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「白無垢の⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎」

ただやってきてただお話をするだけの話


「きみ」
 あともう少しで書き終わる。そんなところで聞こえてきた男の声に、私はディスプレイから目を離した。
 開け放たれた障子。今は「夏の庭」が設定されている障子の向こうの世界には、濃い青空がひろがっていた。天高く積み上がった入道雲が、空の広さを演出する。
 そんな、青白のコントラストの手前に、黄色がひとつ。
「まあ。大きなひまわり!」
 私が言えば、ひまわりを抱えた彼もにっと笑う。入道雲と同じ、真っ白な――頭の先から着物の裾まで白い刀剣男士――鶴丸国永。でも、この鶴丸様は、普通とはすこし違う。絹のような髪の毛先が、ほんのわずかに赤いのだ。巷でいわれる変異個体、もしくは亜種などと呼ばれる個体なのだろう。
「出先に見事なひまわり畑があってなあ。見渡す限り、ずっと、ひまわり一色なんだ」
 パソコンを閉じてのそのそと縁側へ出てきた私に、鶴丸様はそう生き生きと話して下さる。その首元に汗の滴が浮いているのが見えて、あゝこの雪の精のような御刀も汗をかくのだなあと、不思議な気持ちになった。
「見渡す限りですか。きっと壮観でしょうね」
「ああ、お天道様の暑さも忘れちまうほどさ。どうだい、一緒に見にいかないか」
 膝に置いていた手が、するりと掬われる。
 このまま有無も言わさず手を引かれ、外へ連れ出されてしまえる。少なくとも彼には簡単にそれができるけれど、彼は私の手を握ったまま私の返答を待っている。いつもそう。彼は無理矢理には私を連れ出さない。
 私は彼の手からそっと手を引き抜いた。あっけなく離れていく。
「いいえ。審神者である私が本丸を離れて、よその刀と遊び呆けるわけにはいきません」
「きみはお堅いなあ。ばれなきゃいいんだ。ばれなきゃ」
「だめです」
「残念だ。今日こそは、きみと"でえと"が出来ると思ったんだがなあ」
 声こそさぞ残念そうな声音だったが、その表情は明るい。断られたことなどなんとも思っていない様子で、私の隣にどかりと腰を下ろした。そうして、ひまわりをこちらに差し出してくる。
「せっかくだ。せめてこいつだけでも貰ってくれ」
「ええ。部屋に飾らせてもらいますね」
 受け取ったひまわりを折らないよう気をつけて、そっと立ち上がり、すぐそばの床の間の前へ、膝で歩いて向かう。
 床の間には初期刀の歌仙が活けた花瓶があって、それはそれは芸術品のように色とりどりの花が的確な角度と高さで刺さっている。けれど、あいにく私にはそういった美的センスも教養もないので、とりあえず挿さりそうな角度でひまわりを差し込んだ。……我ながら、良い位置に挿せた気がする。
 一人満足した私は机から麦茶のボトルと未使用のグラスを手に、鶴丸様のいる縁側へと戻る。
「麦茶、飲みますか」
「ありがたい。干からびちまうところだった」
「ふふ、大袈裟ですね」
「しかし……」
「?」
「よその刀と"でえと"は駄目でも、おしゃべりはいいのかい?」
 鶴丸様が意地悪げに金の瞳を細める。
 私は麦茶を注ぎながら答えた。
「だって、鶴丸様。今まで私が『帰って』とお願いしたところで、一度だって『はい分かりました』と引き取って下さったことがありましたか」
「ないなあ」
「そうでしょう」
 こぽこぽこぽぽ。いっぱいに麦茶を注いだグラスを鶴丸様へ差し出せば、彼は「こんないい女を前に、何もせず帰えるのは男じゃあないだろう」などと言いながら麦茶を呷った。ごくごく音を立てて飲むものだから、よほど喉が渇いていたのだろう。いや、この陽射しでは当然か。
「お褒め頂き光栄です。でも私としては、何事もなく帰って頂きたいのですが」
「おいおい、そりゃあ、脈ナシってことかい」
「どうでしょうね」
「ふむ。追い返されない程度には、脈アリだな!」
 勝手に納得した鶴丸様は楽しげに笑っている。
 この明るくてやわらかな彼の笑顔を見ていると、私はいつも、いろいろなことが、どうでもよくなってしまう。ただそこにこの御刀がいてくれればそれでいい、と、そんなことを思ってしまう。
 思考に霞がかかったよう、とは小説でもよく見る言い回しだが、そのとおりだった。彼と話していると、霞がかかる。彼以外の全ては些事だ。どうでもよいのだ。どうでもよいはず、ないのに。
「なあ、きみ。俺の嫁にきてくれないか」
 頭の中の霞が濃く深くなった頃、鶴丸様は必ずそう問うてくる。
 だからこそ、いつも、そこで、霞が晴れる。
「嬉しいけれど、お断りします」
 私がいつものようにお断りすれば、鶴丸様は幼子のように拗ねた。ほんのすこし口を結んで、瞼が下がって金の瞳が半分隠れる。
