これはあなたの物語
冷たい水飛沫がフリスクの顔にかかる。透き通った川の流れに手を浸せば、水面にV字の波ができた。
「ボートの上であそぶと危険。落ちないように気をつけて」
渡し守のローブが風を受けてはためく。
熱気で歪む赤いホットランド。暗く厳かなウォーターフェル。初めて歩いたときはやっとの思いで踏破した地下世界の風景が、勢いよく視界の後方へと流れていき、渡し船はスノーフルへと一直線に進んで行く。
傷だらけの体で進んだ道だが、辛い思い出ではない。今はただ懐かしかった。
足を引きずって歩いた道。心優しいモンスターたちと友達になった道。私だけの、かけがえのない思い出だ。
他に何も持たない私の、大切な宝物。
地下と地上を分断する結界が消え去った今、モンスター達は自由の身となった。地下世界は希望に包まれ、何の憂いもなく地上へと踏み出そうとしている。
ただ1人を除いて。
──あそこにはただひとり、地上には出ていけない友がいる。
──誰にも自分のことを告げず、たった一人、寂しく残ろうとしている友が。
雪で覆われた川岸にボートが停まる。
渡し守へのお礼もそこそこに、フリスクはスノーフルへの道を駆け下った。
フリスクが足をすすめるたびに、音を立てて雪の中に靴が沈み込む。
ホットランドの熱気とは打って変わった、身を切るような冷たい風がフリスクの肌を打つ。フリスクの手は早くもかじかんで、木の棒を握る感覚は失せつつあった。
吊り橋を駆け抜けて、氷の上を滑って進む。道中のパズルを見るたびにフリスクは薄く笑みを浮かべた。敷き詰められたカラータイル、岩と丸バツのパズル、凍りついたスパゲッティ。
スノーフルの住人達、ヒョー坊やオワライチョウにすれ違いざま挨拶しつつ、一直線に遺跡を目指す。
針葉樹の囲む一本道を抜け、遺跡の入り口の紫の扉にたどり着いたとき、フリスクは肩で息をしていた。
──アズリエルが待っている。
荒い息のまま、フリスクは開け放たれた遺跡の扉を潜った。長い通路は奥に行けば行くほど薄暗くなっていく。
目的地は近い。疲労の見えていたフリスクの足取りに決意がみなぎる。
続く扉を抜ければ、炎の焼け跡の残る場所に出た。
──トリエルと戦っていたところだ。
トリエルの操る炎の魔法は、わざとフリスクから狙いを外していた。瀕死のフリスクを殺さぬよう、諦めさせるよう、苦心していたトリエルの姿が思い出された。
彼女は一貫して、落ちてきた人間を守ろうとしていた。
白い毛に覆われた穏やかな顔が浮かぶ。──あの、どこまでも優しい母の顔。
でも、トリエルはもうここには帰ってこない。
一段飛ばしで階段を登れば、ホームの暖かな雰囲気がフリスクを出迎える。
トリエルは、自分にはもったいないほどの庇護といたわりを与えてくれた。
けれども、トリエルもアズゴアも、アズリエルの受けた仕打ちを知らない。アズリエルの身に何が起こったかを知らない。
よろめきながらホームを出て、さらに道のりを逆行していく。
──だから、私だけは。
「──アズリエル!」
遺跡の最奥、全ての始まり。か細く地上の光が差しこむ場所に、彼は佇んでいた。
フリスクの声に振り向いたアズリエルが、柔く微笑む。
淡い光に包まれたアズリエルの姿は、どこか浮世離れして見えた。
「来てくれたんだ」
跳ねた白い毛先も、若干気の弱そうな眉も、何もかもが記憶のままだった。
彼の足元には金色の花が咲き乱れている。
「僕のことは心配しないで」
その声に滲む感情に、気がつかないわけがなかった。
誰かが花の世話をしなければいけない、と言ってアズリエルは背を向けた。フリスクはなおも声をかける。
放っておいて、戻れない、傷つけたくない、だから会わない。
そう言ってフリスクを突き放そうとするアズリエルの不器用さが、ひどく痛ましかった。
「ひとつ聞いてもいい?」
居座り続けるフリスクに根負けしたアズリエルが、おずおずと尋ねる。
なぜイビト山に登ったのか、と。
フリスクは答えなかった。アズリエルは追求しなかった。
けれども、その黙秘は気まずいものではなかった。金の花が風にそよぎ、ささやかな葉擦れの音を奏でる。
