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21グラムの価値

 日光を模した照明の下、じょうろから流れ落ちる水滴がきらきらと輝く。水気を帯びた鮮やかな色の花々を見ていると、キャラの顔が自然と綻んだ。
 故郷の村にも綺麗な花があった。最低の村だったが、あの金色の花畑だけは好きだった。花は何も言わない。キャラが近づいても逃げない。
「庭仕事の趣味を共有できる相手ができて嬉しいよ」
 隣で鼻歌を歌っていたアズゴアが嬉しそうにそう言った。
 花びらの上に溜まった水滴が、つるりと流れ落ちる。
 植物には水が不可欠だ。──人間にも。
 キャラの体の大部分は水でできている。毎日一定量の水分を飲まなければならない。けれども、モンスターは違うらしかった。
 それを知ったのは、ほんの数日前のことだ。
 人間とは異なり、水でできているわけではないモンスターにとって、飲み物は必須のものではなく嗜好品の一種であるらしかった。
 簡単にエネルギーを接種するための食事の代替物として使われることもあるようだが、いずれにしても、「水分そのもの」を求めて飲むことがない。
 彼らにとって、「喉が渇いた」という言葉の意味は人間とは根本的に異なるらしかった。アズリエルから聞いた話をまとめるに、「甘いものが食べたい」ぐらいの感覚らしい。
 先日、ウォーターフェルでずぶ濡れになって風邪をひいた時、寝込んでいる間に脱水症状も併発してしまったのは、こういう常識の齟齬があったためだ。この経験はキャラにとって苦い教訓になった。
 やはり、モンスターは人間とは異なる生き物だ。
「アズゴア、聞きたいことがあるんだけど」
「何かな」
「この前、本を読んだのだけど……モンスターの魂が愛や希望や思いやりでできているってのは、本当なのか?」
 キャラはトリエルからモンスターの生態に関する本を何冊か借りていた。
 水の必要性の差、魔法による挨拶など、人間とモンスターの間には深い溝があることを十分に思い知った。彼らの常識、人間との差異を正しく理解しておかないと、下手したら死にかねない。
 必要性に駆られて本を読んだが、冗談にしか思えないような話もあり、読むほどに顔が引き攣りそうになった。
 子供向けの情操教育用の本を渡されたのかと思ったが、それにしては表紙も体裁も文章が堅い。魂などというものの存在自体が信じ難いが、魔法やモンスターがいるなら魂があっておかしくはない。
 アズリエルは「本当だよ」と言っていたが、彼はサンタクロースを信じている部類の子供なので、このような話題で信用して良いものかわからなかった。
「あれは子供騙しの作り話? 赤ちゃんとキャベツ畑みたいな……」
「いや、あれは事実だよ。地上ではあまり知られていないのかな」
 同じ高さに降りてきたアズゴアの顔を見つめる。アズゴアは、キャラと向き合って話すときはいつも視線を合わせてくれるものだった。今まで周りにそういう大人はいなかったので、まだ少しだけ慣れないが、悪い気分ではない。
「魂についての研究は始まったばかりで、わかっていないことも多いと、ガスターは言っていたけれどね」
「ガスター?」
「うちの研究者だよ。彼曰く、『共感』は魂による作用らしい。相手の幸福を喜び、不幸を悲しめるのは、魂のおかげらしい。これをわかりやすく言うと、『魂は愛や希望や思いやりでできてる』ってなるんじゃないかな」
「……へえ」
 キャラは相槌を打った。
 ──それなら、そう書いてくれた方がわかりやすい気がするものだが。
 抽象的に書かれすぎると、かえって混乱してしまう。モンスターと人間では、言葉の使い方の好みも違うのかもしれない。
「もし、興味があるならガスターに聞くといい。彼ならきっと、君が知りたいことに全て答えてくれる」
「……なら、今度話してみたいかも」
 キャラはちらりと花を見る。キャラと同じく、地上にルーツを持ち、水を必要とする生き物。
 ──研究者なら、もしかしたら人間についてもよく知っているかもしれない。
