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21グラムの価値

「ねえ、キャラ! 今日はどこに行く? ウォーターフェルで水遊び? コアでかくれんぼ? それともスノーフルで雪合戦しようか?」
 早くも朝食を食べ終わったらしいアズリエルが、寝ぼけ眼でホットドッグを齧るキャラに話しかけた。
 ──なぜこのモンスターは、朝早くからこんなに元気なのだろう。
 着替えまで済ませており、白い尻尾がゆらゆらと背中から見え隠れしている。キャラは眠い目を擦り、口を開いた。
「ウォーターフェルで鬼ごっこするのは?」
「いいね!」
 ガマの穂でできたホットドッグをもう一口食べる。食いちぎった瞬間に口の中で膨張するそれを無理矢理飲み込めば、喉の奥ですぐに吸収されていく。初めは喉につっかえてしまいそうで、飲み込むのが辛かったが、今となってはこの奇妙な感覚にも慣れたものだ。
 けれども、どうにも食欲が湧かない。
 昨晩に食べすぎたのだろうか。胃で消化しない食事ばかりしているせいで、「満腹」という感覚がいまいちわかりにくくなっていた。
 どうにか最後の一口を飲み込んで、キャラは席を立った。皿とコップを手に、台所へ行く。今日の洗い物はキャラの役目だ。
 この頃は少し、体が怠い気がする。
 ──日光を浴びていないせいだろうか。
 太陽の光の差さない地下では、昼夜の区切りが曖昧だ。電気や魔法による照明を時間帯によって強弱させているが、やはり、本物の太陽の温かさと鮮烈さには到底及ばない。
 洗剤で四人分の皿を軽く洗う。朝は油の多い料理ではないため、さほど時間はかからない。水で泡を流し、水切りの中に全ての皿を立てかけた。これでノルマは完了だ。
 タオルで手を拭いていると、指先がちりちりと痺れた。この奇妙な感覚を振り払おうと、キャラは手を開閉させる。最近は、たまに指が痺れることがある。キャラは不快げに眉根を寄せた。
「早く、早く!」
 待ちきれないとばかりにその場で足踏みをするアズリエルの後を追いかける。
 学校に行くようになってから知ったことだが、モンスターの身体能力は千差万別らしい。空を飛べるモンスターもいれば、足の速いモンスターもいる。力持ちのモンスターも、腕のないモンスターも、華奢で小柄なモンスターも。
 その中でアズリエルは、力のある方のモンスターだった。アズゴアとトリエルの子である彼は「ボスモンスター」と呼ばれる種族であり、他のモンスターとは一線を画す潜在能力があるらしい。
 事実、キャラはアズリエルにかけっこで一度も勝てたことがなかった。
 ──でも、ウォーターフェルでの鬼ごっこなら話が変わる。
 これは単純なかけっこではない。エコーフラワーの音響を利用して撹乱する心理戦だ。これならば身体能力の高いモンスター相手でも勝ち目がある。
 学校のことや友達のこと、最近読んだ本の話など、他愛のない話をしていると、いつの間にか目的地のウォーターフェルについていた。地下の中でも薄暗い方のこの地域には、発光する植物が多い。淡く光る水面や、草花やランタンの幻想的な光が好きだった。
「どっちが先に鬼をやる?」
「私からでいい?」
「いいよ!」
 言ってすぐに駆け去っていくアズリエルの背中を見送り、キャラは数を数え始めた。100数えたら、ゲーム開始だ。
 鬼ごっこの時に使う範囲は暗黙の了解で決まっている。手前のパズルから、奥のパズルまで。その間ならどこに行ってもいい。探す範囲は広大だ。
 とはいえ、アズリエルが行きそうな場所の目星はついている。
 ──さて、どこに行くかな。
 遠ざかっていく足音に耳を傾けながら、キャラは指先を擦り合わせた。アズリエルは視界の開けた場所よりも、迷路のように入り組んでいる、退路や隠れる場所の多いところを好みがちだ。
 ──4、3、2、1、0。
 数を数え終わり、キャラは足音を極力殺して歩き出した。
 ──足音はあっちの方に行っていた。
 歩きながら、エコーフラワーの音に耳を傾ける。
 大きすぎる音はエコーフラワーを伝って伝播する。何本ものエコーフラワー越しに伝わってきた音は、質が少しだけ変わるものだ。また、音が記録されてから経った時間によっても、わずかばかりの音質の変化を聞き取ることができる。
 ──右か?
