21グラムの価値
──ああ、懐かしいな。
箱の中から短くなった鉛筆を取り出して、キャラは目元を和ませた。地下の学校に通い始める少し前にトリエルに貰った鉛筆だった。親指ほどの長さになるまで毎日学校で使った、思い出の品物だ。
あれからもう、一年近くが経とうとしている。
アズリエルと共用の子供部屋は散らかっている。部屋の中心に見えない境界があり、こちら側がキャラの領土で、あちら側がアズリエルの領土だ。その両方に、両者の私物が散らばっていた。
キャラも他人のことを言える立場ではないが、この頃のアズリエルの散らかし具合も相当のものだった。学校でもらったプリントが床に落ちているし、「後で元の場所に戻すつもり」らしい雑多なものが多数散乱している。
鉛筆を脇において、箱から次のがらくたを取り出そうとした時、リビングの方からトリエルの声が聞こえた。
「──キャラ! カタツムリパイを作るの、手伝ってくれない?」
「今行く!」
雑然とした子供部屋をそのままに、キャラは小走りに台所に向かった。子供用のエプロンを片手に持ったトリエルが待ち構えている。
「下ごしらえ、一緒にやりましょうね」
キャラは短く頷いて、エプロンを受け取った。手早く頭にバンダナを巻き、作業に取り掛かる。カタツムリ一匹一匹から内臓を取り除く下ごしらえにも、もう慣れたものだ。この頃はパイ以外のカタツムリ料理も、少しずつ習得し始めていた。
「最近、調子はどう?」
「ぼちぼち」
「そろそろ試験の時期だったわよね」
「もう終わった。ちゃんと満点」
「学校の友達ではうまくやれてる?」
「モンスターはみんな優しいよ」
視線を手元に向けたまま会話をする。キャラのまだ小さな手とトリエルの大きな手が横に並んで、休みなく動いていた。トリエルの手は大きいが、その見た目に反してとても器用だ。キャラとトリエルの作業の速度はほぼ等しかった。
あれ以来一度も体調を崩していないのに、トリエルは頻繁にキャラの体調を心配して体調を聞いてくる。その配慮がくすぐったくもあり、多少鬱陶しくもある。──贅沢なことだ。
二人とも手際よく進めたため、さほど時間もかからずカタツムリの処理が終わった。トリエルはそれらをフライパンに入れて、バターで炒め始めた。パセリとニンニクをベースに、香辛料を少々。仕上げにローズマリーを加えるのがトリエル流だ。
軽やかな手つきで味つけをしていくトリエルを、キャラは目を輝かせて見守っていた。魔法の火で料理をするトリエルを見るのが好きだった。普通の火とは異なる色合いの炎がフライパンの底を舐める。──いつか自分も、こんな魔法が使えるようになりたいものだ。
「盛り付けの時にまた呼ぶわね。自由にしていていいわよ」
「了解、母さん」
トリエルからそう言われたので、キャラは名残惜しく台所を後にした。「見ていたい」と言えばいいだけの話だが、それを口にするのは少しばかり気恥ずかしい。
廊下を歩きながら自分の手元を見つめ、眉根を寄せて集中してみようとする。モンスターと違って、キャラの体は水が主成分だ。魔法でできているわけではない。彼らのように感覚的に扱うのが難しいのは、おそらく、そのせいなのだろう。
「あ、キャラ。お疲れ!」
キャラは部屋の入り口で足を止めた。
子供部屋にはいつの間にか帰ってきていたらしいアズリエルがいた。部屋の中は見違えるほどに綺麗になっており、床面積が二倍になっている。
心臓がばくばくと音を立てていた。
「ちょっと片付けたんだ!」
──キャラの領土の方までも、片付いてしまっている。
白い紙箱はそのままだ。駆け寄って中を見る。──足りない。
鉛筆も、レシートも、出していたものが全部なくなっている。
「──なあ、アズ。ここにあったものは……」
硬い声を自分の喉から絞り出す。
「キャラが散らかしてたゴミ、ちゃんと捨てといたよ! 貸し一つにしといてあげる」
視線が部屋の中を横切る。隅に置かれていたゴミ箱に飛びつき、その中を覗き込んだ。──見覚えのあるレシートが中にあった。
「えっ⁉︎ ちょっと、何してるのキャラ⁉︎」
キャラはゴミ箱の中身を床にぶちまけた。
折り目のついた使用済みの包装紙、短くなった鉛筆、歯形のついたアイスの木の棒、── 初めてもらったお小遣いで、アズとお菓子を買った時のレシート。
その他さまざまな宝物が、アズリエルが捨てたものとごちゃ混ぜになって床に散乱する。キャラはその中から自分のものを拾い集めていく。
アズゴアから園芸用ダガーをもらった日。トリエルに勉強をみてもらった思い出。ホットランドに行った時、家族みんなで食べたナイスクリームの冷たさ。
「あの、それってゴミじゃ──」
肩のあたりに伸びてきた毛むくじゃらの手を、渾身の力で払い除けた。加減をする余裕も、その発想もなかった。
予想以上に重い手応えと共に、アズリエルが倒れる音が聞こえた。
──瞬間、キャラの耳に音が戻ってきた。
倒れ伏したアズリエルが苦しげに顔を歪めている。──今、自分の拳はどこに当たった?
