21グラムの価値
ぱたぱたと、軽い足音が聞こえた。それは一直線にこちらに近づき、続いてドアを開ける音が耳に入る。
「ねえ、体、どう? まだ痛い?」
山羊に似た顔がベッドの中のキャラを覗き込む。気の弱そうな眉も、柔らかな白い毛も、「人間の魂を奪う凶悪なモンスター」にはとても見えない。
けれど、他人を見た目で判断すれば痛い目に遭うことを、キャラは知っている。
「……」
キャラは目の前のモンスターに、睨むような視線を返した。布団の中で拳を握る。
残念なことに、この部屋には武器になりそうなものがなかった。素手でこれに勝てる気はしない。しかし、「視界の中に他人がいる時は常に身構えていなければならない」という条項は、キャラの本能に刷り込まれていた。
なおも心配そうに見つめてくるモンスターに対し、ようやくキャラは口を開いた。
「……多少」
短い言葉は、しっかりとそのモンスターの耳に届いたようだった。キャラが返事をしたことに気を良くしたのか、モンスターの表情が目に見えて明るくなる。
「起き上がれる? 朝ご飯、できてるよ」
昨日の記憶は痛みのせいで朧げだが、このモンスターに名を教えられたのは覚えている。アズリエル、というらしかった。どうでもいい情報だ。
モンスターの背後で白いものが揺れる。キャラは反射的に目を向けた。──このモンスターの尻尾だ。
自分の神経の過敏さに、内心で舌打ちする。武器か何かを隠し持っているのかと思った。
「それとも、ここに持ってこようか?」
──朝食。
この部屋か、食卓か。どちらを選ぶべきか、キャラはモンスターから視線を逸らさないまま、目まぐるしく思考を回転させた。
食事に混ぜ物をされる可能性。──調理の段階で仕込める。どちらを選んでも同じ。そもそも、昨晩、「回復のために」と菓子を食べさせられた。今更警戒しても遅いのかもしれない。
この部屋に留まるべきか。──モンスターの監視が無い方が気が楽だ。食事に不審を感じれば、残すこともできる。ただし、残した食事を気付かれずに捨てることは難しいだろう。
食卓へ移動すべきか。──複数のモンスターに囲まれることになる。襲われれば抵抗はできない。だが、不自然にならずに、この家の間取りを探れる。
問われてから一呼吸もしないうちに、キャラの中で方針が決定した。
布団の中で肘をつき、上半身を起こす。落下した際に打ち付けた背が軽く痛んだが、動くのに支障はない。
ベッドから足を下ろしてから、立ち上がるのに躊躇した。昨晩は折れていた右足の痛みが生々しかった。体重をかけるのは憚られ、左足に重心を預けて立ち上がる。
「歩ける」
体を支えようと近づいてきたモンスターの手を振り払うように、キャラは右足を踏み出した。体重をかける瞬間、無意識に息を詰める。
負荷のかかった右足に、昨日のような激痛は走らなかった。それがあまりにも不気味だった。
「……食卓はどこ?」
キャラが一人で歩くのを見て、彼は表情を緩めた。それとは対照的に、キャラは硬い表情のまま用心深くモンスターの一挙手一投足を見つめる。
──このモンスターが全ての始まりだった。
一見して巨大なぬいぐるみか何かにも見える、ふわふわとした毛皮に覆われたモンスターの体。その頭から足元まで素早く視線を走らせる。
目の前のモンスターは、軽々とまではいかずとも、疲れの見えない足取りでキャラの肩をこの家まで担ぎ続けた。キャラを遥かに凌ぐ体力を有しているのは明らかだ。
完全には癒えきっていないこの体で、まともに戦っても勝ち目はない。逃げられるかどうかもわからない。
「──こっち!」
白いモンスターが手招きをする。毛に覆われた鋭い爪が、手招きするたびに見え隠れした。
あれは鋭い爪と牙を持っている。温厚な毛玉のように見えても、やはりあれは怪物なのだ。
──はるか昔はきっと、何人もの人間を屠ってきたのだろう。
最初は彼らが「モンスター」だとはわからなかった。
本には残忍で凶暴な生き物だと書かれていたし、モンスターを描いた絵は恐ろしげなものばかりだった。
この能天気な顔をした人面獣のような生き物と、話に聞いていた「モンスター」が、うまく結びつかなかった。
隣で美味しそうにパイを頬張っている、山羊に似た生き物にちらりと視線を向ける。
彼らがキャラに危害を加えようとする気配は、今の所、ない。
──だが、こいつらはモンスターだ。
──モンスターは人間の魂を奪う。
はるか昔、人類はモンスターと戦争をしたのだという。文書による記録が残っている、神話よりも後の時代に。「モンスター」と呼ばれているそれが実在のものだったのか、それとも特殊な外見をした部族のことを指していたのか、諸説あるらしいが、戦争があったことだけは確からしい。少なくとも、キャラはそう聞かされていた。
古くから寝物語に伝えられている物語によれば、攻撃を仕掛けてきたモンスターに、人類は必死で抵抗したのだと。人間の魂を奪って力を得るために、モンスターが人間たちを襲ったのだと。彼らは人間の魂を取り込むことで、強大な力を得ることができるのだと。
古い戦争の話と共に、モンスターの話も聞かされていた。どこまでが事実で、どこまでが後世の作り話なのか、歴史の専門家でもないキャラには尚のことわからない。
曰く、最終的に、人間は恐ろしいモンスターとの戦争に勝ったらしい。地上の覇権は人類の手に渡った。少なくともこれは事実だ。地上にモンスターはいない。
──そして、人間はモンスターたちを、イビト山の地下に封印した。
これも事実だったらしい。教師とは案外当てにならないものらしいと、キャラは内心でため息をついた。
キャラを含む村人たちにとって、モンスターの伝承は単なる言い伝えの一つとしての重さしかなかった。例えるなら、「夜中に爪を切ってはいけない」のと同じような。
モンスターの存在自体が危ぶまれているのだから、当然だろう。誰も見たことがなく、存在の証明の難しい、いるかいないのかも定かではない存在を恐れ続ける方が難しい。
光の差さない地下で、作物が育つ訳がない。洞窟は生き物の住める場所ではない。モンスターがいたとしても、とっくに飢え死にしているに違いない──キャラにモンスターと人間の戦争について話した人間は、そう締めくくっていた。
だから、キャラ自身も、モンスターにまつわる伝承を信じてはいなかった。「登った者は帰ってこれない」という片道の旅としてイビト山へ足を踏み出しただけだ。あの村にはキャラの居場所がなかった。大人の拳と浴びせかけられる怒声から逃げて、逃げて、逃げて、──終わらせるために、キャラは山を登った。
だから、モンスターのことなどまったく念頭になかったのだ。まして、彼らに捕まるかもしれない、などとは。
「ほら、あなたも食べてみて」
目の前に座る大柄なモンスターがキャラにパイを食べるように促した。彼女はトリエルと呼ばれていた。アズリエルの母らしい。似たような外見をしているが、アズラエルよりも一回り大きい。
キャラは皿の上のパイに視線を落とした。
トリエルがパイを切り分けるところも見ていたし、同じパイから切り分けられたものをアズリエルやトリエルが躊躇なく頬張るのを見ていた。毒は混ざっていないはずだ。
キャラは用心深くパイを口元に運んだ。匂いを嗅ぐ。異臭はしない。ほんの小さな一口分を、異常があればすぐに吐き出すつもりで口に含む。
その瞬間に口に広がった甘さに、キャラは声を漏らしそうになった。
初めての感覚に、脳が混乱を訴える。パイ生地の軽やかな食感。爽やかな香辛料の香りが鼻を抜ける。
「──どうかしら? 美味しい?」
キャラはぎこちなく頷いた。
食べ物とはこのようなものだったか。もっと飲み込みにくいものではなかったか。この柔らかさは、舌触りは、なんだ。
これほど美味しいものは食べたことがなかった。──また食べたい、などと思ってしまったほどに。
吸い寄せられるように、キャラはもう一口食べた。今度は、もう少し大きく口に含む。舌の上を歓喜が跳ね回った。
「良かった。ちゃんと怪我も治ったみたいね。心配したのよ」
その言葉が耳に引っかかり、キャラの意識がまた目の前のモンスターへと引き戻された。──やはりあれは、このモンスターの手によるものだったか。
「…………何をしたたんだ?」
起きてからずっと気になっていた疑問が、喉からこぼれ落ちた。
言った瞬間に、後悔が脳裏をよぎる。虜囚としては、下手な言動は慎んだ方がいいのだろう。何も言わず、何も聞かず。──それが理想であると、わかってはいるのだ。
「魔法でも使ったのか」
けれども、聞かずにはいられなかった。
トリエルは答えない。訝しげな顔をしている──のだと思う。モンスターの表情の作り方が、人間と同じであるならば。
とぼけつづける目の前のモンスターに対し、キャラの声に苛立ちが混じった。
「怪我がこんなに速く治るなんて──」
その瞬間、トリエルはやっと理解したかのように、目を瞬かせた。
「──ああ、そうだったわね。忘れていたわ」
トリエルは言い聞かせるような口調で、ゆっくりと話す。
「モンスターの食べ物はね、すぐにエネルギーになるのよ。だから、食べてすぐに傷が治るの」
「……は?」