 途中からは、わざと足音を立てて歩く。これは牽制だ。音を立てるべき時と、音を殺して動く時。これらの組み合わせで互いに読み合い、居場所を変えていく。姿の見えない相手との読み合いは楽しいものだった。
 ──魔法を使えれば、もっと戦略が広がるのだけど。
 キャラと外で遊ぶ時、アズリエルは「不公平だから」と言って魔法を使わない。それが不満だった。
 魔法はモンスターにとって、息をするのと同じほどに自然な行為だ。挨拶に使われるのが最も印象的だが、そればかりではない。トリエルやアズゴアは料理に魔法を使っているし、地下に設置された照明も魔法だ。学校では子供同士が魔法で作る挨拶の弾幕の技巧を競うこともよくあったし、器用な子供なら時限性の魔法や、近づいた時に発動する魔法まで習得して昼休みの遊びに使っている。
 アズリエルは魔法を好む方のモンスターだった。学校で他のモンスターと遊ぶときなどに、心底楽しそうに魔法を使うのを見ていた。キャラも、アズリエルの毛に覆われた手から立ち上る炎を見るのが好きだった。色鮮やかな雷撃も、星を模した弾幕も。他のモンスターのように魔法で遊べない人間の身が悔しかった。
 ──理論上は、人間も魔法が使えるはずだ。
 モンスターを閉じ込めている結界を作ったのは人間の魔法使いたちだ。やり方さえ学べれば、キャラもモンスターたちと一緒に魔法で遊べるはずだ。
 問題なのは、モンスターたちがみな生まれた時から感覚的に魔法を使っていることだった。残念なことに、後天的に習得しようとしているキャラに魔法の使い方を教えられる者がいない。
 ──ないものねだりをしていても始まらない。
 今は自分の唯一の武器を十全に使ってアズリエルに勝とう。ゲームは全力で楽しまなければ。
 目を閉じて耳を澄ませる。風にそよぐ草の音と、川のせせらぎの間に、足音が聞こえはしないか。
 ──静かだ。
 アズリエルが移動した可能性のある経路を思い浮かべる。口の端に笑みが浮かんだ。
 ──見えたかもしれない。

「──捕まえた!」
 まんまと罠に引っかかったアズリエルの腕を捕らえて、キャラはにんまりと笑った。
「今度こそ勝てると思ったのに……!」
 心底悔しそうなアズリエルの顔が、ますますキャラの笑みを深くさせる。
「はっはっは。読みが甘いのだよ子山羊くん」
 わざとらしい言い方をすれば、「キャラの意地悪……!」と拗ねたように顔を背けた。
 からかいすぎたかもしれない。
 ──まあ、ちょっとぐらい勝利の余韻に浸ってもいいだろう。多分。
 この頃は3対7ほどでキャラが勝ち越している。最初はアズリエルが勝つことの方が多かったが、罠の掛け方、誘い方、アズリエルの動きの癖を覚えてからは、キャラも勝てるようになった。
「鬼、交代する?」
「少し疲れたから、ちょっと休みたい」
 捕まえる時に走ってから、まだ心拍数が下がらない。
 それどころか、若干の目眩まであった。足元が揺れているかのような錯覚が、だんだんと酷くなる。話している間にも、目の前が白み始めていた。
 少しまずい。
 座れそうなところに移動しよう、と片足を上げた瞬間に、がくりと体が傾いだ。
「────キャラ!」
 右腕に鋭い痛みが走る。ぐい、と肩と首に衝撃が走った。
「…………あ、……と──」
 アズリエルの顔が近い。いきなり大きくなった白い顔に混乱した。それが驚いたような表情をしていることにも。
 一拍遅れて、状況を理解する。川に倒れ込みそうになった自分を、アズリエルが引っ張って支えてくれたらしい。
「……ありがとう。ごめん、ちょっとめまいがして……。少しだけ待ってて」
 気まずさに目を逸らして、キャラは正直に白状した。片手を軽くあげて、何かを言いかけたアズリエルの言葉を遮る。その場に腰を下ろして座り込んだ。
 顔から火が出そうだった。
 アズに舐められるのが嫌だった。貧弱な人間だと気遣われるのが嫌だった。だから、体調が悪い時も隠すようにしていたのに。
「ええ、と。……体調悪いなら、帰る?」
「……せっかくの休日だし、もうちょっとだけ遊びたい」
 意地を張って何でもない風を装っていた挙句、悪化させて倒れ込んで心配をかけてしまったのだから、恥ずかしいどころの話ではない。
 先ほど掴まれていた腕がまだ痛いことに気がついて、キャラは顔を上げた。