キャラの顔から血の気が引いた。
先程までとは別の理由で心臓が大きく跳ねる。
──アズはボスモンスターだ。
キャラより足が早く、力も強い。分厚い毛皮があるから、いつも何の心配もなく両親に抱きつける。彼らの鋭い爪が誤って肌を裂いてしまわないように、キャラのように気を付ける必要がない。
だからキャラよりも、体が丈夫なはずなのに。──どうして、非力な私の拳でアズリエルが倒れた?
考えがまとまるよりも先に体が動いていた。箪笥を開けて、菓子の入った紙袋を取り出す。先週の残りがまだ残っている。モンスター飴が3個、チョコチップクッキーが1袋、スパイダードーナッツが1個。それら全部を取り出して、アズリエルの口の中に震える手で無理やり詰め込んだ。
ごほごほと咽せる音が聞こえた瞬間に、鼻の奥が痛くなる。視界の一部が滲んだ。
「えっと、……その、キャラ──」
遠慮がちな声を聞きたくなくて、キャラは子供部屋から逃げた。
玄関。リビングには行きたくない。──行けない。咄嗟に家から飛び出して、コアからホットランドへ通じる道を追い立てられたかのように駆け抜けた。
かつてガスターから聞いた話が、耳の奥をこだましていた。
── 体が魔法でできているモンスターにとって、害意は毒として働く。
ベッドの脇に座る、表情の読みにくいモンスターの顔を見上げた。これから聞くことは、キャラにとって自分の体調と同じほどに重要なことだった。
「……ガスター。なぜモンスターは人間との戦争で負けたんだ? モンスターは人よりも強い体を持っているのに」
「それは前提が正しくないね」
白黒の顔が首を傾げる。
「モンスターよりも人間の方が強い」
「どういう意味だ? 人間には爪も牙もない。足は遅いし、岩を投げることもできないし、空を飛ぶことも魔法を使うこともできない。……魔法を使える人間はいたのかもしれないが、私は見たことがない。人間がモンスターに勝てる想像がつかない」
手足の末端が訴える痛みを無視して、キャラは言い募った。
「君はモンスターの体のつくりを誤解している」
黒い線の口が緩く弧を描いた。
「体が魔法でできているモンスターにとって、害意は毒として働く。君が思っている以上に、モンスターは脆い」
「……害意?」
因果関係がわからず、キャラは眉根を寄せた。
地下随一の知恵者らしい博士は、生徒に話すかのように、ゆっくりとキャラに語る。
「魔法は魂が引き起こす現象だ。感情も同じく、魂を由来とするもの。故に、モンスターの体は感情の影響を受けやすい。自分の感情にも、──相手の感情にも」
「感情なんてものが外界にまで影響を及ぼすと?」
「ああ、そうだとも。魂は常に波を発している。これが空気中や物質中を伝っていく。空気の振動である声のようなものと思って欲しい。この『声』は魂の状態……つまり感情によって、変化する」
穴の空いた手が浮遊し、持ち主の言葉に合わせて空中に波線を描く。
「そもそも人間の魂というのは、この伝播する感情を発生させるために進化・発達したと考えられている。強力な魂ほど、より強い信号を出すことができるからね」
窓から小鳥の鳴く声が聞こえた。ガスターはちらりと窓の外に目を向ける。
「音による言語が発達した今はもう、この機能はほとんど意味を失ってしまっているが……。ほら、君も『空気を読む』とか言ったことができるだろう。喋る前から、たとえば同じ部屋に入ったその瞬間から、相手が怒っているとわかる時があるだろう。これは遥か昔の人類が魂によって交信していたことの名残だ」
ガスターは体の周りに次々に浮遊する手を生み出した。──これが彼お得意の魔法らしい。アズリエルの炎のように。
「モンスターの魔法というのは、この魂の『声』を使った技術だ。より空気中の粒子に魔力の声を意図的に当てて、形状とエネルギーを与えることで魔法を引き起こしている。……多くのモンスターはこれを感覚的に行っているから、原理自体を理解していないものも多いがね」
浮遊する手の内の一つが卓上からペンを取り上げた。その手は慣れた様子でペン回しを披露する。
「このように、魔法は『声』でできているぶん、自分自身の感情や、他の『声』からの影響を受けやすい。強い思いに肉体は呼応するし、無警戒であればダメージを受けやすい。モンスターにとって精神論は全くの事実でしかない。心持ちは体を強くも弱くもする。物理的にね。