 そうであれば、彼はきっとモンスターと人間の差異を理解していることだろう。モンスターとの地下生活における助言をもらうにあたり、良い人選であるように思えた。
「君はいい子だね。モンスターのことを知ろうとしてくれて嬉しいよ」
 キャラは曖昧に微笑んだ。モンスターへの好意がないわけではないが、彼らを知ろうとしているのは自分のためだ。褒められたり喜ばれたりするようなものではない。
「人間がみんな、君みたいな優しい子だったら、戦争をせずに済んだのかもしれないね」
 それは違う、と言おうとした。
 躊躇なくモンスターに殺意を向けた自分は、トリエルを殴った自分は、どう考えても『優しい子』であるはずがない。
 キャラの曇った表情をどう受け止めたのか、アズゴアは悩ましげに鼻筋を寄せた。
「そうだな。……私たちも、気をつけるべきだった。」
「うっかり魔法で挨拶でもしたとか?」
「いや。……地上にいた頃は、モンスターは皆ちゃんと人間のことを知っていたから、そういうことは起こらなかった」
 アズゴアは豊かな顎髭を指に絡ませた。
「軽率な言動が戦争をもたらしたんだ。そのせいで、すべてのモンスターが巻き込まれてしまった……」
 悔いるような響きを聞き取って、キャラは目を瞬かせた。──まるで、戦争の当事者かのような口振り。
 人とモンスターの戦争は、数百年以上も前のことのはずなのに。
「……ともかく、だ。一番言いたいことが言えていなかったね。君にとって、地下に来たことが不幸だったなら、すまないけれど……私は、君が地下に来てくれたことに感謝しているんだ」
 アズゴアは庭仕事用の服についた大きなポケットの中に手を突っ込み、ごそごそと中を探った。
「また人間と仲良くなれるだなんて、思ってもいなかった。しかも、庭仕事まで一緒にできるなんてね。……どうか、息子や地下のモンスターみんなと、友達になってほしい。かつてモンスターと人間は良き隣人だったのだから」
 ポケットから取り出されたのは、平たい長方形の箱だった。包装はあからさまにプレゼント用のものだ。目に痛いほどの鮮やかな赤のラッピング。
 キャラは差し出されたそれとアズゴアの顔を見比べた。彼が小さく頷いたのを見て、キャラはおずおずとそれを手に取った。このようなものを貰うのは初めてだった。
 アズゴアの大きな手に比べると小さく見えたが、持ってみればそれはずっしりと重かった。
「開けてごらん」
 促され、爪を立てて包装紙のテープを剥がしていく。少し不器用な包装だった。中の箱と折り目が少しずれている。店員の仕事には見えない。わざわざアズゴア本人が包んでくれたのだろう。
 ──こういう王様だからみんなに好かれているのだろうな。
 綺麗に剥がせた包装紙を軽く折り畳み、露わになった箱の蓋を開いた。
 中に入っていたのはダガーだった。冷たい金属が鋭利に輝く。
「園芸用だよ。君と一緒に庭仕事をするのは楽しいからね。……迷惑だったかな?」
「……嬉しい。ありがとう、アズゴア」
 柄を握る。子供のキャラの手には少し大きい。金属のずっしりとした重さがこそばゆかった。錆一つない側面は鏡のようで、傾けてみると、少し歪んだキャラの顔が映し出された。
「君は私たちの希望だ。君はモンスターと人間の未来を担う者なんだよ」




 夜風が家の外を吹き抜けていく音。くぐもって低く響くそれを伴奏にして、アズリエルの寝息が上に被さる。それが妙に耳についた。
 もう何度目かもわからない寝返りを打って、キャラは目を開けた。
 照明の落とされた部屋は暗い。物の形が辛うじて見える程度だ。いつもは白くてよく目立つアズリエルも、今は部屋の反対側にあるベッドの上の膨らみにしか見えない。
 キャラはアズリエルと同室にあてがわれていた。もともとアズリエルのものだったこの部屋にもう一つベッドが用意され、それがキャラの新しい寝床になった。
 義兄弟の寝息が聞こえる。
 同じ部屋の中にいる他者の気配が、どうにもキャラの神経に障る。──足先を冷やす隙間風や、床に撒き散らされた酒の匂い、キャラを遠巻きに見る村人たちの視線のように。