キャラはトリエルの顔をまじまじと見つめた。表情にも口調にも、冗談らしさは見受けられない。隣のアズリエルの顔を盗み見る。聞いているのかいないのか、このモンスターの表情にも変化はなかった。
「人間の食べ物は違うのだったわね。言い忘れていてごめんなさいね。びっくりしたでしょう」
嘘だ、と断じるのは容易い。しかし、モンスターが目の前にいるこの状況で、常識に縋り付くのも馬鹿げているように思えた。現に、キャラの傷は治っている。トリエルの言葉を否定する材料がない。
──折れた片足の痛み、肉を突き破り飛び出た骨、流れていく血の赤。
あれは現実だった。
一人では歩くこともできなかった。血を流していた体は、地面に打ち付けられたこの体は、この家まで歩く間中、ずっと悲鳴をあげていた。
記憶の中の痛みに、キャラは顔をわずかに顰めた。今も生々しく鮮烈に思い出せる、あの激痛と寒さ。
落ちてすぐに、即死できなかったことに絶望した。頭部は無事だった。痛みがあるのは足と背中だった。動くことができなかった。血と共に、命が流れ出ていく感覚がした。あの恐怖は口で伝えられるものではない。
一瞬で終われたなら、どんなにか楽だっただろう。──こんな、痛みの中でじわじわと死んでいくような終わり方は、想定していなかった。
忍び寄る死の気配に動転して、キャラは大声で助けを呼んだ。
死ぬつもりで身を投げたのに、いざ目の前に死が迫ると恐怖に怯えてしまった。そんな自分の覚悟の弱さが忌々しかった。今すぐにでもこのフォークで喉を掻き切ってしまいたいぐらいに最悪な気分であるのに、死への恐怖を知ってしまった今はそれを実行することもできない。
その弱さを見透かすようなモンスターの目が不気味だった。
何故お前が私の怪我を心配するのか、と問いかけて、キャラは口を閉ざした。その答えは聞いてはいけない気がした。
「キャラ、今日はとっておきのおやつがあるんだ!」
ふわふわとした外見の小山羊が自慢げに言った。キャラは無言で視線を返す。
先日、アズリエルに名を教えてからは、彼は何かにつけて「キャラ」、「キャラ」と名前を連呼するようになった。
山羊というよりは、生まれたての子犬か何かのように、キャラの後を付け回しては話しかける。
最初は監視されているのかとも思った。だが、この数日の彼の言動を見る限り、単にキャラが物珍しいだけらしい。看守にしては隙と口数が多すぎる。──この態度がキャラの油断を誘うために作られたものでないのなら、の話だが。もしそうならば、彼は相当な役者だ。
どちらであるにせよ、気を許すつもりはなかった。
勝手に憐れみ、勝手に施し、勝手に満足して去っていく身勝手な連中なら、よく知っている。
口では「可哀相」などと言いながら、彼らはキャラを救おうなどとは思ってすらいない奴ら。わずかばかりの施しは、罪悪感を減らすためのものにすぎない。彼らはただ、キャラを通して自分の幸せを確かめ、優越感を得ているだけなのだ。
キャラと顔を合わせるたびに、彼らの同情は減っていく。優しげな態度はすぐに鬱陶しげなものに変わる。助けを求めれば困惑し、次いで怒り出す。
信頼していた人間に裏切られるのは、もうたくさんだった。気まぐれな施しを信用するべきではない。
ましてや、今、目の前にいる相手はモンスターだ。人でない存在の思考回路など、なおさら信用ならない。
「キャラも知ってるんじゃないかな。なんてったって、地上から落ちてきたお菓子だからね!」
うきうきとした足取りで、彼は台所へと向かっていく。背中には白い尻尾が揺れていた。手招きに応じて、キャラもその後に続いた。
「人間の食べ物だから、きっとキャラの口に合うと思うんだ」
そう言って、アズリエルは冷蔵庫を開ける。キャラは後ろからそっと冷蔵庫の中を覗き込んだ。
今まで食事として出されたモンスターの料理の中には、キャラの想像を絶するようなものがあった。とても食べ物には見えないものまで、彼らは躊躇なく口にし、キャラにも食べるように勧めてきた。味はともかくとして、どれも食べれはした。腹を下しもしなかったが、今でも初見のものは食べるのに躊躇する。
「キャラは運が良かったよ。これはあんまり地下には落ちてこないからね。いつでも食べられるものじゃないんだ」
アズリエルが自慢げに冷蔵庫の上の段から取り出したそれの包装に見覚えがあった。──食べたことはなかったが。
地上で他の子供が美味しそうに食べているのを、何度か見かけた覚えがある。自分には縁のないはずの菓子だった。
「いつもは一日二かけずつって決めてるんだけど、今日は特別に一列あげる」
銀紙が剥かれ、深い茶色の板が現れる。白い毛皮の手が力を加えると、それは軽い音を立てて簡単に割れた。
差し出された板チョコを、キャラはしげしげと眺めた。たった今開封されたばかりのそれに対して、異物混入の疑いを抱いたわけではない。
今までは他の子供が食べているのを見るだけだったのに、地下に落ちてから食べる機会を得てしまったという、この状況に、ひどく奇妙な気分にさせられていた。
「……もしかして、嫌いだった?」
「いや。……もらうよ」
下がってしまったモンスターの眉尻が、キャラの居心地を悪くさせる。チョコレートを受け取り、一口だけ齧ってみた。
──甘い。
キャラの目がわずかに見開かれた。
初めての味、初めての香り。僅かに混じる苦味も、嫌いではない。
無言のまま、もう一口、齧る。もう一口。──もう、一口。
気づけば、それなりの大きさだったはずのかけらは全てなくなってしまっていた。
顔を上げると、モンスターと視線が合った。
どう? とでも言うかのような、期待に満ちたモンスターの顔が、キャラの表情を窺っている。
「……悪くない」
──何を絆されそうになっているんだ。
キャラは内心で自分をなじった。
──こいつらはモンスターだ。
意識的に自分に釘を刺す。モンスターの被っている無害で温厚な化けの皮は、想像以上に出来がいい。
──きっと今も、魂を奪おうとしているに違いないのに。
死ぬつもりで山に登ったのは事実だ。だが、モンスターに食い殺されるのは願い下げだった。今はもう、死ぬつもりはない。なんとしてでも生き延びてやるつもりだった。それはこの状況への反骨精神も大きかった。
──そうとも、まだ、身の安全が確定したわけではない。
モンスターがどうやって人間から魂を奪うのかを、キャラは知らない。もしかしたら、単に殺すだけではだめなのかもしれない。伝承の中のモンスターは魔法を使っていた。キャラはそれらの魔法には詳しくないが、魂の奪取にも、何らかの魔術的条件が絡んでいる可能性が考えられる。条件を揃えるまでの準備期間だから生かされているだけなのかもしれない。
実際、キャラはこの家からの外出を禁じられていた。このモンスターたちを信じ切るにはまだ早いのだ。
──気を緩めた「演技」をしておけば、監視が緩む可能性もある。
無邪気を装うこの看守のモンスターと同じように、キャラも模範囚としての演技すればいい。
もちろん、急に態度を変えれば不審がられるだろう。不自然に思われないよう、徐々に友好的な態度に切り替えていく。そうすればきっと、行動の自由も増えるだろうし、もしかしたらこのモンスターの口が緩んで重要な情報を引き出せるようになるかもしれない。
胸にわだかまる違和感を無視して、キャラは当面の方針を決めた。
「こんなものが山に捨てられているのか? そもそも、人が入らない山なのに……」
内心を悟られないように、キャラは何気ない疑問を口にする。
「バリアの影響で、時空が歪んでるんだって。だから、イビト山の周りのものがここに落ちてくるんだって、博士が言ってた。キャラが地上でなくしたものとかも、もしかしたらこの地下にあるのかもしれないよ」
そう言って、彼は自分の分の最後のかけらを口にした。彼が口を開けるたびに、鋭い牙が顔を覗かせる。
──あれに噛まれたら、きっと、自分の薄い肌などひとたまりもない。
それを忘れてはいけない。この彼我の差を、絶対に。人とモンスター、看守と虜囚。最初から気を許していなければ、裏切られることなどない。
山羊の顔が美味しそうに目を細める。舌の上で溶かして、じっくりと味わっているのが見ているだけでわかった。先程のキャラと同じ食べ方だった。
歩いても歩いても、灰色の街並みが続く。石造りの建物が並び、住人らしいモンスターたちがそこかしこを歩いている。
キャラは不自然にならない程度に周囲の街並みを見渡していた。特徴的な看板や路地の本数を、頭の中に叩き込む。──いつか来るかもしれない脱走の日に備えて。
初めての外出だった。アズリエル曰く、「父さんと母さんには内緒」らしい。ニューホームの街を、アズリエルと並んで歩いていく。
地上の晴れ空とは比較にならないほど薄暗いが、歩いたり看板の文字を読んだりするには十分な程度の明るさが保たれていた。アズリアルたちの家に連れられた時もこのあたりを通った気がするが、激痛で意識が朦朧としていたため、記憶が曖昧だった。改めて歩いていると、記憶の中の印象との齟齬が目立った。
街を歩くモンスターたちは、多種多様な容姿をしていた。キャラが人間であることがわからないのか、モンスターたちはキャラのことを気にもとめていないようだった。好都合だ。
──脱走して、それで、どうするんだ?