特に敵意、害意、殺意を抱いた魂から放たれる『声』はモンスターの魔法、すなわち体を蝕む。声は物体を通して伝わりやすいから、『殺意の乗った攻撃』なんかは当たりどころによらず致命傷になるわけだ」
ペンを回していた手が、近くにある別の手にペンを向けた。ペン先を振りかぶり、もう一方の手に突き立てる。それと同時に、突き立てられた方の手が霧散した。ガスターが魔法を解いたらしい。
「モンスターは敵意を抱かれると弱い。その上、人間は強い魂を有している。魂が強い分、魂の声も強くなる。人間がモンスターを殺すと決めた時に、私たちの敗北は決まっていたわけだ。……あれは戦争と呼べるものではなかった」
キャラは唇を引き結んで、ガスターの言葉を聞いていた。地上で聞いていた話とは随分と違っていた。
──モンスターは恐ろしい存在であり、人類は自衛のために戦った。
──彼らは人間の魂を食べるから……
一呼吸分の躊躇ののち、キャラは口を開いた。
「……モンスターが人間の魂を食べるというのは事実なのか?」
ガスターは小さく首を傾げ、静かにキャラの瞳を覗き込む。
「何故?」
「……食べようとしてきたやつが一人もいなかったから。地上で聞いたことが、どこまで本当で、どこまでが間違って伝わったものなのか、知りたい」
「嘘ではない。モンスターは人の魂を取り込める」
「取り込んだやつがいるのか?」
「はるか昔に」
「それが戦争の原因か?」
「間違いではない。だが、そ れ が起こったのは戦争よりも更に昔のこと、私もまだ生まれていない頃のことだ」
そこでガスターは言葉を切った。
ガスターの視線がキャラの胸元に向けられた。──正確には、その中にある魂に。
「キャラ、君の魂は非常に重い」
「……それはモンスター流の嫌味とかではないよな?」
唐突な言葉に、キャラは胡乱な視線を向けた。
「比喩ではなく事実だよ。君の魂は21グラムもある」
「……からかっているのか?」
ガスターは生真面目な表情を崩さなかった。
「まさか。これは魂としてはとても重いんだ。人間の魂の強さの話だよ」
「へえ」
「魔法を生み出すのは魂の力だ。人間の魂を取り込んだモンスターは、魂をそのまま燃料として扱うことができるようになる。21gもの魂があれば、──都市一つを焦土にするに十分なエネルギーになる。それほどの力があるんだよ、君の魂には」
なおもキャラの魂を見つめるガスターの視線に、一瞬、ぞくりと背筋に寒気が走った。今まで会ってきたどんなモンスターとも違う、得体の知れなさがガスターの顔に影を落とす。
このモンスターは研究者だ。彼にとっての自分の魂の価値は計り知れない。他のモンスターよりもずっと、ヒトの魂に詳しいガスターならば。
キャラの全身を緊張が駆け抜けた。
しかし、彼は何事もなかったかのように穏やかな声で話を続けた。
「わかるかい。ヒトひとりがモンスターに食われるだけで、都市一つが壊滅する。そうすれば人がたくさん死ぬだろう。モンスターはさらにたくさんの魂を得て、力を得る。一度この連鎖が始まれば、人類がモンスターに勝つことは不可能だ」
ガスターは苦笑いを浮かべた。学生を受け持つ教授らしく、彼はキャラに問うた。
「これを知った人間がどう行動したか、──賢い君ならわかるだろうね」
「……だから、モンスターを追いやったのか。この地下に」
殺される前に殺したのだ。自らの保身のために。
ガスターは頷いた。
「そうだ。そして人類は彼らの魂の力を使って封印を施した。もう二度とモンスターが人間と接触することがないように。……あのバリアを破壊するには、人間の魂7つも分のエネルギーが必要だ。モンスターがいくら集まっても、あのバリアはどうすることもできない。」
そうだ、とガスターは宙を見上げて呟いた。教育者然とした口調で、彼はまた言葉を重ねた。
「知識には二種類ある。経験によって得られた知識と、理論によって推測される事実だ。
『バリアの破壊に七つの人間の魂が必要』というのは、私が計算によって得た情報なので後者に該当する。人ひとりの魂を取り込んだモンスターならば、あのバリアを超えられるだろうと言うこともね」
ガスターは壁に目をやった。キャラは彼の視線を追った。無地の壁だ。絵やポスターが貼られている訳ではない。彼が何を見ているのかわからなかった。
「一方、モンスターが人間の魂を吸収するとどうなるか、という話は、先ほど言った通り、前者だ。はるか昔に、実際にあった事として記録が残っている。そのモンスターはもう生きてはいないが、子孫は残っている。……今のボスモンスターのことだ」