 赤い染みがついている。
 キャラの袖が破れていることに、アズリエルも気がついたようだった。
 傷口を見る。それなりに深く抉れているらしく、肌の上を血の筋が伝い落ちていた。
「平気、平気」
 顔色を変えたアズリエルを安心させるように、できるだけ軽い声を出す。ポケットからモンスター飴を取り出して、口に含んだ。ハッカとは違う、独特の風味が鼻を抜ける。
 見ている間に塞がっていく傷口に、キャラは内心で安堵のため息を漏らした。回復量が足りたらしい。薄皮が張り、すぐに傷口がどこだったかすらわからなくなる。
 ──これだから人間の体は嫌だ。
 魔法も爪も受け止められない、この柔くて脆い水の体なんて。
「キャラ、……その、ごめん」
「気にしなくていい。治ったし」
 できるだけ、気にしていない風を装う。
 キャラが外で遊ぶ時、いつもトリエルに菓子を持たされているのは、こういう時のためだった。初めて外に出たあの日にあんな事件を起こしてしまったせいか、トリエルはキャラの体を常に気遣うようになってしまっていた。
 ──まあ、トリエルが心配するのも当然なのだろうけど。
 回復用のお菓子をもらうようになってからのキャラは、傷を治せることに慢心して、崖登りや、魔法の弾幕の回避など、危険な遊びを繰り返すようになっていた。それを知られた時に、きつく叱られたのはいうまでもない。おかげて今は、一日にもらえるお菓子の数に制限がつくようになってしまっている。
 けれども、抜け目のないキャラは、外出しなかった日のモンスター飴を溜め込むようにしている。この前残しておいたぶんも合わせて、まだポケットの中に二つ飴が残っていた。
「まだ飴あるし、もうちょっとだけ──」
 ずきり、と指先に刺されたような痛みが走った。
「────ん、」
 顔を上げる。虫などはついていない。いつものように手を開閉する。痛みがどんどん酷くなる。
 頭が痛い。
 視界がちかちかと光る。点描のように瞬き、どんどん白くなっていく。
 耳鳴りがした。
 ──不味い、と本能的に思った。
 自分の名前を呼ぶ声が、遠くに聞こえた気がした。







「貧血とビタミンB1欠乏症を併発しているようですね」
 のっぺりとした白黒の顔のモンスターがそう言った。穴の空いた手がするりとキャラの腕をなぞった。
 キャラはベッドに横たわったまま、そのモンスターが養父に話すのをぼんやりと聞いていた。あれからずきずきと痛み続ける頭と指先、足先がキャラの体力を削り続けていた。
 気分が悪い。
「地上の生物の体というのは、魔法でできている我々と違い、さまざまな物質で構成されています。──それだけ、食事で摂らねばならない要素も多いということです。地下の食料ばかり摂っていたため、このような不調に陥ってしまったのでしょう」
「……何を食べさせてあげればいいんだ?」
 いつになく沈んだ声でアズゴアが問う。
「地上の野菜や果物があるなら、それを。肉があればいいのですが……缶詰などなら手に入りやすいかもしれませんね。カタツムリパイなどを作る時は、分離処理をしない方がいいでしょう。あれをすると人間に必要な栄養素が抜けてしまいますから」
「わかった。……いくつか、手に入りそうな当てがある。君のいう『必要な栄養素』がちゃんと入っているかどうか、確認してもらえるか」
「勿論です。──陛下は趣味で園芸をされていましたよね? 庭の一角で野菜を育ててみるのはいかがでしょうか」
「……そう、だな。そうしてみよう」
 キャラの知るいつものアズゴアはどっしりと落ち着いて構えているものだが、今日の彼は動揺が露わだった。そわそわと手元を浮かせる姿を見ていると、彼が本心からキャラのことを心配してくれているのがわかった。
「私はこれから仕事があるから……明日も、来てくれないか」
「お時間は?」
「……午前の方が空けやすいが、いつでも」
「では、十時ごろに参りましょう」
 後ろ髪を引かれるような顔つきで、アズゴアが去る。大きいはずの背中が、いつもよりも小さく見えた。
 静かな部屋の中に、ガスターと呼ばれていたモンスターと二人きりになった。アズゴアの背に頭を下げていたガスターが、顔を上げて診察に使った道具や機械類を片付けだす。地上で見た覚えのあるものから、何を診るためのものさわからないものまで、様々な道具が机の上に広げられていた。