冷静な声がキャラの頭の中で囁く。
もしバリアから出られないなら、処刑の時刻を先延ばしにするだけだ。それとも、人間ならば突破できるのだろうか。
──地下には落ちてこれたのだから、出ることもできるのかもしれない。
バリアが阻むのが「モンスターの出入り」だけならば、人間であるキャラなら脱出の目がある。もしあの遺跡の穴から抜け出せるなら、装備を整えておく必要があるな、と頭の隅に書き留めた。朧げな記憶の中の、あの穴が作っていた崖を思い出す。滑りにくい靴は必須だろう。ロープか何かがあれば役に立ちそうだ。
「……ねえ、地上の街ってどんな感じ? ここと結構違うの?」
「さあ。私の住んでいたところは、人の少ないところだったから」
キャラはそっけなく言った。あの村のことを話す気にはなれなかった。
見応えがあるのは花畑ぐらいしかない、何の変哲もない田舎の村だった。広い畑を耕すだけで一生を終える人々。出入りのなく閉じた窮屈な人間関係の中で全てを完結させる、あの村。村人全員が互いのことを嫌になる程知り尽くしているのに、あの家でどう扱われていたかわかっていたはずなのに、──キャラのことを見捨てた、あの憎らしい人々。
彼らに比べれば、キャラに衣食住を提供しているモンスター一家の方がよほど良かった。あまりにも待遇が良すぎるからこそ、いまだに、その裏を疑わずにはいられない。
目的地はもう決まっているらしく、アズリエルはずんずんと迷いなく進んでいく。
──今日、殺すつもりなのだろうか。
──処刑場に向かっているのか?
──今、ここで、逃げるべきか?
何度目かの思考が、また、脳裏をよぎる。キャラは少し前を歩くモンスターの横顔を盗み見た。
──いや、それはないだろう。、いつもと言動が変わらなすぎる。
──それとも、アズリエルが知らされていないだけか?
──私を油断させるために。
それならばなおのこと、逃走経路を頭に叩き込まねばならない。キャラは灰色の道に視線を走らせる。色味に乏しい分、少々覚えにくい。不安が胸の奥を刺した。
このモンスターを疑い続けるのは難しかった。
街の中心らしい太い道をそれて、少し狭い道に入っていく。二階建てや三階建ての家に見下ろされながら、キャラは無言でアズリエルの後を追った。
少し高い声が複数聞こえた。子供の声だと、何故かわかった。明らかに人と違う声なのに、その賑やかな響きが村の子供の声と重なって聞こえた。
程なくして、所狭しと民家が並ぶ中に、少しだけ開けた場所が顔を覗かせた。子供らしきモンスターたちが駆け回って遊んでいる。ここだけは石畳に覆われておらず、土の地面が剥き出しになっていた。
「おーい!」
隣から前触れなく発せられた大声に、キャラはびくりと左腕を跳ねさせた。
アズリエルはそれに気づかなかったらしく、前を向いたまま、大きく手を振っている。再度、アズリエルが呼びかける大声がキャラの鼓膜を打った。
視線の先を見ると、アズリエルと同じほどの体格のモンスターがいた。それが小走りにこちらへ向かってくる。
「紹介するね。僕の友達の████。こっちはキャラ。最近、僕の家にやってきた子!」
アズリエルに紹介されたモンスターは、目を瞬かせてキャラの顔を覗き込んだ。アズリエルと異なり、どちらかといえば兎に近い外見をしているが、毛に覆われた体の骨格は似通って見えた。
「初めまして! よろしく!」
毒気のない元気な声に、キャラは少しだけ警戒を引き下げた。
──単に、友達に合わせたかっただけか。
そう理解した瞬間、今日殺されるのかもしれないと思っていた自分が馬鹿らしくなった。
今まで何度も考えていた可能性が頭をよぎる。もしかしたら、モンスターは人間を恨んでいないのかもしれない。地上で戦争をしていたモンスターはとっくに死んでいて、この地下が彼らの安住の地になっているのかもしれない。
人々がモンスターを過去の存在だと思っていたのと同じように、モンスターにとっても、人間は古い存在と化していて、今更恨むような相手ではなくなっているのかも──魂を奪う目的を失っているのかもしれない。
記憶の中で村の人間がやっていたのを真似て、キャラはおずおずと右手を差し出した。ぎこちなく笑みを作る。笑い方はこれで合っているだろうか。
「……よろしく」
瞬間、腕に鋭い痛みが走った。
息が詰まる。
右腕が燃えるように熱い。
一瞬の混乱の後に、目の前のモンスターの魔法が腕の肉を抉ったのだと理解した。
「────っ」
痛みに縮こまろうとする体の本能を押さえつけ、キャラはモンスターに突進した。勢いのままに押し倒し、そのまま馬乗りになる。傷付いた右腕の悲鳴を無視して、モンスターの首を地面に押さえつけた。
──裏切られた。
傷を確認する余裕はない。うまく動かせなくなった右腕は、モンスターを抑え込むのに使う。
左手の指先が手頃な石を捉えた。すぐさま握りこむ。ほど良い重さ。凶器の重さが手に馴染んだ。
胸の中で魂が怒りと憎悪に赤く燃え上がる。
モンスターがキャラを見上げている。白目のない獣の目。
──やはり、私のことを殺す気だったんだ。
石を持つ手を振り上げる。迷いなく目標を頭部に据える。
熱は右腕から全身に波及していた。うっすらと白熱した視界。
抵抗しなければ、また半殺しにされる。自分の身を守れるのは自分だけ。──いや、相手はモンスターだ。
──殺される前に、殺さなければ。
石を握る手に力を込める。自分の息の音がうるさい。
「待って! 何するの、キャラ……!」
背後から振り上げていた左腕を掴まれた。
「──離せっ!」
すぐさま手の甲で山羊の顔を打つ。アズリエルの呻き声が聞こえたが、キャラの腕を拘束する力は強くなるばかりだった。
脇腹に鋭利な痛みが走る。押し倒されたモンスターが魔法を使ったのだと理解する。
傷ついた右腕からだらだらと血が流れ落ちる。生暖かい液体が肌の上を伝っていく感触。
落下で死にかけた時の恐怖が脳裏を明滅する。
──反撃したのは失敗だった。
──すぐに逃げれば良かったのだ。
──私は判断を誤った。
「やめて、キャラ。お願い。どうして……!」
身を捻り、唸り声を上げながら全力で腕を引く。アズリエルが抵抗する。
その瞬間、逆の方向に力を加えた。アズリエルの顔を打つように、石を持つ手を押し込む。
バランスを崩したアズリエルの顔面に、石がめりこむ。
拘束が外れた。
キャラは跳ねるように起き上がり、真っ直ぐに駆け出した。
走り回る子供のモンスターたちの間を駆け抜けて、薄暗い道を疾走する。石畳の地面を蹴るたびに傷に響いた。
痛い。苦しい。痛い。──怖い。
必死の形相で走るキャラに、何体かのモンスターが「何事か」と視線を向けた。
肺が焼けるようだった。
右腕の感覚がない。
視界が白く、狭くなっていく。
──いやだ。
──こんなところで、殺されてたまるか。
口に何かを押し込まれる感触がして、キャラは薄く目を開けた。
全身が痛かった。
こじ開けられた口の中に、液状の何かが流れ込む。
喉を伝い落ちて行くそれらが胃に届く前にエネルギーに変換されていくのが感覚でわかった。モンスターの食料独特の、この奇妙な感覚。
「……キャラ?」
聞き覚えのある声。
ぼんやりと、白い何かが視界の中に大きく映る。焦点が合うとともに鮮明になる。──トリエルだ。
視線を横に映す。アズリエルがすぐそばにいた。泣きそうな顔でキャラのことを見つめている。
ここはキャラに貸し与えられていた部屋──おそらくは本来はトリエルが使っているだろう部屋の中だった。
「怖がらせてごめんなさい」
そう言われた瞬間に、閃光のように記憶が脳内を駆け巡った。
──右腕の傷。
──裏切られた。
──敵。
口元にあてがわれていたコップを払い除け、キャラはベッドの中で跳ね起きた。
重いコップが床に落ちて音を立てる。薄く色のついた液体が床に巻き散らされて広がる。
背を壁にへばりつかせ、荒い息でモンスターたちを凝視した。身を守るように片腕を顔の前に構え、もう片方の手で武器になりそうなものを探す。──使えそうなものは何もない。
トリエルが近づいてくる。
「──来るなっ!」
大声を発した瞬間、脇腹の傷が痛んで顔を顰めた。トリエルが動きを止める。
白い毛に覆われた顔に浮かぶ表情の意味が、理解できない。──理解したくない。
再び近づいてきた太い腕を、跳ね除けようとする。──意味がない。
「やめろ! ──来るな!」
今度は体を蹴ろうとした。紫色の服に、キャラの足が突き刺さる。手触りの良い服の下の、柔らかくも重い体は、キャラの蹴りではびくともしてはくれなかった。
「ごめんなさい。お願い、落ち着いて。あなたを傷つけたりしないわ」
「やめろいやだくるなはなせ────!」