彼の視線の先──玉座があるのがその方向だと気づいた。
「彼らの魂が他のモンスターよりも強いのは、先祖が人間の魂を取り込んだからだ」
耳元で風の音が聞こえた。
積もっていた枯葉の山の一部が風にさらわれて目の前を通り過ぎる。──数日前に、アズリエルとここで遊んだ。
キャラは枯葉から目を背けた。
どこに行っても、アズリエルとの思い出が追いかけてくる。スノーフルの雪原も、ウォーターフェルの草むらも、どこもかしこも、全て。
息はとっくに切れていた。地下世界を横断したのだから当然だ。
そのどこにも、キャラにふさわしい場所はない。
──不意に周囲が明るくなって、キャラは光の差す方を見上げた。
モンスターの魔法による光ではない、本物の太陽の光が穴から差し込んでいた。丸く切り取られた青空の中に、鮮烈な太陽が浮かんでいる。
いつの間にか、自分が落ちてきたところまで戻っていたらしい。引き攣った笑い声が口から漏れた。あの先に明るく冷酷な地上がある。
──私は地下にふさわしくない。
モンスターを傷つけるのは、凶器の鋭さではない。敵意、害意の有無だ。その点で自分は、致命的なほどに彼らとは相容れない存在だった。
あの日の自分はトリエルを殺しかけていたのだろう。トリエルはきっと、相当傷ついていたはずなのだ。あの日のアズリエルも、同じく。キャラは彼らに敵意を抱いていたのだから。
気づくのが遅すぎた。
──私はモンスターにはなれない。
どれだけ歓迎してくれていても、どれだけ「仲間」と呼んでくれても、自分が人間であることは変えられない。あの憎い村の人間たちと同じ、野蛮で残酷な生き物。
異物だ。
喉の奥で声を噛み殺した。
空にはうっすらとバリアが見えた。──あれのせいで、モンスターだけではなく、キャラもここから立ち退くことができない。この優しいモンスターから自分を隔離することができない。
自分がここにふさわしくないことが、こんなにも分かり切っているのに。
傲慢な人間たちが、モンスターを閉じ込めるためにあのバリアを張った。モンスターたちから何もかもを奪い、広い地平と陽光を独占した。この不条理が許されていいはずがない。
地上にふさわしいのがどちらであるかなんて、そんなことは考えるまでもない。
──『私は、君が地下に来てくれたことに感謝しているんだ』
かつてアズゴアはそう言った。
アズゴアはキャラを王家の子供として育てた。キャラは地下にいるただ一人の人間だ。人間の代表として、和解と解放の象徴にしたかったのかもしれない。
けれども、自分の最大の価値がどこにあるのか、キャラは知っている。モンスターと人間の関係。魂のエネルギーと結界の突破方法。
自分が地下にいる唯一の人間であること。
ばらばらな情報にすぎなかったそれらが、朧げに形を作り、意味を生み出していく。
──そう、私は人間の代表だ。
キャラの口の端が歪んだ。
この体の中にあるはずの、重い魂の形を夢想する。
──私の魂はエネルギーであり兵器だ。
愛と希望と思いやりだけでできているわけではない、この醜く有用な魂を。
──私の魂は結界を通るための鍵だ。
強く、寒々しい風が洞窟を吹き抜ける。陽の光を求めて上へと首を伸ばす植物たちは、今にも倒れそうなほどに揺れている。
風はキャラの肌を打ち、髪をかき乱していた。天に向けて手を伸ばす。血の色が赤く透けて見えた。血と肉と骨でできたこの体は、何のためにあるのか。何のために落ちてきたのか。
やるべきことは見えていた。
──『君はモンスターと人間の未来を担う者』
私が未来を担うなら、選ぶべき未来は決まっている。
──『僕しかできないことなら、僕がやらなきゃいけないし』
この魂の価値を、人間である自分にしかできないことを、私は知っている。
強くて脆い、この優しいモンスターたちに祝福を。
地上に相応しいのは彼らだ。
──だから、私は。
箱の中から短くなった鉛筆を取り出して、キャラは目元を和ませた。地下の学校に通い始める少し前にトリエルに貰った鉛筆だった。親指ほどの長さになるまで毎日学校で使った、思い出の品物だ。
あれからもう、一年近くが経とうとしている。
アズリエルと共用の子供部屋は散らかっている。部屋の中心に見えない境界があり、こちら側がキャラの領土で、あちら側がアズリエルの領土だ。その両方に、両者の私物が散らばっていた。