「でも、遊びにきてくだされば、お茶くらいならお出ししますよ」
 すかさずそう付け加えれば、彼は分かりやすく元気を取り戻した。
「なら、さらにあと百日ほど通えば、きみは俺の嫁になってくれそうだな」
「何日通われても、私は貴方のお嫁にはなりませんよ」
「何故。きみも俺を好いてくれているだろうに」
「好き嫌いの問題ではありません。私が審神者で、貴方が刀剣男士だからです」
「俺にはそれがさしたる障害には思えんが」
「鶴丸様にとってはそうでも、私にとっては違うのです。私も貴方も戦争のために存在している。貴方のその体も心も、お上から与えられたもの。勘違いを起こしてはいけないのです。鶴丸様も、私も」
 鶴丸様だって、そんなことは承知の上だろう。釈迦に説法だ。それでも私がそう説くことで、鶴丸様も理解して下さるかもしれない。
「きみの言わんとするところは、まあ、理解できるぜ。だがな、いまどき、そいつは古臭くないかい」
 鶴丸様は諭すように穏やかな口調で言って、空になったグラスを置いた。ふうと一つため息をこぼして、彼は羽織を脱ぎ始める。
「すこし前ならなあ、それこそきみの言うとおり、戦時中に不謹慎だの、神に対して不敬だの、たかが鉄くれを愛するなんざ異常だのと、審神者は散々言われたもんだ。そんなだから思い詰める奴らも多くてな。やれ心中だ神隠しだ……色恋ひとつで大騒ぎさ」
「まるで見てきたように仰るのですね」
「実際、見てきたからな」
 脱いだ羽織は雑に丸められて、わきに放られる。陽光を受けた羽織は角度によって、鶴を描いた繊細な刺繍が浮き上がった。
「今の時代、審神者と刀剣男士の婚姻となりゃあ、慶事だぜ。政府支部から祝いの品に資材が山ほど贈られてくるほどだ。……たった一世紀で、世は移り変わるものだなあ」
 鶴丸様はしみじみ感慨深い様子で、青空を眺めていた。
「……あの」
「うん?」
「そんなに、その、多くを見てきた鶴丸様が、どうして私のような女を嫁にしたいのですか」
「そんなの、きみがいい女だからに決まってるだろう」
 いい女。いい女、ですか……。
「もちろんっ、きみを好きだからだ。好き以外ないだろう」
 私の反応に鶴丸様はハッとしたらしい、慌ててそう言い直す。しばらく気まずそうな顔をしていたけれど、彼はやがて許しを乞うように笑ってみせた。
「それじゃ、駄目かい」
「……なぜ、私を好きなのですか」
 数ヶ月前、桜が散った頃。鶴丸様は突然やってきた。今日のように庭から入ってきたかと思えば、当然のように私の手を取って、やはり今日のように「愛しいきみ。どうか俺の嫁にきてくれ」と言ってきたのだ。もちろん会って初めてでそんなことを言われては当然断ったし私も彼を訝しんでいたけれど、それから毎日、彼はやってくるようになった。それも必ず手土産を持って。今日は花だが、ときには菓子や装飾品、おもちゃの日もあった。
「鶴丸様が私を好いてくださる動悸が、点で、わかりません」
「そう言われてもなあ。それこそ、好きに理由なんざない。きみを見た途端、愛しい気持ちが溢れて止まらなくなってしまった」
 鶴丸様はじっと真剣にこちらを見てくる。彼の金の瞳に、私が映り込んでいる。途端に恥ずかしさが込み上げてきて、私は庭へと目を逸らした。ちょうど、池の鯉が跳ねた。
 ふと、手に、彼が触れてくる。
「きみがそばにいるだけで、それでいいと思ってしまう。きみのことしか考えられない。きみが俺を見て、きみが俺に話しかけて、きみが俺の声を聞いてくれていれば。それですべて満ち足りてしまうんだ」
 私も、そう。貴方とこうしているだけで、満ち足りる。
 この時間が、
「幸福なんだ。きみといる時間が」
「……」
「きみもそう、想ってくれているかい」
 ここで頷いたら。
 きっと、永遠に彼といられる。彼はそれを許してくれる。
 でもそれは、許されない。
 私は審神者だ。人間の歴史を守るため、人間を守るために、御刀に力を貸してほしいと乞い願った。そんな私が、審神者が、恋情を、ましてやそれを御刀に向けるなんて、許されない。
 世間は許しても、私が私を許さない。
「…………いいえ」
 するりと彼の手が離れていく。思わず彼を見てしまえば、彼は慈しむように私を見ていた。
 そんな目をするくらいなら、強引に連れ去ってくれたらいいのに。そうしたら……。
 そう考えてしまう私すらも、きっと鶴丸様は見抜いている。
「きみは、審神者でありたいんだなあ」
 鶴丸様は優しい。
「変わってしまうことが、恐ろしいだけですよ」
「何も変わらないんじゃ死んでるのと同じだろう」
「神嫁になったら、死んでるのと同じでは?」
「それもそうだ。はははっ。こりゃあ一本取られたな」
 すると鶴丸様が羽織を掴んで立ち上がった。
「さあて、名残惜しいが、今日はここでお暇するぜ。きみの刀が戻ってきた。男女の逢瀬は人知れず……というのがお決まりだからな」