 キャラはぼんやりと、それらの機械類を眺めていた。もし元気な時だったなら、それらについて質問責めにしただろう。
「……ガス、ター」
 キャラが呼びかけると、白黒のモンスターは手を止めた。
「何かな?」
「少し話を聞きたい。……忙しくないのなら」
「他にも何か不調が?」
 くるりと振り向いたガスターがキャラの顔を覗き込む。彼の平面的で捉え難い顔は、地上にいた頃なら不気味な異形に見えただろうが、モンスターに慣れた今のキャラには恐ろしいものには見えなかった。
「そうじゃない。ただの雑談だ。……だから、これから予定があるなら、断ってくれてもいい」
「……ふむ。ドリーマー家の養子さんにして地下唯一の人間のお誘いなら、断る理由がなさそうだ」
 ガスターはベッドの脇に椅子を引き寄せて、深く座り込んだ。
「何が聞きたいんだい?」






 黒い駒を手に取り、斜めに進ませる。
 アズリエルは嫌そうに顔を顰めた。
 体調がまだ回復しきらず、家に軟禁生活が続くキャラとアズリエルの間では、ボードゲームがブームになっていた。このチェスは何試合目なのか、もう覚えていない。ここ数日で二桁は戦った気がする。
「なあ、アズ。生まれのせいで仕事が決まってしまうことについて、どう思う?」
 ゲームの終盤、駒の数が減りに減った段階だった。
「窮屈だとは思わないのか」
 腕組みをして唸るアズリエルに尋ねる。彼は緩く指を動かしながら、次の一手を考えていた。
「ちょっと、キャラ。今考えてるんだから。邪魔しようったって、引っかからないからね」
 怒ったような声を出されても、あまり迫力がないのは何故だろう。元の顔つきが温厚だからか、それとも、彼自身の性格を知っているからか。
「……じゃあ、勝ってから聞くよ」
「まだ負けが決まったわけじゃないから!」
 護衛を一人失った王を逃して、アズリエルが言い返す。
「はいはい」
 面倒なところに逃げ込まれた。これはチェックメイトまで時間がかかるかもしれない。
「ほら、キャラ。どうするの?」
 ──ビショップが邪魔だ。
 キャラは唇を噛んだ。ナイトを犠牲にして取りに行くか。──いや、ここはルークを進軍させてみよう。
 キャラは塔の形をした駒を動かした。
「この時を待ってたんだ!」
 その瞬間、アズリエルが歓声を上げた。
 手前の方に入り込んでいた白のポーンが進軍する。アズリエルの意図を理解して、キャラは顔色を変えた。最悪の失態だ。
 止めるには遅すぎる。キャラはやけくそになって駒を動かした。
 敗北は見えていた。
「ポーンをクイーンに昇格」
 アズリエルが喪った女王を死地から呼び戻し、歩兵の代わりに置く。すぐさまルークで殺しに行けば、白のビショップがキャラのルークを殺しに来た。
 形勢は逆転していた。
「……投了する。今回はアズの勝ちだ」
 らしくないミスをした、とキャラは深くため息をついた。
「キャラって攻めるのは上手いけど、脇が甘いよね。罠とか仕掛けるのすごく上手なのに、案外簡単に引っ掛かってくれるし」
「……うるさい」
 にやついている山羊顔を睨む。アズリエルは動じない。少し前なら、ちょっと睨んだだけでたじろいでいたのに。
「……で、話の続きなんだけど」
「あれって単なる陽動じゃなかったんだ」
 キャラは不快げに眉をひそめた。
「んな卑怯な手は使わないって」
「ゲーム内なら何でもやるのにね」
「アズ」
 言われずとも、この前の鬼ごっこで使った「手」のことを言っているのだとわかった。──あれはちょっと卑怯だったかもしれない。
 キャラは自陣の殺された王駒をつまんだ。小さな駒だが、見た目よりもずっしりと重い。
「……生まれた時から生き方が決まっていることを、嫌だと思ったことはないのか」
「キャラは地下が嫌なの? ……人間には暮らしにくいから……」
「──そういうことじゃない」
 寂しそうなアズリエルの声音を遮る。
「……アズはボスモンスターだからって、他のモンスターたちを守り、主導する立場になることが強制されているじゃないか。それが嫌になることはないのかと聞いている」
 前にトリエルから聞いたことが胸の隅にわだかまっていた。トリエルはボスモンスターだから教師になれなかった。