キャラも他人のことを言える立場ではないが、この頃のアズリエルの散らかし具合も相当のものだった。学校でもらったプリントが床に落ちているし、「後で元の場所に戻すつもり」らしい雑多なものが多数散乱している。
鉛筆を脇において、箱から次のがらくたを取り出そうとした時、リビングの方からトリエルの声が聞こえた。
「──キャラ! カタツムリパイを作るの、手伝ってくれない?」
「今行く!」
雑然とした子供部屋をそのままに、キャラは小走りに台所に向かった。子供用のエプロンを片手に持ったトリエルが待ち構えている。
「下ごしらえ、一緒にやりましょうね」
キャラは短く頷いて、エプロンを受け取った。手早く頭にバンダナを巻き、作業に取り掛かる。カタツムリ一匹一匹から内臓を取り除く下ごしらえにも、もう慣れたものだ。この頃はパイ以外のカタツムリ料理も、少しずつ習得し始めていた。
「最近、調子はどう?」
「ぼちぼち」
「そろそろ試験の時期だったわよね」
「もう終わった。ちゃんと満点」
「学校の友達ではうまくやれてる?」
「モンスターはみんな優しいよ」
視線を手元に向けたまま会話をする。キャラのまだ小さな手とトリエルの大きな手が横に並んで、休みなく動いていた。トリエルの手は大きいが、その見た目に反してとても器用だ。キャラとトリエルの作業の速度はほぼ等しかった。
あれ以来一度も体調を崩していないのに、トリエルは頻繁にキャラの体調を心配して体調を聞いてくる。その配慮がくすぐったくもあり、多少鬱陶しくもある。──贅沢なことだ。
二人とも手際よく進めたため、さほど時間もかからずカタツムリの処理が終わった。トリエルはそれらをフライパンに入れて、バターで炒め始めた。パセリとニンニクをベースに、香辛料を少々。仕上げにローズマリーを加えるのがトリエル流だ。
軽やかな手つきで味つけをしていくトリエルを、キャラは目を輝かせて見守っていた。魔法の火で料理をするトリエルを見るのが好きだった。普通の火とは異なる色合いの炎がフライパンの底を舐める。──いつか自分も、こんな魔法が使えるようになりたいものだ。
「盛り付けの時にまた呼ぶわね。自由にしていていいわよ」
「了解、母さん」
トリエルからそう言われたので、キャラは名残惜しく台所を後にした。「見ていたい」と言えばいいだけの話だが、それを口にするのは少しばかり気恥ずかしい。
廊下を歩きながら自分の手元を見つめ、眉根を寄せて集中してみようとする。モンスターと違って、キャラの体は水が主成分だ。魔法でできているわけではない。彼らのように感覚的に扱うのが難しいのは、おそらく、そのせいなのだろう。
「あ、キャラ。お疲れ!」
キャラは部屋の入り口で足を止めた。
子供部屋にはいつの間にか帰ってきていたらしいアズリエルがいた。部屋の中は見違えるほどに綺麗になっており、床面積が二倍になっている。
心臓がばくばくと音を立てていた。
「ちょっと片付けたんだ!」
──キャラの領土の方までも、片付いてしまっている。
白い紙箱はそのままだ。駆け寄って中を見る。──足りない。
鉛筆も、レシートも、出していたものが全部なくなっている。
「──なあ、アズ。ここにあったものは……」
硬い声を自分の喉から絞り出す。
「キャラが散らかしてたゴミ、ちゃんと捨てといたよ! 貸し一つにしといてあげる」
視線が部屋の中を横切る。隅に置かれていたゴミ箱に飛びつき、その中を覗き込んだ。──見覚えのあるレシートが中にあった。
「えっ⁉︎ ちょっと、何してるのキャラ⁉︎」
キャラはゴミ箱の中身を床にぶちまけた。
折り目のついた使用済みの包装紙、短くなった鉛筆、歯形のついたアイスの木の棒、── 初めてもらったお小遣いで、アズとお菓子を買った時のレシート。
その他さまざまな宝物が、アズリエルが捨てたものとごちゃ混ぜになって床に散乱する。キャラはその中から自分のものを拾い集めていく。
アズゴアから園芸用ダガーをもらった日。トリエルに勉強をみてもらった思い出。ホットランドに行った時、家族みんなで食べたナイスクリームの冷たさ。
「あの、それってゴミじゃ──」
肩のあたりに伸びてきた毛むくじゃらの手を、渾身の力で払い除けた。加減をする余裕も、その発想もなかった。
予想以上に重い手応えと共に、アズリエルが倒れる音が聞こえた。
──瞬間、キャラの耳に音が戻ってきた。
倒れ伏したアズリエルが苦しげに顔を歪めている。──今、自分の拳はどこに当たった?