 キャラは顔を顰めた。──嫌なことばかり思い出す。
 柔らかすぎるベッドも、他人の家の匂いも、何故だか今日に限っては落ち着かなかった。昨日も一昨日も平気だったはずなのに。
 このまま横になっていても眠れる気がしなくて、キャラはむくりと上体を起こした。
 ──水でも飲んでこよう。
 布団からそっと足を出し、音を立てないように立ち上がる。足音を忍ばせて、熟睡しているアズリエルを起こさないようにそろそろと歩いた。
 ゆっくりとドアを開けると、隙間から差し込んだ光が目を射抜いた。この照明の色から察するに、リビングの電気がついているらしい。
 ──誰だろう。
 ドアにかけている手を止めた。半開きのドアの前で、息を潜める。他の誰かが起きているとは思っていなかった。
 アズゴアか、トリエルか。どちらにせよ、こんな夜更けに顔を合わせるのは少しばかり気まずい。何を言われるかわからない。
 後ろのベッドに視線をやる。アズリエルの寝言が聞こえた。
 ──まあ、いいか。
 彼らなら、夜中に起きてきたキャラに仕置きをするようなことはしないだろう。そう考えただけで、少しだけ胸の中が軽くなった。半開きのドアをくぐり、リビングから薄く光の漏れている廊下に出る。
 何気ない風を装って、キャラはリビングに足を踏み入れた。
 ──トリエルか。
 暖炉に炎に照らされて、彼女はゆったりと椅子に腰掛けていた。片手に持ったワイングラスを緩く揺らしている。
 視線が合った。
「……目が覚めちゃって。水でも飲もうかなと…………」
 思っていたよりも言い訳がましい声が出た。内心で自分をなじる。
 トリエルは軽く首を傾げた。
「──あなたも眠れないの?」
 トリエルはテーブルの上にワイングラスを置いた。
 おもむろに立ち上がったトリエルの背の高さに、心臓が震えた。──トリエルは地上の人間とは違うのに。
「いいのよ。ほら、そこに座りなさいな。ココアを作ってあげましょう」
 言われるままに、キャラはダイニングテーブルの椅子の一つに腰掛けた。一つだけ新しいこの椅子が、キャラの定位置だった。
 所在なさげに視線を彷徨わせた末、暖炉の炎を見つめることにした。キャラの知る地上の火とは違う色味をした炎が、時折パチパチと爆ぜながら揺らめいている。これはドリーマー家のモンスターが使う魔法の火に特有の色合いだ。キャラはこの色が好きだった。
 軽い音を立てて、目の前に湯気の立つマグカップが置かれた。揺らぐ炎に目を奪われていたキャラは、はっとしてトリエルを見上げた。
「ふふ。これで共犯ね。二人には内緒よ」
 ワインを片手にトリエルが隣に座る。赤い液体が揺れて、キャラの鼻先をアルコールの刺激臭が掠める。──酒の匂いが、嫌な記憶を引き摺り出しそうになる。
 その匂いを上書きするように、キャラはココアを口にした。熱いそれを少しだけ啜り、ふう、と息をつく。ココアの甘い香りが鼻に充満した。
「…………地下の生活はまだ慣れない?」
「嫌いじゃ、ない」
 それだけは勘違いされたくなくて、キャラは被せるように言った。
「地上より地下の方が好きだ。みんな、優しいし。……でも、地上とは違うことも多いから」
 あの村と比べたら、ここは天国のようなものだ。地下に落ちたことを後悔してなどいなかった。自暴自棄になってイビト山に登ったが、結果論からすればあれがキャラにとって最善の選択だった。
「…………そう」
 トリエルの声は普段よりいくらか低い。
「学校とかは、どう? ……嫌なことを言われたりしていない? 魔法で怪我したりとか、してない? やんちゃな子も多いでしょう。よく考えずに口に出しちゃう子も。もし、何かあったら、私に言ってね。無理に行かなくてもいいのよ」
 またワインを口にする。トリエルが酒を飲んでいるのを見たくなくて、キャラはそっと目を逸らした。
 酒を飲む大人は苦手だ。トリエルがあいつとは違うとわかっていても。
「勉強なら、家で私が教えられるから……」