 王族というのはこの世で最も恵まれた生まれだと思っていたが、それは間違いだったのだろう。自分で選んで背負う職務と、生まれた時から本人の意思に関係なく担わされる責任なら、間違いなく前者の方がいい。
「もし他にやりたいことがあるなら、勝手に仕事を決められるのは嫌だろ」
 アズの口角が下がる。眉尻に困惑が表れていた。
「……そういうのは、あまり考えたことがないなあ」
「考えなよ。自分のことだろ」
 つい、責めるような口調になる。
 アズリエルはキャラから視線を逸らした。手の中のポーンを見つめている。
 後悔するかもしれないのは、キャラではなくこの能天気な義兄弟だというのに、どうも他人事には思えなかった。足元を見ないまま行き当たりばったりで歩いて行きそうなところがあって、見ていて危なっかしいのだ。
「でも……僕しかできないことなら、僕がやらなきゃいけないし」
 顔を上げたアズリエルは、へにゃり、と気の抜けたような顔で笑った。
「それで役に立てたなら嬉しいよ」
 相変わらずのお人好し顔が穏やかに言う。
 ──ああ、そうだ。
 こいつは他者のためになれることを、心から喜べるモンスターだった。
 陰湿な悪意も鋭い敵意も向けられたことがない、善性の塊のような生き物。キャラとは正反対だ。
 いまだに、あの村の人々への憎しみを捨てきれない自分とは。
「それに、まだ、他にやりたいことなんて見つけてないからさ。だから特に不満なんてなくて……」
 ──いや、違うか。
 アズリエルは少なくとも一度、殴られたことがある。恐慌状態のキャラ自身によって。
 加害者のキャラを恨みもしていないのだから、このモンスターのお人好し具合は度を過ぎている。
 キャラの指先がぴくりと動く。爪が腕を軽く引っ掻いた。──否、モンスターは総じて優しい。思いやりの塊のような生き物だ。
「ふうん」
 ──自分にしかできないこと、か。
 アズリエルを見つめたまま、キャラの思考は過去に飛んだ。
 アズゴアに「モンスターと人間の未来を担うもの」と言われたことが思い出された。地下のただ一人の人間だからといって、そんな大層なものを被せようとしてくるアズゴアが理解できなかったが、今なら少しだけわかりそうな気がする。
 アズリエルは照れ臭そうにポリポリと顎を掻いた。
「どんな王様になるかは僕の自由だし、どういう王様がいい王様か考えて探していくのも僕だもん。だから、きっとつまらなくはないと思う。むしろ大変だと思うよ」
 アズリエルは一段、声を小さくした。抑えられた声量とは裏腹に、声音が弾む。
「……僕ね、父さんみたいになりたいんだ。強くて優しい王様に! 父さんはのほほんとしてるけど、ああ見えてやる時はやるしっかりした王様なんだよ。……多分」
「そこは言い切ってあげなよ」
「だって、家だと緩いお父さんばっか見てるから……」
 たまらずキャラが吹き出すと、アズリエルも笑った。
「ああ、そうだ。もし僕が王様になった時は、キャラにも手伝ってもらいたいなあって……。ほら、キャラって頭いいじゃん。絶対頼りになるもん」
 きらきらとした視線がキャラに向けられる。自分には少し、眩しすぎる気がした。
「……アズの頼みとあっちゃ、仕方ないな。宰相でも大臣でも、このキャラ様に任せなさい」
 大仰に胸を叩いて言えば、アズリエルはまたおかしそうに笑う。
「もう、君の方が王様みたいじゃないか!」
「国家予算の計算ならアズより早くできそう」
「そんなこと言ってると、キャラに仕事丸投げするからね⁉︎」
「うわ、暴君だ!」
 二人して軽口を叩き合える、こんな時間が、ずっと続けばいいと思った。
 ──それがいつかはわからないが、アズリエルは王になる。
 きっと、アズゴアに似た優しい王様に。優しすぎて脇の甘い君主に。──落ちてきた人間を家族に迎えてしまうぐらい、思いやりに溢れたモンスターだから。
 盤の外に立つ白いポーンに目をやった。
 ──昇格プロモーション
 最弱の駒を最強の駒へと変じさせるルールだ。あれが女王になったせいで、キャラの王は敗北した。
 ちゃり、と胸元でロケットの鎖が鳴った。

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