キャラの顔から血の気が引いた。
先程までとは別の理由で心臓が大きく跳ねる。
──アズはボスモンスターだ。
キャラより足が早く、力も強い。分厚い毛皮があるから、いつも何の心配もなく両親に抱きつける。彼らの鋭い爪が誤って肌を裂いてしまわないように、キャラのように気を付ける必要がない。
だからキャラよりも、体が丈夫なはずなのに。──どうして、非力な私の拳でアズリエルが倒れた?
考えがまとまるよりも先に体が動いていた。箪笥を開けて、菓子の入った紙袋を取り出す。先週の残りがまだ残っている。モンスター飴が3個、チョコチップクッキーが1袋、スパイダードーナッツが1個。それら全部を取り出して、アズリエルの口の中に震える手で無理やり詰め込んだ。
ごほごほと咽せる音が聞こえた瞬間に、鼻の奥が痛くなる。視界の一部が滲んだ。
「えっと、……その、キャラ──」
遠慮がちな声を聞きたくなくて、キャラは子供部屋から逃げた。
玄関。リビングには行きたくない。──行けない。咄嗟に家から飛び出して、コアからホットランドへ通じる道を追い立てられたかのように駆け抜けた。
かつてガスターから聞いた話が、耳の奥をこだましていた。
── 体が魔法でできているモンスターにとって、害意は毒として働く。
ベッドの脇に座る、表情の読みにくいモンスターの顔を見上げた。これから聞くことは、キャラにとって自分の体調と同じほどに重要なことだった。
「……ガスター。なぜモンスターは人間との戦争で負けたんだ? モンスターは人よりも強い体を持っているのに」
「それは前提が正しくないね」
白黒の顔が首を傾げる。
「モンスターよりも人間の方が強い」
「どういう意味だ? 人間には爪も牙もない。足は遅いし、岩を投げることもできないし、空を飛ぶことも魔法を使うこともできない。……魔法を使える人間はいたのかもしれないが、私は見たことがない。人間がモンスターに勝てる想像がつかない」
手足の末端が訴える痛みを無視して、キャラは言い募った。
「君はモンスターの体のつくりを誤解している」
黒い線の口が緩く弧を描いた。
「体が魔法でできているモンスターにとって、害意は毒として働く。君が思っている以上に、モンスターは脆い」
「……害意?」
因果関係がわからず、キャラは眉根を寄せた。
地下随一の知恵者らしい博士は、生徒に話すかのように、ゆっくりとキャラに語る。
「魔法は魂が引き起こす現象だ。感情も同じく、魂を由来とするもの。故に、モンスターの体は感情の影響を受けやすい。自分の感情にも、──相手の感情にも」
「感情なんてものが外界にまで影響を及ぼすと?」
「ああ、そうだとも。魂は常に波を発している。これが空気中や物質中を伝っていく。空気の振動である声のようなものと思って欲しい。この『声』は魂の状態……つまり感情によって、変化する」
穴の空いた手が浮遊し、持ち主の言葉に合わせて空中に波線を描く。
「そもそも人間の魂というのは、この伝播する感情を発生させるために進化・発達したと考えられている。強力な魂ほど、より強い信号を出すことができるからね」
窓から小鳥の鳴く声が聞こえた。ガスターはちらりと窓の外に目を向ける。
「音による言語が発達した今はもう、この機能はほとんど意味を失ってしまっているが……。ほら、君も『空気を読む』とか言ったことができるだろう。喋る前から、たとえば同じ部屋に入ったその瞬間から、相手が怒っているとわかる時があるだろう。これは遥か昔の人類が魂によって交信していたことの名残だ」
ガスターは体の周りに次々に浮遊する手を生み出した。──これが彼お得意の魔法らしい。アズリエルの炎のように。
「モンスターの魔法というのは、この魂の『声』を使った技術だ。より空気中の粒子に魔力の声を意図的に当てて、形状とエネルギーを与えることで魔法を引き起こしている。……多くのモンスターはこれを感覚的に行っているから、原理自体を理解していないものも多いがね」
浮遊する手の内の一つが卓上からペンを取り上げた。その手は慣れた様子でペン回しを披露する。
「このように、魔法は『声』でできているぶん、自分自身の感情や、他の『声』からの影響を受けやすい。強い思いに肉体は呼応するし、無警戒であればダメージを受けやすい。モンスターにとって精神論は全くの事実でしかない。心持ちは体を強くも弱くもする。物理的にね。