トリエルの腕がキャラを包む。
キャラは絶叫して、その大きく柔らかな体を殴った。
──こいつが少しでも力を込めれば、自分の体なんてひとたまりもない。
骨を折り砕かれて殺される。
「ごめんなさい。ごめんなさいね」
どれだけ殴っても、腕は緩まなかった。トリエルはキャラのことを離さない。
「ちゃんと注意していなかった私が悪いの。怖い思いをさせてしまって、本当にごめんなさい」
大人のモンスターとの筋力差に絶望を覚える。どれほど抵抗しても無駄だ。このモンスターの気分ひとつにキャラの命がかかっている。
それでも、無意味であったとしても、抵抗を止める理由にはならない。がむしゃらに手足を振り回し、頭突きをし、垂れている耳を噛む。
かすかに、トリエルの呻き声が聞こえた。
──痛そうな声が聞こえた瞬間、冷たい何かが胸の中を伝い落ちた。
キャラの動きが止まる。
ざらりとした何かが心臓を擦った。
自身の暴力に多少の意味はあったのだとわかったのに、浮かんだのは希望ではなく、じくじくとした鈍い痛みだった。
トリエルが脱力したキャラの体を抱き締める。その手つきの慎重さ、壊れ物を扱うような優しさに、気づいてしまった。──気づきたくなかった。
キャラの喉から嗚咽が漏れる。その背を労わるように撫でる、大きく温かな手。今すぐにも振り払いたいのに、体が動いてくれない。
か細い息が漏れる。自分の呼吸とは思えない、ひどく頼りない息の音。それは痙攣のような息の発作になって、ますますひどくなっていく。
目が熱い。視界が滲んでいく。
「……何か、食べれそう? 飲み物がいい? それともパイの方がいいかしら」
トリエルの言葉に、キャラはゆるく頭 を振った。
迷うように口を開く。
たった一言、口にするだけで済むはずなのに、全霊を傾けねばならないほどの気力が必要だった。
「……ひとりに、…………してほしい………………」
「…………そう」
トリエルはゆっくりとキャラの体に回していた腕を緩めた。温かな腕が離れた途端、物寂しい寒さがキャラの肌を這う。
「後で、食べ物を持ってくるから……ゆっくり、休んでいてね」
トリエルはそう言うと、アズリエルの腕を掴んで部屋を後にした。
ドアノブが戻る音を最後に、部屋の中に静寂が満ちる。ベッドの上に座り込んでいたキャラは、そろそろと、体を横たえた。この肉の体のどこもかしこもが痛い。地上で受けたどんな傷よりも痛い。──けれども、どの痛みよりも、胸の奥が痛かった。
見えも触れられもしない血液が、心臓からだらだらと流れ落ちていくような感覚。
いくら布団にくるまっても、あの温かさにはなってくれない。先ほど突き放してしまった、人より少し高い体温が無性に恋しかった。軽くて柔らかいだけの布団をきつく握りしめる。
ようやく息が落ち着いてきた頃、ノックの音が聞こえた。
「ドアの外にパイと飲み物を置いておいたわ。食べられそうだったら、食べてちょうだいね」
足音が遠ざかるのを聞いて、キャラはゆっくりと布団から起き上がった。薄くドアを開けると、お盆に乗った食事が置かれているのが見えた。それを手元に引き込んで、すぐにドアを閉める。
キャラはコップに手を伸ばした。パイから食べると喉に詰まらせそうだった。
淡く色のついたこのジュースは、ここに来てから何度も飲んだ覚えがあった。先程、トリエルがキャラに飲ませようとしていたものと同じものだ。
ベッドの横に散らばる、割れたコップと色のついた水たまりに目を向けた。──こんなことをしても、トリエルは怒鳴りつけもしなかった。
キャラがどんなに殴っても、一度も殴り返さなかった。張り手ひとつなかった。
この家族は一度も、キャラを攻撃したりなどしなかった。
キャラはコップの中の水面に視線を落とした。
アズリエルだってそうだ。彼はただ、キャラを外に連れ出しただけだ。ずっと部屋の中にいてはつまらないだろうと言って、父母の目を盗んでキャラに地下世界を見せようとした。
──もし、本当のこのモンスターたちに害意がないのならば。
キャラはきつく唇を噛んだ。皮膚が破れ、唇に血が滲む。
──私は、善意で助けてくれた相手を、二度も石で殴ったことになる。
ジュースを飲んだ途端に、傷の痛みがひいていく。毒など混じっているはずのない、キャラの体を治すためだけに与えられた食事。
続いて、パイに手を伸ばした。乱暴に手で掴み、一口齧った。ろくに噛まずに飲み込む。瞬く間に癒えていく腕と脇腹の傷を見下ろして、キャラはまた唇を噛む。
キャラを攻撃したのは、あのモンスターだけだ。
──だが、アズリエルはあのモンスターの肩を持っていた。
反撃しようとしたキャラを止めたのが何よりの証拠だ。キャラを殺そうとしたモンスターの方に、迷わず味方をしていた。──けれども。
目を閉じる。
今までの彼の態度が「嘘」だったとは、どうしても思えない。
控えめなノックが聞こえた。キャラはびくりとしてドアに視線を向ける。
「……キャラ?」
アズリエルの声だ。
「…………ええと、その」
声はどこか湿っぽい。泣いていたのかもしれない。さっきまでのキャラと同じように。
「ごめんなさい。許してもらえるなんて、思ってないけど……」
絞り出すような声が、キャラの胸を引っ掻いた。
電気の消えた部屋は薄暗い。その中でキャラは身じろぎ一つせず、息を殺してアズリエルの言葉に耳を傾けていた。
「……魔法で怪我しちゃうなんて知らなかったんだ」
頼りなげに震える声。
「人間のこと、ちゃんと知らなくて、ごめんなさい。怪我させちゃって、ごめんなさい。怪我してることに気が付かなくて、ごめんなさい……」
ドア越しの声は、どんどん小さくなっていく。
「えっと……じゃあ、ね。怪我が治るまで、ゆっくりしててね。僕、もう、キャラに迷惑かけないように気をつけるから」
気づけば、キャラはドアに飛びついていた。
音を立てて勢いよく開かれたドアの先に、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった山羊の顔があった。
それを見た瞬間、ああ、こいつも生き物なんだな、というどうしようもない感想が浮かんだ。
「…………」
開けてから、このモンスターに何を言うべきか考えてなかったことに気づく。衝動的な行動を後悔しそうになった。
「……モンスター同士だと、初対面の相手に魔法を向けるのは普通のことなのか?」
アズリエルがおずおずと頷いた。
「……う、うん。あれは、挨拶だから……」
「──いいよ」
何を言われたかわかっていない顔をしていたので、キャラはもう一度、はっきりと言葉にする。
「許してあげても、いい」
困惑するアズリエルの顔が、何故だか面白かった。
「まだ、治ってないのか」
キャラが殴った頬がまだ腫れ上がっているのに気がついて、思ったことをそのまま口にする。
この地下なら、食事をすればすぐに傷が治る。怪我がそのまま放置されているのは奇妙に思えた。
「……その、顔の傷」
アズリエルが視線を逸らす。
「母さんが、しばらくそのままでいなさい、って」
逸された視線が、するりと下に向かった。俯いた顔を見て、こいつはこんな顔もするんだな、と思う。今までのアズリエルは、明るい顔をしてばかりだった。
「キャラはもっと痛くて怖い思いをしたんだから、って……」
「……トリエルって、ああ見えて結構厳しいんだな」
キャラの言葉に、アズリエルは眉尻を下げたまま笑った。
「……知らなかったの?」
「過保護なお母さんって感じに見えてた」
アズリエルが力ない笑みを浮かべた。遠慮も打算もなく、ただ思ったままに相手に言葉をぶつけるのは、思いの外、気分がよかった。
「パイ、まだ食べかけだからさ。……二人で食べないか? 半分ずつ」
「ねえ、体、どう? まだ痛い?」
山羊に似た顔がベッドの中のキャラを覗き込む。気の弱そうな眉も、柔らかな白い毛も、「人間の魂を奪う凶悪なモンスター」にはとても見えない。
けれど、他人を見た目で判断すれば痛い目に遭うことを、キャラは知っている。
「……」
キャラは目の前のモンスターに、睨むような視線を返した。布団の中で拳を握る。
残念なことに、この部屋には武器になりそうなものがなかった。素手でこれに勝てる気はしない。しかし、「視界の中に他人がいる時は常に身構えていなければならない」という条項は、キャラの本能に刷り込まれていた。
なおも心配そうに見つめてくるモンスターに対し、ようやくキャラは口を開いた。
「……多少」
短い言葉は、しっかりとそのモンスターの耳に届いたようだった。キャラが返事をしたことに気を良くしたのか、モンスターの表情が目に見えて明るくなる。
「起き上がれる? 朝ご飯、できてるよ」