「ちゃんと上手くやれてるから、大丈夫」
 やはりトリエルには過保護な面がある、とキャラは思う。
 トリエルに限らず、基本的にモンスターというのはお人好しだ。陰湿な嫌がらせなどは思いつきすらしないようだったし、喧嘩だって数える程度にしか見ていない。あんなに穏やかな学校生活をどうやったら心配できるのか、キャラにはわからなかった。
「……でも、トリエルに教えてもらえないのは残念かも」
 学校に入る前の準備として、しばらくの間はトリエルが勉学の面倒を見てくれていた。
 人類とモンスターが地上と地下に分断されてから、長い時間が経っている。その間に言葉や文字が微妙に食い違ってしまうようになっていたらしい。その対策もあり、トリエルは学校に行く前に、キャラの学力を確認と授業の導入をすると共に、丁寧にそれらの齟齬の擦り合わせをしてくれた。
「トリエルが教えてくれるとわかりやすかったから。教科書にないことまで教えてくれたし……」
「そうなの? 嬉しいわ」
 地下の教科には、地上と似通ったものもあれば、歴史のように全く違うものもあった。
 中でも、モンスター視点の歴史と、彼らが地下に降りてからの変遷は興味深く思えた。地下時代の歴史を当事者として全て見てきたトリエルの話は、本で読むのとは違う質感があって、いつも勉強の一環であることを忘れて聞き入ってしまっていた。
「…………実はね、私、先生になりたかったのよ」
 首を動かさず、トリエルの顔を横目に盗み見る。彼女はキャラに目を向けておらず、遠くを見るような目をしていた。
「結婚する前の話よ。……戦争の終盤、この地下洞窟に避難させていた頃には、学校なんて開かれなくなっちゃっていたし、……結界で閉じ込められてからは、モンスターたちの衣食住確保で忙しくて……気がついたら、昔の夢なんて忘れていたわ。思い出させてくれて、ありがとうね」
 彼女は長く息を吐いた。
 それとは反対に、キャラは息を潜めていた。聞いてはいけない話を聞いているような居心地の悪さがあった。トリエルがこのような声で話すのを聞くのは初めてだった。
「私が子供だったころは、モンスターと人間の仲はそんなに悪くなかったのよ。私が通っていた学校には人間もいたの。隣の席の人間の子にね、問題の解き方を教えてあげた時、……あの、わかった時の嬉しそうな顔を見て、こっちも嬉しくなっちゃってね……その時、先生になりたいなぁって思ったの」
 白く大きな手がゆらゆらとワイングラスを揺らす。
「王妃家業も、嫌いじゃないのだけどね。モンスターみんなの役に立てるのは素晴らしいことだと思うわ」
「みんなトリエルとアズゴアのことを、いい王様たちだって言っていた」
 目の前の大人に何を言えば良いのかわからず、キャラは咄嗟に伝え聞いた評価を述べた。
「今のように地下で生活できているのは、ドリーマー家のおかげだって……ニューホームで色んなモンスターと話したけど、みんな感謝していた」
 地位とは無縁だったキャラに、王家として生きてきた長命のモンスターのことなど分からない。その苦悩も、かけるべき言葉も。学校の勉強ならば簡単に理解できるけれど、この問題の正解を教えてくれる先生はいない。
「ありがとう。でも……そうね。今は平和だし、たまに学校に手伝いに行っても、良いかもしれないわね。前に比べて子供が増えたから、先生たちも忙しいでしょうし……」






 戦利品の紙袋を抱えて、キャラとアズリエルはニューホームの道を歩いていた。歩くたびに紙袋がガサガサと軽い音を立てた。
「キャラって結構チャレンジャーだよね」
 何が、とキャラは首を傾げた。
「最初にカタツムリグミを買うなんて」
 理解できないとばかりに首を振るアズリエルに、キャラは肩をすくめた。
 正直なとところ、どうしてアズリエルがカタツムリパイが苦手なのか、いまいちわからない。確かに、ちょっと癖のある味かもしれないが、トリエルの作るカタツムリパイはキャラの好物の中でも上位に食い込むぐらいに美味しい。