特に敵意、害意、殺意を抱いた魂から放たれる『声』はモンスターの魔法、すなわち体を蝕む。声は物体を通して伝わりやすいから、『殺意の乗った攻撃』なんかは当たりどころによらず致命傷になるわけだ」
ペンを回していた手が、近くにある別の手にペンを向けた。ペン先を振りかぶり、もう一方の手に突き立てる。それと同時に、突き立てられた方の手が霧散した。ガスターが魔法を解いたらしい。
「モンスターは敵意を抱かれると弱い。その上、人間は強い魂を有している。魂が強い分、魂の声も強くなる。人間がモンスターを殺すと決めた時に、私たちの敗北は決まっていたわけだ。……あれは戦争と呼べるものではなかった」
キャラは唇を引き結んで、ガスターの言葉を聞いていた。地上で聞いていた話とは随分と違っていた。
──モンスターは恐ろしい存在であり、人類は自衛のために戦った。
──彼らは人間の魂を食べるから……
一呼吸分の躊躇ののち、キャラは口を開いた。
「……モンスターが人間の魂を食べるというのは事実なのか?」
ガスターは小さく首を傾げ、静かにキャラの瞳を覗き込む。
「何故?」
「……食べようとしてきたやつが一人もいなかったから。地上で聞いたことが、どこまで本当で、どこまでが間違って伝わったものなのか、知りたい」
「嘘ではない。モンスターは人の魂を取り込める」
「取り込んだやつがいるのか?」
「はるか昔に」
「それが戦争の原因か?」
「間違いではない。だが、
そこでガスターは言葉を切った。
ガスターの視線がキャラの胸元に向けられた。──正確には、その中にある魂に。
「キャラ、君の魂は非常に重い」
「……それはモンスター流の嫌味とかではないよな?」
唐突な言葉に、キャラは胡乱な視線を向けた。
「比喩ではなく事実だよ。君の魂は21グラムもある」
「……からかっているのか?」
ガスターは生真面目な表情を崩さなかった。
「まさか。これは魂としてはとても重いんだ。人間の魂の強さの話だよ」
「へえ」
「魔法を生み出すのは魂の力だ。人間の魂を取り込んだモンスターは、魂をそのまま燃料として扱うことができるようになる。21gもの魂があれば、──都市一つを焦土にするに十分なエネルギーになる。それほどの力があるんだよ、君の魂には」
なおもキャラの魂を見つめるガスターの視線に、一瞬、ぞくりと背筋に寒気が走った。今まで会ってきたどんなモンスターとも違う、得体の知れなさがガスターの顔に影を落とす。
このモンスターは研究者だ。彼にとっての自分の魂の価値は計り知れない。他のモンスターよりもずっと、ヒトの魂に詳しいガスターならば。
キャラの全身を緊張が駆け抜けた。
しかし、彼は何事もなかったかのように穏やかな声で話を続けた。
「わかるかい。ヒトひとりがモンスターに食われるだけで、都市一つが壊滅する。そうすれば人がたくさん死ぬだろう。モンスターはさらにたくさんの魂を得て、力を得る。一度この連鎖が始まれば、人類がモンスターに勝つことは不可能だ」
ガスターは苦笑いを浮かべた。学生を受け持つ教授らしく、彼はキャラに問うた。
「これを知った人間がどう行動したか、──賢い君ならわかるだろうね」
「……だから、モンスターを追いやったのか。この地下に」
殺される前に殺したのだ。自らの保身のために。
ガスターは頷いた。
「そうだ。そして人類は彼らの魂の力を使って封印を施した。もう二度とモンスターが人間と接触することがないように。……あのバリアを破壊するには、人間の魂7つも分のエネルギーが必要だ。モンスターがいくら集まっても、あのバリアはどうすることもできない。」
そうだ、とガスターは宙を見上げて呟いた。教育者然とした口調で、彼はまた言葉を重ねた。
「知識には二種類ある。経験によって得られた知識と、理論によって推測される事実だ。
『バリアの破壊に七つの人間の魂が必要』というのは、私が計算によって得た情報なので後者に該当する。人ひとりの魂を取り込んだモンスターならば、あのバリアを超えられるだろうと言うこともね」