昨日の記憶は痛みのせいで朧げだが、このモンスターに名を教えられたのは覚えている。アズリエル、というらしかった。どうでもいい情報だ。
モンスターの背後で白いものが揺れる。キャラは反射的に目を向けた。──このモンスターの尻尾だ。
自分の神経の過敏さに、内心で舌打ちする。武器か何かを隠し持っているのかと思った。
「それとも、ここに持ってこようか?」
──朝食。
この部屋か、食卓か。どちらを選ぶべきか、キャラはモンスターから視線を逸らさないまま、目まぐるしく思考を回転させた。
食事に混ぜ物をされる可能性。──調理の段階で仕込める。どちらを選んでも同じ。そもそも、昨晩、「回復のために」と菓子を食べさせられた。今更警戒しても遅いのかもしれない。
この部屋に留まるべきか。──モンスターの監視が無い方が気が楽だ。食事に不審を感じれば、残すこともできる。ただし、残した食事を気付かれずに捨てることは難しいだろう。
食卓へ移動すべきか。──複数のモンスターに囲まれることになる。襲われれば抵抗はできない。だが、不自然にならずに、この家の間取りを探れる。
問われてから一呼吸もしないうちに、キャラの中で方針が決定した。
布団の中で肘をつき、上半身を起こす。落下した際に打ち付けた背が軽く痛んだが、動くのに支障はない。
ベッドから足を下ろしてから、立ち上がるのに躊躇した。昨晩は折れていた右足の痛みが生々しかった。体重をかけるのは憚られ、左足に重心を預けて立ち上がる。
「歩ける」
体を支えようと近づいてきたモンスターの手を振り払うように、キャラは右足を踏み出した。体重をかける瞬間、無意識に息を詰める。
負荷のかかった右足に、昨日のような激痛は走らなかった。それがあまりにも不気味だった。
「……食卓はどこ?」
キャラが一人で歩くのを見て、彼は表情を緩めた。それとは対照的に、キャラは硬い表情のまま用心深くモンスターの一挙手一投足を見つめる。
──このモンスターが全ての始まりだった。
一見して巨大なぬいぐるみか何かにも見える、ふわふわとした毛皮に覆われたモンスターの体。その頭から足元まで素早く視線を走らせる。
目の前のモンスターは、軽々とまではいかずとも、疲れの見えない足取りでキャラの肩をこの家まで担ぎ続けた。キャラを遥かに凌ぐ体力を有しているのは明らかだ。
完全には癒えきっていないこの体で、まともに戦っても勝ち目はない。逃げられるかどうかもわからない。
「──こっち!」
白いモンスターが手招きをする。毛に覆われた鋭い爪が、手招きするたびに見え隠れした。
あれは鋭い爪と牙を持っている。温厚な毛玉のように見えても、やはりあれは怪物なのだ。
──はるか昔はきっと、何人もの人間を屠ってきたのだろう。
最初は彼らが「モンスター」だとはわからなかった。
本には残忍で凶暴な生き物だと書かれていたし、モンスターを描いた絵は恐ろしげなものばかりだった。
この能天気な顔をした人面獣のような生き物と、話に聞いていた「モンスター」が、うまく結びつかなかった。
隣で美味しそうにパイを頬張っている、山羊に似た生き物にちらりと視線を向ける。
彼らがキャラに危害を加えようとする気配は、今の所、ない。
──だが、こいつらはモンスターだ。
──モンスターは人間の魂を奪う。
はるか昔、人類はモンスターと戦争をしたのだという。文書による記録が残っている、神話よりも後の時代に。「モンスター」と呼ばれているそれが実在のものだったのか、それとも特殊な外見をした部族のことを指していたのか、諸説あるらしいが、戦争があったことだけは確からしい。少なくとも、キャラはそう聞かされていた。
古くから寝物語に伝えられている物語によれば、攻撃を仕掛けてきたモンスターに、人類は必死で抵抗したのだと。人間の魂を奪って力を得るために、モンスターが人間たちを襲ったのだと。彼らは人間の魂を取り込むことで、強大な力を得ることができるのだと。
古い戦争の話と共に、モンスターの話も聞かされていた。どこまでが事実で、どこまでが後世の作り話なのか、歴史の専門家でもないキャラには尚のことわからない。
曰く、最終的に、人間は恐ろしいモンスターとの戦争に勝ったらしい。地上の覇権は人類の手に渡った。少なくともこれは事実だ。地上にモンスターはいない。
──そして、人間はモンスターたちを、イビト山の地下に封印した。
これも事実だったらしい。教師とは案外当てにならないものらしいと、キャラは内心でため息をついた。
キャラを含む村人たちにとって、モンスターの伝承は単なる言い伝えの一つとしての重さしかなかった。例えるなら、「夜中に爪を切ってはいけない」のと同じような。
モンスターの存在自体が危ぶまれているのだから、当然だろう。誰も見たことがなく、存在の証明の難しい、いるかいないのかも定かではない存在を恐れ続ける方が難しい。
光の差さない地下で、作物が育つ訳がない。洞窟は生き物の住める場所ではない。モンスターがいたとしても、とっくに飢え死にしているに違いない──キャラにモンスターと人間の戦争について話した人間は、そう締めくくっていた。
だから、キャラ自身も、モンスターにまつわる伝承を信じてはいなかった。「登った者は帰ってこれない」という片道の旅としてイビト山へ足を踏み出しただけだ。あの村にはキャラの居場所がなかった。大人の拳と浴びせかけられる怒声から逃げて、逃げて、逃げて、──終わらせるために、キャラは山を登った。
だから、モンスターのことなどまったく念頭になかったのだ。まして、彼らに捕まるかもしれない、などとは。
「ほら、あなたも食べてみて」
目の前に座る大柄なモンスターがキャラにパイを食べるように促した。彼女はトリエルと呼ばれていた。アズリエルの母らしい。似たような外見をしているが、アズラエルよりも一回り大きい。
キャラは皿の上のパイに視線を落とした。
トリエルがパイを切り分けるところも見ていたし、同じパイから切り分けられたものをアズリエルやトリエルが躊躇なく頬張るのを見ていた。毒は混ざっていないはずだ。
キャラは用心深くパイを口元に運んだ。匂いを嗅ぐ。異臭はしない。ほんの小さな一口分を、異常があればすぐに吐き出すつもりで口に含む。
その瞬間に口に広がった甘さに、キャラは声を漏らしそうになった。
初めての感覚に、脳が混乱を訴える。パイ生地の軽やかな食感。爽やかな香辛料の香りが鼻を抜ける。
「──どうかしら? 美味しい?」
キャラはぎこちなく頷いた。
食べ物とはこのようなものだったか。もっと飲み込みにくいものではなかったか。この柔らかさは、舌触りは、なんだ。
これほど美味しいものは食べたことがなかった。──また食べたい、などと思ってしまったほどに。
吸い寄せられるように、キャラはもう一口食べた。今度は、もう少し大きく口に含む。舌の上を歓喜が跳ね回った。
「良かった。ちゃんと怪我も治ったみたいね。心配したのよ」
その言葉が耳に引っかかり、キャラの意識がまた目の前のモンスターへと引き戻された。──やはりあれは、このモンスターの手によるものだったか。
「…………何をしたたんだ?」
起きてからずっと気になっていた疑問が、喉からこぼれ落ちた。
言った瞬間に、後悔が脳裏をよぎる。虜囚としては、下手な言動は慎んだ方がいいのだろう。何も言わず、何も聞かず。──それが理想であると、わかってはいるのだ。
「魔法でも使ったのか」
けれども、聞かずにはいられなかった。
トリエルは答えない。訝しげな顔をしている──のだと思う。モンスターの表情の作り方が、人間と同じであるならば。
とぼけつづける目の前のモンスターに対し、キャラの声に苛立ちが混じった。
「怪我がこんなに速く治るなんて──」
その瞬間、トリエルはやっと理解したかのように、目を瞬かせた。
「──ああ、そうだったわね。忘れていたわ」
トリエルは言い聞かせるような口調で、ゆっくりと話す。
「モンスターの食べ物はね、すぐにエネルギーになるのよ。だから、食べてすぐに傷が治るの」
「……は?」
キャラはトリエルの顔をまじまじと見つめた。表情にも口調にも、冗談らしさは見受けられない。隣のアズリエルの顔を盗み見る。聞いているのかいないのか、このモンスターの表情にも変化はなかった。
「人間の食べ物は違うのだったわね。言い忘れていてごめんなさいね。びっくりしたでしょう」
嘘だ、と断じるのは容易い。しかし、モンスターが目の前にいるこの状況で、常識に縋り付くのも馬鹿げているように思えた。現に、キャラの傷は治っている。トリエルの言葉を否定する材料がない。
──折れた片足の痛み、肉を突き破り飛び出た骨、流れていく血の赤。