「人知れず……」
 思わず私は、縁側に置かれた空のグラスを見てしまう。
「うん? どうかしたかい?」
「いいえ。なにも」
「明日の手土産は何がいい? たまにはきみの要望を聞きたい」
 鶴丸様は当然のように明日も来てくださるのだなあと、嬉しくなってしまって、けれどすぐに、こらこらと自分を律する。
「ええと……では、お茶菓子を。鶴丸様の好きなお菓子、教えて下さい」
「よし、わかった。きみが驚く菓子を持ってこよう」
「食べられるものでお願いしますね?」
「ははっ、変な物は食べさせないから、そこは安心してくれ」
 苦笑しながら、ちょうど衣装を整え終えた彼が、私の頬に触れてくる。
「じゃあ、また明日」
「はい……明日」




 かなかなかなかな。
 夕暮れの蝉が鳴いている。そういえばこの蝉は、なんという種類だったか。
「ただいま。主」
 廊下から部屋の障子を叩いたのは、歌仙兼定だった。見たところ、傷も血痕もない。彼の戦装束は朝と同じく綺麗だ。ただ異なるのは、脇に分厚い茶封筒を抱えていることだろうか。
「おかえりなさい、歌仙。私もやっとまとめ終わったところです」
「それはちょうどよかった。政府から新しい案件の資料を預かってきていてね。これなんだが」
 彼はそれを軽々と片手で渡してきたが、私の手にはずしりと重い。思わず取り落としそうになった。
「また凄い量」
「中に電子記録媒体も二本入っているよ」
「あら……まあ……」
 封筒を撫でてみると、たしかに、底に小さな四角いものが二つ入っているのがわかる。気が遠くなる。いったいすべてに目を通すだけでどれだけかかるだろう。
「お腹が空いただろう。夕食の支度をしてくるから、待っていておいで」
「あ、歌仙」
「なんだい?」
「麦茶の……。二つ用意してくださって、ありがとうございます」
「この時期は暑いからね。これくらいはないと、お客人とゆっくり話せないだろう」
「怒らないのですね」
「おや。主は僕に怒られるようなやましいことをしているのかい」
「そ、そういうわけでは」
 私が慌てて首を振れば、歌仙はおかしそうに笑った。彼はしゃがんで、執務机から麦茶とボトルとグラスをおぼんにのせていく。
「きみはずっとこの本丸に缶詰だ。息抜きも必要だろうからね。休憩がてらにひとと話すぐらい、やましく思う必要はないよ」
「そうですか……。ちょっと安心しました。てっきり、歌仙には良く思われていないものだと」
「良く思っているわけがないだろう」
 歌仙の鋭い返しに、私は口をきゅっと結ぶ。下手な返しで尾を踏んでしまった。
「まったく無礼な客人だよ。やましいことがなければ表から入ってくるのが礼儀だろうに。履歴が残るのが嫌なのだろうが、まるきり不審者じゃないか」
 言われてみれば確かに、庭から入ってくる客人なんて無礼極まりない。なんだか泥棒みたいだなあと、唐傘模様の風呂敷を被った鶴丸様を想像してしまい、思わずぶふと吹き出した。
「お客人が来た後のきみはいつも幸せそうだから、僕も追い返すつもりはないけれどね。念の為に訊いておくけれど、おかしなことはされたり、言われたりしていないだろうね?」
「おかしなこと……」
 私の頭の中を通過していく、鶴丸様の声。『俺の嫁にきてくれ』『いい女』『きみのことしか考えられない』こうして思い返すと、下心しかない。
「ないですよ。ないない」
「もしも何かあったら必ず僕に言うんだよ。すぐさま彼奴の首を落として差し上げよう」
「怖い、怖いですよ、歌仙」
 歌仙はちょっと過保護だ。
 とはいえ彼に心配をかけてしまうのは、私があんまり立派な審神者でないからなのだから、仕方がない。
「大丈夫ですよ。何も起こりませんから」
 鶴丸様との逢瀬は楽しい。でも、それだけだ。それ以上はない。私は審神者なのだから、その責務から外れた行いはしてはいけないし、するつもりもない。
「心配しないでください。悪い方ではありませんから」
「当然だ。そうでなければもう斬り捨てている」
「殺意が高い……」
「なにを言っているんだい。僕はきみの刀だ。きみに害為す者を斬るのが、僕の役目だよ」
 やだ頼もしい。けど、にっこり笑っているのが、怖い。
 歌仙の中ではすっかり鶴丸様は悪者らしい。仮に私が鶴丸様の嫁になりますと言い出したら、過保護な歌仙は問答無用で鶴丸様を斬ってしまいそうだ。主を誑かす痴れ者めが!と刀を振り上げる姿が目に浮かぶ。
「さて、僕は夕食の支度をしてくるよ」
「あ、私も手伝います」
「そうかい? では、きみには汁物を――――」



ただやってきてただお話をするだけの話
(2023.02.15執筆|2024.09.14改稿)
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