ガスターは壁に目をやった。キャラは彼の視線を追った。無地の壁だ。絵やポスターが貼られている訳ではない。彼が何を見ているのかわからなかった。
「一方、モンスターが人間の魂を吸収するとどうなるか、という話は、先ほど言った通り、前者だ。はるか昔に、実際にあった事として記録が残っている。そのモンスターはもう生きてはいないが、子孫は残っている。……今のボスモンスターのことだ」
彼の視線の先──玉座があるのがその方向だと気づいた。
「彼らの魂が他のモンスターよりも強いのは、先祖が人間の魂を取り込んだからだ」
耳元で風の音が聞こえた。
積もっていた枯葉の山の一部が風にさらわれて目の前を通り過ぎる。──数日前に、アズリエルとここで遊んだ。
キャラは枯葉から目を背けた。
どこに行っても、アズリエルとの思い出が追いかけてくる。スノーフルの雪原も、ウォーターフェルの草むらも、どこもかしこも、全て。
息はとっくに切れていた。地下世界を横断したのだから当然だ。
そのどこにも、キャラにふさわしい場所はない。
──不意に周囲が明るくなって、キャラは光の差す方を見上げた。
モンスターの魔法による光ではない、本物の太陽の光が穴から差し込んでいた。丸く切り取られた青空の中に、鮮烈な太陽が浮かんでいる。
いつの間にか、自分が落ちてきたところまで戻っていたらしい。引き攣った笑い声が口から漏れた。あの先に明るく冷酷な地上がある。
──私は地下にふさわしくない。
モンスターを傷つけるのは、凶器の鋭さではない。敵意、害意の有無だ。その点で自分は、致命的なほどに彼らとは相容れない存在だった。
あの日の自分はトリエルを殺しかけていたのだろう。トリエルはきっと、相当傷ついていたはずなのだ。あの日のアズリエルも、同じく。キャラは彼らに敵意を抱いていたのだから。
気づくのが遅すぎた。
──私はモンスターにはなれない。
どれだけ歓迎してくれていても、どれだけ「仲間」と呼んでくれても、自分が人間であることは変えられない。あの憎い村の人間たちと同じ、野蛮で残酷な生き物。
異物だ。
喉の奥で声を噛み殺した。
空にはうっすらとバリアが見えた。──あれのせいで、モンスターだけではなく、キャラもここから立ち退くことができない。この優しいモンスターから自分を隔離することができない。
自分がここにふさわしくないことが、こんなにも分かり切っているのに。
傲慢な人間たちが、モンスターを閉じ込めるためにあのバリアを張った。モンスターたちから何もかもを奪い、広い地平と陽光を独占した。この不条理が許されていいはずがない。
地上にふさわしいのがどちらであるかなんて、そんなことは考えるまでもない。
──『私は、君が地下に来てくれたことに感謝しているんだ』
かつてアズゴアはそう言った。
アズゴアはキャラを王家の子供として育てた。キャラは地下にいるただ一人の人間だ。人間の代表として、和解と解放の象徴にしたかったのかもしれない。
けれども、自分の最大の価値がどこにあるのか、キャラは知っている。モンスターと人間の関係。魂のエネルギーと結界の突破方法。
自分が地下にいる唯一の人間であること。
ばらばらな情報にすぎなかったそれらが、朧げに形を作り、意味を生み出していく。
──そう、私は人間の代表だ。
キャラの口の端が歪んだ。
この体の中にあるはずの、重い魂の形を夢想する。
──私の魂はエネルギーであり兵器だ。
愛と希望と思いやりだけでできているわけではない、この醜く有用な魂を。
──私の魂は結界を通るための鍵だ。
強く、寒々しい風が洞窟を吹き抜ける。陽の光を求めて上へと首を伸ばす植物たちは、今にも倒れそうなほどに揺れている。
風はキャラの肌を打ち、髪をかき乱していた。天に向けて手を伸ばす。血の色が赤く透けて見えた。血と肉と骨でできたこの体は、何のためにあるのか。何のために落ちてきたのか。
やるべきことは見えていた。
──『君はモンスターと人間の未来を担う者』
私が未来を担うなら、選ぶべき未来は決まっている。
──『僕しかできないことなら、僕がやらなきゃいけないし』
この魂の価値を、人間である自分にしかできないことを、私は知っている。
強くて脆い、この優しいモンスターたちに祝福を。
地上に相応しいのは彼らだ。
──だから、私は。