あれは現実だった。
一人では歩くこともできなかった。血を流していた体は、地面に打ち付けられたこの体は、この家まで歩く間中、ずっと悲鳴をあげていた。
記憶の中の痛みに、キャラは顔をわずかに顰めた。今も生々しく鮮烈に思い出せる、あの激痛と寒さ。
落ちてすぐに、即死できなかったことに絶望した。頭部は無事だった。痛みがあるのは足と背中だった。動くことができなかった。血と共に、命が流れ出ていく感覚がした。あの恐怖は口で伝えられるものではない。
一瞬で終われたなら、どんなにか楽だっただろう。──こんな、痛みの中でじわじわと死んでいくような終わり方は、想定していなかった。
忍び寄る死の気配に動転して、キャラは大声で助けを呼んだ。
死ぬつもりで身を投げたのに、いざ目の前に死が迫ると恐怖に怯えてしまった。そんな自分の覚悟の弱さが忌々しかった。今すぐにでもこのフォークで喉を掻き切ってしまいたいぐらいに最悪な気分であるのに、死への恐怖を知ってしまった今はそれを実行することもできない。
その弱さを見透かすようなモンスターの目が不気味だった。
何故お前が私の怪我を心配するのか、と問いかけて、キャラは口を閉ざした。その答えは聞いてはいけない気がした。
「キャラ、今日はとっておきのおやつがあるんだ!」
ふわふわとした外見の小山羊が自慢げに言った。キャラは無言で視線を返す。
先日、アズリエルに名を教えてからは、彼は何かにつけて「キャラ」、「キャラ」と名前を連呼するようになった。
山羊というよりは、生まれたての子犬か何かのように、キャラの後を付け回しては話しかける。
最初は監視されているのかとも思った。だが、この数日の彼の言動を見る限り、単にキャラが物珍しいだけらしい。看守にしては隙と口数が多すぎる。──この態度がキャラの油断を誘うために作られたものでないのなら、の話だが。もしそうならば、彼は相当な役者だ。
どちらであるにせよ、気を許すつもりはなかった。
勝手に憐れみ、勝手に施し、勝手に満足して去っていく身勝手な連中なら、よく知っている。
口では「可哀相」などと言いながら、彼らはキャラを救おうなどとは思ってすらいない奴ら。わずかばかりの施しは、罪悪感を減らすためのものにすぎない。彼らはただ、キャラを通して自分の幸せを確かめ、優越感を得ているだけなのだ。
キャラと顔を合わせるたびに、彼らの同情は減っていく。優しげな態度はすぐに鬱陶しげなものに変わる。助けを求めれば困惑し、次いで怒り出す。
信頼していた人間に裏切られるのは、もうたくさんだった。気まぐれな施しを信用するべきではない。
ましてや、今、目の前にいる相手はモンスターだ。人でない存在の思考回路など、なおさら信用ならない。
「キャラも知ってるんじゃないかな。なんてったって、地上から落ちてきたお菓子だからね!」
うきうきとした足取りで、彼は台所へと向かっていく。背中には白い尻尾が揺れていた。手招きに応じて、キャラもその後に続いた。
「人間の食べ物だから、きっとキャラの口に合うと思うんだ」
そう言って、アズリエルは冷蔵庫を開ける。キャラは後ろからそっと冷蔵庫の中を覗き込んだ。
今まで食事として出されたモンスターの料理の中には、キャラの想像を絶するようなものがあった。とても食べ物には見えないものまで、彼らは躊躇なく口にし、キャラにも食べるように勧めてきた。味はともかくとして、どれも食べれはした。腹を下しもしなかったが、今でも初見のものは食べるのに躊躇する。
「キャラは運が良かったよ。これはあんまり地下には落ちてこないからね。いつでも食べられるものじゃないんだ」
アズリエルが自慢げに冷蔵庫の上の段から取り出したそれの包装に見覚えがあった。──食べたことはなかったが。
地上で他の子供が美味しそうに食べているのを、何度か見かけた覚えがある。自分には縁のないはずの菓子だった。
「いつもは一日二かけずつって決めてるんだけど、今日は特別に一列あげる」
銀紙が剥かれ、深い茶色の板が現れる。白い毛皮の手が力を加えると、それは軽い音を立てて簡単に割れた。
差し出された板チョコを、キャラはしげしげと眺めた。たった今開封されたばかりのそれに対して、異物混入の疑いを抱いたわけではない。
今までは他の子供が食べているのを見るだけだったのに、地下に落ちてから食べる機会を得てしまったという、この状況に、ひどく奇妙な気分にさせられていた。
「……もしかして、嫌いだった?」
「いや。……もらうよ」
下がってしまったモンスターの眉尻が、キャラの居心地を悪くさせる。チョコレートを受け取り、一口だけ齧ってみた。
──甘い。
キャラの目がわずかに見開かれた。
初めての味、初めての香り。僅かに混じる苦味も、嫌いではない。
無言のまま、もう一口、齧る。もう一口。──もう、一口。
気づけば、それなりの大きさだったはずのかけらは全てなくなってしまっていた。
顔を上げると、モンスターと視線が合った。
どう? とでも言うかのような、期待に満ちたモンスターの顔が、キャラの表情を窺っている。
「……悪くない」
──何を絆されそうになっているんだ。
キャラは内心で自分をなじった。
──こいつらはモンスターだ。
意識的に自分に釘を刺す。モンスターの被っている無害で温厚な化けの皮は、想像以上に出来がいい。
──きっと今も、魂を奪おうとしているに違いないのに。
死ぬつもりで山に登ったのは事実だ。だが、モンスターに食い殺されるのは願い下げだった。今はもう、死ぬつもりはない。なんとしてでも生き延びてやるつもりだった。それはこの状況への反骨精神も大きかった。
──そうとも、まだ、身の安全が確定したわけではない。
モンスターがどうやって人間から魂を奪うのかを、キャラは知らない。もしかしたら、単に殺すだけではだめなのかもしれない。伝承の中のモンスターは魔法を使っていた。キャラはそれらの魔法には詳しくないが、魂の奪取にも、何らかの魔術的条件が絡んでいる可能性が考えられる。条件を揃えるまでの準備期間だから生かされているだけなのかもしれない。
実際、キャラはこの家からの外出を禁じられていた。このモンスターたちを信じ切るにはまだ早いのだ。
──気を緩めた「演技」をしておけば、監視が緩む可能性もある。
無邪気を装うこの看守のモンスターと同じように、キャラも模範囚としての演技すればいい。
もちろん、急に態度を変えれば不審がられるだろう。不自然に思われないよう、徐々に友好的な態度に切り替えていく。そうすればきっと、行動の自由も増えるだろうし、もしかしたらこのモンスターの口が緩んで重要な情報を引き出せるようになるかもしれない。
胸にわだかまる違和感を無視して、キャラは当面の方針を決めた。
「こんなものが山に捨てられているのか? そもそも、人が入らない山なのに……」
内心を悟られないように、キャラは何気ない疑問を口にする。
「バリアの影響で、時空が歪んでるんだって。だから、イビト山の周りのものがここに落ちてくるんだって、博士が言ってた。キャラが地上でなくしたものとかも、もしかしたらこの地下にあるのかもしれないよ」
そう言って、彼は自分の分の最後のかけらを口にした。彼が口を開けるたびに、鋭い牙が顔を覗かせる。
──あれに噛まれたら、きっと、自分の薄い肌などひとたまりもない。
それを忘れてはいけない。この彼我の差を、絶対に。人とモンスター、看守と虜囚。最初から気を許していなければ、裏切られることなどない。
山羊の顔が美味しそうに目を細める。舌の上で溶かして、じっくりと味わっているのが見ているだけでわかった。先程のキャラと同じ食べ方だった。
歩いても歩いても、灰色の街並みが続く。石造りの建物が並び、住人らしいモンスターたちがそこかしこを歩いている。
キャラは不自然にならない程度に周囲の街並みを見渡していた。特徴的な看板や路地の本数を、頭の中に叩き込む。──いつか来るかもしれない脱走の日に備えて。
初めての外出だった。アズリエル曰く、「父さんと母さんには内緒」らしい。ニューホームの街を、アズリエルと並んで歩いていく。
地上の晴れ空とは比較にならないほど薄暗いが、歩いたり看板の文字を読んだりするには十分な程度の明るさが保たれていた。アズリアルたちの家に連れられた時もこのあたりを通った気がするが、激痛で意識が朦朧としていたため、記憶が曖昧だった。改めて歩いていると、記憶の中の印象との齟齬が目立った。
街を歩くモンスターたちは、多種多様な容姿をしていた。キャラが人間であることがわからないのか、モンスターたちはキャラのことを気にもとめていないようだった。好都合だ。
──脱走して、それで、どうするんだ?