「あの味、結構気に入ったんだけど……んー、でも、下手に甘くしすぎない方が好みかな……」
 ポケットの中で、小銭がチャリ、と音を立てた。
 ドリーマー家での生活は毎日が楽しいが、中でも今日は特別な日だった。初めてお小遣いをもらったのだ。家事やら何やらを手伝っていたのは宿代のつもりだったので、手のひらに乗せられたコインの重さが最初は信じられなかった。
 王家といえど、子供の金銭感覚をまともに育てるつもりがあるらしい。いや、王家だからかもしれない。ともかくも、さほど高くないお金が今月の小遣いとしてアズリエルに渡され、同じ額がキャラにも与えられた。そのお金を握りしめて、今日はアズリエルと二人でニューホームの駄菓子屋に向かった次第である。
 菓子を買うのは初めてだった。トリエルはいつもキャラにお菓子をくれていたため、この地下に落ちてからはいつも甘いものを食べていたが、自分で選んで自分で買う行為にはまた別の楽しさがあるのだと知った。
「あと、カタツムリとチョコは混ぜちゃダメってわかった」
 大真面目な顔で言うと、アズリエルはくしゃりと顔を歪ませて笑った。欲張って一度に口に放り込んだ時のキャラの顔を思い出したらしい。店の前のベンチでいくつか開封して食べたときの味が、まだ舌の上に残っていた。こういう失敗も、友達となら笑い話になるのだからいいものだ。
「テミーフレークスも思ってたより美味しかったな。食べるのに勇気がいる見た目だけど……」
「え、何で? カタツムリとか虫とかの方が食べにくくない? 形そのまんまじゃん」
 アズリエルは不思議そうに言う。思い返せば、アズリエルはスパイダーサイダーを買っていなかった。虫食もあまり得意ではないのかもしれない。
「地上の人間は紙は食べないんだよ。……虫は食べたことがあったけど」
 キャラはついと視線を逸らした。あの時のことはあまり思い出したくない。
「カタツムリは虫じゃないよ」
「軟体動物だろ。それは知ってる」
 家に着くと、お菓子が大量に入った紙袋を見て、出迎えたトリエルがくすりと笑った。
「随分たくさん買ったのね」
 急に気恥ずかしくなって、キャラは視線を逸らした。物珍しいものもあって、あれもこれもと少しずつ買ってしまっていた。
「……お小遣い、ありがとう。楽しかった」
 ふと思いついて、紙袋の中に手を突っ込んだ。先ほど開封したカタツムリグミがまだ残っている。
「トリエルも食べる?」
 グミの袋を差し出すと、トリエルは柔らかく微笑んだ。
「じゃあ、一つだけ貰おうかしら」
 キャラよりも二回り大きな指がグミをつまむ。アズリエルと同じ、鋭い爪のついたモンスターの手。
「……ふふ。美味しいわね。ありがとう」
 毛に覆われた手がゆっくりとキャラの頭を撫でる。キャラを壊れ物のように扱う繊細な手つきだ。地上ではこんな優しい触れ方をされた覚えなどなかった。
「一日に食べすぎてはダメよ。少しずつ食べるようにね」
「わかってる」
 いつもの口調で釘を刺すトリエルの前から、キャラはするりと逃げた。
「ちゃんと残りはしまっておくから」
 アズリエルはもう自室にお菓子を置いてきたらしい。いつの間にか手ぶらになっていて、本棚の前で背表紙を物色している。
 キャラは軽い足取りで子供部屋に向かった。紙袋の膨らみが、未だ胸を弾ませてくれている。箪笥の中の服を詰めて場所を作り、そこに菓子の入った紙袋を収めた。地下では物が腐らないらしいから、どれほど時間をかけて食べても大丈夫だ。──とはいえ、そんなに自制できる気もしないが。一ヶ月以内に食べ尽くしてしまいそうな気がしていた。
 ポケットから小銭とレシートを取り出した。巾着袋の中に小銭を入れ、紙袋の隣に収めた。
 ──次は少し貯金をしてもいいかもしれないな。
 続いて、自分のベッドの脇に膝をついて、下から紙箱を引き摺り出した。箱の蓋は少しだけ埃を被っている。皺のついたレシートをその箱の中に仕舞い込んだ。
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