「……キャラがあの山に登った理由はね」
しばらくの間をおいて、アズリエルは古い友人のことを語り出した。
黙って聞き入るフリスクの表情を見ながら、アズリエルは静かに、懐かしそうに、義兄弟にして旧友のことを語る。
「ひょっとしたら……キャラは立派な人じゃなかったけど……」
それを聞いた瞬間、ないはずの腹が引き攣りそうになった。
──やっと気づいたのか、兄弟。
──お前は相変わらず、お人好しすぎる。
──後ろ暗い理由でイビト山に登った人間が、立派な人間であるはずがないじゃないか。
背後で笑い転げるキャラとは対照的に、フリスクの表情はあまり動かなかった。
少しだけ、フリスクの眉が悲しげに歪む。
──モンスターの友人にふさわしい人間ってのは、こいつみたいなやつなんだろうな。
モンスターの魂は希望や思いやりでできているというが、このフリスクのお人好しさ加減も相当なものだった。顔も知らない人間の苦労話を想像して、本心から悲しめる人間なのだ。
──アズリエルもきっと、フリスクのような兄弟の方がよかったんだろうな。
そう思うと、一抹の寂しさが空っぽの胸の中を通り過ぎた。
強い憎しみを抱えた人間が、モンスター達の中で馴染めるはずがなかったんだ。
親友の顔を見つめる。彼の瞳の焦点がキャラに合うことはない。目の前で腕を振っても視線は素通りして、まっすぐにフリスクへと向かう。
『アズ』
聞こえるはずがないとわかっていて、キャラは口を開いた。
『それでも私は、お前の親友になれて幸せだったよ』
アズリエルと別れたフリスクの後ろを、キャラは上の空のまま追いかけた。
もう、アズリエルに会うことはできない。もし会えたとしても、アズは花の姿に戻っている。
今日のように一方的に姿を見ることも、もう叶わない。
死者同士が会えたことの方が奇跡なのだから。
──それでも、寂しいことには変わりない。
フリスクに憑いて地上に出れる自分と、自分の体はあれど魂も自由もないアズリエル。どちらの方が不幸なのだろう。
溢れ出してくる思考と感情を持て余す。その間にもフリスクは遺跡の中を進んでいく。スノーフルを、そしてその先にある地上を目指して。
自分の死を無駄にしたアズリエルに、人間の攻撃に対して無抵抗で死んだアズリエルに、怒りがないわけでもない。
兄弟だった自分よりも、フリスクの方を「理想の友達」と呼んだことには、一言にはとても収まらない文句を言いたいくらいだった。まさか後ろでキャラが聞いているだなんて、思ってもいなかったのだろう。
──けれども、私たちは遥か昔に死んだ。私たちの物語は終わっている。
これは生者の物語だ。
私ではなく、フリスクの。
フリスクはホームに足を踏み入れる。
アズゴア、トリエル、アズリエル。彼ら三人の生活感が色濃く残る家だ。フリスクは真っ直ぐに子供部屋を訪れた。フリスクに続き、キャラも部屋の中を見渡す。ここを去った当時のままの、アズリエルの部屋。
死者は過去の残滓の中にしか居場所がない。
アズリエルのベッドに寝っ転がってみたフリスクは、すぐに起き上がって部屋を出た。
そのまま廊下を歩き、鏡の前で立ち止まる。
長くて短い地下の旅を越えて、ひと回り大きくなったフリスクの姿が映っている。痛みを知った顔、それを乗り越える強さを得た口元、決意を抱いた瞳。
鏡を見つめるフリスクの耳元に、そっと唇を寄せた。
『やっぱり自分だよ、フリスク』
君と私は別人だ。
ひとつだけ確信できたことがある。
ハッピーエンドに至れたのは、八人目がフリスクだったからだ。
私では、モンスターを平和な地上に導くことはできなかった。
アズリエルの手を血に染めさせようとした自分では。
──ああ、やっぱり私は、「理想の友人」ではなかったな。
誰に見せるでもない苦笑が浮かぶ。亡霊になってまで、後悔してしまうとは。
その瞬間、花の香りの隙間風がホームの中に吹き込んだ。
フリスクの髪がそよぐ。
「……SAVEしてくれてありがとう、キャラ」
小さくも暖かな囁き声が、確かに聞こえた気がした。
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