冷静な声がキャラの頭の中で囁く。
もしバリアから出られないなら、処刑の時刻を先延ばしにするだけだ。それとも、人間ならば突破できるのだろうか。
──地下には落ちてこれたのだから、出ることもできるのかもしれない。
バリアが阻むのが「モンスターの出入り」だけならば、人間であるキャラなら脱出の目がある。もしあの遺跡の穴から抜け出せるなら、装備を整えておく必要があるな、と頭の隅に書き留めた。朧げな記憶の中の、あの穴が作っていた崖を思い出す。滑りにくい靴は必須だろう。ロープか何かがあれば役に立ちそうだ。
「……ねえ、地上の街ってどんな感じ? ここと結構違うの?」
「さあ。私の住んでいたところは、人の少ないところだったから」
キャラはそっけなく言った。あの村のことを話す気にはなれなかった。
見応えがあるのは花畑ぐらいしかない、何の変哲もない田舎の村だった。広い畑を耕すだけで一生を終える人々。出入りのなく閉じた窮屈な人間関係の中で全てを完結させる、あの村。村人全員が互いのことを嫌になる程知り尽くしているのに、あの家でどう扱われていたかわかっていたはずなのに、──キャラのことを見捨てた、あの憎らしい人々。
彼らに比べれば、キャラに衣食住を提供しているモンスター一家の方がよほど良かった。あまりにも待遇が良すぎるからこそ、いまだに、その裏を疑わずにはいられない。
目的地はもう決まっているらしく、アズリエルはずんずんと迷いなく進んでいく。
──今日、殺すつもりなのだろうか。
──処刑場に向かっているのか?
──今、ここで、逃げるべきか?
何度目かの思考が、また、脳裏をよぎる。キャラは少し前を歩くモンスターの横顔を盗み見た。
──いや、それはないだろう。、いつもと言動が変わらなすぎる。
──それとも、アズリエルが知らされていないだけか?
──私を油断させるために。
それならばなおのこと、逃走経路を頭に叩き込まねばならない。キャラは灰色の道に視線を走らせる。色味に乏しい分、少々覚えにくい。不安が胸の奥を刺した。
このモンスターを疑い続けるのは難しかった。
街の中心らしい太い道をそれて、少し狭い道に入っていく。二階建てや三階建ての家に見下ろされながら、キャラは無言でアズリエルの後を追った。
少し高い声が複数聞こえた。子供の声だと、何故かわかった。明らかに人と違う声なのに、その賑やかな響きが村の子供の声と重なって聞こえた。
程なくして、所狭しと民家が並ぶ中に、少しだけ開けた場所が顔を覗かせた。子供らしきモンスターたちが駆け回って遊んでいる。ここだけは石畳に覆われておらず、土の地面が剥き出しになっていた。
「おーい!」
隣から前触れなく発せられた大声に、キャラはびくりと左腕を跳ねさせた。
アズリエルはそれに気づかなかったらしく、前を向いたまま、大きく手を振っている。再度、アズリエルが呼びかける大声がキャラの鼓膜を打った。
視線の先を見ると、アズリエルと同じほどの体格のモンスターがいた。それが小走りにこちらへ向かってくる。
「紹介するね。僕の友達の████。こっちはキャラ。最近、僕の家にやってきた子!」
アズリエルに紹介されたモンスターは、目を瞬かせてキャラの顔を覗き込んだ。アズリエルと異なり、どちらかといえば兎に近い外見をしているが、毛に覆われた体の骨格は似通って見えた。
「初めまして! よろしく!」
毒気のない元気な声に、キャラは少しだけ警戒を引き下げた。
──単に、友達に合わせたかっただけか。
そう理解した瞬間、今日殺されるのかもしれないと思っていた自分が馬鹿らしくなった。
今まで何度も考えていた可能性が頭をよぎる。もしかしたら、モンスターは人間を恨んでいないのかもしれない。地上で戦争をしていたモンスターはとっくに死んでいて、この地下が彼らの安住の地になっているのかもしれない。
人々がモンスターを過去の存在だと思っていたのと同じように、モンスターにとっても、人間は古い存在と化していて、今更恨むような相手ではなくなっているのかも──魂を奪う目的を失っているのかもしれない。
記憶の中で村の人間がやっていたのを真似て、キャラはおずおずと右手を差し出した。ぎこちなく笑みを作る。笑い方はこれで合っているだろうか。
「……よろしく」
瞬間、腕に鋭い痛みが走った。
息が詰まる。
右腕が燃えるように熱い。
一瞬の混乱の後に、目の前のモンスターの魔法が腕の肉を抉ったのだと理解した。
「────っ」
痛みに縮こまろうとする体の本能を押さえつけ、キャラはモンスターに突進した。勢いのままに押し倒し、そのまま馬乗りになる。傷付いた右腕の悲鳴を無視して、モンスターの首を地面に押さえつけた。
──裏切られた。
傷を確認する余裕はない。うまく動かせなくなった右腕は、モンスターを抑え込むのに使う。
左手の指先が手頃な石を捉えた。すぐさま握りこむ。ほど良い重さ。凶器の重さが手に馴染んだ。
胸の中で魂が怒りと憎悪に赤く燃え上がる。
モンスターがキャラを見上げている。白目のない獣の目。
──やはり、私のことを殺す気だったんだ。
石を持つ手を振り上げる。迷いなく目標を頭部に据える。
熱は右腕から全身に波及していた。うっすらと白熱した視界。
抵抗しなければ、また半殺しにされる。自分の身を守れるのは自分だけ。──いや、相手はモンスターだ。
──殺される前に、殺さなければ。
石を握る手に力を込める。自分の息の音がうるさい。
「待って! 何するの、キャラ……!」
背後から振り上げていた左腕を掴まれた。
「──離せっ!」
すぐさま手の甲で山羊の顔を打つ。アズリエルの呻き声が聞こえたが、キャラの腕を拘束する力は強くなるばかりだった。
脇腹に鋭利な痛みが走る。押し倒されたモンスターが魔法を使ったのだと理解する。
傷ついた右腕からだらだらと血が流れ落ちる。生暖かい液体が肌の上を伝っていく感触。
落下で死にかけた時の恐怖が脳裏を明滅する。
──反撃したのは失敗だった。
──すぐに逃げれば良かったのだ。
──私は判断を誤った。
「やめて、キャラ。お願い。どうして……!」
身を捻り、唸り声を上げながら全力で腕を引く。アズリエルが抵抗する。
その瞬間、逆の方向に力を加えた。アズリエルの顔を打つように、石を持つ手を押し込む。
バランスを崩したアズリエルの顔面に、石がめりこむ。
拘束が外れた。
キャラは跳ねるように起き上がり、真っ直ぐに駆け出した。
走り回る子供のモンスターたちの間を駆け抜けて、薄暗い道を疾走する。石畳の地面を蹴るたびに傷に響いた。
痛い。苦しい。痛い。──怖い。
必死の形相で走るキャラに、何体かのモンスターが「何事か」と視線を向けた。
肺が焼けるようだった。
右腕の感覚がない。
視界が白く、狭くなっていく。
──いやだ。
──こんなところで、殺されてたまるか。
口に何かを押し込まれる感触がして、キャラは薄く目を開けた。
全身が痛かった。
こじ開けられた口の中に、液状の何かが流れ込む。
喉を伝い落ちて行くそれらが胃に届く前にエネルギーに変換されていくのが感覚でわかった。モンスターの食料独特の、この奇妙な感覚。
「……キャラ?」
聞き覚えのある声。
ぼんやりと、白い何かが視界の中に大きく映る。焦点が合うとともに鮮明になる。──トリエルだ。
視線を横に映す。アズリエルがすぐそばにいた。泣きそうな顔でキャラのことを見つめている。
ここはキャラに貸し与えられていた部屋──おそらくは本来はトリエルが使っているだろう部屋の中だった。
「怖がらせてごめんなさい」
そう言われた瞬間に、閃光のように記憶が脳内を駆け巡った。
──右腕の傷。
──裏切られた。
──敵。
口元にあてがわれていたコップを払い除け、キャラはベッドの中で跳ね起きた。
重いコップが床に落ちて音を立てる。薄く色のついた液体が床に巻き散らされて広がる。
背を壁にへばりつかせ、荒い息でモンスターたちを凝視した。身を守るように片腕を顔の前に構え、もう片方の手で武器になりそうなものを探す。──使えそうなものは何もない。
トリエルが近づいてくる。
「──来るなっ!」
大声を発した瞬間、脇腹の傷が痛んで顔を顰めた。トリエルが動きを止める。
