってこようかと、思考の隅に書き留める。
 アルフィーの立場からすると、自然現象であるよりは、何らかの外部犯の仕業であることを祈りたいだろう。
 この時空波は今までになかった現象だ。もしこれが「最近になって発生するようになった」なら、その原因に決意の研究が関わっている可能性が高い。
 少なくとも、サンズならそう推測して、そちらの方面から検証を進める。他の同僚もきっと同じだ。地下で行われている大規模な実験はそう多くない。その中でも最もデリケートで未知の部分が多いのが決意の研究だ。
 一般モンスターの魔術行使による事故の可能性は、とっくに棄却されている。
 アルフィーが同僚たちに極力見せまいとしている不安や恐れを、サンズは痛いほどに感じていた。──だから少しだけ、居心地が悪い。
 サンズは元々、他のモンスターの感情の機微に敏感だった。
 他者の痛みを生々しく感じ取れてしまうから、残忍になどなれるはずがなく、攻撃力は最低の1。他者の悪意、敵意や害意にも敏感だから、防御力も同じく1。
 不必要なまでに見えすぎてしまう自分の察しの良さが、サンズはあまり好きではなかった。鈍すぎるのも考えものだが、多少は鈍感な方が過ごしやすいものだ。
 故にサンズは、他者と深く関わることを避ける傾向があった。同僚だって、仕事上の関係だ。あまり懐に入らせすぎない方がいい。持ち前の察しの良さでのらりくらりと会話しながら、愉快で有能な仕事仲間をやっているのが性に合っていた。
 サンズが好むジョークもそれの一環だった。腹を割って本音を言うよりも、痛快で表面的なやりとりをする方が楽なのだ。言葉遊びは嫌いではなかったし、連想ゲームも好きな方だったので、ジョーク趣味はすぐに彼の「キャラクター」として馴染み、周囲にも受け入れられた。
 だから今日も、余分なことは何も聞き取らなかったことにする。それが俺の処世術だ。
「じゃあ、そろそろ寝るよ。パピルスも待ってるだろうし。あいつ、遅くなるとうるさいから……。あんたもそろそろ休んだ方がいい」
「ええ、わかった。戸締まりは私がしておくからね。……あ、でも、ちょっと待って。聞きたいことがあったの、忘れてた」
「何かあったのか?」
 アルフィーの顔と正面に向き合う。アルフィーは眼鏡の奥で困ったように視線を逸らした。
「決意抽出機のパラメータ、変えた? 他のみんなは変えてないって言ってたから、サンズじゃないかなって思ったのだけど……」
「いや。俺は触ってない」
「そうだよね。内部時刻もおかしくなってて、……もしかしてあの機械、壊れちゃったんじゃないかなって……博士から引き継いだものなのに、どうしよう……」
「……アルフィー」
 閃光のような直感が頭蓋の中を瞬いた。
 よろめきそうになりながら、サンズはアルフィーに向き直る。
「そいつはきっと──」
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