白い毛に覆われた顔に浮かぶ表情の意味が、理解できない。──理解したくない。
再び近づいてきた太い腕を、跳ね除けようとする。──意味がない。
「やめろ! ──来るな!」
今度は体を蹴ろうとした。紫色の服に、キャラの足が突き刺さる。手触りの良い服の下の、柔らかくも重い体は、キャラの蹴りではびくともしてはくれなかった。
「ごめんなさい。お願い、落ち着いて。あなたを傷つけたりしないわ」
「やめろいやだくるなはなせ────!」
トリエルの腕がキャラを包む。
キャラは絶叫して、その大きく柔らかな体を殴った。
──こいつが少しでも力を込めれば、自分の体なんてひとたまりもない。
骨を折り砕かれて殺される。
「ごめんなさい。ごめんなさいね」
どれだけ殴っても、腕は緩まなかった。トリエルはキャラのことを離さない。
「ちゃんと注意していなかった私が悪いの。怖い思いをさせてしまって、本当にごめんなさい」
大人のモンスターとの筋力差に絶望を覚える。どれほど抵抗しても無駄だ。このモンスターの気分ひとつにキャラの命がかかっている。
それでも、無意味であったとしても、抵抗を止める理由にはならない。がむしゃらに手足を振り回し、頭突きをし、垂れている耳を噛む。
かすかに、トリエルの呻き声が聞こえた。
──痛そうな声が聞こえた瞬間、冷たい何かが胸の中を伝い落ちた。
キャラの動きが止まる。
ざらりとした何かが心臓を擦った。
自身の暴力に多少の意味はあったのだとわかったのに、浮かんだのは希望ではなく、じくじくとした鈍い痛みだった。
トリエルが脱力したキャラの体を抱き締める。その手つきの慎重さ、壊れ物を扱うような優しさに、気づいてしまった。──気づきたくなかった。
キャラの喉から嗚咽が漏れる。その背を労わるように撫でる、大きく温かな手。今すぐにも振り払いたいのに、体が動いてくれない。
か細い息が漏れる。自分の呼吸とは思えない、ひどく頼りない息の音。それは痙攣のような息の発作になって、ますますひどくなっていく。
目が熱い。視界が滲んでいく。
「……何か、食べれそう? 飲み物がいい? それともパイの方がいいかしら」
トリエルの言葉に、キャラはゆるく
迷うように口を開く。
たった一言、口にするだけで済むはずなのに、全霊を傾けねばならないほどの気力が必要だった。
「……ひとりに、…………してほしい………………」
「…………そう」
トリエルはゆっくりとキャラの体に回していた腕を緩めた。温かな腕が離れた途端、物寂しい寒さがキャラの肌を這う。
「後で、食べ物を持ってくるから……ゆっくり、休んでいてね」
トリエルはそう言うと、アズリエルの腕を掴んで部屋を後にした。
ドアノブが戻る音を最後に、部屋の中に静寂が満ちる。ベッドの上に座り込んでいたキャラは、そろそろと、体を横たえた。この肉の体のどこもかしこもが痛い。地上で受けたどんな傷よりも痛い。──けれども、どの痛みよりも、胸の奥が痛かった。
見えも触れられもしない血液が、心臓からだらだらと流れ落ちていくような感覚。
いくら布団にくるまっても、あの温かさにはなってくれない。先ほど突き放してしまった、人より少し高い体温が無性に恋しかった。軽くて柔らかいだけの布団をきつく握りしめる。
ようやく息が落ち着いてきた頃、ノックの音が聞こえた。
「ドアの外にパイと飲み物を置いておいたわ。食べられそうだったら、食べてちょうだいね」
足音が遠ざかるのを聞いて、キャラはゆっくりと布団から起き上がった。薄くドアを開けると、お盆に乗った食事が置かれているのが見えた。それを手元に引き込んで、すぐにドアを閉める。
キャラはコップに手を伸ばした。パイから食べると喉に詰まらせそうだった。
淡く色のついたこのジュースは、ここに来てから何度も飲んだ覚えがあった。先程、トリエルがキャラに飲ませようとしていたものと同じものだ。
ベッドの横に散らばる、割れたコップと色のついた水たまりに目を向けた。──こんなことをしても、トリエルは怒鳴りつけもしなかった。
キャラがどんなに殴っても、一度も殴り返さなかった。張り手ひとつなかった。
この家族は一度も、キャラを攻撃したりなどしなかった。
キャラはコップの中の水面に視線を落とした。
アズリエルだってそうだ。彼はただ、キャラを外に連れ出しただけだ。ずっと部屋の中にいてはつまらないだろうと言って、父母の目を盗んでキャラに地下世界を見せようとした。
──もし、本当のこのモンスターたちに害意がないのならば。
キャラはきつく唇を噛んだ。皮膚が破れ、唇に血が滲む。
──私は、善意で助けてくれた相手を、二度も石で殴ったことになる。
ジュースを飲んだ途端に、傷の痛みがひいていく。毒など混じっているはずのない、キャラの体を治すためだけに与えられた食事。
続いて、パイに手を伸ばした。乱暴に手で掴み、一口齧った。ろくに噛まずに飲み込む。瞬く間に癒えていく腕と脇腹の傷を見下ろして、キャラはまた唇を噛む。
キャラを攻撃したのは、あのモンスターだけだ。
──だが、アズリエルはあのモンスターの肩を持っていた。
反撃しようとしたキャラを止めたのが何よりの証拠だ。キャラを殺そうとしたモンスターの方に、迷わず味方をしていた。──けれども。
目を閉じる。
今までの彼の態度が「嘘」だったとは、どうしても思えない。
控えめなノックが聞こえた。キャラはびくりとしてドアに視線を向ける。
「……キャラ?」
アズリエルの声だ。
「…………ええと、その」
声はどこか湿っぽい。泣いていたのかもしれない。さっきまでのキャラと同じように。
「ごめんなさい。許してもらえるなんて、思ってないけど……」
絞り出すような声が、キャラの胸を引っ掻いた。
電気の消えた部屋は薄暗い。その中でキャラは身じろぎ一つせず、息を殺してアズリエルの言葉に耳を傾けていた。
「……魔法で怪我しちゃうなんて知らなかったんだ」
頼りなげに震える声。
「人間のこと、ちゃんと知らなくて、ごめんなさい。怪我させちゃって、ごめんなさい。怪我してることに気が付かなくて、ごめんなさい……」
ドア越しの声は、どんどん小さくなっていく。
「えっと……じゃあ、ね。怪我が治るまで、ゆっくりしててね。僕、もう、キャラに迷惑かけないように気をつけるから」
気づけば、キャラはドアに飛びついていた。
音を立てて勢いよく開かれたドアの先に、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった山羊の顔があった。
それを見た瞬間、ああ、こいつも生き物なんだな、というどうしようもない感想が浮かんだ。
「…………」
開けてから、このモンスターに何を言うべきか考えてなかったことに気づく。衝動的な行動を後悔しそうになった。
「……モンスター同士だと、初対面の相手に魔法を向けるのは普通のことなのか?」
アズリエルがおずおずと頷いた。
「……う、うん。あれは、挨拶だから……」
「──いいよ」
何を言われたかわかっていない顔をしていたので、キャラはもう一度、はっきりと言葉にする。
「許してあげても、いい」
困惑するアズリエルの顔が、何故だか面白かった。
「まだ、治ってないのか」
キャラが殴った頬がまだ腫れ上がっているのに気がついて、思ったことをそのまま口にする。
この地下なら、食事をすればすぐに傷が治る。怪我がそのまま放置されているのは奇妙に思えた。
「……その、顔の傷」
アズリエルが視線を逸らす。
「母さんが、しばらくそのままでいなさい、って」
逸された視線が、するりと下に向かった。俯いた顔を見て、こいつはこんな顔もするんだな、と思う。今までのアズリエルは、明るい顔をしてばかりだった。
「キャラはもっと痛くて怖い思いをしたんだから、って……」
「……トリエルって、ああ見えて結構厳しいんだな」
キャラの言葉に、アズリエルは眉尻を下げたまま笑った。
「……知らなかったの?」
「過保護なお母さんって感じに見えてた」
アズリエルが力ない笑みを浮かべた。遠慮も打算もなく、ただ思ったままに相手に言葉をぶつけるのは、思いの外、気分がよかった。
「パイ、まだ食べかけだからさ。……二人で食べないか? 半分ずつ」